とっておきの話

2003年度前期分 目次



海外旅行ぎらい

蟄居中
蟄居中
語学教育研究所教授  井田 卓

 過去10年間で2週間程度の海外旅行を、2回しただけである。その理由は親が存命だったからだが、本来海外旅行が好きではないのだ。重い荷物をかかえて、宿を探し歩く、パスポートや旅行小切手をいつも身に付けている、下着類をいつ洗濯し乾かすかを常に考えているなどというのは、難儀なことだ。それこそ海外旅行の醍醐味で、そんな非日常的な緊迫感を歓迎する気持ちがないと海外旅行は楽しめないのだろう。

 80年代ではそれでも年に1回程度は飛行機に乗っていた。いくつかの危機一髪の失敗談もある。成田に行ったら出発が次の日だったのはご愛嬌だが、旅行小切手を紛失してひやりとしたことはある。英国の田舎に絵を見にいったら、一天にわかにかき曇りどしゃぶりの雨がふってきた。傘は所持していないし、近くの宿には部屋がない。たまたまバスが到着したので最寄の駅まで帰ってきたが、まだ5時なのに最終バスだった。

 空港にいく途中で、航空券を忘れたのに気がついたこともある。まだ飛行機の離陸前だったので、航空券が再発行されたが、帰国は1週間遅れた。

 英国の大学で夏をすごし、飛行場行きの夜行バスに乗るため、荷物の整理を始めたが片付かない。ようやく出発したが、重い荷物のため歩く速度が遅い。バスが見えるところまできたが、間に合いそうにない。通りかかった学生にお金を払って、走ってバスをとめてもらった。早朝離陸の飛行機に間に合うための他の交通手段がないので、乗れなければそれまでだった。

 ささいな事件ばかりだが、海外旅行にはきわどいことが付きものなのだ。それではもう外国にはでかけないかというと、今年何年ぶりかで英国の丘歩きをする。親の方は始末がついたし、東京の夏というつらい日常から脱出したい。ヴォルテールの小説の主人公のように、さまざまな艱難辛苦の末、自分の庭を耕さなければいけないという心境に達するにはまだ修行が足りないのである。次は語学教育研究所の諸星和夫さんです。

(2003年7月24日掲載)


ガーデンなしのガーデニング

花の中のリラックス
花の中のリラックス
法学部助教授 ヴィクトリア・ミューライゼン

 私は、ウィスコンシン州の田舎に生まれ育った。家の後ろには木がたくさん生い茂り、広い庭があり、家の前には芝があり、その先には湖が広がっている。長い冬には、芝は雪で真っ白に覆われ、木の枝と湖は灰色になり、短い夏には、青い水と空、緑の葉っぱ、窓の下に植えたピンクと白いペチュニア、オレンジのマリーゴールドなどがとても美しかった。子供の時、その自然の色にあまり関心がなかったのだが、今は、東京というコンクリートジャングルに住んでいる私には本当に自然の色が懐かしい。

 3年前、郊外の町田市から中野区に引っ越しした。中野は、早稲田までの通勤や、ちょっとした買い物ができる店も多く便利で住みやすい場所だが、緑はあまりない。私の家の近所には緑が非常に少ない。最近、広い庭がある古い家を壊して、その場所で庭がないコンクリートの建物を建てているのを見かける。私の自宅も同じように、古い家を壊し、その場所に3階建てのコンクリートの家が3軒並ぶ建売住宅を買った。自宅の後ろには、1m×3mの空き地(「庭」と言えない)があり、家の前には屋根付き駐車場があるだけだ。周りは高いビルが多いし、どこをみても目が疲れるような灰色の壁と道が見える。

 大きな庭がなくても、できるだけガーデニングをやって、家の前と後ろ、そして3階にあるルーフバルコニーで、少しずつ緑の場所を作っている。車をもっていないので、未使用の駐車場には、大小さまざまな鉢に花や木を植え、1年中、季節の花々を買い、楽しんでいる。秋には菊、冬にはパンジー(ウィスコンシン州ではパンジーは夏の花!)、春には、ツツジ。家の後ろにはうっとうしい梅雨に咲くアジサイを植えた。一番気持ちがいい場所は、ルーフバルコニーだ。夫がウッドデッキを組み立てて、日当たりがいいので、私が小さなハーブガーデンを作った。暖かい週末には、ハーブガーデンを見ながらそこでリラックスできるのがうれしい。2軒先の家の後ろにある大きい木の葉のさえずりを聞き、2匹の猫とバルコニーで横たわりながら本を読むのが私の一番の楽しみだ。夜には、星のかわりに新宿の高層ビルの明かりがよく見える。

 次は語研の井田卓先生です。

(2003年7月17日掲載)


本、本、そしてまた本…


ヴィクトリア朝の小説本の3つのタイプ
法学部教授   グレアム・ロー

 趣味に関する限り、私はわが家の異端者と言えるかもしれない。他の3人―妻と2人の息子たち―は音楽愛好家で、その方面の才能に恵まれている。ところが私はといえば、小学校で聖歌隊からは放り出されたり、ピアノのレッスンにわざと眼鏡を忘れていったりした(そうすると楽譜が見えずレッスンにならない)過去を持つ。3人の中でも特に長男はピアノに夢中で、結局、うちでは数年前にグランドピアノを買い、さらにそれを置くための防音室を造るはめになったのである。

 さて、そこで、本題の私の趣味である。実は、私の趣味が、わずかながら、この防音室の役に立っているのだ。私は本をこよなく愛する人間なのだが、その私が長年収集してきたヴィクトリア朝期の本のコレクションが、この部屋の一面を床から天井まで埋め尽くしている。そして、これがピアノの音を吸収するのに大変よろしいというわけなのである。

 私が「本をこよなく愛する」というのは、単に読むことを意味するのではなく、「物体」としての本そのものも意味する。本というものは、それが作られた過去の時―私の本の場合、多くは百年以上昔―を呼び覚ましてくれる。本を作った当時の人々やそれを買った人々はどんなだったかを想像してみるだけで楽しい。印刷の具合、紙の手触り、製本の配色やデザイン、そして古い本特有の埃っぽいカビ臭さ、そういったものすべてが私を虜にするのだ。例えば、誰かが私に目隠しをして私の愛書の1冊を手渡したとしよう。手触りと臭いだけで私はそれがどの本か言い当てることができる。

 ピアノ室のコレクションは主に19世紀の英国の小説である。ヴィクトリア朝期には、小説は大概次の3つのどれかの形で世に出た。1つ目は、雑誌への連載。2つ目は、複数巻から成る豪華な全集もの。3つ目は、一般庶民にも手が出せる安い単行本。私の書棚にはこれら3種類の本がそろっている(写真参照)。こんな具合に、仕事でも趣味でも、本また本に囲まれている私である。

 次回は同じく法学部のヴィクトリア・ミューライゼン先生にお願いいたします。

(2003年7月10日掲載)


趣味を奪われた人生

本学を訪れたサー・ロジャー・トムキス氏(Cambridge大学Pembroke College学寮長)と
本学を訪れたサー・ロジャー・トムキス氏(Cambridge大学Pembroke College学寮長)と
商学部教授 森田 彰

 以前、本欄に登場した教育学部の福田先生が、趣味が「職業」になっていく悩みを語られていた。なるほど、人文系の人間はこれだから、困る。かくいう私も、多くの趣味を持っていたのだが、それらは何らかの形でシゴトに結びついていく場合が、ほとんどだった。困った。実に、困った。

 では、一度命題? を変えてみよう。私が今まで、趣味としてこなかった分野は何か。これならうまくいきそうだ。まず、音楽。音楽を聴くと眠くなる。そんな私が、学生時代に、勉強中ラジオで流していたのは、「なだいなだ講演会」やトークに重きを置いた番組ばかり。クラシックのほとんどにも、聴けば「落ち着けよ」と言いたくなる。楽器の演奏も、幼稚園のハモニカ以来悩まされ続けてきた。おそらく、音楽は一生趣味にはできないだろう。

 次に挙げられるのは、対戦型のスポーツ、ゲームだ。これも学生時代に、テニスと麻雀をしていた時に、相手から「お前には勝とうという気がないのか!」と怒られた。そう言われても、自分では、それなりにやっているつもりなのだから、さらにたちが悪いようだ。おそらく、克己心のない私は、「克他心」もないのである。この二つは、表裏の関係にあるのでしょ。

 さて、ここまできて、私がただ一つ趣味といえそうなものがあることに気付いた。それは、談笑である。うん、これだ。実態のないところが良い! 必要なものは、ヒトの話が聞ける力とちょっとした常識。この趣味のおかげで、シゴト面で助かったこともあったが、大丈夫、まだ趣味の段階に留まっている。第一、楽しい。滞英中、Cambridge 大学で high table という教員専用食堂に昼夜何度も通ったが、この趣味のおかげで、何も苦にすることなく、多くのそして、さまざまな分野で世界的に活躍する人々からいろいろなことが学べた。我ながら良い趣味を持ったと思う。

 次回は、イギリス紳士、法学部のグレアム・ロー(Law!)先生にご登場願います。

(2003年7月3日掲載)


白鶴の舞―太極拳


準備運動の“ソワイショウ”中
【写真撮影:橋本光明】
スポーツ科学部教授 宮内 孝知

 もう8年近くも前になる。50歳を超えてしばらくした頃、右膝に痛みを感じるようになった。歩行中「カックン」と膝が抜けるようにもなった。O脚? 過体重? 若い頃の後遺症? 思い当たることはいくつかあるが、痛みに耐えかねて整形外科へ。レントゲン写真を見ながら医者は「典型的な変形性膝関節症です。運動をやめて、膝に負担を掛けないようにしてください」。その日は膝関節に溜まっていた「水」を抜いてもらい一応の処置がなされた。痛みも和らいだようだった。

 「運動をやめろ」って。冗談ではない。まだ50そこそこ。ましてやスポーツの世界に身を置いているつもりなのに…。意を決してゴルフ場へ。痛みがぶり返した。恐る恐る医者に言うと、「ゴルフなんてとんでもない。膝を使わないことです。大事なことは」。

 またまた冗談ではない。家に閉じこもった生活なんて出来るわけがない。そこで素人は考えた。恐らく筋力が落ちて膝の負担が大きくなったのだろう。特に大腿四等筋が落ちたからだろう。それなら今一度、鍛えるまではいかなくとも、筋力をつけてみよう。運動をやめて治すのではなく、運動で治してやろう。鼻を明かしてやりたい医者の顔もチラチラする。

 膝にあまり負担を掛けずに脚筋力をつけるにはどうするか。浮力を利用したアクアウォーキングか。でも家にプールがあるわけではないし、着替えたり、シャワーを浴びたり、面倒くさい。生来のものぐさには恐らく長続きはしないだろう。太極拳、あのゆっくりした動きはどうだろうか。覚えたら、どこでもできるかもしれない。

 以来足かけ七年。今では所沢西地区総合型地域スポーツクラブの二百人を超える仲間と、地元の仲間と、白鶴亮翅(技の一つ。白い鶴が羽を広げる意)ならぬ黒いカラスかなと思いつつも、簡化太極拳を舞うことが趣味となった。もちろん膝の痛みは消えている。

 次は商学部の森田彰先生にバトンを渡そう。受けてくれるだろう。

(2003年6月26日掲載)


さんざんな旅

城崎温泉の外湯(入りたかった!)
城崎温泉の外湯(入りたかった!)
政治経済学部教授  宗像 和重

 親譲りの無鉄砲、ではない出不精で、子供の時から損ばかりしている(今の若い読者に「出不精」の注釈をしておくと、「外出ヲ面倒クサガル人」のことです)。どのぐらい出不精かというと、一昨年の秋に兵庫県の城崎温泉に出かけて以来、遠出していないといったら、察していただけるだろうか。

 この時は、文学と旅をテーマにした市民講座で、志賀直哉「城の崎にて」の話をすることになり、その予習を兼ねた旅行だった。近代文学を専攻しているから、作品は何度も読んでいるが、主人公と同じように、汽車で城崎まで出かけてみようと思ったのである。

 横浜の自宅を朝六時過ぎに出発し、京都から山陰本線に乗り換えて、城崎駅に着いたのは正午少し前。晩秋の穏やかな日で、名物の外湯巡りを楽しむ浴衣姿の宿泊客が行き交い(街の中央を流れる川沿いに、七つの外湯が点在しているのである)、土産物屋の店頭では、解禁されたばかりの日本海産の蟹を商う威勢のいい声が飛び交っていた。

 しかし、私は翌日の予定があって、温泉にも入らず、蟹も食べずに(なんと愚かなことだろう!)ひたすら城崎の街を歩き、小説の舞台と城崎町の文芸館を見学しただけで、五時過ぎの電車で帰らなければならなかった。しかもその電車が福知山近辺の踏み切りで車をはね、長時間立ち往生した末に、バスで近くの駅に移送されるという付録がついていた。結局、最終の新幹線にも間に合わず、夜行の寝台列車に振り替えられて、自宅に着いたのは翌朝七時になっていた。ちょうど二十四時間かけて城崎まで往復したことになる。

 ささやかな、しかし私にしては結構波瀾に富んだ一日の顛てん末まつ報告にすぎないが、ちょっと負け惜しみをいうと、今でも関東方面から城崎は遠い、ということを実感できたのは収穫だった。山手線の電車にはねられた東京出身の主人公が、わざわざ城崎まで養生に出かけた理由を探ってみると面白そうだ、というような「発見」もしたのだから、やはり旅は大事です、ということを結論にしておこう。

 さて、このリレーエッセイのバトンが出不精にならないうちに、スポーツ科学部の宮内孝知先生にお渡しします。

(2003年6月19日掲載)


温泉と地酒にひかれて

秋山郷「萌木の里」で(前列中央左が筆者)
秋山郷「萌木の里」で
 (前列中央左が筆者)
文学部教授 上野 和昭

 江戸時代、鈴木牧之という越後塩沢の文人が雪国の生活を記した『北越雪譜』に信越国境の秋山郷の話が出てくる。平家の落人が住みついたところらしい。苗場山の懐に抱かれるように、中津川の峡谷に沿って小さな集落が点在する秘境だ。そこへ昨年夏「ことば」の調査に出かけた。学生も男女8人が同行。ちょっとした「調査団」が形成された。

 秋山郷は方言の学界では夙に有名なところで、八丈島とともに古代東国方言の面影を伝えるとさえ言われることがある。そこまで言わなくとも、たとえばハヒフヘホのヒの発音は唇を閉じ加減にしたフィであるし、母音のイとエ、ウとオもときどき明確ではなくなる。また、東北方言などのようにキがチに聞こえたりする。『北越雪譜』にも、牧之たちが昼食をとるために土地の民家を尋ねたところ、そこの人に「ようちなった」と言われたことが書かれているから、少なくとも二百年以上の伝統があると知られよう。このような音声特徴は、はじめての学生にもはっきりと聞き取れる。「調査団」はいくつかの班に分かれ、あらかじめ承諾を得ておいた家々を訪問して、たくさんの貴重な資料をご提供いただいた。

 ところで、このような調査には温泉と地酒という「余得」がついてくる。秋山郷調査も例外ではなかった。宿泊所には露天風呂もあって、緑滴る自然のなかで朝夕ゆっくりと浸かることができた。夕食では「日本酒はどうも苦手だ」という学生にも、ちょっとだけでいいからと地酒「苗場山」を注いでまわり(もちろん無理強いではない)、「どうだ」とばかりに様子をうかがうと、多少はお世辞もあろうが「おいしい」という。岩魚の塩焼きと山菜の天ぷらを肴に、その夜はやや度を過ごした。翌朝の膳も朝日にキラキラと輝く魚沼産コシヒカリだから、これ以上は望めないだろう。「余得」をいうならもう一つ、その土地の自然と景観も忘れてはならないところだが、すでに紙幅が尽きた。さて、今年はどこに行こうか。

 次回は、政治経済学部の宗像和重教授です。

(2003年6月12日掲載)


三十五年越しの夢


娘と一緒に演奏したハープの発表会
教育学部助教授   松木 正恵

 三十五年も昔の話。小学校の音楽室の片隅になぜか古ぼけたハープが一台あった。音楽の時間に先生が弾くわけでもなく、学校行事に登場する機会もなく、ただひっそりと。私は音楽室の掃除当番が楽しみだった。人目を盗んでハープの弦に触り、その何とも言えない深い音色に酔いしれていた。いつかハープを奏でる自分の姿を夢見ながら。

 忘れかけていた夢がひょんなことから現実になったのは、つい二年前。地元のハーピストを紹介され、早速習い始めた。小学一年になったばかりの娘と一緒に。まさに四十の手習いである。一般に知られる四十八弦の大型ペダル・ハープは住宅事情等であきらめ、子供でも支えられる三十四弦の小型アイリッシュ・ハープを購入。それを弾いている時だけはすべてを忘れて心が解放される、至福の時である。

 ハープといえば、髪の長い清楚で美しい女性が弾くものという定番イメージがあった(髪の長さだけはOK?)。しかしいざ習ってみると、優雅な見かけとは裏腹になかなか手ごわい。小一時間も練習すると、両手指先に弦の跡がくっきりとつき、すりむけてくる。本格的に演奏する人は、血豆ができてはテーピングでしのぎ、そのうちに指先の皮が厚く硬くなってくるという。面の皮だけでなく指の皮まで厚くなってはたまらないので、適当に練習をさぼっているが、ピアノと違い、レッスン直前のにわか練習ができないのは何とも辛い。弾きだめをしても本番まで指がもたないのだ。

 昨年、娘と二人で発表会の舞台に立った(発表会に出るなんて何十年ぶり?)。娘はアイリッシュ・ハープ、私は夢のペダル・ハープ。母娘を結ぶ竪琴の調べは何にも代え難い……ところで、私たちはタテゴトアザラシ(ハープ・シール)の大ファンでも。いつかカナダのセントローレンス湾まで赤ちゃんを見に行こう、とハープの夢は意外な方向に展開している。

 次回は、文学部の上野和昭先生にお願いしたいと思います。

(2003年6月5日掲載)


赤ペン


「赤ペンのご縁によるベニスでの再会」
  (向かって右端から筆者と教え子のシモーネさん)
日本語教育研究科教授 佐久間 まゆみ

 学生時代には芝居や文学、音楽、書道など、人並みに趣味や特技もあったのだが、30代半ばで大学の専任職に就いてからは、自ら律して、日本語の研究と教育に専念してきた。

 大学院在学中から日本語を教え始め、多種多様な文化的背景や目的を持った外国人留学生とその家族たちとの異文化間交流を重ねて、30年余りになる。正確な記録はないが、おそらく、世界数十カ国から訪れた千人以上の外国人に接してきたのではないかと思う。

 最近は教え子の教え子と出会う機会が増えたが、先日は海外出張先のベニスの学会で、偶然、筑波大学時代の教え子のミラノ大学講師と20年ぶりに再会し、旧交を温めてきた。

 彼は、「先生の作文の授業を受けたら、イタリア語のレトリックまでわかるようになった」と、新米教師の私に言ってくれた人である。そして再び、「先生の赤ペンが一生の宝物になっていますよ」と喜ばせてくれた。彼も教え子の日本語を添削しているというのだ。

 前任校の卒論ゼミの女子学生たちは私を「赤ペン先生」と呼んでいたようだが、もしかすると、この「赤ペン」こそが、仕事人間の私に残された唯一の趣味であり、特技なのかもしれない。添削用の赤ペンは、もう何年も前からペンテルのハイブリッドと決めており、替え芯もたくさん買い込んであるが、博士論文を添削して、1日に2本使い切ったこともある。

 留学生の宿題や作文の誤用、日本人の大学生・院生のレポートや修士論文、学会誌の投稿論文、研究計画書、さらに、昨年編集したある日本語講座の著名な国語学者の玉稿に至るまで、今や、私の赤ぺンの動きは止まるところを知らず、時おりあちこちで顰蹙を買ったりしている。ただ一つだけこの動きの鈍るのが自分の原稿を書くときで、締め切りが守れず、ご迷惑をおかけすることもままあるが、このエッセイも例外ではなさそうである。

 じゃあ、教育学部の松木正恵先生、お願いしま〜す。

(2003年5月29日掲載)


気になること…「寿命の男女差」

ハムコと
「私は6歳で、でもまだ日本の男女差より若いわよ!」(ハムコ談)
政治経済学部教授  白木 三秀

 趣味・特技らしいものはほとんどない。調査は年中行っているが、これは趣味というよりは仕事である。各種の本はぼちぼち読んでいるが、それを別とすれば、あちこち散歩(時には犬のハムコと一緒に)をし、2、3個サボテン等の植物を集め、マラソンや大相撲ダイジェストを見るくらいが楽しみといえば楽しみである。特技といえば、原稿を大幅に遅らせることだろうか。しかしこれは私ばかりでもなさそうだし、自慢すべきことでもない。そこで、いま私にとって少し気がかりなことを書かせていただく。

 それは、平均寿命の男女差についてである。今の日本の平均寿命は男性77.2歳、女性83.8歳で、6.6年の違いがある。この差は犬の平均寿命の半分くらいに相当する。他の国でも5〜8歳の範囲にあり、この数字にこれまで何の疑問も感じなかった。男性に比べて女性は、(1)もともと肉体的に頑強、(2)精神的に適応力に優れている、(3)大事にされている、などと考え納得していたのである。

 しかし、ロシアではなんと13.4年も差があり、他方、インドでは0.4年しか差がないということに気付いた。なぜだろう? ロシアでは女性が長生きし過ぎるのかというとそうではない。男性が短か過ぎるのだ。いまどき平均寿命が58.3歳である。男性はウォッカを飲みすぎるためだろうという推理はステレオタイプ過ぎるだろうか。

 インドで男女差がごくわずかなのは、男女平等が進んでいるからと考えるのは誤りだろう。インド社会に関する本によると、女児は男児ほどには医療を受けていないことや、ダウリ(婚姻に伴う女性の持参金)に見られる女性への差別待遇などが効いているようだ。

 日本でも昭和初期の数字を見ると、男女差は二年に満たない。適正な男女差はどれくらいか分からなくなり、私なりに想像力をめぐらしている。日本の男女差はさらに広がるのだろうか、それとも縮まるのだろうか。

 次は、大学院日本語教育研究科の佐久間まゆみ先生にバトンタッチ。

(2003年5月22日掲載)


山中暦日なし

紀州慈尊院にて
紀州慈尊院にて
政治経済学部教授   貞廣 彰

 私の故郷は四国の讃岐の山中である。うどん以外にこれといった特色があるところではないが、最近は「四国八十八カ所」ブームで四国ファンが増えてきたことはうれしい限りである。

 三年前に本校に赴任し自由時間が増えたのを機会に私もこの霊場巡りの実体験を昨年から思い立った。まずは紀州の高野山と慈尊院に行って親族の霊を弔ったあと、阿波の一番札所「霊山寺」からの巡礼を始めた。七十五番札所が実家の近くにある空海生誕の地、讃岐は屏風裏の五岳山「善通寺」である。ここにある「一字一仏法華経序品(国宝)」はおそろしいまでの絶品である。またすぐ近所にはインド孔雀を飼っている歓喜院がある。

 でもそう度々は帰省できないから、あとは、インターネット上で納経帳に梵字いりの印をいただく。日々の歩行数を入力すれば距離に換算してくれる。こうして各札所の御本尊(パソコン?)に向かって合掌しながら千四百五十の道場を巡礼するのである。現在は二度目の巡礼中である。黄泉の国にいくまで八回巡礼すると大師様のご利益と兜卒天の世界が待っているのだそうな。

 四国にはこの八十八カ所以外に「別格二十番札所」がある。あわせて「百八」の煩悩からの解脱である。その一番札所はやはり阿波の「大山寺」である。義経が屋島の合戦の時に戦勝を祈念した約千五百年の歴史がある寺だ。が、この「別格」はネット上では「同行二人」できないから帰省の折に参詣している。大天才成立の条件を思索した『空海の風景』(司馬太郎著)を片手に古都長安のロマンと真言密教の奥義に思いを馳せながら四国路を旅しているとまさに「山中暦日なし」である。

 次回は政治経済学部の白木三秀先生にバトンタッチします。

(2003年5月15日掲載)


佐土原人形の「いがみの権太」

味わい深い表情の土人形たち
味わい深い表情の土人形たち
商学部教授     土田 武史

 昨秋、宮崎に行ったとき、半日ほどの時間があいたので、佐土原へ出かけた。10年以上も前になるが、調査で地方に出かけていた頃、土人形を集めたことがある。その頃、宮崎で佐土原人形の「饅頭喰い」を買ったことを思い出し、土人形の店を探したものの見当たらず、時間つぶしに工房まで行くことにした。

 佐土原駅から乗ったタクシーが連れて行ってくれたのは、土人形を作って五代目という老舗の工房であった。工房の隣の店には「饅頭喰い」をはじめ、さまざまな人形が並べてあったが、真っ先に目についたのが歌舞伎人形である。各地の土人形の中には歌舞伎人形も少し見られるが、多くは三番叟、熊谷、敦盛などをパターン化したものである。しかし、そこにあったのは仮名手本忠臣蔵、伽羅先代萩、義経千本桜、菅原伝授手習鑑などに出てくる人物を表情豊かに作った大ぶりなもので、歌舞伎らしい味わいがある。

 聞くと、佐土原はかつて歌舞伎が盛んで、江戸末期から昭和初期頃までいくつかの座や劇場があったという。いろいろ迷ったあげく、『仮名手本忠臣蔵』の「鮨屋」の「いがみの権太」と『忠臣蔵』の「小浪」を買うことにした。

 2月の歌舞伎座は『義経千本桜』の通しで、権太は市川団十郎が演じていた。団十郎の権太は、先代松緑から教わった菊五郎型である。見得をきる姿は団十郎の場合、黒の弁慶縞の浴衣で片肌を脱ぎ、豆絞りの手拭を頭に巻き、手拭の先が額の真中でぴんと立っている。しかし、写真の人形は弁慶縞が青で、浴衣の下に肌着を着て両肌を脱ぎ、手拭を首に巻き、見得の格好もやや前屈みである。顔立ちも悪党には見えない。江戸風になる前の、上方の小芝居の姿が想像される。こんなことを思いながらお酒を飲むのが大好きである。

 次は、学生時代のサークル(政治経済攻究会)の仲間で、『経済白書』執筆を手土産に経済企画庁から出戻ってきた畏友、貞廣彰政治経済学部教授にバトンタッチ。

(2003年5月8日掲載)


故郷は遠きにありて

昨年のガンバ大阪戦にて
昨年のガンバ大阪戦にて。1対0で見事勝利しました!
法学部教授     菊池 馨実

 仕事に追われ、すっかり無趣味になった。ただ敢えて熱中していることを挙げれば、サッカー観戦であろうか。昨年は、ワールドカップを生で観戦した。ただし、私にはそういうワールドクラスよりも、故郷のチーム、コンサドーレ札幌が気にかかる。

 従来北海道は、プロスポーツ不毛の地であった。TVの影響で巨人ファンだらけであった。そうした中、東京から実業団の東芝が札幌に移転し、これを母体にコンサドーレは発足した。札幌在住であった道産子の私は、まさに発足時からの「生え抜き」サポーターである。今も、〈仕事〉、〈家庭生活〉、〈サッカー観戦〉の三者の微妙なバランスを保ちながら、各地へ遠征する。去年は、札幌、函館、関東、大阪と、七試合転戦した(ひどいシーズンだった)。

 予算規模の小さい市民球団だから、磐田のようなビッグクラブにはなれそうもない。ただしチームは地域に根付いている。先日の北海道新聞の道民世論調査(二十歳以上)によれば、積極的に応援している者が三割、自治体からの出資に賛成する者が七割。東京の感覚では理解できまいが、累積赤字がなかなか減らなくても、チームはあり続けるだろう。

 二〇〇一年秋の東京スタジアム。ヴェルディとのアウェー戦。ゴール裏サポーターの数が、圧倒的に札幌が多かった。二、三千人だろうか。彼らの大部分も私と同じく北海道を出て東京で暮らし、日々頑張っているのだろうと、何ともいえぬ感慨(連帯感?)を抱いた。

 厳しい冬があっても(そうであるがゆえに)、北海道の大地と人は暖かく、去り難い記憶と余韻を残す(「北の国から」のコピーのようだが、本当だ)。私が未だにコンサドーレを追い回すのも、その辺に真相があるのか。と、自己分析する一方で、今年のJ2の戦力分析や日程調整にも余念がない今日この頃である。

 次回は商学部の土田武史先生にお願いいたします。

(2003年4月24日掲載)


山の楽しみ


茨木山にて
社会科学部教授    清水 敏

 私は、たぶん人より頻繁に気分転換を必要とするタイプである。方法はいくつかあるが、その一つが登山である。現在「早稲田大学野歩の会」というサークルの会長を仰せつかっているが、これは、私が学生時代に属していたサークルでもある。ここに入会したことが登山を始める契機であった。そして現在、山に登る機会があるのも、「野歩の会OB/OG会」が主催する山行に誘っていただいているからである。私にとって山に登る楽しみはさまざまあるが、下山後、近くの温泉で汗を流し、おいしくビールをいただくのもその一つである。最近は、各所に温泉ができたので、かかる楽しみを以前より簡単に味わえるようになった。また、山で出会う小動物や高山植物は、私の心を和ませてくれる。

 昨年秋、ある山を目指して知人と林道を歩いていたところ、崖崩れによる通行止めの柵に出くわした。せっかくなので、行ける所まで行くこととし、その柵の脇を抜けて(本来は慎むべきことですが!)紅葉が盛りの林道を歩いてみた。そこで、偶然にも、つがいのニホンジカ、キツネ、キジそしてサルに出会ったのである。一度にこれほどの小動物に遭遇したことがなかったため、大変感激した。多分この幸運な出会いは、通行止めにともなう入山者の減少によるものだろう。結局、その日は崖崩れの現場から引返すことを余儀なくされたが、十分に満足できた。

 ところで、最近の体力の衰えは否定できず、事前に体調を整えなければならない。特に平生の起床時刻が遅いため、山に入る数日前から早寝早起きに対応できる身体づくりは欠かせない。若い頃、前の晩に思い立って、尾瀬ガ原へニッコウキスゲを見に行ったこともあるが、今ではそれも難しくなった。しかし我が身と相談しつつ、これからもこのささやかな楽しみを味わいたいと思っている。

 次は、新進気鋭の社会保障法学者、法学部の菊池馨実先生にバトンタッチ。

(2003年4月17日掲載)


不純な山登り

雲からのぞく富士山を背景に
雲からのぞく富士山を背景に
法学部教授 土田 和博

 無趣味な私が「趣味」を問われてあえて答えるとすれば、「山登り」であろうか。山国育ちであるにもかかわらず(だからこそ?)、趣味として山に登ることは30代の終わりまで、ほとんどなかった。それがキャラバンシューズを購入し、ザックを背負って山に登るようになったのは、ひとえに前任校の恵まれた自然と手ほどきをしてくれた先輩教員のおかげである。

 写真は、その先輩教員と南アルプス鳳凰三山(薬師岳、観音岳、地蔵岳)に登ったときのものである。夜叉神峠登山口から登りはじめ、杖立峠、南御室小屋、砂払岳をへて薬師岳小屋(2,710m)に至る。ここに泊まったが、11月中旬では既に積雪があり、夜はマイナス5、6度の寒さ。ガタガタ震えながら寝た。

 翌日、薬師岳、観音岳、賽の河原へと尾根を縦走する。西に白根三山、東に八ヶ岳、北には北アルプスの山々、南に富士山が見えるこのコースのハイライトである。360度の展望に何度も感動の声をあげながら、地蔵岳山頂の手前で東側に下り、オベリスク(花崗岩の石柱)を眺めながら、御座石鉱泉に着いた。

 しばしば、なぜ大そうな苦労をしてまで山に登るのかと問われる。山並みの美しさと人知れず咲く花の可憐さは言うまでもないが、人間のちっぽけさと些事にこだわる馬鹿々々しさを悟らせてくれる自然の雄大に惹かれるからであろう。もっとも、私のような不純な登山者は、下山後の温泉とビールの方が楽しみということもあるが。

 ここしばらく中高年の登山ブームで、深田久弥の百名山を踏破しようというグループが後を絶たないのだそうだが、私にはそのような気はさらさらない。ただ早稲田に来てからは、シュラフは山に持って行くより研究室で使うことの方が多い今日この頃である。

 次回は、社会科学部の清水敏先生です。

(2003年4月10日掲載)