えび茶ゾーン 959号〜973号 (2002年4月11日号〜7月25日号)
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2002年7月25日号

 ニュースクール大学(ニューヨーク)のロバート・ロイルブロナー教授は、『未来のビジョン』という自著のなかで、われわれ人類の世紀を三つのステージに分けた。昨日も今日も明日も変化がないとした前期工業社会、昨日よりも今日、今日よりも明日が進歩するとした工業社会、そして今の時代が、ポスト工業社会で、未来は脅威だとする、新たな悲壮感が生まれているとも指摘している▼これに呼応して起こってきたのが西欧の知識人を中心としたポストモダーンの動きで、科学や技術が、われわれを脅かすものと批判している。これは機械文明の進歩により、コンピュータをはじめとした電子機器やソフトウエアがわれわれ人類の制御の及ばない所にいってしまうのではという指摘でもある。SF映画などを見ればこの指摘もうなずける面がある▼これに対する答えはまだ用意されてはいない。それではどうすればいいのか。われわれ人類の知的活動の成果である機械文明の進歩にブレーキをかけることはできまい▼インターネットに仮想世界が作られ、コンピュータの知的能力も増し、仮想生物が生まれるだろう。そこで仮想世界や仮想生物(仮想)とわれわれ現実の人(現実)とのコミュニケーションのチャンネルを作っておいてはという発想に基づく研究がなされている。人と人のように仮想と現実が意思疎通ができることや仮想のなかで何が起こってるのかを仮想自体が説明できるなどの研究である。これからの動きに注目したい。
(NT)

2002年7月18日号

 今年からインターンシップが本格的に導入され、その授業を担当している。私は、社会人の大学院生しか教えていないため、当初は多少不安であった。社会人大学院生は社会経験もあり、かつ自らの人生を賭けて勉学に来ており、まさに真剣であるからである▼しかし、学部生は親のスネカジリが多く、授業態度やマナーも悪いのではないかと正直心配していた。特にこの授業は、多くのゲスト・スピーカーをお招きしているからである。実際は心配ご無用であり、心の中で学部生に敬意を表している。まさに真剣に聴き、質問の時間には、人数を制限するほど手を挙げ積極的である。ある講師は、多くの大学の中での経験で、モスクワ大学と同等であると満足して早大を後にした▼さらに、この授業から学生・社会人の合同のサークルが正式に発足し、今年の会員も非常に増加したことである。自ら関心のある仲間が集まり自分たちで活動する。つまり「進取の精神」が脈々と伝承されていると感じている。学部生はすべての学部に所属し、1年生から4年生まで幅広い。若いうちに刺激を受け、インターンシップによって実社会を知り、自らの人生設計をしてほしい▼さて「進取の精神」(アントレプレヌールシップ)は、スポーツの世界にも通じる。早大出身の有名なアナウンサーが同級生だが、彼は「早大の運動部は伝統に縛られ、トレーニング方法も科学的でない。だから弱くなった」と批判した。私は、最近の早稲田の復活を「進取の精神の復活」ととらえ、彼と久しぶりに酒を飲みたい。
(K・Y)

2002年7月11日号

 赴任したての頃、「人科の三重苦」という言葉を耳にした。「遠い・高い・低い」(都心から遠い・授業料が高い・知名度が低い)ということらしい▼やがて、この学部の資源の豊かさに気がついた。ユニークな研究をやっている教員が多い。教員の多くは教育熱心でもある。優れた才能を秘めている学生も多い。「知名度の低さ」は、この学部の宣伝下手のせいだろう▼いま、この学部は教職員・学生の努力で目覚ましく変わりつつある。実験・実習とゼミは、この学部の華である。2年生になると実験・実習で手作り教育の良さをたっぷりと味わう。3、4年生の全員がゼミに所属して教員の個人指導を受ける。新入生の意欲と志に応えるべく「1年生セミナー」も始まった▼強力な応援団も作られつつある。これまでに鎌田慧氏、江川紹子氏、筑紫哲也氏などの校友が講演に駆けつけてくださった。露木茂氏は非常勤講師として学生の人気が高い。今年は渡瀬恒彦氏、筑紫哲也氏、元木昌彦氏、吉田司氏が講演に来てくださる▼2003年からはスポーツ科学部が独立して、所沢キャンパスは2学部体制になる。人間科学部は人間環境・健康福祉・情報の3学科に再編される▼いよいよ「早稲田の在野」(鎌田慧氏)、「人科の誇り」(筑紫哲也氏)へと向けた第二段ロケットの噴射である。若き風雲児の学部長をはじめ若手教員たちが、この奔流の先頭にいる▼「勢い」の中に身を置いていることは楽しい。わが血潮もかなりエンジ色に染まってきたようである。ピュア・エンジではないとしても。
(秋櫻)

2002年7月4日号

 個人的に、文学部・文学研究科ホームページにあるC'sCafeに注目している▼学生主体の試験情報交換、雑談、議論の場なら、Web上に他にいくらでもある。ノイズの比率はまちまちだとしても、どこでもそれなりに興味深い意見、指摘、情報は少なくない。しかし、C's Cafeでは、教務その他の先生方や事務所職員の方が誠実に対応されていることもあってか、それを前提とした学生側からの貴重な要望や意見(ときに苦情) が述べられることが多く、なるほどと思わされる。それを受けて迅速に対応されている様子をみると、心安らぐ思いさえしてくるのである▼ときには本当だろうかと思うような先生方の講義実態も垣間見える。教員間の意見の対立もはっきりする。今まで、噂話の類として流れていたような話が、大げさにいえば全世界向けに公開されてしまうのは、考えてみると恐ろしい話ではあるが、それはそれで仕方ないことだろう▼ただ、心なしか、このところ少し場が荒れてきているようなのが残念だ。無責任な意見の開陳、利己的・一方的な要望・苦情の類は他の場でやってもらうことにして、思い切って交通整理してしまった方がいいと感じないでもないが、そうしてしまうと面白みも損なわれてしまう▼ご多忙なことは理解できるが、教務他の諸先生方の登場する機会が以前と比べると少なくなったのはやや残念だ。第三者的な意見、一歩引いた見方とのお叱りを受けるだろうが、貴重な実験の場という意味も含めて、今後も生産的な場として長く続けていただきたい。
(葉)

2002年6月27日号

 先日北欧の国際会議に参加した折、イギリスのヒースロー空港を経由した。着陸時に機上からロンドン郊外を見下ろし、その街並みの美しさに見とれてしまった。緑地帯の美しさに加え、家屋の外装がそれぞれ個性があるようで薄茶色で統一されている。また、整然と並んでいるようでその規則性は容易に読み取れない深みがある。そういえばパリ市内でも建物は高さといい色具合といい、それぞれ個性がありながら統一されていて美しい。テレビで見たスペインの地中海沿いの街やイタリアのフィレンツェの街並みなども、美しく統一されている▼基本的に多民族からなる西洋は個性と自由の国という先入観念があったが、外観は見事に一本筋が通っている。しかし、人々は実に個性的である▼つい日本と比べてしまう。統一性であればほとんど単一民族の日本の方が上に違いない。しかし、日本のどの街を見てもバラバラで、その街づくりのポリシーは感じられない。初めて来日した外国人が見ればなんと個性的な国と外見上はきっと見るだろう。しかしながら日本人のやること考えることは見事にホモジニアスである。街でケータイをのぞき込む人の多さを見ても異様である▼全体と個人、統一と自由、その組み合わせが、日本と西洋、いや世界とでは逆のようである。どちらのシステムが、心身共に豊かな社会作りに本質的に有効かは分からない。しかし、西洋流の方がはるかに美しく豊かで、社会的にも元気が良いことは異論はないであろう。ではどうするかである。
(K)

2002年6月20日号

 4年生が就職活動で慌しい。大学教育は4年間あるはずだが、その最後の1年は惨澹たるものだ▼特に4年生を中心としたゼミなどの授業では、4月、5月と開店休業に近い状態が続く。学生や大学はよい迷惑だが、困っているのは企業も同じだろう。この時期に就職を決めても、卒業までの1年間に考えが変わってしまう学生が多いからだ。また、就職活動に熱中するあまり大学に来なくなり、せっかく決まった就職を留年でふいにしてしまう者もいる。これは典型的な「囚人のジレンマ」と呼ばれる現象である▼どの企業も、採用人事の選考はもっと遅い時期の方が良いと考えている。しかし周囲の企業が早々と内定を出す中で、優秀な人材を確保するためには、自社の人事選考を早くせざるを得ない。実は、周囲の企業もまったく同じことを考えて、人事選考を早めているのである▼環境対策や軍縮が遅々として進まないのも、本質は同じことである。個別企業の自由な判断にまかせるだけで、この滑稽な状態から抜け出すことは容易でない。ライバル企業が人事を早めている中で、自社だけが出遅れることはできないからである。したがって、この問題の解決には、政府や業界団体、あるいは早稲田大学をはじめとした大学団体が音頭をとって、すべての企業が同時に内定時期を遅らせるよう協定を結ぶことが望まれる▼いま規制緩和が大流行であるが、個々の主体の自由に任せるだけではうまく行かないことも依然として多い。
(TK)

2002年6月13日号

 マックス・ウェーバーは中国を研究している者にとっても面白い▼巷間の雑誌や書物はまた一つの「中国ブーム」が席巻している。「世界の工場」とか「亡命事件」とか、中国は何かと注目されている。こうした時流に乗った問題を追いかけるのも悪くはないが、ちょっと腰を据えて中国のことを考えたい読者もいるだろう。そうした人に、最初はちょっととっつきにくいかもしれないが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』とか『儒教とピュウリタニズム』など、ぜひ一読を薦めたい。ウェーバーは「近代ヨーロッパに生を享けた者」として、西洋になぜ普遍的な意義と妥当性をもつ発展をとる文化現象が起こったかを追求している▼ヨーロッパ至上主義的な表現に反発を覚えながらも、同じような視点から東アジアに生を享けた者として、東アジアについて探求ができないか、という思いに駆られる。新古典派の研究者が一時「アジアの奇跡」を喧伝したが、そうした学問の流行に流されずに、それぞれの問題意識を投影させて、現前の事象をとらえるには絶好の本であり、論文と思う▼米国と中国という国際関係を議論していても、米国流の合理主義と中国人の合理主義には共通点が多いと言われるが、ウェーバーはすでにこうした精神構造を歴史的要因も含めて分析している。もちろんその違いもである▼それにしてもテレビを見るたびに思うのは、ウェーバーの『職業としての政治』は政治家になる前に読んでいてくれたらなあ、ということである。
(AR)

2002年6月6日号

 多くの人がギリシャ語とはさぞ難しい言葉なのだろうと思っているかもしれない。事実、大学で学ぶギリシャ語の難しさは相当なものであり、授業を担当する身としては大変悩ましい問題である▼そのギリシャ語の授業に高校生が出席していると言えば、不思議に思う人もいるかもしれない。早稲田大学が今年から始めた高大一貫教育プログラムに文学部から「入門ギリシャ語」が提供されているのだ。付属高校から複数の生徒が「古典語」の科目を受講してくれることに、早稲田という学校の持つ層の厚さと、そこで授業ができる喜びを思わずにはいられない▼新しい時代の要請に応じた学問・研究が大事なのは言うまでもないが、実益に結びつかない伝統的な基礎知識を地道に学ぶこともまた、大学においては必要なことだ。英語以外の外国語が淘汰されていく中、複数の古典語科目が成立している早稲田は、大衆大学のパワーとアカデミックな基礎力を持ち合わせていると自負しても良いだろう▼ギリシャ・ローマに関する知識が過大に評価された時代は終わった。しかし、新しい問題が現れた時、一度は立ち返ってみる原点として、ギリシャ・ローマの思想と文化は意味を持ち続けていくと信じる▼正直、どれだけの人に一定以上の知識を提供できるか不安だが、高校生と一部他大学の学生を含む三百人の受講者が私の古典語の授業に出席してくれている。この環境を大事にしていけるよう今後も努力したい。読者の皆さんも「古典語」を学びませんか。
(さまよえるギリシャ人)

2002年5月30日号

 他の人はどうなのだろう。幼い頃の私はあるときまで、大人、つまり親や教師は、絶対に正しいことしか言わないと信じていた。だから、「うちのお母さんは間違ってる」「この先生の態度はなんだか誉められたもんじゃない」と感じたあのときは、私にとっての大いなる人生の瞬間であった。世界がぱっと開けて、それまでとは異なる様相を帯びた一瞬、同時に、ぬくぬくとした繭に包まれた幸福な子供時代の終焉▼なぜ「間違っている」と感じたか、その答えは単純。本に書いてあるのとは違うことを、周りの大人が言ったからだ。「あの子とは遊んじゃダメ」と言われる。なぜと問えばその答えは、「人間はみな平等」「職業に貴賎はない」、そういった類の、本を読んで得た知識とは明らかに矛盾する。つまり、私にとっての「知」や「学問」の始まりは、自分を取り巻く世界への小さな違和感と共にあったのだ▼それから何年もたち、自分が大人になって人間は醜い存在でもあることを自覚し、人生はなかなかに辛いものであることも知って、大学で、それも実学ならぬ「虚学」たる文学部で教職を得て、日々「学問」の意義について考えざるを得ない立場にある。ひとことで言って、学問は人を自由にするものだ。偏見や一面的な世界観から、学問は人を解放する。だがこうした硬直した価値の枠組は、我々の思考を停止させることによって一方で我々を守ってくれたりもする。つまり学問は、人を何かに気づかせることによって、我々を荒々しい世界に投げ出すものでもある。
(KK)

2002年5月23日号

 「ビューティフル・マインド」を観てきた。1980年代になって経済学に盛んに応用されるようになった「ゲーム理論」を確立し、ノーベル賞を受けた天才数学者ジョン・ナッシュの絶望と奇跡を描いた映画だ▼ナッシュは、1947年秋、プリンストンに入学、数年後、アダム・スミスの経済理論を覆す「ナッシュ均衡」として知られる新理論を生み出したが、30代になって統合失調症(精神分裂病)を病み、30年以上この病に苦しんだ。ノーベル賞委員会も、精神病の男に賞を与えるわけにはいかないとしていたが、奇跡的に病が快復し、94年、45年前の業績にノーベル経済学賞が授与された▼最近、ナッシュのように、精神を病んで苦しんでいる学生が増えているようだ。精神の病で休学・退学しなければならない学生も増えている。大学に通いながら専門医の診療やカウンセリングを受けている学生も少なくない。「五月病」の季節でもある▼精神を病んで苦しんでいる学生のケアと予防を大学はもっと考える必要があるように思う。個人情報の保護や守秘義務の大切さは筆者も理解しているつもりだが、毎週、教室で学生と顔を合わせる教員としては、そうした学生にどう接したらよいのか専門医の助言を貰いたい時もある。大事なことは学生が精神的にも肉体的にも健康になることである▼幻想の世界からナッシュを引き戻した要因が何であるのかは筆者には分からないが、この課題に向き合う人の「愛」の大切さを、この映画は教えてくれた。All love can be……
(ひ)

2002年5月16日号

 「ロード・オブ・ザ・リング」という映画がヒットした。私は原作『指輪物語』を70年代に翻訳で読んだ世代だから、50歳(+α)である。残念ながら私は人間なので、あれほど若々しくはないが▼それはさておき、当時私の注意を引いたのは、主人公の名前「フロド」であった。なぜなら、そのとき勉強していたアイスランド語の形容詞フロズル(賢い)に、響きがそっくりだったからだ。もし私の想像どおりであるとすれば、この物語は、若者が試練を経て自分の名にふさわしい存在に成長する、人類共通の物語である▼危険が身近な時代と異なり、近代は危険を人々から遠ざけてしまった。しかし、若者が成熟し自分を発見して大人になるには試練が必要である。したがって近代の若者は、危険に身をさらす代わりに自分で試練を発見し、それを克服しなくてはならない。これはかなり厄介である。そして、それゆえに悩んでいるのが、この拙文を読んでいるあなた自身ではないだろうか▼でも悩んでいるのは、あなたばかりではない。楽しそうにしている隣人も、実は悩んでいるのだ。悩みの解決に至る道は、簡単には見つからない。物語のフロドでさえ大変な試練に遭った。どうか安易な道を選ばずに、悩んでいただきたい。信頼できる他人に相談するのも悪くはないが、他人は援助者にすぎない。親切をよそおってあなたに近づく連中には、特に注意してほしい。真の解決は悩みの中にあるはずである。
(M・I)

2002年5月9日号

 人生の選択肢の話。もっと具体的には、節目節目でどのような意思決定をするかで人生が大きく違ってくるという確率の話▼例えば「お昼にどの店で何を注文するか」の選択肢は大学界隈だけで何百通りもある。1日の内で何時に起き、何を着て、誰と会って、何時に帰宅するかの4つの意思決定に、各々5通りあるとすれば、5の4乗で625通りの過ごし方がある▼仮に5通りの意思決定を1日に10回しなければならないとすると、5の10乗で一千万通り近くになる。1日でこれである。これが1年だと35億通り以上。大学4年間となると約140億通りとなる▼我々はその瞬間一つ一つを生きている。まるで太い木の枝分かれのようにも見えるし、阿弥陀クジのようでもある▼行き着くところはどこなのか?それはすべて学生一人ひとりが決めることだし、決められる能力を持っている。また適切な判断力を身につけるところが大学でもある▼140億通りの行き方の中でも特に大切な選択肢がある。例えばどの科目を選ぶか、どんな異性と出会い恋するか、どのゼミに入るか、どの企業に就職するか等々▼また時々難しい選択肢にも遭遇する。(1)100%の確率で百万円獲得できるもの、(2)50%の確率で二百万円獲得できるもの、更には(3)10%の確率で一千万円獲得できるものの3つを選ぶような状況である。期待値3つとも同じ、でも人生の取り組み方でどれを選ぶか違ってくる▼すべてあなたの「生きる道」。くれぐれも人から選ばれるのではなく、自分で選ぶ人生を。
(TM)
(2002年5月9日掲載)

2002年4月25日号

 趣味でテニスをしている。先日、ヒンギスが優勝した東レの大会を観る機会を得た。同じテニスとは思えず、ボールにターボがついているようだ。すごいサーブ、エンドラインでの打ち合い、相手との駆け引き、実際に見ることは大切な経験であり勉強になったと喜んでいた▼その後、ハードコートでテニスの機会を得た。イメージトレーニングの効果(もっとも本人のみの思い込み)で、気持ちよくサーブをし、ドライブボレーを打ち、バックのロブがきたので飛び上がった▼プロ選手との違いはそこからで、見事着地に失敗した。その後判ったが骨折していた。気分はヒンギスが、右足はギブスの生活を余儀なくされた。好きなテニスであり、文句も言わず、折れた箇所以外は元気なので、筋トレをしてコートへの復帰を楽しみにしている▼ところで、松葉杖の生活でキャンパスに行くと大変なことが待っていた。講義は春休みだが、教室によっては、踏み面の狭い蹴上げの高い階段がはだかった。健康体なら松葉杖もなんのそのだが、良いほうの足をくじいたら大変。できるだけ階段は避けた▼また、研究室近くのトイレには困った。入口が入れないのである。丈夫なクローザが付いていて、頭でドアをどうぞ入れてくださいと押し続け、その間にサッと横に移動しなければならない▼キャンパスは思った以上、ハンディキャッパーに優しくはない。これは、頭では考えられず、貴重な体験をした人だけが知っている。早稲田はいつか自分も含めこれらの人を優しく迎えられる大学になれるだろうか。
(HI)

2002年4月18日号

 卒業・入学のシーズンにはスピーチを聞くことが多い。卒業生や新入生にとっては一生に一回のことだが、教職員の立場にいると過去の祝辞とつい比較をしてしまう▼毎年のスピーチはどれもよく練られている。スピーチ自体の魅力にはそれぞれ差がある。何が違うのだろう。ふと思いついて、スピーチを頭の中で英語に訳してみた。主語が "Waseda University" または "We"である部分がかなり多い。そして主語が"I" "You"の文の量と印象の強さは比例するように思う▼祝辞には格式が大事なのは当然だ。しかし目の前に相手がいるのに、活字媒体の広報と同じ話だけではもったいない。主語が "I"、すなわち個人の物語であっても、祝辞を送られる相手に思いを馳せていれば、そのメッセージは集まり散じる人への普遍性を持つはずだ▼筆者にとって最も印象に残るスピーチは数年前の卒業生答辞である。「実を言えば入学したとき、『ここで3年我慢すれば早大に行ける』としか思っていませんでした」と彼は語りだした。ところが彼の高校生活は、予想以上の熱い日々だった。3年間の自分の思い出を振り返ったあと、彼は答辞をこう結んだ。「『あれ見よかしこの常盤の森は、心のふるさと我等が母校』。学院での3年は単なる通過点じゃなかった。これからも校歌を歌うたびに、森に囲まれたこの母校で過ごした日々を、私は誇りとともに思い出すことでしょう」▼気持ちがほとばしり出るような彼の声は、今でも耳の底に残っている。 
(餅)

2002年4月11日号

 大学に入学してみて、なぜ自分はこの学部に入学したのかという疑問を持った人は少なくないと思う。自分が目指していることと違う、ここで自分は何ができるのかなど、いろいろなことが頭を駆け巡ってしまう▼実は、私もその一人であった。数学がちょっとできるという理由で現在の理工学部数理科学科に入学したものの、高校までの数学とのギャップに悩まされ、一時期は数学のテキストを開くことも嫌になり、勉強をしないでアルバイトやサークル活動に明け暮れていた▼この状態は、ある講義で「優」をもらったことにより勉強への意欲が湧いてきたことから解消された。それから数年は勉強と研究に力を注いだ▼そこから得られたものとは何か。それは、問題を考えるときの様式と呼べるものかも知れない。前提条件をはっきりさせて、そこから導き出されるであろう結果を予想して、論理的に詰めていくことや、前提条件を減らしてみたり、別の似た対象にでも同じことが成り立つであろうかと問題を拡張することなどである▼私は現在の職に就く前は、いわゆるシステムエンジニアだった。数学そのものはほとんど役に立たなかったものの、数学を通して培った思考方法は何度も身を救ってくれた▼学部は自分の目標へアプローチするための手段を身に付ける場所と思っている。たとえ将来別の分野に携わることになったとしても、それまで真剣に取り組んできたことは自分の血となり肉となって、進もうとしている道に繋がっていくはずだ。
(Y)

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