投稿コーナー
| TOP PAGE  | 投稿コーナー  |   E-MAIL   |

2002年度後期分 目次



フリートーク「早稲田スポーツ全開!」
 ―ワセダアスリートの活躍にエールを送ろう―

 平成14年度の早稲田体育各部は、硬式野球部を始め、庭球部、米式蹴球部、ラグビー蹴球部、競走部の400mリレー、合気道部女子団体、自動車部のダートトライアル団体2連覇など全日本レベルでの活躍が素晴らしく、早稲田スポーツは元気だ。

 そんな好調な早稲田スポーツにあって見逃せない試合があった。

 一、早慶バスケットボール六十回記念大会。第四クォーターに入った時点で早稲田20点の大差でリード、しかし、ここから慶応の反撃が始まり、タイムアップ寸前で逆転されてしまう。しかし、残り時間10秒、2点リードを許した早稲田最後の攻撃。ブザーと同時に麻生選手が同点シュートを決め84対84。会場は興奮の渦に包まれた。延長に入りどちらも譲らぬ死闘の末、最後に早稲田の岩崎副将がフリースロー2本を決め94対92で勝利を収めた。

 二、全早学馬術定期戦(早稲田と学習院大学との馬術競技対抗戦)。第50回記念大会ということで天皇、皇后両陛下をお迎えしての天覧試合となった。この試合は最後の最後まで、手に汗握る競技となり、最後は両校主将(早稲田の市川、学習院の海老原)の対決、それも共に減点ゼロで飛越し、タイム勝負となった。結果、市川77秒、海老原68秒と、早稲田わずかに及ばず無念の敗退。

 文武両道を目指す早稲田アスリートたちは、毎日の練習で培われた技を、試合という競技の場で最後の最後まで力をふり絞り、素晴らしい感動を与えてくれる。そんな感動の場面から何か得るもの、考えさせられるものがいっぱいある。新聞記事には出ない、テレビでは見られない「生」の演技、醸し出されるチームの和など無上の喜びを体験できる。競技場の場で同じキャンパスに学ぶ同窓のアスリートたちに熱い声援を送ろうではないか。
(応援部監督 中嶋 修)

(2003年1月16日掲載)


フリートーク
 「K-POPを知っていますか?」

 韓国の音楽(K‐POP)を知っていますか? 私は、大学四年になって魅せられてしまった…。卒業を前にし初めての「学生注目!」を言ってみたい。

 一番は神話(シンファ)というグループにハマり、五月に日本に来たときのステージでは、画面で見るより格段迫力のあるダンスとがっしりした体格に驚いた。そして、質問に対する受け答えが真摯で、それは、とりこになった(ああ、あのまっすぐな視線…たまらない)。その後も、九月、十一月とシンファは来日しているのだが、確実にファンが増えている。韓国では歌手を応援するときは、その歌手お決まりカラーの風船やアイテムで気分を盛り上げる。先日のライヴではシンファ色のオレンジで渋谷の会場が賑わった。

 最近は、もっぱらK‐POPざんまいの日々だ。部屋に帰ると韓国のラジオを聞き、全く分からなかったハングルも歌詞なら一丁前に読んだりしている。日本に来ている韓国人たちと友人になって、言葉を学び合ったりノレバン(カラオケ)に行ったりしていてすごく楽しい。こんなふうに他の国に近づいていることがシアワセに思える。他にもたくさんの歌手の歌を聴いているが、総じてハンパじゃなく歌がうまいと思う。歌詞はあまり複雑ではなく、ダイレクトな言葉が並んでいるが、腹から思いっきり出ているような声やパワーみなぎるダンスで歌い上げるものだから、心奪われてしまう。まだあまり知られていないK‐POPだが、インターネットやテレビで見かけたら一度ぜひ注目してほしいと思う。

 これから韓国音楽が加速して広がっていくことを予感しながら、ますます魅力に迫るつもりだ。興味のある人、語りましょう!

【E-mail】energy@muf.biglobe.ne.jp
(教育学部4年 鷲田 絵美)

(2003年1月9日掲載)


フリートーク  「世界地図への挑戦」

 昨年の夏、ドイツ留学から帰ってきた。学費も生活費も格安の街で、まさに世界中からの好奇心旺盛な学生と会う機会に恵まれた。印象に残る話がたくさんあるが、その中でもほかの大学生にも役立ちそうなものを一つだけ書きたい。

 私が「TOKYO」は東の京と書くのだと説明した、その後のこと、ヨーロッパから一歩も外へ出たことのないスペイン人が、一枚の世界地図を目前に、私に向かって熱心に語った。「散らばった星の数ほどの湾岸や州や町の名称のうち、多くはスペイン語を母国語とする自分には意味をなしている。中にはスペイン語と現地語が交じり合った地名だってある。それにほら、みてごらんよ」と彼は指した。「アフリカ南端にはドイツ語の地名だって大分あるじゃないか」

 カタカナの小さな町々! 私にとってまったく意味をなさなかった地名の数々が、この話を聞いた瞬間に豹変した。その地を滞在し通り過ぎていった人々! そして今この瞬間もそこに生活する人々。知らない言葉で書かれた地名が、次々と植民地時代という一つの歴史と現在の様子とを主張し始めたのだ。

 どんな小さな街一つにも名前の由来がある、そんな視点からもう一度、世界地図上の一つひとつの名称をよく見てほしい。そこには数え切れない世界中の言語がある。どれにでも必ず、名称をつけた者がおり、何らかの意味を表している。

 私は以前、自分の目で確認するまでは、どうしても現実感を欠く外国の世界に暮らしてみたかった。しかし実は一枚の世界地図をじっと見つめるだけでも、こんな風にして、その土地の息遣いは聞こえてくるのだ。それにはいくつもの語学を習得し、歴史を学び続けることが重要だ。知識が一つ増えるごとに、世界地図旅行は豊かになってゆく。私は世界中の地名に納得がいくまで、この作業を続けたいと思う。
(第一文学部4年 山本 暁)

(2003年1月9日掲載)


フリートーク
「国立劇場11月大歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』を観劇して」

 《九段目》、殿中で刃傷に及んだ塩治判官を抱きとめたために恨みを受けた加古川本蔵が、首をのせよと差し出された三宝を踏み砕き、大星親子を罵倒する。袖を引いて必死で止める娘を振り返り、黙って頷く本蔵。見ている方には分かっている。彼は娘と、大星由良之助の息子力弥との結婚を許してもらうためにわざと殺されようとしているのだ。短い間の中に本蔵の苦悩・子の幸せを願う親心が凝縮されていて切なく胸に迫った。狙い通り力弥に刺され虫の息の本蔵の「忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨てる親心」を実はすべて心得ていた由良之助。立場の違いこそあれ子を思う心は同じ二人の父親は、ひとえに忠義とまとめるにはあまりに生身の人間の姿である。

 十一月二十五日、国立劇場に十一月大歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の千秋楽を見に行った。今から三百年前の赤穂浪士の仇討ちに材をとった、全十一段の壮大な物語だ。私は歌舞伎の忠臣蔵については何の予備知識もなく、今回「仮名手本忠臣蔵」の《七段目》《九段目》そしてクライマックス、討ち入りの《十一段目》を初めて見たが、そこでは討ち入り場面は簡潔にまとめられ、役者の力演と上方風の写実的な演出できめ細かく強調されていたのはむしろ忠義という大儀名分の陰で不条理にも人生を振り回された人々の悲劇、彼らの織り成す重厚な人間ドラマだ。この物語が初演以来二百五十年も不動の人気を保ち、また赤穂浪士の仇討ちを熱烈に支持したという江戸時代の人々が涙した要素も実は浪士たちの忠義心の美しさというよりも、不条理な状況の中で一段と際立つ夫婦の情、親子の情という古典的な、だがかけがえのない感情の美しさの方だったのかも知れない。そう思うと、テレビ等で目にする忠臣蔵からだけでは伺いきれない忠臣蔵の人気の秘密を改めて知った気がした。
(政治経済学部3年 岸川 里美)

(2002年12月12日掲載)


フリートーク「作家への道」

 メンタルクリニックで事務や受付の仕事をしている私は、本学に入学する際に臨床心理士になれたらと思っていた。第二文学部の社会・人間系を専修に選び、認定心理士の資格だけでもとって、大学院に進学しよう、そう思っていた。というのも、当院で働いている臨床心理士さんは、週四日の勤務で年収七百万円と高給取りなのである。それに目がくらんだのかと問われれば、完全に否定することはできないかもしれない。

 昨年受けた心理学の授業は、それなりに面白かった。しかし、本来「書くこと」が好きな私は、炎天下を走ってきて一滴の水を欲している者のように、文章や創作に関連した授業を受けたくてたまらなくなった。

 それで二年生になった今年は、そういった内容の授業を四つ取った。どの先生もそれぞれに味わいがあって授業は楽しい。しかし、うまく書けなくて苦しいときもある。そんなときは、何かいらだっていて、家族にも当たり気味になる。それなのに、小さい頃の作家になりたいという夢が、再びふつふつと湧き上がってきた。作家になんてなれるわけがないと遥か彼方に押しやっていたのに、いつのまにか私の隣にやってきて、鎮座している。

 平日は一時まで働いてから、二時間近くかけて大学へ。土・日は十二時間半労働。子どもは三人いて末娘はまだ小学生。「書く」時間を見つけるのが大変だけど、人生の後半、本当に好きなことをこつこつやっていくのもいいのではないか。大学時代にひとつでも、自分で納得できる作品を書き上げて卒業したい。
(第二文学部2年 武井 えみり)

(2002年12月5日掲載)


フリートーク「イスラエルにて思う」

 アンマンのホテルで僕はイスラエルに入国するか迷っていた。テロに巻き込まれたらどうしよう…。でもここまで来たら、キリスト教、イスラム教の聖地を見てみたい…。

 翌朝、半ば勢いだけで僕は国境行きのバスに乗っていた。出国手続きを済ませ、再びバスに乗ってヨルダン川に架かるキング・フセイン橋を渡り、イスラエルに入る。イスラエルの入国事務所に着くと、大きな荷物は別室に持っていかれ、入国者は金属探知機や手荷物のX線検査を受けた後、質問攻めにあう。どこから来たのか、目的は、所持金は、武器は持っているか…。それが済むと入国スタンプを押してもらえるのだが、イスラエルのスタンプがあるとイスラエルを国として認めていないアラブ諸国などに入れなくなってしまうので、断った。もちろんヨルダンの出国スタンプも、出国場所でイスラエルに入ったことが分かってしまうので、別紙に押してもらっている。

 乗り合いタクシーは一時間ほどでエルサレムに着き、僕はホテルを探し、荷物を置いて旧市街に出かけた。イエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘へと向かったヴィア・ドロローサを辿り、聖墳墓教会を見た後神殿の丘に行ったが、今はイスラム教徒しか入れないとのこと。自分はムスリムだ、などと嘘をついて粘ってみたが結局入れてもらえず、あきらめて嘆きの壁に行ってみた。ユダヤ教徒が祈るその壁の向こうに、神殿の丘の敷地内にある岩のドームの黄金の屋根が見える。とても印象深い光景だった。

 今日では、宗教とは自分とこの世界にとって何なのかを考えるより前に、その宗教が根底にある現実の悲惨さを考えてしまいがちだ。しかし、キリスト・イスラム・ユダヤそれぞれの信仰深い信者が聖地で祈る光景を見ると、普段宗教には無関心な日本人(僕)でも、宗教とは何なのかという根源的な問題に直面していることに気付く。
(人間科学部3年 大野 裕樹)

(2002年11月28日掲載)


フリートーク「学校教育ボランティアを通して」

 9月2日から、杉並区にある松渓中学校で学生教育ボランティアを始めた。8月30日に区役所で面接を受け、その場で即採用となり、3日後の始業式では壇上から挨拶をし、次の日にはもう授業に参加していたのだから人生とは分からないものである。

 そもそも僕は、教師になるべく、教職課程を取っており、6月に教育実習を済ませたばかりであった。しかし、2週間という短い期間であったのと、予想以上に多忙なスケジュールであったため、自分の中では不完全燃焼の形で実習を終えざるを得なかった。この時の反省と、学生時代の早いうちから教育現場に立ち、長いスパンでその雰囲気を味わうことができるとは滅多にない機会であるとの思いから、公報で見つけたこのボランティア制度に応募することにした。

 今現在、週2回、数学の授業時に担当の先生とペアを組み、机間巡視や数学が苦手な子の補佐という形で授業に参加させて頂いた。最初は生徒も僕も緊張しており、どことなく浮いていたが、実習生と違い、長期間にわたって学校に来ることが判明した頃から、生徒たちも松渓中の一員として認めてくれ、最近では積極的に部活などの話をするようにもなった。担当の先生曰く、「松渓中には大切に育てられた子が多い」ため、生徒たちは概して礼儀正しく、それでいて人懐っこく、基礎学力もしっかり身に付いているように感じた。教育環境としてはこれ以上ないくらい恵まれており、ますます教職に対する憧れを強めるばかりである。

 学生の身分であり、まだまだ未熟者ではあるが、快く受け入れてくださっている松渓中と、貴重な時間を割いてまでご指導して下さる先生方には感謝の気持ちでいっぱいである。将来教職を志す学生は、ぜひとも一度学生ボランティアとして教育現場に立つことをお薦めする。机上の勉強や短期間の実習では絶対に得られない生の体験ができるはずであり、その体験が教職を目指す上で、必ずや何かしらの指針を与えてくれるはずだからである。
(法学部4年 植松雄樹)

(2002年11月21日掲載)


フリートーク「フィリピンの老人は小走りする」


 マニラ。定宿のペンション・ナティビダッドの野外テラスで、僕はゴト(即席おかゆ)を食べながら新聞を読んでいた。もう夜だ。久しぶりの帰還である。この2週間と少しの間、マニラから船でパナイ島まで行き、ボラカイという有名なビーチでバカンスまがいのことをした。その後、ネグロス島、セブ島、ボホール島などを観光し、レイテ島、サマール島を経て今日マニラに戻ってきたのだ。フィリピンの美しいビーチや鬱蒼と茂る椰子の森の思い出と、小さな地方都市の中心にいつもある教会のイメージとともに、静かに日本への帰りの日を待っていた。

 ふと、韓国人と日本人の老人の連れ合いが現れ僕の隣に座った。と、いきなり老人のマシンガントークが始まった。「あ、日本人の方ですか」。無難な出だしである。はじめ彼は韓国人にも分かるように英語と日本語を交えて語っていたがそのうち面倒臭くなったのか、日本語のみで語りだした。しかし、ものすごい勢いである。彼は72歳の元船乗りであった。第二次世界大戦が終わるか終わらないかの時期に働き始め、世界の海をまたにかけた。「当時のバハマは最高だったね。地上の楽園」。「たまたま寄ったイタリアのナポリで迷路のような道を少女に案内されて…」。「当時、日本にはほとんど輸出するものがなかったんですよ。だからとりあえずフィリピンまで来て砂糖を船いっぱいに積んだんです」。まるで冒険だ。彼は退職後アメリカを旅し、今は東南アジアに落ち着いているという。それにしても楽しそうだ。こんな老人を日本では見たことがない。今までの人生でいろいろあっただろう。しかし、今。輝いている。ちなみに彼の奥さんは夫の旅行に寛大だそうだ。思う存分話し終えると、老人は小走りでその場を去って行った…。

 なんだか僕も楽しくなってきた。
(文学部3 年モリタナオキ)

(2002年11月14日掲載)


フリートーク「69歳の1年生」

 10月20日早朝、寝ぼけ眼をこすりながら私は大隈小講堂へ向かった。その日、西早稲田キャンパスで行われたホームカミングデー、稲門祭の手伝いをするためだ。

 手伝いの内容は、福引抽選券の販売。正門近くや記念会堂前で、参加されるOBやOGの方々に、午後行われる抽選会の券を売るという、実に単純な、しかしなかなか思うように進まない内容である。卒業後25〜50年の方々が集まるだけあって、その容姿は自分の両親や祖父母に近いものがある。「福引券はいかかがですかー?」の一声に対する反応は実にさまざま。「結構です」で終わってしまわれる方、「それは何ですか?」と興味津々な表情を示される方、「五枚ください」と自ら言ってくださる方、等々。

 そんな中で一人、他とは違った反応を示す方がおられた。「僕、学生なんですよ」。見た目は他のOB、OGの方々と全く変わらない。お聞きしたところ、今年政治経済学部に入学された一年生でいらっしゃった。御歳は69歳。私との年齢差は約50歳。長い人生経験を感じさせるその人の白髪や顔のしわを見る限りでは、到底現役の学生には見えない。だが、「この前のフランス語の試験、0点だったんですよ」と私にその答案用紙を見せ、笑みを浮かべながらおっしゃるその表情は、本当にごく普通の大学生と変わらない。

 大学に入ればひと安心で、その後あまり勉強しなくなる学生が多いというようなことをよく耳にする。が、純粋に学問を愛しているその人の目は、知的好奇心と向上心で満ち溢れていた。
 約50年後自分は何をしているか、などとても想像出来ないが、自分が将来どのような人になるにしても、その人のような目をしていたい。
(理工学部3年 河野 博信)

(2002年11月7日掲載)


フリートーク 「熊野古道への階段」

 中央図書館の階段を上がるたび、平山画伯の絵に吸い込まれるような錯覚を抱いてきた。林の冷気と薄暗さが肌に触れてくる気がする。朝陽ならもっと空気は湿気ているはずだから、これは夕陽だろうか、などと思ううち、熊野に来い、熊野に来い、という声が聞こえてくるようになった。入学4年目の春のことである。

 日本で降水量最多の土地ゆえに、道の流出防止に石畳を敷いたという。そしてあの、青苔。いにしえの人々は春か秋にこの道を行った。私と連れは盛夏、それも40度近い酷暑である。山道で汗することには慣れているのだが、熊野でのそれは普通ではなかった。暑さのあまり暑さが感じられない。が、全身は歩き出して3分でびしょぬれである。腕を見ていると、皮膚に汗の膜が盛り上がってくる。前髪から、顎から、袖口から。汗は石畳の上にぼたぼた落ちる。吸汗速乾素材が全然効かない、まさにサウナ状態。

 あちこちに行き倒れの供養塔。健康な人ばかりではない。二度と帰らぬつもりで家を出てきた人たちは、どんな思いでこの道を歩いたろう。跛。癩。盲。そう思うと、踏みしめる石に、血と汗と涙が染み込んでいる気がする……。

 大学に戻って呆然とした。画伯の絵がすっかり色褪せて見えた。きれいすぎる。そうか。これは抽象化された創作だったのか。一枚の絵の印象がこれほどまでに「変わりうる」とは驚きだった。見る者によって違うのはあたり前だが、それに匹敵する違いは個人の中にも起こりうる…。そしてさらに驚いたことには、ふた月たった今、古道の木々や石畳は、また別の色合いを私に見せ始めたのだ。この絵がこの場に掲げられている意味は、計り知れない。10年後でも20年後でも、望む時にこの階段の下に立てることを、私は幸せに思う。

(文学部 4年 松塚みぎわ)

(2002年10月31日掲載)


フリートーク 「あなたもボランティアを経験してみませんか?」

 ボランティアサークル積木の会は、心身に障害を持つ方の介助ボランティアを中心に活動する団体だ。主として3つのご家庭と2つの施設、1つの団体を通してボランティアをさせていただいている。家庭ボランティアでは、下は小学生から上は30代という年齢の方々のお宅に伺い、その方たちの日常生活のお手伝いをしたり、一緒に話したり、遊んだり、散歩に出かけたりしている。心身に障害を持つ方が通っている施設では、創作活動や機能訓練といった日常活動のお手伝いに加え、合宿やそこで催されるお祭りの手伝いを、身体に障害を持つ方が職業訓練を行っている施設では、そこの利用者の方の休日のお買い物やコンサートなどにご一緒している。またその他に、新宿区の肢体不自由児のための団体で行われる合宿やバスハイク等や、大学内で行われる学内献血のお手伝いもしている。日常生活の介助はもちろん、ボランティア先の人たちとの触れ合いも大切にしたい。

 ボランティア活動は、参加者の都合が合う時に無理なく参加することができるシステムになっている。また、サークル員のほとんどが未経験で入会しているので、初心者でも安心してボランティアができると思う。積木の会全体でボランティアをすることは少ないが、同じボランティアをする仲間同士、悩みを相談したり、ボランティアについて話をしたりしている。春と夏には合宿もあり、サークル員同士の交流も盛んだ。ボランティアをやりたいけれどきっかけがつかめない、一人では自信がないという人は、ぜひ一度、積木の会をのぞいてほしい。
(文学部2年 荻田亜弥)
【連絡先】
部室 新学生会館E215

(2002年10月24日掲載)


フリートーク「綾部光洲書作展」を観て

 夏休みに入って間もない8月2日、銀座の鳩居堂画廊へ出掛けた。それは、書家であり文学部講師でもある、綾部光洲先生の書作展を見るためであった。フランス人留学生、中学1年生、友人を含めた5人、いずれも書道展を訪れるのは初めてだった。 会場全体が書の彩りに満ち溢れ、美しい空間を織り成していた。梵字、行草書、古典かな、漢字かな交じり、「大きな古時計」などの童謡、一つひとつの作品から作者のことばへの愛着が感じられた。梵字の格調は仏の宇宙を、大師流風の書は神秘への祈りを想起させた。また、先生が大学時代に同級生だったというお二人、俵万智氏の歌はことばが語りかけてくるようであり、横内謙介氏の戯曲の台詞は、臨場感を持ってたたみ掛けてきた。一緒に鑑賞したフランス人は柳の木の煤(梵字を描く聖木だそうな)で描かれた大作「金剛」に魅入られ、中学生は「生々しいほどに生命力と、迫力がある書展だった」と、それぞれの感動を胸いっぱいに会場をあとにした。

 綾部先生の「書道」は文学部にて大変人気のある講座のひとつである。それは、先生が真摯に書に向かい、実に熱心に授業に取り組んでいらっしゃるからなのであろう。一人ひとりの学生をしっかりと見据え、受け止め、熱く指導をされる。この授業をきっかけとして、初めて書の楽しさ、書の魅力を知る学生も多い。

 今回の書道展を通じ、書という芸術が国籍、世代を超えて、多くの人の感性に直接働きかけ、心を豊かにするということを実体験として知ることが出来た。そして、早稲田大学の伝統ある文芸や芸道が、今後も更に新たに輝く様を楽しみに目撃したいと感じた、そんなひとときであった。
(第二文学部4年 佐藤 凛子)

(2002年10月17日掲載)


フリートーク 「まちのほっ≠ニシアター、早稲田松竹」

 最近すっかり肌寒くなってきた。今日は思わず近所のコンビニでおでんを買ってしまった。帰っておでんを食べながら、コンビニはホントに便利だなぁと今さらながら考えてしまう。雑誌、弁当、文房具などがそろい、宅急便まで受け付けてくれるらしい。しかし、コンビニとは一体何なのだろう。私が考えるところ、コンビニエンスストアとは、消費者とあらゆる業種をネットワーク化するもの、つまり、ウェブブラウザのようなものであろう。コンビニ、インターネットなど、近年で物凄い普及を見せたものに共通するキーワードが「ネットワーク」であると思う。「早稲田松竹復活プロジェクト」の代表者である沼田氏がいつか「ネットワークってやっぱり大事なんだよ」と言っていたことを思い出した。

 私は、一枚のビラがきっかけでこのプロジェクトに参加し、沼田氏に出会った。私は理工学部の建築学科であったため、文系の人とはほとんど接点がなかった。そして、このプロジェクトに参加することであらゆる人々と出会い、話をして非常に刺激を受けた。

 「早稲田松竹復活プロジェクト」では、まさに早稲田界隈のネットワークを作ろうとしている。早稲田松竹を軸として古書店、カフェ、学校などをネットワーク化し、コミュニティを形成していく。例えば、目の不自由な人でも楽しめるような映画館を作るなどといったことを考えている。このようなネットワークを作ることによって人と人が出会い、刺激を受けたり、経済効果が生まれたりして、新しい「早稲田」が形成されることであろう。

 点は線になれないとはよく言ったもので、映画館ひとつでは何もできない。周囲とつながり、線を作ることであらゆる図形が描けるようになるのだ。「早稲田松竹復活プロジェクト」は、そのような点と点をつなぐ定規のような役目でありたい。どうやら製図の授業で学んだことが役に立ちそうである。
(理工学研究科1年 齋藤祐介)
早稲田松竹復活プロジェクト
【URL】http://w-eiga.com/

(2002年10月10日掲載)


フリートーク 「3つ目の時計」

我が早稲田大学には大きな壁時計が2つある。1つは大隈講堂に、もう1つは中央図書館に。

 早稲田の顔、大隈講堂は古い歴史をもっている。その階段に座り、時計と夕日を眺めることが、私の日課になっている。自分の悩み事や一日の反省など、「過去のこと」をじっくりと考え込むのである。そうすると、複雑な心と疲れている体がリラックスできる。スッキリもする。

 新しく建てられた中央図書館は、私が学んでいるGSAPS(アジア太平洋研究科)のすぐ目の前にある。それゆえ、時計を見つめながらその日の計画や自分の将来など、「未来のこと」を考える。こういった理由で、私は前者を「過去の時計」、後者を「未来の時計」と呼んでいる。

 キャンパスを眺めていると、急いで歩く学生を見かけることが多い。以前、早稲田ウィークリーで、『早大生は足が速い』という記事を読んだことがある。この表現は、日ごろから自分の夢を目指して一生懸命がんばっている早大生の姿を映していると考えられる。一方、別の見方をすれば、早大生は「心の余裕」があまりないとも考えられるのではないだろうか。つまり、過去のことを思い返したり、周りの人々を考えたりせずに、先のことや自分のことばかり考えているのではないだろうか。

 最近「バランス感覚」がとても大切だと考えるようになった。より冷静に物事を判断するために、「過去と未来」.「他人と自分」についてバランスのとれた感覚を身につけることは何よりも大切なことであろう。

 秋学期が始まり、また忙しくなってきた。こういうときこそ、2つの時計を眺める「心の余裕」あるいは早大生はもってほしい。そうするうちに、きっと「現在」あるいは「自分」という3つ目の時計が見つけられるのではないだろうか。
(アジア太平洋研究科 修士2年 羅 京洙)

(2002年10月3日掲載)