書評
| TOP PAGE  | 書評  |   E-MAIL   |

2002年度後期分 目次


| TOP PAGE  | 書評  |   2002年度後期分目次   |

リア王 ウィリアム・シェイクスピア著、小田島雄志 訳
白水ブックス1983年発行 価格本体830円+税

<評者>
冬木 ひろみ
ふゆき ひろみ
(文学部専任講師)
1955年生まれ 
2002年4月嘱任 
担当科目 英文学演習、
演劇演習、広域英語
現代に生きる『リア王』

 青春の只中にいる若者に勧めるなら、サリンジャーか、それとも坂口安吾か。もっと面白い本だってある。考えた挙句、結局『リア王』という古くて遠い国の劇を取り上げることにしたが、実はこの作品、今という時代に対するリアルな反射鏡になっている。少なくとも私にはそう見える。

 シェイクスピアのこの悲劇は、老王リアが3人の娘たちのうち、一番自分を愛していると言ってくれた者に一番いい土地をあげようというたわいのない場面から始まる。率直な言葉しか言えない末娘の本当の心が分からないリアは末娘を絶縁するが、2人の姉たちにはひどい仕打ちを受け、発狂してしまう。ここには親子の断絶、忘恩、裏切り、狂気、国の分裂、内戦、苦しむ国民など、現代世界のことかと見まごう内容がある。さらにその台詞が胸を突く。娘に裏切られ、王冠も衣服もすべて失い狂ったリアが、息子に裏切られ盲目となった忠臣グロスターに語る場面がある。「人間、生まれてくるとき泣くのはな、この阿呆どもの舞台に引き出されたのが悲しいからだ」。グロスターも別のところで「目が見えたときはつまづいたものだ」と言う。これが教訓的な状況で語られたなら、誰も感動などしない。あらゆる文明の虚飾と権威を剥ぎ取られた狂気の元国王と、息子も目も失った男が語るから凄絶なのである。

 確かに、絶望的な世界の破滅の物語かもしれない。けれども、つまづき、苦しくなり、自分にもこの社会にもどうしようもない憤りや不条理を感じたとき、この本を覗いてほしい。人生という「大舞台」で生きてゆく重みが少しだけ分かってくるのではないかと思う。ついでながら、旧ユーゴスラヴィアの崩壊と内戦を思いながら読む『ロミオとジュリエット』も格別だと思う。

(2003年1月16日掲載)

| TOP PAGE  | 書評  |   2002年度後期分目次   |

CODE ― インターネットの合法・違法・プライバシー ―
 ローレンス・レッシグ著 山形浩生、柏木亮二訳
翔泳社 2001年3月発行 価格 本体2,800円+税

<評者>
木村 忠正
きむら・ただまさ
(理工学部助教授)
1964年生まれ
2001年9月嘱任
担当科目:情報社会論、
マルチメディア政策論
21世紀情報化社会を生きるための教養

 寸暇を惜しんで読みたくなる本というのは、滅多にお目にかかれるものではない。社会に出て年を経るとなおさらだ。筆者も今ではそうした「知的興奮」を味わうことが少なくなってしまったが、久しぶりにそうした「ワクワク」した感情を呼び起こしてくれたのが本書である。

 とはいえ、本書は必ずしもとっつきやすくはない。訳書では450ページ(原著でも300ページ)もの大著だ。しかも、その内容は、情報ネットワークあるいは情報法(サイバー法)に多少なりともなじみのある読者にとっては知的スリルに溢れていても、そうでない読者は、一体何を言いたいんだ? と途方に暮れてしまうかもしれない。

 だが、21世紀の情報化社会を生きざるを得ない早大生諸君にとって、本書は必読書だと確信をもって薦めることができる。苦労してもぜひぜひ読破してもらいたいし、できれば数人で読書会を開き、互いの理解と議論を深めてもらいたい。というのは、本書は、インターネット、オープンソース、知的財産権、言論の自由、プライバシーなどのトピックを議論しながら、私たちの社会的価値、自由、民主主義とは何か、私たちは何に価値を見出し、守ろうとするのかを問い直しているからであり、縮小期に突入し、既得権益と新たな価値とが激しく衝突しつつある日本社会にとって、本書の提起する問題を真摯に受け止める必要があるからだ。

 実際、難解ともいえる本書は大きな反響を呼び起こし、レッシグは「サイバー法の第一人者」と呼ばれている(NHKスペシャル「変革の世紀」でもとりあげられたので思い出した人もいるだろう)。新著『コモンズ‐ネット上の所有権強化は技術革新を殺す』(翔泳社)も翻訳が出たばかりだ。合わせて薦めたい。

(2003年1月9日掲載)

| TOP PAGE  | 書評  |   2002年度後期分目次   |

鴎外 ― 闘う家長 ― 山崎 正和 著
新潮文庫1980年発行 価格本体427円+税

<評者>
勅使川原 和彦
てしがはら・かずひこ
(法学部助教授)
1968年生まれ
1996年4月嘱任
専門分野:民事訴訟法・国際民事訴訟法。
(※WEB管理者より:「鴎外」は本来の漢字とは異なりますが、PC上の制約のため、この字を使用しました。ご了承ください)

記憶の中の鴎外

 先だって、天気がよく快適なドイツの晩夏の日曜日に、ミュンヘンから程近いシュタルンベルガー湖へ、ドイツ人の友人カップルに誘われて一緒に午後を過ごしに赴いた。ドナウやエルベ河畔は「世紀の大洪水」で散々な目に遭っていたけれども、遠く離れたここは、静かな美しい湖面にヨットやボートが群れるように浮かび、湖水浴や湖畔でのバーベキューを楽しむドイツ人たちの姿で賑わっていた。『うたかたの記』の舞台となったこの湖に、鴎外が滞在していたのは、もう120年近く前のことだという。

 単行本で『鴎外 闘う家長』が出版されたのは奥付によれば1972年のことで、私自身は文庫化された時に(中学生の時だったと思うが)初めて読んだ記憶がある。すでに名著の誉れ高い本だったが、「勉強」のために押し付けられる純文学とやらに食傷し、「評論」の賢しげなややこしさに辟易していた私は、鴎外の文学および人となりの明晰な分析と挿話を、なんとも目の覚めるような心持ちで、読み進んだものだった。

 そんな懐かしさで、現在、在外研究でミュンヘンに住まいながらも、電子文庫(新潮オンラインブックス)の「新刊」としてWeb上で発売された直後に、大学の研究所のLAN経由でダウンロードして、液晶の画面上で20年ぶりかで読み返している。そんな個人的動機で「書評(?)」に掲げられるのも名著の方では迷惑な話であろうが、ただ鴎外も漱石も中学教科書から消えたという今、ぎりぎり、鴎外を「勉強」させられたが故にまだ鴎外の「再発見」が可能であろう、現時点の大学生の世代に、一読をなお薦めることにしたのである。

(2002年12月12日掲載)

| TOP PAGE  | 書評  |   2002年度後期分目次   |

スポーツイベントの経済学 ―メガイベントとホームチームが都市を変える― 原田 宗彦 著
平凡社新書2002年6月発行 本体価格760円+税別

間野 義之
まの よしゆき
(人間科学部助教授)
1963年生まれ
2002年4月嘱任
担当科目:スポーツ政策論
都市とスポーツを考える

 贋物が横行する浮世に、スポーツへ真物を求める者は少なくない。ドーピングや疑惑判定の暗部を抱えながらも、五輪やW杯という世界最高の舞台では、誰もが真物に魅入られる。スポーツが人々を虜にし、都市を狂瀾させることは、古代ギリシア・ローマの時代から変わらない。
 他方、荘厳と興奮の祝祭の後よろしく全国に散在する巨大スタジアムやアリーナといった遺産(レガシー)が、古代ローマのコロセアムとなべて、一抹の寂寥を感じさせる点もまた然り。
 すでに、わが国のスポーツ経済規模(GDSP)は約十兆円(早稲田大学スポーツビジネス研究所調べ)に届き、GDP全体の二〜三を占める。米国では自動車産業を凌駕し第十一位にランクする。
 とは言え、それを都市の成長サイクルと結びつけられないもどかしさが、そこにはある。
 本書は、このような都市とスポーツの光と影について、示唆に富んだ多くの事例をもとに、丹念に綴っている。
 インディアナポリス市のスポーツツーリズム、シェフィールド市のスペイクテイター・スポーツ、ロッテルダム市のスポーツと都市マーケティング、果てはJリーグホームタウンから、大相撲巡業、みちのくプロレスまで、都市とスポーツとのマリッジを巧みに描写している。
 しかし、「…スポーツというレンズを通して都市を見つめ直すと、そこには深く呼吸することもできず、快適に汗をかく気も起こらず、手軽に仲間とスポーツを楽しむことのできない殺伐とした都市の情景が広がっている」ことを著者は憂う。そして、「見るスポーツ」への傾斜から、「するスポーツ」へのバランス、すなわち複眼的な都市整備を案じる。
 冬、スポーツ、白い息。美味しい空気を胸一杯に吸い込める街に暮らしたいものだ。

(2002年12月5日掲載)

| TOP PAGE  | 書評  |   2002年度後期分目次   |

『人名の世界地図』 21世紀研究会編
文春新書 2001年2月発行 本体価格780円+税別

<評者>
石井 道子
いしい みちこ
(理工学部助教授)
1963年生まれ
1994年4月嘱任
担当科目:ドイツ語・ドイツ文学
自分の名前、好きですか?

 毎年毎学期、たくさんの学生さんたちに出会うが、同じ名前(ファーストネーム)はほとんどないものだ。漢字の組み合わせや音の響き、それぞれに個性的だと思いながら出席をとっている。

 外国に目を向けると、名前はもっとシンプルで同名は珍しくない。フランス王家はルイ、イングランドはウィリアムやエドワード、チャールズだ。ギリシアの友人マリアによると「一家に一人はマリアがいる」そうだし、昨年、ドイツ語教師のセミナーに参加したときも、15人の女性メンバーのうちロシア、ウクライナ、 ブルガリア、白ロシアの4人が「ナターシャ」だった。現代日本では、人と違う名前=個性的、とする風潮があるように思うが、どうやらこの価値観はグローバルスタンダードではないようだ。

 いろいろな文化圏における命名のしきたり、名前に込められた意味を歴史的・社会的背景から系統的にコンパクトにまとめたこの本を手に取ってみてほしい。オーソドックスな名前の中から選ぶ、組み合わせる、何代も前から用意してある、というように、多くの社会では名前はもっと保守的なもののようである。お隣の中国・韓国の伝統、ユダヤ人やアフリカ系アメリカ人の美しく立派な姓がかえって差別の歴史を伝えている、という話にもはっとさせられる。

 フィクションの世界では往々にして登場人物の名前が性格を表現している。名前の意味を知ると、映画や海外ドラマも一層楽しめるだろう。

 さて、現代日本は漢字に制約はあるものの、自由に名前がつけられる。可能性は限りない。つまり、あなたの名前には、他のどの社会に生まれた人たちよりも、ご両親や名付け親の願いがストレートに込められているのである。

(2002年11月28日掲載)

| TOP PAGE  | 書評  |   2002年度後期分目次   |

『東アジアの日本大衆文化』石井 健一 編・著
蒼蒼社2001 年2 月発行 価格本体2,600円+税

<評者>
小川利康
おがわとしやす
(商学部助教授)
1963年生まれ
1996年4月嘱任
担当分野:中国現代文学
東アジアに浸透するニッポン

 最近、日中国交回復30周年を記念し、北京でGLAYの五万人コンサートが開かれた。コンサート会場の熱狂ぶりは日本のマスメディアでも取り上げられたから、記憶に残っている諸君も多いことだろう。こんなにファンがいたのか、と驚いた人もいるだろう。

 アンケートによれば、中国に対する好感度は10年来下降の一途をたどっているという。その一因として戦争責任問題をめぐる軋轢があると指摘されているが、むしろ私は日本のメディアが提供するアジア情報が余りにも少ない、あるいは相当に偏っているためではないかと思っている。その一方では、中国、香港、韓国、台湾にとって、日本という存在は我々が意識している以上に大きく、しばしば情報量の不均衡が生ずる。相当な「片思い」状態である。このため誤解、感情的な行き違いに発展しやすい。決して望ましい状態とは言えない。

 上海を歩けば、至るところで日本人歌手のCDが売られ、日本アニメのビデオCDが店先に並んでいる。深夜コンビニに入れば、店員のオバサンが字幕つきで「欽ちゃんの仮装大賞」を見て大笑いしている。我々の想像以上に、「ニッポン」は彼らのありふれた日常の中に浸透しているのだ。

 これほど「ニッポン」が浸透したのはなぜか?その問いにきちんと答えてくれるのが本書である。「哈日族(ハーリーズー)」や「キティ」ブームを社会学的に分析し、その文化受容が国ごとに異なることを教えてくれる。日々当たり前に「消費」され続けるポップカルチャーだが、改めて他者の眼差しの中で見つめ直してみてはどうだろうか。

(2002年11月21日掲載)

| TOP PAGE  | 書評  |   2002年度後期分目次   |

『にごりえ・たけくらべ』樋口一葉 著
新潮文庫1982年発行 本体価格362円+税別

<評者> 陣野英則
じんのひでのり
(文学部専任講師)
1965年生まれ
2001年4月嘱任
担当科目 平安時代の物語
文学、日本の文学論、日本文学演習、日本文学研究、文学・言語系基礎演習
この世界と言葉

 文学作品における意味の曖昧さを嫌悪する一時期があった。二十歳のころの私は、たとえば、この世界について能う限り正確に言語化せんとする西欧思想の明晰さにあこがれていたようだ。

 二十代の半ばになって、樋口一葉の小説に再会する。最初の出会いは十二、三歳の時、中学生向けに編集された現代語訳付きの『たけくらべ』であった。原文にまるで歯が立たず、現代語訳で読んだのがいけなかったらしい。退屈きわまりないという印象しか残らなかったものだが、再会した一葉の小説は、徹底的に曖昧であること、もしくは意味が幾重にもぶれることの魅力を教えてくれた。

 かぎ括弧を用いないその文章において、作中人物の話声(narrative voice)と語り手のそれとは常に混じりあい、多重化された話声として響く(発話の主体が曖昧になる、その瞬間のいいようもない快感!)。また、語り手がもたらす情報は、唐突かつ断片的であるため、謎が謎のまま累積してしまうのだが、実はそれゆえに、当の小説世界全体が読者の想像にゆだねられるのである。たとえば『にごりえ』で、酌婦お力の心が語られている箇所がある。それは、お力の心の中で今まさに言語化されるか否かというレヴェルの言葉であり、読者にはその意味が確定しがたい。だが、そうした一個人の思惟もまた、この世界の一部分であるのだし、何より、お力が生きた、意味の定まらぬ世界こそ、私たちが生きる世界そのものでもあろう。言語の不完全性によって、この世界全体を表現し得るという逆説――皆さんも、ぜひ体験してほしい。

 一葉の作品は、数種の文庫本に収められている。ここでは特に、八篇の作品を収録する新潮文庫本を紹介しておく。

| TOP PAGE  | 書評  |   2002年度後期分目次   |

『アンナ・カレーニナ』 トルストイ 著 木村 浩 訳
新潮文庫 1972年2月発行 価格本体629円〜+税

【評者】
草野 慶子
くさの けいこ
(文学部助教授)
1968年生まれ
1996年4月嘱任
専門分野:ロシア文学・文化
「完璧な小説」の贈りもの

 いろいろ迷ったのだけれど、ここは思い切り正攻法でいってみよう。ロシア文学といえばドストエフスキーとトルストイ(と思っている人は、やはり多いだろう)、今回おすすめするのはトルストイの最高傑作『アンナ・カレーニナ』である。これだけ長い小説は学生時代に一度読んでおくべきだ。そして年を経てさらに幾度か読み返してほしい、できれば十年に一度ぐらいは。

 トーマス・マンによって「一点非の打ちどころのない」と評された、この近代小説の最高峰は、あらゆる人があらゆる時に出会っても、その心をつかむだろう。完璧の域に達する小説の超絶技巧に驚嘆するも良し、何度も映画化されて名高い人妻の悲恋物語に酔うも良し、アンナと並び立つもうひとりの主人公リョーヴィン(レーヴィン)の、人生の意義の探求に寄り添うも良し。おそらく学生の時分に読めば、アンナよりも、リョーヴィンの妻となるキチイ(キティ)の祝福された恋の運命に共感する人が多いかもしれない。

 埴谷雄高が最も愛するヒロインはドストエフスキー『白痴』のナスターシャだそうで、一方私はアンナであるとここに書くと、かえってアンナの株がガタ落ちだろうけれど、トルストイ好みの豊かな黒髪と輝く黒い瞳、あたたかく艶やかな美貌に、明晰な知性と強い意志をもったこの女性の自死は、映画でよくそう描かれるような、嫉妬と絶望のはてのヒステリックな衝動ではないと信じる。以前に見たソフィー・マルソーの演じるアンナには、その点大変失望した。魅力的な女優だと思うけれど、アンナにだけは向いていない。いや、そもそもアンナを演じるにふさわしい女優を見つけることは、きっと至難のことなのだ。

(2002年11月7日掲載)

| TOP PAGE  | 書評  |   2002年度後期分目次   |

『深夜特急』全6巻 沢木 耕太郎 著
 新潮文庫 本体価格400円〜+税

〔評者〕
若尾 隆司
わかお たかし
高等学院教諭
1971年生まれ
2000年嘱任
担当科目:国語
在学中に一度は旅を

 本書は著者が26歳のときの、1年余りに及ぶ旅を綴ったものである。一般的な旅行記は目的や目的地、旅行期間があらかじめ設定されているのが普通だろう。本書のユニークさはそれらの点に全くとらわれていないところにある。一応、デリーからロンドンまで乗り合いバスで行くという目的らしきものはある。しかしこれもいわば旅のアリバイに過ぎない。とにかく目の前のハプニングに身を任せることで旅が転がっていくのだ。目的を達成するために、あるいは取材のために旅をしているのではない。そのような旅を著者は、ノンフィクションで鍛えた地を這うような低い目線と鋭い観察眼で描き出していく。

 私もかつて本書に触発されて、著者と同じように確たる目的もなくまた期限も定めずに旅をしたことがある。その日々は私にとって、これまでの人生で最も贅沢な時間として記憶されてる。どこまで行ってもよい、いつまでいてもよいという旅ができたのは、なんと幸運なことだっただろうか。就職すると期限のない旅はもちろん、目的のない旅をすることも容易ではない。在学中ぜひ一度は旅に出てほしい。本書は読み物としての面白さはもちろん、読者の旅心を駆り立てる点においても、十分に刺激的であるはずだ。

 現在刊行中の『沢木耕太郎ノンフィクション作品集成』には、この『深夜特急』が旅ノートを含めた完全版として収録されるという。そちらの方も楽しみだ。

(2002年10月31日掲載)

| TOP PAGE  | 書評  |   2002年度後期分目次   |

『1973年のピンボール』 村上春樹 著
講談社文庫 1983年9月発行 本体価格371円+税

<評者> 松澤伸
まつざわ しん
法学部専任講師
1968年生まれ
2002年4月嘱任
担当科目:刑法
美しい秋におすすめの一冊

 本書は、ピンボールについての小説である、と春樹さんは書いている。確かに、ピンボールについての小説だ。しかし、実際にピンボール・マシンが出てくるのは、小説の最初の3分の1をはるかに過ぎてからである。主人公の心をとらえるピンボール・マシンの名前は3フリッパーのスペース・シップ。かつて長い時間をともに過ごしたそのマシンを見つけるための作業を続けながら、主人公は双子の女の子とともに、美しい秋の季節を静かに送っていく。

 『ノルウェイの森』の大ヒット以来、春樹さんの作品は広く読まれるようになったが、本書が出版されたころは、出せばベストセラーヒットという作家では必ずしもなかったらしい(私自身も、大学生時代に当時大ヒットしていた『ノルウェイの森』を読んでから春樹さんのファンになったのだった)。確かに、ピンボール・マシンもなかなか出てこないし、純粋な意味でのストーリーがあるのかどうかもよくわからないところがある。ただ、研ぎ澄まされた文章で語られてゆく細部の描写がおそろしく美しい。折に触れて取り出しては適当な頁を開いて、そこからひとしきり読みふけることのできる作品である。あるいは、音楽で言えば、ドビュッシーの作品のような感じかもしれない。うつろいゆく秋の光とその中で暮らす人々を、旋律や構成力で語っていくのではなくて、高度な技術に支えられた和音(それはかならずしも協和音ではない)と断片的なフレーズをもって読み手に委ねていくような作品、と言えばよいだろうか。

 こういう読み方が正しいのかどうか私は知らない(私は、巷に出回る「村上春樹論」の類は読んだことがない)。しかし、本書ほど美しい秋の小説も私は知らない。

(2002年10月24日掲載)

| TOP PAGE  | 書評  |   2002年度後期分目次   |

『柳田國男全集』 「ちくま文庫」全32巻 1989年9月〜順次発行 価格本体922円〜+税
『南方熊楠コレクション』 「河出文庫」全5巻 1991年6月〜順次発行 価格本体660円〜+税

【評者】
高松 寿夫
たかまつ・ひさお
(文学部助教授)
1966年生まれ
1996年4月嘱任
担当科目:日本上代文学
柳田・南方を読んで恐懼せよ

 最近、学問とは煎じ詰めれば、典拠と類型をどれだけ正確にかつ大量に指摘することができるか、に尽きるのではないか、などと思うことがある。それが真理だ、と悟るところまでは行っていないし、自分があずかり知らない他の専門領域にも言えることなのかも分からない。しかし、どうもそんな気がする。単純化して言えば、論理より情報なんじゃないか、ということ。学問に論理などいらない、ということではなくて、確実な情報を大量に仕込んでいれば、論理は後から付いてくる、とでも言ったらいいだろうか。

 情報(典拠と類型)という点では、近代(などという限定を加える必要もないかも知れない)日本においては、柳田國男と南方熊楠ほど大量に把握していた個人は、ちょっと他にいないのではないか、と思う。もちろん、情報の領域に一定の限界はあるのだけれど、この二人の著作集を眺めると、よくまあ個人でこれだけの情報を集めたものだと感心してしまう。集めるだけではない。それらを互いに関連付けて、しかるべき位置付けやまとまりを与えているところがすごい。

 柳田に対しては、ここ十数年、国民国家論や一国民俗学批判の立場から、風当りが強い。それぞれの批評にはそれなりの現在的意味や必然性があるのだけれど、しょせんそんな批評が束でかかっても、柳田はビクともしない。今さら「秦の始皇帝は専制暴君だった」などと言ったところで、学問的には箸にも棒にもかからないようなもので、百年たてば、柳田批判の評論は価値がなくなるが、柳田の業績そのものは簡単に遜色するものではない。生前、柳田とは一線を画していた南方の業績ともども、その一端に触れて、圧倒されることを経験しておくことは、悪いことではないと思う。

(2002年10月17日掲載)

| TOP PAGE  | 書評  |   2002年度後期分目次   |

『2001年宇宙の旅−決定版−』アーサー・C・クラーク著 伊藤典夫訳
ハヤカワ文庫1993年2月発行 価格本体640円

<評者>
三尾忠男
みおただお
教育学部助教授
1963年生まれ
2001年4月嘱任
担当科目:教育方法学、情報社会・情報倫理、教育方法研究(教職)、教育工学及び実習(大学院)など
SFの金字塔をいま再び

 本作は、SF(サイエンス フィクション)のジャンルに入ります。このジャンルは、未来を先取りするものの、読者がまったく理解できないようではいけない。夢を与えてくれる科学技術・未来社会のアイディアが必須です。本書に登場する宇宙ステーションや宇宙船、そして人工知能コンピュータHALなどその詳細な記述は現在でも遜色ありません。今から38年前、本書は映画の脚本と同時進行で企画・執筆が始まり(序文より)、1968年に"2001:A SPACE ODYSSEY"として発表され、同年公開された映画とともに全世界の話題をさらいました。そして今もなおファンは健在で関連のWeb Siteの数は数千とも言われます。

 昨今、これほどのSF作品に巡り会っていません。現在は、衛星放送やインターネットによって全世界の情報がすぐ手にはいり、そこで語られている物語はどれもが真実らしい世界に私たちはいます。最近のSFもどれも事実らしく思え、夢でなくなっているのではないでしょうか。未来社会への希望と想像力を掻き立ててくれるSF小説は数少ないのです。

 30年以上前に描かれた本書は今でも読者に夢とさまざまな解釈の可能性を与えてくれます。

 人類の祖先の二足歩行や道具を使うきっかけは? 宇宙探査に乗り出したそのわけは? 人工知能との共生は可能か? 登場する石板は何? 人類の進化の先は?

 SF小説を読んだことのない人も本書を手に取り、美しい夕日と夜空を見上げて、人類は、どこから来て、どこへ進化していくのか? 考えてみませんか?

(2002年10月10日掲載)

| TOP PAGE  | 書評  |   2002年度後期分目次   |

『人間はどこまで動物か ―新しい人間像のために―』
アドルフ・ポルトマン 著、高木 正孝 訳
岩波新書 1961年10月発行 価格本体780円+税

<評者>
若尾 真治
わかお しんじ
(理工学部助教授)
1965年生まれ
1996年4月嘱任
担当科目:数値解析、電磁気学、電気機器など
あらためて「人間」について考え直してみる

 人間もまた、ウサギやクジラ、チンパンジーと同様、動物である。しかし、「進化論は人間をサルから進化したものと説いているが、両者の隔たりはどの程度か?」と問われると明確に答えることは難しい。その疑問に対し、新しい人間学を打ち立てようとした本書では、人間の発生・発達および生活様式が他の動物と比べていかに特殊かを、動物学、社会学、心理学などさまざまな視点から解明していく。

 印象に残っているものの中から1つ。人間の新生児と聞いてどんな様子を想像するか。生まれてすぐ立ち上がり仲間のあとを追うゾウやウシ、誕生第1日目からさまざまな運動能力のあるサルと違い、あまりにも弱々しく未成熟な姿が浮かぶ。母親の助けなしには1日も生きていけない。これは高等哺乳類の中にあって例外的な人間特有の状態である。なぜか? 詳細は本書に譲るが、人間は長い進化の過程で、他の高等な哺乳類が誕生時に実現している発育状態にたどり着く約1年前に子供を体外に出し、親の極めて力強い保護下で育てていく独特な繁殖プロセスを採っているのである。そして子供は生後1歳前後でようやく歩き始め、大人と同じものを食べられるようになる。1歳に満たぬ子供は、母親の体内にいてもおかしくないほど、弱々しい存在なのである。そう考えると、乳幼児を常にそばに置いて養護したいと思う親の気持ちは、まさに本能に根付いたものである。

 ところが、最近、気になることがある。程度の差こそあれ、子供を安易に放置する親が増えている。その結果、痛ましい事故が多発している。一例ではあるが、幼児を真夏の車中に置き去りにして平気で娯楽に興じ、悲惨な結果となったニュースを何度となく聞く。残念なことではあるが、子供への養護本能が薄れる傾向は、地球上に増えすぎた人間を抑制すべく働いた自然の摂理かもしれない。

 とても古くて堅苦しい文面だが、人間について多くを考えさせられる1冊である。社会に出る前に、結婚する前に、親になる前に、自分の人間観を築いておく一助になる。

(2002年10月3日掲載)

| TOP PAGE  | 書評  |   2002年度後期分目次   |