とっておきの話


2002年度後期分 目次



私の特技

只今通訳中!(一番奥に座っているのが林先生)
只今通訳中!(一番奥に座っているのが林先生)
社会科学部教授 林 正寿

 1959年から60年まで、千葉校からAFS生としてアメリカに留学した。先日同窓会に出たら、川口外務大臣が2年、MrYenの榊原慶応大学教授が1年先輩だと知った。

 当時の帰国子女の指定コースであった国際基督教大学に進んだが、文字どおりのバイリンガル教育であったから、授業は8割くらい英語で取った。卒業生の多くはアメリカの一流大学院に進学していたから、奨学金を得るために3.5ポイントの成績を目指してよく勉強した。

 大学3年次に東京オリンピックがあり、サイマル・インターナショナルさえも設立されていない当時は、国際基督教大学のコミュニケーション教授の斎藤美津子先生のところに通訳者供給の要請が集中した。私も大学一年の夏休みから通訳の特練に入った。

 大学院は一橋大学に進学したが、その頃からサイマル・インターナショナルも設立されるとともに、わが国は高度成長の真っ只中で、通訳者への需要は急速に高まった。あのころのサイマル・インターナショナルは完全独占企業であり、大学院の頃から新幹線はグリーンであり、海外出張の機会も多く、報酬もきわめてよかった。なによりも、世界の超一流人物を目前に観察することができたことは貴重な経験だった。

 サイマル・インターナショナルの村松増美氏や小松達也氏等の本当のプロと一緒に通訳したときには、プロの並み外れた能力に衝撃を受けた。それから大学院時代、特別研究員助手時代、横浜市立大学時代にかなり多くの国際会議の通訳をしたし、現在でも勉強になる内容の通訳は、時間が許せばやるようにしている。国際会議の通訳というのは、実践的英語の頂点を形成すると思う。高度の専門内容に関する、優れたポートレートの解像力のような正確な理解力と、一流キャスター並みの表現力の的確さと流暢さを要求される。それに理解と表現を同時にせねばならないのが、通訳者の過酷な宿命である。

 次は法学部の土田和博先生にバトンタッチします。

(2003年1月16日掲載)


地上最速の人間とは?

F1をビデオ観戦中の私(妻撮影)
F1をビデオ観戦中の私(妻撮影)
商学部助教授 高瀬 浩一

 男子の短距離ではモーリス・グリーン選手、女子のマラソンでは高橋尚子選手。これが一般的な答えだろう。しかし、私の答えは、F1の世界王者であるミハイル・シューマッハ選手である。人間は道具を使う動物だから、世界最高の道具(車)で競争し、圧倒的な走りを見せつける彼は、やはり、最速の人間と言えるだろう。という訳で、私は自動車レースのテレビ観戦が大好きだ。科学技術満載の車を冷静かつ果敢に操り、体重の何倍もの重力に耐えながら、時速三百を超える高速で競い合うドライバーたちは、まさしく卓越したスポーツ選手であり、彼らの走りは人類最高のパフォーマンスである。

 最高峰の自動車レースであるF1の中継は、世界各国で放映され、ドイツではサッカーに並ぶ高い視聴率だそうだが、日本では残念ながら、夜中に録画中継されることが多く、このごろはビデオ観戦がほとんどだ。私の妻なども全然興味がないようで、「ブーンと騒音を上げて、同じ場所をグルグル回っているだけ」などと言っている。しかし、タイヤや燃料の減り具合、エンジンや車体の状態、ドライバーの消耗度、天候の変化、それらはどの一周も同じことはなく、全てドライバー同士のバトルに結びついているため、一瞬でも目が離せない。エンジンが超高速回転するときに発生する、あの超高音も魅力の一つ。機械が限界にまで研ぎすまされて初めて、あの音を味わえるのだ。

 昨年は早稲田OBの佐藤琢磨選手が唯一の日本人F1ドライバーとなった。佐藤選手は、一昨年に圧倒的な勝利数でイギリスF3選手権を取り、F1への王道を突き進んできた。一年間苦戦したようだが、最終の日本戦(鈴鹿)では五位に入賞。久しぶりの日本人の入賞だったので、とても感動した。日本人初のF1優勝のため、早稲田の皆さんも彼を応援しよう。

 次は、私とは経歴も見識も比べ物にならない程高い、社会科学部の林正寿先生です。

(2003年1月9日掲載)


親指シフトキーボード

研究室で使っている愛用の親指シフトキーボードです
研究室で使っている愛用の親指シフトキーボードです
商学部助教授 川村 義則

 人間だれしも何かしら収集癖のようなものがあるらしいが、小生の収集癖は、パソコンのキーボードである。自宅と研究室に、合わせて二十台ぐらいあると思う。気の合う学生には研究室で見せびらかしている。

 みなさんは、日本語は、ローマ字(またはJISかな)で入力するものだと思っているだろうが、かつてはこの「親指シフト入力」がそこそこのシェアをもっていた。しかし、ワープロ専用機離れが進み、富士通も同事業から撤退しているので(パソコン用親指シフトキーボードは生産継続)、若い人たちがこの入力方式を耳にすることはほとんどなくなっているのが現状である。

 この入力方式は、親指シフトキーがキーボードの下段中央に左右二つあるところがミソである。これを他のキーと同時打鍵することによって、キーボードの下段三段のみでローマ字入力方式の六割の打鍵数で高速入力が可能というスグレモノなのである。

 このキーボードは、普通の電気屋では買えないうえ、いずれこの世から消えてしまうのではないかという危惧もあって、いつの間にかキーボードを探しては中古品を買いあさるようになってしまった。さらに、通常のキーボードをエミュレーション・ソフトを使って親指シフト化できると知って、擬似親指シフトに適したキーボードにも手を出すようになった。

 昔ながらの作家が万年筆や原稿用紙に執着するように、パソコンで論文を書く教員がパソコンのキーボードに執着するのも道理である(と思う)。パソコンが道具だというなら、最も大切なのは、CPUの速度や記憶装置の容量などではなくて、キーボードやモニタなど、人間と直に接する入出力装置なのである(と思う)。

 今でも、文筆業の人たちを中心に、親指シフトキーボードの愛好者たちはその普及(というか、保存?)を訴えて活動している。小生も、そんな人たちと名を連ねることもある。さて、このコラムを読んで親指シフトキーボードを使ってみたいと思った諸君は、小生の研究室を訪ねてみてください。秘蔵の一台を貸してあげます。

 では、次回は商学部の高瀬浩一先生へバトンタッチします。

(2002年12月12日掲載)


ボール・パークで飲むビール

サミュエル・アダムス
サミュエル・アダムス
大リーグにしては小ぢんまりしたフェンウェイ・パーク
大リーグにしては小ぢんまりしたフェンウェイ・パーク
社会科学部教授  川島 いづみ

 今や世界の主要都市には、日本食レストランがあふれている。そういう日本食レストランでアサヒ・スーパードライやキリン一番搾りを飲むのもいいが、やはり外国ではその国のビールを飲んでみることをお勧めする。生ぬるいと、とかく評判の悪いイギリスのビールも、ロンドンのパブでフィッシュアンドチップスをつまみにゆっくり飲めば、なかなか味のあるものである。一九九九年から二〇〇〇年にかけて留学したボストンにも、アイリッシュ系を中心に、怪しげな名前の付いたいろいろな地ビールがあって、楽しかった。

 しかし何といっても美味しかったのは、ボール・パークで飲むビールである。ボストンには、フェンウェイ・パークという、ベーブ・ルースもプレイしたという古い球場がある。夕方五時頃から出かけて、外野席で初夏のさわやかな風に吹かれながら、バドワイザーと思われるかなり薄目のビールを飲み、ホット・ドッグを食べて、地元チームボストン・レッドソックスを応援する。ごひいきは、何といっても、ノーマ・ガルシアパーラー。レッドソックスは投手の層が薄いので、ペドロ・マルチネスが打たれると、たいていボロボロになる。初めて観戦したときは、三番目か四番目かに、聞いたことのない日本人投手が出てきて、観客席の日本人留学生グループはがぜん盛り上がったのだが、やはりあっさり打たれて負けてしまった。まだ芽の出ない頃の大家だった。かなり緯度の高いボストンでは、六月を過ぎると午後九時頃まで明るいので、負け試合となれば早々に球場を引き上げて、近くのパブでサミュエル・アダムス(地ビールのひとつ)を飲み直すことになる。

 ちなみに国内では、学生時代、早慶戦の応援に神宮に行った以外、野球場へ行ったことはない。

 次は商学部の川村義則先生にお願いします。

(2002年12月5日掲載)


オペラ好きの悲しい告白

グラインドボーン音楽祭会場にて
グラインドボーン音楽祭会場にて。広大なお屋敷の一角にオペラハウスがあります
文学部教授 藤本 陽子

 音楽と演技と舞台美術を一度に楽しめるオペラが大好きなのは、そういう方面で私自身がなんとも冴えない人生を送ってきたせいだろうか。

 小学校低学年の頃、学芸会でおとぎ話の劇をやったときのことだ。どのおとぎ話かは言いたくないが、なぜか主役の座を同級生と競い合うことになった。オーディションのようなものがあり、私はあえなく敗退した。そして裏方にまわることになった。ところが、私がよほど落胆したか、ふてくされてでもいたのだろうか、担任の先生が憐れに思ったらしく急遽台本にはない役を作ってくれた。森のリスの役だった。母が一晩でふっくらと詰め物をした大きな尻尾を作ってくれたのを覚えている。

 高校時代は音楽班なるものに所属し、歌うことの楽しさに目覚めた。しかし本人が楽しかっただけのことだ。最後の学園祭でオペレッタ「ヘンゼルとグレーテル」を上演したとき、私もコーラスでほんの一瞬舞台に立つことは立ったが、本当のお役目は照明の助手だった。それはそれで充実していた。

 大学に入るとロックに転向(?)し、バンドのヴォーカルもつとめたが、これもよく言ってご愛嬌といったところだったろう。ロック・ミュージシャン的生活のおかげで酒量はどんどん増えたが声量はどうにもならないまま、私は大学とロックを卒業した。才能豊かな先輩の中には、卒業後Bowwowというプロのバンドにスカウトされ海外進出をもくろんだヒーローまでいたというのに。

 はじめに勤めた大学では、第九の演奏会に出させてもらった。合唱団の一員として、なんとサントリーホールの舞台(正確には舞台後方の客席)に立ったのだ。夢見ごこちだった。でも告白しよう。実はアルトだったにもかかわらず、そのパートの最高音をどうしても出すことができず、そこだけ口パクでごまかした。

 イタリア・オペラの悲劇に酔うことができるのは、こんな悲しい過去をひきずっているせいかもしれない。

 次回は、社会科学部の川島いづみ先生です。

(2002年11月28日掲載)


命拾い

腹部の救命用パラシュートが心なしか大きく見える
腹部の救命用パラシュートが心なしか大きく見える
理工学部教授 片田 房

Man small.
Why fall?
Skies call.
That's all.

 この詩に出会ったのは、70年代半ばの南カリフォルニアであった。当時私は、ロサンゼルスの南東約100マイルに位置するエルシノア・レイクに週末通い、初心者ながら上空から地上に舞い降りる醍醐味を堪能していた。上空の完璧に静寂な空間から、ざわざわと雑音の聞こえ始める地球音の空間にパラシュートと共に戻ってくる。この間、スカイダイバーはパラシュートに全幅の信頼をおいている。

 しかし、もしパラシュートが開かなかったら…。これは、スカイダイバーが時に遭遇する緊急場面である。何度目の降下だったろうか、私は早くもそのような場面に遭遇した。その日は上空4,000フィートからの降下であった。10秒余りのフリーフォールの後、胸部のリップコードを引いた。しかし収納ポケットが固すぎてコードが出てこない。背中のメインパラシュートが開かない。落下は秒速200フィート。このままでは地上に激突して死んでしまう。不思議なことに私は冷静だった。訓練された通り腹部のコードを引き、右手の拳で何度も叩いた。真っ白な補助パラシュートが下方からの風を捕らえて上方にスルスルと伸び、見事に開いた。私の体が空中で停止する。

 だが、救命のみを目的とした簡素な作りの補助パラシュートはすぐに上空の強い風にあおられ、私は左右・前後に180度揺られる大きなブランコ状態に入ってしまった。ビューッ、ビューッ、風の脅威を満身で受け止めながら、どれほどの間大空を漂っただろうか。

 やがて下方からざわざわといつもの地球音が聞こえ始めた。同僚やパラセンターの救急車が待機しているのが目に入った。

 あれから幾年経っただろう。小型飛行機のエンジン音が聞こえると、今でもあの詩が蘇ってくる。上空の静寂さと地球の音のコントラストは、原体験の一部として私の五感に刻まれている。

 次は文学部の藤本陽子先生にバトンタッチいたします。

(2002年11月21日掲載)


甲子園じゃあるまいし

石ころ・人・砂礫
石ころ・人・砂礫
文学部教授 村田薫

 中年男が自室に塵芥同然のモノをためこんでおくという光景は珍しくない。むしろ中年の存在証明のようなものだ。私の机の上に岩手山で拾った火山弾と、壜に入ったミシシッピ河の砂礫がある。いかにも雄大な自然を追い求める精神の標本のようで申し分ないのだが、それでは嘘になる。私はひどい出不精で、めったに生活圏を出ない。火山弾は昨秋、学会の帰りに岩手山の中腹まで上がり、燃えるような紅葉の中、沢を二時間ほど歩いたときに拾った。壜に入れた砂礫は、昨春アメリカ南部を同僚と二人で旅したときにビニール袋に詰めて持ち帰った(甲子園じゃあるまいし、と同行した南部出身の同僚は呆れ果てて言った)。

 金儲けから学問まで市場価値全盛の時代になぜ交換価値ゼロのモノを集めるのか。理屈をいえば、旅という異世界の体験をまるごと心に刻むのは難しいから、それ自体としては無意味なモノにその体験の全体を預かってもらうということか。光、風、出会った人々、山河――すべてをそのモノに預けたと決めるのだ。こうしたモノは、現在と記憶との間の往還に必要な魔法の石のようなものかもしれない。ダイヤから遊戯王カードまで、現代はモノ自体に交換価値がなければありがたがらない。つまり他者が介在してはじめて価値が成立するものばかり追い求める。私は火山弾や砂礫に秘かな聖性を託した。特別なことではない。たぶん古代人は日常の中でそういうことをやっていたはずだ。ある人にとって生涯を左右する大事な記憶というものも、秘密の聖性によって輝いているのではないか。他人に見せることはできないが、その聖性の輝きは失われない。むしろ他者と共有できないところに個の記憶のいのちがあるのだろう。

 ところで、灼熱の石ころや冷たい石ころの散らばった宇宙を、砂礫を撒き散らしたような宇宙を、あなたはどう見ていますか?次回は早稲田の笑顔クィーン、理工学部の片田房先生です!


隈井忌のこと

岩田氏の初任地・鳥取の砂丘にて
ウ〜ン若い! 1980年夏、岩田氏の初任地・鳥取の砂丘にて。右より土屋、上坂、岩田、前家、青木の各氏。(青木氏所蔵)
教育学部助教授 及川 和夫

 学生時代といえば所属学部での勉強が中心となるが、それに劣らない重要性を持つのはクラブ、サークルなどの活動だろう。

 私の場合、『ワセダ・タイムス』という小さな新聞のサークルで記事を書いたり、紙面構成をしたり、広告先を拝み倒したりしていた。その時代の友人たちとは今でも時々旧交を暖める。と言えば聞こえがいいが、実際はお酒を飲みながら遠慮会釈のない会話を交わすのである。

 これには一つのきっかけがある。16年前にこの時の仲間の隈井君(81年法卒)が20歳代半ばで癌のため亡くなったのだ。社会の入り口で悪戦苦闘していた私たちに、生きる意味について熟考を強いる出来事だった。以来、彼の命日7月20日を仲間内で「隈井忌」と定め、その周辺の日程に会うのが慣例となった。

 今年は17回忌ということもあり、初めて早稲田で会を催し、ご実家には共同でお花を贈った。

 新聞のクラブだけあって、新聞、雑誌、広告、放送の関係者が多く、皆多忙のため、日程調整が難しい。今回幹事の私は正直閉口した。

 常連で一番多いのは新聞社勤務で、青木(81年政経卒)、岩田(80年政経卒)、平石(82年社学卒)、康田(80年教育卒)、米津(82年政経卒)、松本(82年文卒)の各氏。上坂(80年政経卒・雑誌社)、神田(82年文卒・テレビ局)両氏も最初は新聞社勤務だった。雑誌関係も多く、長嶋氏(81年商卒)、平原氏(81年商卒)は雑誌社を経て独立。

 大須賀氏(政経中退)、小野氏(83年教育卒)はフリーライターで活躍。青木氏の奥さん(81年文卒)は医療問題関係の仕事をやっている。山本さん(81年政経卒)は翻訳家で、アフガン関係の『ぬりつぶされた真実』が売れているらしい。

 岩片氏(80年法卒)は航空、小豆川さん(81年文卒)は研究所勤務兼大学講師、水口氏(81年法卒)は広告代理店、土屋氏(81年政経卒)は市役所とさまざまだが、皆学生時代の姿と現在が不思議に結びついている。学生諸君に告ぐ、友の顔を見よ。そして忘れるな。

 次回は文学部の村田薫先生です。

(2002年11月7日掲載)


ドイツケーキの魅力

ゲッティンゲンのカフェ(筆者撮影)
ゲッティンゲンのカフェ(筆者撮影)
理工学部助教授  石井道子

 ドイツ文学が専門の私だが、アルコールにはめっきり弱く、ビールもワインも飲まないなんてもったいないなあとよく言われる。そんな私の何よりの楽しみはコンディトライ(ケーキ屋さん)。ドイツ風ケーキのお店は東京でもあちこちにあるが、本場の味はもちろんなかなかのものである。

 ドイツといえば日本でのおなじみはバウムクーヘン。バウムは木、クーヘンはケーキという意味だ。いかにも森林豊かなドイツのお菓子。長さ1mぐらいの棒を芯にしてケーキ生地を薄くつけてぐるりと焼き、茶色のこげ目の上にまた生地をつけて…と丹念に繰り返して「年輪」を作る。じっくりと太くしていって丸木のように長いケーキが完成。この様子は最近では日本橋や横浜のデパートのバウムクーヘン専門店でも見ることができる。見た目は地味だが、焼き上げるのに手間がかかるからか、なかなかいいお値段である。

 本格的なバウムクーヘンはどっしり重く、輪切りやカットにし、グラムいくらで売られている。薄く敷いて別のケーキの土台にしたり、カットしたあとでクリームでまとめて成形したり、スポンジケーキのように素材として使うこともある。

 バウムクーヘンにはおいしい切り方がある。輪切りのものを分けるときは縦に切らず、そぎ切りにするように斜めにスライスしてみてほしい。食感が全然違うのだ。コンビニのバウムクーヘンでぜひお試しを。

 コンディトライのカフェはドイツではもっぱら高齢者の憩いの場、日本の甘味屋のような雰囲気。最近は数も減ってきているそうだ。伝統的なケーキはおばあちゃんのお菓子、といったイメージのようである。好物のビーネンシュティヒ(アーモンドの飴がけをのせたクリームケーキ)を買っていたら、友人に「そういうのはアルテ ダーメ(お年のご婦人)が食べるのに。好きなの?」と言われて愕然とした。

 次は教育学部の及川和夫先生です。

(2002年10月31日掲載)


自動車に乗って

デイトナ・ビーチにて
デイトナ・ビーチにて、周りにはペリカンが多数いた
周りにはペリカンが多数いた
文学部教授  大久保良俊

 持つべきものは善友である。1999年3月末にアメリカのヴァージニア州シャーロッツヴィルに到着し、数日で住居も決まり、運転免許もすぐに取得できた。

 私は若い頃、土曜の夜などに、時々車で山道を走った。近くに丹沢があり、大学生の頃は未舗装路が多く交通量は極めて少なかった。現在は、時間に追われ、そういった気分転換をする時間はない。趣味と言っても、やはり時間が必要で、無趣味という状態である。大学院生を見ていると、コンピュータが学問と趣味をつないでいるように思うこともあるが、私には趣味的なコンピュータの利用は向いていないようである。

 アメリカに居住した1年は講義をしない分、時間的に余裕があった。その期間だけのことであるが、日常性の中に組み込んだのがギターの練習であり、質屋のような店で安物を買った。もう一つは、普段の買い物は勿論、ヴァージニア大学に行くのにも必然的に車に乗らなければならなくなったことで、運転する時間が増えたことは、かつての気分を蘇らせた。近くに、ブルーリッジ山脈があり、まさに丹沢に行くような感興を覚えた。道路は舗装されているが、鹿は多く生息し、親子熊が道路を塞いでいたこともあった。豊かな自然を残し、紅葉の頃は実に見事であった。自然がすばらしいのは山に限らない。シャーロッツヴィルの住宅地も動植物の織りなす四季が五感を惹きつけた。また、水泳ができる湖が幾つもあり、それも楽しめた。

 しかし、近くに海がなかった。そこで、夏にはノースカロライナのアウター・バンクス、冬にはフロリダのマイアミ・ビーチに出掛け短期間滞在した。大西洋の波が穏やかに打ち寄せる岸より海を眺め、最も感激したのは多くのペリカンが悠々と頭上を往来することであった。避寒地マイアミ・ビーチからは、新年をシャーロッツヴィルで迎えるべく、Y2K問題を気にしつつ帰った。その途中でデイトナ・ビーチの砂浜を走った時には、空を舞うペリカンたちの姿に、遥かなを思うと共に、時間の過ぎ去る現実を思い出させられた。

 次回は理工学部の石井道子先生にお願いします。

(2002年10月24日掲載)


思い出の大講堂

当時の大講堂
当時の大講堂
理工学部助教授  永冨 青地

 北京大学に留学したのは、6・4事件の直後、1989年の秋のことであり、もう10年ほども前のことになる。

 到着後数日して留学生に切符が配られ、大講堂で『開国大典』という革命ものの映画を見た。映画自体の内容はなんということもないものだったが、驚いたのは映画を見る学生たちの反応である。気にくわない登場人物が出現すると、一斉にブーイングが飛び、まるでコンサートをライブで聴いているかのようだった。それに味をしめた私は、中国語学習のためという名目の下、暇さえあれば大講堂で映画を鑑賞するようになった。上映の数日前に模造紙に書かれた簡単な予告が出るのだが、それがなんという映画か当てるのが大変だった。『竜虎相闘』と書かれているのを見てカンフー映画かと思っていたら『ロボコップ』だったということもあり、スリリングな気分が味わえたものである。チャップリンの『大独裁者』では、彼が「地上に民主を」と叫んだとたん、大歓声が飛んだ。当時、北京市内には戒厳令が出ているさなかだったのである。一方、『巴頓』(『パットン大戦車軍団』)では、始めに「本編は軍事教育用に放映するものである」という文革中の字幕が出て大爆笑となったりした。

 当時の大講堂は、50年代に食堂として作られた古い建物を改造したもので、夏はシャツ一枚、冬は手袋をしてみるような環境だったが、場内はいつも興奮に満ちていた。あの思い出の大講堂も、1998年に取り壊され、アメリカの大統領が講演するような立派な建物になっているが、私にとっては、当時のボロボロの建物が今でも懐かしく思い出されるのである。

 次回は文学部の大久保良峻先生にバトンタッチ。

(2002年10月17日掲載)


足元の探訪

深川にて芭蕉翁と
深川にて芭蕉翁と。近くの江戸資料館もお気に入り
法学部専任講師  杉田泰史

 散歩に図書館・博物館めぐり。学生時代から変わらない、趣味らしくない私の趣味だ。ここ10年はドライブがこれに加わるが、これも散歩の一種。引越しや遠出をすると、公立図書館の郷土資料コーナーや記念碑を見に行く。大田区馬込に住んだ時は「馬込文士村」の展示を見て、自転車で区内の文学散歩をした。80年代にはまだのどかな農村の雰囲気が微かに感じられた。松戸市にいた時は伝説の名市長、故・松本清氏の伝記を三種類見つけ、興味深く読んだ。

 土地の方言集にもつい手が出る。文法を専門としているせいか、単語を羅列しただけのものより、例文の多いものが面白い。頭に残った言葉については機会を見つけてその土地の出身者に、実際に使うか、どんな風に使うか質問してみることもある。筑波に住んだ時には茨城弁の手ほどきを受けた。総じて都市化により失われゆく関東の言葉には不思議な郷愁を感じる。今住む東京の下町の言葉についても同様で、落語や時代劇の作り物の江戸弁はうそ臭いと感じるようになった。

 映画も好きだ。公民館や図書館などの上映会をよく観る。大抵安いか無料なので学生時代は特に重宝した。記録映画などもあり、一見地味だが、思わぬところに突っ込み所があり、ウケ狙いの娯楽と違ったいわば「天然」の面白さがある。

 日本にいて自分の足元を見つめる作業は、結果として専門の中国研究にも役立っていると思う(たぶん)。私は生まれも育ちも日本だが、日本のことを知っているようで知らない。日本の細かい所を見て大まかなイメージを持っておくことが、いずれは中国との共通点と相違点を説明する時にも役に立つことだろう(おそらく)。もちろん中国関係の探訪もする。市川に残る郭沫若の故居(近くに戦後来日時の記念碑あり)を見に行った時は、目の前で自伝の日本滞在記がありありと蘇った。

 次は留学時代以来お世話になりっぱなしの理工学部・永冨青地先生に無理矢理バトンタッチします。


「趣味は…」


もう一つの趣味は学生に中国語を勉強させること?
商学部助教授 小川利康

 とほほ。
 夏休みも瞬く間に終わり、秋学期が始まる。昨年1年間、北京大学でのんきに暮らしていたせいで、春学期は辛かった。結構文句言いながら暮らしていたけど、ちょっと懐かしい。
 ウチの隣の畳屋さんはアンタ1年も北京くんだりに行って、それも勉強のためとは物好きだねぇ、と感心していた。だが、本人はあいにく感心されるほどの自覚は持ち合わせていない。興味の赴くままに、本を買い、本を読み、ちょっとばかり論文を書いていただけである。

 昔々悪友に合コン≠ノ連れて行かれ、「趣味とか特技は?」と聞かれ(聞く方も聞く方だと思う)、「どこに行っても、何をしていても退屈しないこと」と答えた。でも、合コン≠フ帰り、やっぱり例外はあるよな…と思ったけれど。
 よく言えば好奇心が強い、悪く言えば飽きやすい性格。これが災いして新しいものについ手が出てしまう。このため趣味といえるほど定着する前に移り気してしまうのが常である。だから北京に行けば、デジカメで街中撮って歩き(一応、授業素材収集という言い訳は用意してある)、深夜の連続テレビドラマにはまっては関連のCD、VCD、DVDを買いあさることになる。前回の内山先生ほど学究肌ではないけれど、古い建築物を探し求め、北京の街を1日彷徨(さまよ)ったこともある。最後に探し当てたカトリック教会には誰もいなかったので、ひとり信者席に座り、夕日に染まるステンドグラスを眺めた。20年前にも来たことがあるなんて、嘘じゃないかな…と思いながら。このときは珍しく内省的になってしまったせいで、肝心の写真を撮り忘れてしまったけれど。

 目下、一番のお気に入りはPalmかもしれない。かれこれ3年近く使っているが、短い文章書き(実はこの文章も…)、予定メモ、Webニュース、メール、果てはゲームまで色々使い道があるので珍しく飽きずに使っている。でも、これって趣味といえるかな? 我ながら疑問だ。
 次回は法学部の杉田泰史先生。彼の意外なる一面がここに明かされる?!

(2002年10月3日掲載)