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2002年度前期分 目次


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『好きなことだけやればいい』 中村 修二 著
バジリコ 2002年4月発行 価格本体1500円+税

<評者>
生井 健一
なまい けんいち
理工学部助教授
1963年生まれ
1999年4月嘱任
担当科目: ジェネラティブ・シンタックス、言語の構造、English Forumなど
 みんな今好きなことがやれているだろうか。大学へ来た理由は人それぞれだろうが、本来大学とは、自分の選んだ学部の専門学科で好きなことを思いっきりやるためにあるのだと私は信じている。好きな者同士が集まるのだから、自ずと高いレベルの議論が可能になる。こうなれば、教員も含めみんなが幸せだ。また一教員として、すべての学生がこういう良い状況にあることを心から祈っている。

 好きなこと、やりたいことがはっきりしていて、それを追求するのに相応しい学部・学科に所属しているのに幸せでないというのなら、理由を考えてみよう。大学に問題があると判断するならば、正式に抗議すべきである。金を払っている以上、相当の見返りを期待するのは当然で、役に立たない教育に対して学生には文句を言う権利がある。

 しかし、幸せでない理由が自分自身にある学生も多いのではないか。少子化が進む昨今、大学入学は簡単になった。よって、ファッション感覚で大学に来る者が増えている。こういう学生は、好きなことの追及のために大学にいるのではないので悲劇だ。今や(有名)大学出の肩書きが将来の出世を約束してくれる時代ではないので、大学では自分の専門に磨きをかけ、卒業直後から自分の能力だけで勝負していかなければならない。しかし、好きでもないことなどどうして4年も耐えられよう。それならいっそ社会に出て揉まれ、やりたいことを見極めたうえで再入学したほうが時間、労力、金の節約になる。

 いずれにせよ、幸せでない人にはノーベル賞候補の中村修二氏による「好きなことだけやればいい」をお薦めする。くだらない日本的既成価値観が崩れ、必ずや人生の指針になるはずである。

(2002年7月25日掲載)

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『どくろ杯』、『西ひがし』、『ねむれ巴里』 金子光晴著
(『どくろ杯』:中公文庫1979年3月 価格本体552円+税)

「評者」山本 浩司
  やまもと ひろし
文学部助教授
1965年生まれ
2002年4月嘱任
東ドイツの文学Iほか
留学したくてもできない人たちに

 かつては高嶺の花だった留学も今じゃ当たり前。大学院生ばかりじゃない。学部時代に長期にわたって姿をくらます学生も珍しくはない。客商売の身としては、みんながみんな海外に流出して大学が空洞化するというのじゃ困るが、どうやら早稲田にも学費を納めながら出かけているようなので、いたって気楽である。これじゃ詐欺じゃないかという気もするが、まあそれは置くとしよう。

 もっとも下駄履き感覚で海外に行けるようになったのはごく最近のこと。いやほんと羨ましい。こちらは丁稚奉公の年季があけなきゃ在外研究もかなわず、指をくわえて、定年間際のご老体が嬉々として出発するのを見送り、他方で留学したいと目を輝かせる学生諸君の相談にも知ったかぶりで応じねばならぬ。

 となると憎まれ口の一つも叩きたくなるのが人情。しょせんイマドキの留学なんかパッケージツアーに毛が生えたようなもの。外国語のおしゃべりができたとて自慢にはならない。それに「経験の貧困化」が極まったこの時代には、外国にも「ナマの体験」など転がっちゃいない。

 でも金子光晴の本を手にとれば、留学が金ぴかに輝いていた時代が確かにあったことが分かる。夜逃げ同然に日本を脱出して東南アジアや中国大陸を放浪。フランスには当然インド航路。やっとたどり着いたパリの冷たさ。ここには異文化体験などというヤワな言葉では語れないものがある。もう留学の栄光はこの三冊のような本を読む悦楽の中にしかないのかもしれない。ついでに、船旅の最中に女神に犯される夢を見たという秀逸な話をあわせて読まれることを断固お勧めする(吉行淳之介対談集『やわらかい話』)。

(2002年7月18日掲載)

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『富士山宝永大爆発』永原慶二著
集英社新書2002年1月 価格本体740円+税

「評者」久保 純子
    くぼ すみこ
教育学部助教授
1959年生まれ
2001年4月嘱任
担当科目:自然地理学、地理学基礎演習、地理学演習、地理学研究法、環境論演習、地球システム領域演習、地理学特論(大学院)
富士山が噴火したとき

 大規模な自然災害が襲ったとき、住民は、行政はどのように対応すればよいのか。三宅島噴火による全島避難や阪神淡路大震災の例を挙げるまでもなく、現代社会においてもそれは大きな課題であるが、江戸時代の富士山の噴火による災害に際し、幕府や藩のとった対応はどうだったのか。

 富士山は5代将軍(犬公方)綱吉の時代の宝永4年(1707)11月23日から約二週間にわたり大規模な噴火をした。南東斜面の6合目にあいた大穴がその時の火口(宝永火口)である。噴火でまき散らされた真っ黒な火山灰砂と焼け石が東麓の村々を埋めつくした。さらに大量の砂が酒匂川へ流れ込み、下流の足柄平野の堤防決壊という二次災害を招いた。
被災住民「このままでは全員飢え死にする。なんとか緊急援助と復興対策をお願いしたい」
 小田原藩主(幕府老中)大久保忠増「被災地は幕府に差し出して直轄領にしてもらい、対策はお上にやってもらおう」
 幕府勘定奉行荻原重秀「災害復興名目で全国に臨時課税して幕府の財政赤字対策にしよう」
 関東郡代伊奈忠順(復興工事総指揮)「私の役目は酒匂川の堤防工事、でも被災地住民を見殺しにはできない」(その後、謎の死)
 江戸商人「復興工事はおいしい仕事、何が何でも落札だ」

 本書は当時の災害対策や危機管理の甘さ、さらには役人と商人の癒着など、現代の商社・ゼネコン・外務省もびっくりの状況と、それに振り回された被災住民の苦しみが描かれた社会ドラマとも言える。新田次郎の小説『怒る富士』(文春文庫)ともあわせて読んでみてはいかが。

(2002年7月11日掲載)

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『結社と王権』 赤坂 憲雄著
作品社1993年6月発行 定価本体2136円+税

〈評者〉
松本直樹
まつもとなおき
(教育学部助教授)
1963年生まれ
2002年4月嘱任
担当科目 上代文学、日本文学基礎講読など
「日本の国」って何?

 国家とは何か。グローバリゼイションが進む一方、民族主義に根ざした紛争が絶えず、世界が新たな価値観を模索する今、改めて問うべき問題であろう。

 評者の研究対象である古事記・日本書紀は、新たな国家の建設を目指した大和王権の手によって成った書物であり、その主題は天皇による天下統治の由来と正当性を説くことにあった。古代人が口承し、共同体を維持していた神話伝説を利用しながら、国家の上に君臨する偽の「神話」や「歴史」が作られていったのだ。

 国家の上には必ず広義の「神話」が存在する。アメリカ合衆国に星条旗という「神話」があることを、昨年のテロ事件以来再確認した。記紀には、「神話」に保証された王権と、それを頂いた「日本」という国家の、起源と本質が見え隠れしている。

 スサノヲのヲロチ退治は、世界中にあるペルセウス・アンドロメダ型神話であり、根底には世界の諸民族に共通の思想を認めることができるであろうが、記紀の中では皇祖アマテラスの実弟による国土の秩序化を意味している。乱行の末に王権の源郷たる天上界を逐われたスサノヲが、出雲に到って英雄的な活躍を遂げたのである。また、景行天皇の皇子ヤマトタケルは、大和を名に負いながら大和を逐われ、辺境の異民族の「武」の属性を身につけた英雄となって国家統一の旅を続け、大和の外で最期を遂げる。王権は常に外部(カオス)のエネルギーを欲求しながら、それらを外に追い遣ることによって自らの神聖性を維持するものであり、その王権を抱きながら「日本」があり続けたのかも知れない。

 本書は、歴史の狭間に見え隠れする神・英雄・異人・道化などの異形のものたちに眼差しをむけながら、国家や天皇制の本質に迫ろうとした書である。この書との出会いを機会にして改めて考えてほしいことがある。

(2002年7月4日掲載)

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『稲盛和夫の実学――経営と会計』 稲盛和夫著
日経ビジネス人文庫 2000年11月発行 価格本体524円+税

「評者」川村義則
かわむらよしのり
商学部助教授
1967年生まれ
2002年4月嘱任
専門:会計学(財務会計論)
生きた会計学を学ぶ

 本書は、京セラ名誉会長の稲盛和夫氏が自らの経営哲学を「会計の原則」として綴ったものである。もともとは、1998年に「会計が分からんで経営ができるか」というフレーズをつけて日本経済新聞社から出版され、ベストセラーとして一世を風靡したビジネス書である。今は、文庫本で手に入る。

 本書を学生諸君に推薦するのには、いくつかの理由がある。一つは、本書が実学としての会計学を生き生きと描写している点である。多くの学生諸君にとっては、ビジネスの世界は未知の世界であろうが、本書はとにかくよく分かる。特に、地味な経理の仕事が、航空機のコックピットにある精密な計器のごとく、経営判断の基礎となっていることがよく分かる。

2つ目は、経営や会計のあるべき姿が分かりやすい原理原則として表現されている点である。「筋肉質経営の原則」、「一対一対応の原則」、「ダブルチェックの原則」など、重要なことが実に分かりやすく説明されている。そして、そのそれぞれが「人として正しいことをする」という慈愛に溢れた倫理観に裏付けられている。例えば、面倒そうな「ダブルチェック」の内部管理システムは、「人に罪を作らせない」システムだという。そうした原則の陰には、企業の経営者の双肩には数万の従業員や取引先とその家族の生活がかかっているという、重みがある。あと付け加えたいことは、一見すると理論的でないと片付けられてしまいそうな倫理的な原理原則が、実に理論的だということである。なかなか気付かれない、隠れたコストをえぐり出している。

 最後に、早稲田の学生の多くは、ゆくゆくは企業経営者になる人が多いというのも理由の一つである。今読んだら本棚にしまっておいて、また偉くなったら読んでほしい。この本を読むと、とにかく、真面目に努力しようという気になるのである。

(2002年6月27日掲載)

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『少年キム』  ラドヤード=キプリング著  斎藤兆史訳
晶文社 1997年5月発行  本体価格2,850円+税

「評者」石濱 裕美子
  いしはま ゆみこ
教育学部専任講師
1999年4月嘱任
担当科目: 東洋史
東洋と西洋の美しき出会い

 早くに両親を亡くしたキムはイギリス人でありながら、己の出自の持つ可能性(教育を受けてインドの支配階級の一員となる)を知ることもなく、浮浪児としてインドの大地を生きている。キムはラホールのザムザマ大砲の上で遊んでいたある日、チベットから来た一人の老僧と出会う。老僧は覚りを開くことができるという伝説の聖河を求めていた。キムはこの老僧を好きになり二人の旅が始まる。

 やがてキムは亡き父の属していた連隊に見出され、イギリス人として教育を受けることを勧められる。老僧もキムが教育を受けることを望んだため、キムは3年の間インドで最高の学校に入る。しかし、彼が受けた教育とはその出自の特異性(浮浪児であったためインドのあらゆる階層の言葉が操れる)から、大英帝国のスパイとして働くためのものであった。3年の学生生活が終わった後、二人は再び伝説の聖河を求める旅にでる(キムはスパイとしての使命も帯びている)。

 旅が進むにつれ二人が互いを思いやる気持ちは高まり、涙なくしては読めないラストには、それぞれが求めていたもの―キムにとっては「自分とは何なのか」、老僧にとっては「覚りの境地」―が手に入る。

 本書の著者ラドヤード=キプリングは大英帝国支配下のインドに生まれインドのジャーナリズム界で活躍した。西洋と東洋の狭間にたつキムという少年の姿は、いろいろな意味で作者を投影した存在である。

 世慣れた浮浪児キムと、高潔だが世間知らずの老僧の間に育まれていく師弟愛。これによってキプリングが示そうとしたものは、西洋と東洋のもっとも美しい出会いの可能性であろう。

(2002年6月20日掲載)

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『アインシュタインの夢』  アラン・ライトマン著 浅倉久志訳
ハヤカワ書房epi文庫 2002年4月発行 価格本体580円+税

【評者】甲藤 二郎
かっとう じろう
理工学部助教授
1964年生まれ
1999年4月嘱任
担当科目:コンピュータB、ディジタル信号処理
頭の体操

 アインシュタインが特殊相対性理論を発表した1905年6月までの3カ月間、彼はこんな夢を見ていたのではないかという話を著者が勝手に想像して書いた本である。アインシュタインといえば物理学である。著者もMITで物理学を教えているらしい。というと、対象は理工系の学生、それも物理学科の学生だけかと思うかもしれないが、そうでもない。

 内容は、時間に関わる30個の妙な話をまとめたものである。ありがちなタイムマシンの話ではない。個々の話は特殊相対性理論による時間の定式化・定量化に基づいている(らしい)。しかし、難しくはない。我々のまわりでは決してありえない妙な話の羅列である。

 たとえば、人間の一生が一日の昼と夜だけで終わる世界があったら、逆に人間が永遠に生きられる世界があったら、我々はどういうふうに生きるだろう。普段は考えたこともない、子供の頃にちょっと考えたかもしれない、そんな話ばかりである。

 しかし、ありえないと決めつけるだけでは面白くない。これはないだろう、これはあるかもしれない、これは矛盾している、などなど、疑問を感じながら読んでみると、それはそれで考えさせられるものがある。自分がその世界にいたら、自分の家族がその世界にいたら、云々。現在、自分が生きている世界が、実は無数の偶然の上に成立しているすばらしい世界なのではないかと感じさせられることもある。

 私自身を含め、誰もが現実に追われている昨今だが、たまには徹底的に空想してみるのもよいことだと思う。要は頭の柔軟体操である。いろんな見方をすれば、いろんなものが大切に思えてくる(かもしれない)。

(2002年6月13日掲載)

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『若き数学者のアメリカ』 藤原正彦 著
新潮文庫1981年6月発行 価格本体価格438円+税

【評者】澤田 敬司
   さわだ けいじ
法学部助教授
1968年生まれ
2002年4月嘱任
担当科目:英語、オーストラリア研究、映像論 オーストラリア研究テーマカレッジ:オーストラリアの文化I・II
はじめて留学する人に薦める1冊

 これから海外へ留学しようと思っている人が、日本語の本を1冊だけポケットに忍ばせていくとしたら…。もはや私が推薦するまでもない名作ではあるけれど、それでもこの本の名を聞いたことのない人のために、あえて紹介したいと思う。私自身の留学の際も、出発前にどこかでこの本の存在を知って旅行鞄に放り込み、異国の地を踏んでからは暇さえあればページをめくっていた。

 本業の数学者のかたわら現在も文筆家として活躍されている藤原正彦さんが、70年代に渡ったアメリカで、若さにまかせて思い切り奮闘した記録がこの本の内容である。みずみずしく、熱いその文章を読めば、誰でもすぐに虜になる。この本が書かれて30年が経ち、当時と比べれば国際化が進行しているはずの今日でさえ、日本に生まれ育った若者が初めて海を渡り、異文化と向き合ったときの緊張と不安、そして興奮は、それほど変わらないと思う。実際の藤原さんはとびきり優秀な人なのだろうが、アメリカという新天地に降り立った藤原青年は、失敗や挫折を一歩一歩乗り越えながら、数多くのことを学んでいく。その様はひたすらに無骨で不器用で青臭く、だから私たちは自分と似通ったところを見いだして、感動するのだ。

 皆さんも留学先で悩んだりくじけそうになったりしたら、ぜひこの本を手にとって、数ページでも読んでみればいい。若ささえあればそんな困難は何とでもなると、きっと励まされ、新たな活力が生まれてくるはずだ。

(2002年6月6日掲載)

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『人文科学に何が起きたか:アメリカの経験』
玉川大学出版部 2001年10月発行 価格本体3800円+税

【評者】本野 英一
   もとの えいいち
政治経済学部教授
1955年生まれ
2002年4月嘱任
専攻:中国近代史、英中関係史
担当科目:「アジア経済史」「経済史入門」など
人文科学の危機

1970年以降のアメリカの大学では、ベトナム戦争反対運動に端を発する急進的な社会運動を反映して「女性論」「多元文化主義」「ポストモダニズム」に関する特殊講義や学際的プログラム、作文教育の講座がもてはやされ、その分正統的な概論講義の比重は低下した。これに80年代以降の国家財政危機が重なって人文科学研究に交付される研究助成金の額、専任教員ポスト数が削減されたため、人文科学研究者の雇傭労働条件は劣悪化した。

かくて人文科学の権威は失われ、親の世代より遥かに乏しい読書体験と語学力しか持たない学生が増加するという深刻な状態に陥っている。本書はこうしたアメリカ人文科学の衰退に危機感を抱く研究者が、教育行政、教育方法論、代表的分野(英文学、歴史学、哲学思想)の方法論という角度からその背景と現状に迫った論文集である。

言うまでもなく、人文科学はまとまった古典作品もしくは史料の精読と思索を通して真理を探究する学問である。そして「金にならない」学問である。昔から文学部が「つぶしのきかない」学問をする場所と言われる所以である。70年代以来の急進主義運動に影響されてこうした「金にならない」学問の権威を軽んじた結果、アメリカ社会はヨーロッパから受け継いだ近代市民社会に不可欠な価値観の侵食に悩まされることになった。

しかし、「大学紛争」以降の日本の大学の現状は本書が伝えるアメリカの現状よりももっと深刻ではなかろうか。少なからぬ本学学生諸君の安直な学習態度に危機感を抱く人文学徒の一人として、私は「金にならない」学問の価値を真剣に考える人に一読を薦めたい。

(2002年5月30日掲載)


『降ります─さよならオンナの宿題─』 中村和恵著
平凡社 2001年11月発行 価格本体1400円+税

「評者」後藤 雄介
   ごとう ゆうすけ
(教育学部助教授)
1964年生まれ
2002年4月嘱任
担当科目:スペイン語、現代社会演習
「降りる」ことのススメ

 マカフシギなタイトルのこの本、さぞキワモノかと思いきや、どうしてどうして、これがなかなかあなどれない。こんなにケーハク(失礼!)で、それでいて奥ふかーい文章がありうるんですね、ふむふむ、なるほど(ってなかんじの文体で書かれてるんです、つまり)。

 「あたし、通勤やめるの。ばいばい。降りるね」。一事が万事こんな調子の本書は、平凡社の『月刊百科』に連載されていたエッセイを中心にまとめられたもの。ちなみに著者は、かつて『早稲田文学』で「帝国を飼いならせ──英語圏のポストコロニアル作家たち──」という連載も担当していた。そう、彼女はれっきとした「英語文学」者なのである(詩人でもあるが)。ついでにいえば、前作『キミハドコニイルノ』(彩流社)というエッセイ集もおすすめ。

 さて、満員の通勤電車から落伍したエピソードをたとえに、著者はいったいなにから「降り」ようというのか?──およそあらゆる既成の価値観からである。たとえばそれは、「女、家族、民族」という枠組み。あるいは、英語で書かれた文学が「英米文学」だけであるはずもないのは、虚心坦懐に世の中を眺めればいやじつにあたりまえ、ということ。「これがホンモノって、だれかが決めただけでしょう。ほんとうはあれでもいいんじゃない。わたしはそっちでいく……そういうかんじですかね」。学問の世界ではこれをして「脱構築」と呼んだりもするが、こむずかしく考えるのもいいけれど、むしろ日々の暮らしのなかで感じている違和感をやり過ごさないことが大切であると、本書は教えてくれているような気がする。

 著者がするように、ときにはあたりまえだと思っていることから「降り」てみて、自分の寄って立つ場所、そして自分自身を見つめ直してみませんか。

(2002年5月23日掲載)

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『眠れぬ日々のために』 ゲーテ著 長谷川つとむ訳・解説
PHP研究所  2001年2月発行 価格本体1,500円+税

「評者」天野 嘉春
   あまの よしはる
理工学総合研究センター助教授
1968年生まれ
2002年4月嘱任
担当科目:制御工学など
眠れぬ夜には

「眼が太陽の如く輝かずしてどうして芸術が鑑賞できよう。―ゲーテ」学生の頃読んだある本に,この文句を発見したときは即座にこう思ったものだ。
「学問でも人生でもそうだろ!」

 理工系の学生諸君にお薦めしたい専門書はいろいろあるが,早稲田ウィークリーの性格上,全学生諸君が対象。そこでこの本をとりあげよう。とは言っても、専門家ではないので、書評ではなく、皆さんに一読をお薦めする、というスタンスだ.

 この本には、時代を超えて息づく、ゲーテ珠玉の箴言(しんげん)がちりばめられている。いくつかの解説付きのページは二段組で、上段にゲーテの箴言が、下段に訳者の解説がある。例えば「人間は努力している間は、迷うに決まっているのさ。(ファウスト)」の解説はこうだ。「初心者の間は、万事うまくいっていたのだが、ある時はたと進歩が止まった。止まったどころではない。なにやら退歩しているようにさえ感じる。さあ大変と、方針を変えてみる。状態は、悪化の一途をたどる。さらに別の方法も駄目。以前用いた方法を使っても不成功。そうした折りに思い出して頂きたいのが、この台詞である。『努力していない連中は、迷ってはいない。私は努力しているから、迷っているのだ。さあ、この迷いも楽しんでやろう』と居直ると、展望が開かれる。ゲーテの偉業の数々は、おそらく数多くの迷いから生まれたに相違ない」

だれも、あらかじめ練習を積んで人生を始めるわけではない。ゲーテも然り。

 さて、しゃれたこというじゃないかと、油断していてはいけませんよ。たしか、パスカルのパンセにこんな文句があった。「気の利いたことを言う人、性格の悪い人」。
パスカルって性格悪いね。

(2002年5月16日掲載)

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『ゲーデル、エッシャー、バッハ ― あるいは不思議の環』  ダグラス・R・ホフスタッター著, 野崎 昭弘訳
白揚社 1985年5月発行 価格本体5,500円+税

「評者」 亀山 渉
   かめやま わたる
国際情報通信研究科教授
1963年生まれ
2002年4月嘱任
担当分野 情報通信工学
厚い本ではあるけれどぜひ読んでほしい一冊

 原著は1979年に出版され、1980年の一般ノンフィクション部門でピューリッツァ賞を授賞し、日本語訳は1985年に発刊された。いささか古い本であるが、その内容は今も全く色あせてはいない。

 皆さんご承知と思うが、ゲーデルは数学者、エッシャーは美術家、バッハは音楽家である。一見、何の関係もなさそうなこの3者の間に一体どんな秘密が隠されているのであろうか。読み進んでいくうちに、あなたはきっと不思議な感覚に捕らわれ、さまざまな現実の事象を、きっと別の角度から眺められるようになっているだろう。そして、表紙の不思議な絵が一体何を表しているのかも理解するだろう。

 学問の細分化が進んでいる昨今、大学で専門教育を受けることになると、得てしてその分野だけの知識で満足してしまうことが往々にしてあるのが現実だ。もちろんその道のスペシャリストになることは極めて重要なことで、それを蔑ろにしろと言っている訳ではない。しかし、昔々、学問といわれるものは哲学だけだった事実を考えてほしい。それが細分化して今日の姿になった。このことを考えると、実はどの学問も究極的には同じ目標を別の角度から追求しているに過ぎないのではないだろうか。この仮説が正しいとすれば、その究極的な目標とは何だろうか。また、学問の細分化が必然だったとすれば、それを追求するためには多角的な見方、考え方、知識が必要だということなのではないだろうか。そして、あなたは何のために、今、大学で学んでいるのだろうか?

 この本を読破した勇者には、次なる新たな冒険として、同じ著者による「メタマジックゲーム―科学と芸術のジグソーパズル」(白揚社1990年)を薦める。
(2002年5月9日掲載)

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『「学ぶ」から「使う」外国語へ 〜慶應義塾藤沢キャンパスの実践』関口 一郎著
集英社新書2000年4月発行 価格本体680円+税

【評者】生駒 美喜
   いこま みき
政治経済学部専任講師
1967年生まれ
2002年4月嘱任
担当科目:教養演習、ドイツ語IB・IIA
目からうろこの外国語授業

次の項目で一つでも「そうだ」と思ったところはないだろうか?
一、 外国語、特に英語が上手な人は国際人になれる
二、海外に長く住めば多くの異文化を体験することができる
三、会話を身につけてこそ「使う」ことができる
四、今の自分の英語力では役に立たない
五、大学の授業で習った外国語は使えない

 実は私も白状すると、留学するまでは、ほとんど「そうだ」と思ってきた一人である。外国語は好きで、得意な方だと自負していたが、大学での外国語の授業は苦痛以外の何物でもなかったものだ。

 著者の関口先生は、私が昨年まで勤務した慶應義塾大学の教授で、私自身の大学の大先輩、早稲田の大学院の大先輩でもある。先生からはユニークな教授法をたくさん伝授していただいた。先生の持論は、外国語教育において、「読む、書く、聞く、話す」の四技能は、それぞれ別物ではなく総合的に「絡み合って」いるということ、また「コミュニケーション中心の発信型の授業」こそが重要だというものだ。

 私が慶應で教え始めた8年前、最初に学生と共に先生の授業を受けたが、ご自身の持論を見事に体現された素晴らしい授業だった。これまで私が受講した外国語授業とは全く異なる、新しい、充実感溢れるものだった。衝撃的で、目からうろこが落ちる思いがしたのを今でも鮮明に覚えている。

 残念ながら、昨年、先生は若くして急逝され、もう授業を受講することはできないが、この本のおかげで、皆さんもその一端に触れることができる。ぜひ読むことをお勧めする。

 私も先生の考えに共感して授業を行うべく頑張っているので、目から少しうろこを落としてみたい学生諸君、ぜひ私の授業に来てください。
(2002年4月25日掲載)

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『「中国人」という生き方−ことばにみる日中文化比較』田島英一著
集英社新書2001年3月発行 価格本体660円+税

【評者】 青山 瑠妙
    あおやま るみ
教育学部助教授
2002年4月嘱任
担当科目: 中国語、現代社会・文化総論
生きた文化交流論

 巷間に中国の本が溢れている。これは「中国」というキーワード抜きに日本の政治や経済が語れない時代となったことが背景にあるだけでなく、日常において、中国あるいは中国人との接点が急速に増大しているからであろう。筆者の専攻は中国政治であり、この分野の著作も内外でかなりのものが活字となっているが、学生にまず読んでもらいたいのは中国を体系的に実感できる本だ。実際に中国の世界に飛び込むのがなんといっても一番なのだが、中国を訪れるにしても中国、あるいは中国人とは何かをイメージとして描いておくことは重要だ。『地球の歩き方』はガイドブックとしては不可欠かもしれないが、ガイドブックだけではその国のことは語れない。

商品広告の強烈なイメージのせいか、中国といえばウーロン茶くらいしか連想されないのがお茶の間の感覚かもしれないが、中国で操業する日系企業数が三万社近くとなると、その影響力は大変なものとなる。食料品などの中国の商品が並ばないショッピングセンターはない。有名なU社の安売り繊維製品の専門店は全部が中国製。このように日本と中国の経済は確実に一体化しつつあるが、中国に対する理解はまだまだこれからといったところだろう。特にこれから社会に飛び出そうという人にとって、中国を知ることはより一層重要となる。

 田島氏はチベット語が専門の言語学の先生であり、方言に関する記述に専門家としての一端が垣間見られる。三年間の中国滞在をもとに著した本書は中国人の考え方や生活を理解する上で読者にとってきっと参考になると思う。中国人の奥さんとのやりとりが紹介されているが、これも生きた文化交流論を提供している。もちろん、中国語の熟語も盛り込まれているので、中国語学習の副読本としても推奨できる。肩ひじはらない本なので、軽い気持ちで一読することを薦めたい。
(2002年4月18日掲載)

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『When We Were Orphans』
Kazuo Ishiguro 著 Faber and Fabar Limited  2001年1月発行 価格本体1333円+税

【評者】内田 恵美
   うちだ えみ
政治経済学部専任講師
1971年生まれ
2002年4月嘱任
担当分野: 英語
原書に挑戦する愉しみ

 大学時代に一冊は原書を読むことをお勧めしたい。本屋に行って好きな本を選び、ゆっくりと作品の世界を味わう。時間に余裕のある今だからこその贅沢だ。

 原書を読むと、読む力や語彙、表現力が養われるだけではなく、翻訳が難しい外国文化の生の面白さに触れられる。その際、易しい言葉で書かれたベストセラーか、映画化や邦訳されている本を選ぶと良いだろう。ベストセラーは分かりやすい面白さを保証するし、映画や邦訳は意味が分からず読むことがだんだんおっくうになった時に助けてくれる。勿論映画を見てから原書に挑戦するのも良い。読書中に知らない単語があっても、その単語なしでは内容が理解できない、という重要な語以外は辞書を引かないことだ(さもないと永久に読み終わらない!)。

 『Harry Potter』や『Bridget Jones's Diary』もお勧めだが、今回私が選んだのは『When We Were Orphans』。Kazuo Ishiguroは1954年に長崎で生まれたが5歳の時に両親と渡英し、89年の 『The Remains of the Day(日の名残り)』で英国最高の文学賞であるブッカー賞を受賞した。この物語の舞台は1900年代初頭の上海で、まだ幼かった主人公クリストファーは両親を相次ぎ失った。今やロンドン屈指の名探偵となった彼は、戦禍の町を再訪し、失われた過去と両親を捜し出そうとする。

 探偵小説さながらの衝撃の展開に魅了され、それと同時に英国や上海の当時の様子が実に格調の高い英語で綴られていくのに感動を覚える。また、親とは、運命とは、人生とは、といったテーマが扱われ、読後に深く考えさせられる。少し上級の英語だから、邦訳本と一緒に読むのも良いだろう。また朗読テープ(Harper Audio出版)も発売されている。読み始めたら、飛ばし読みや走り読みでも構わないから読破すること。これが大きな自信になる。

邦訳版はこちら
『わたしたちが孤児だったころ』カズオ・イシグロ著 入江真佐子訳 早川書房 2001年4月発行 価格本体1800円+税


(2002年4月11日掲載)

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