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2001年度後期分 目次


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『婦人・女性・おんな-女性史の問い-』鹿野政直著
岩波新書 1989年2月発行 価格本体480円+税

【評者】杉山 千鶴
  すぎやま ちづる
人間科学部助教授
1961年生まれ
1996年嘱任
専攻:舞踊学
担当科目:スポーツ方法実習(ダンス)I・II、スポーツ指導法実習(ダンス)、スポーツ技術論(ダンス)、演習I・IIA・B、舞踊論
「女性であるということ」を考える

 問いかけ。
第1問:男子学生に対して:「女性」とは、どんな存在ですか。
第2問:女子学生に対して:「女性であること」をどのように考えていますか。
第3問:もしこの回答を答案に書く場合には、無意識の内に抱いている考えや、その現れとしての行動に認められるものと、同一ですか。

 本書は、サブタイトルや、著者が「あとがき」でも記しているように、その当時の女性史を確認しようとしたものである。もちろん女性史を通史として辿ったのではない。女性史、という学問についての著者の思いがひたひたと伝わってくる。さらに、先の問いかけに対する回答が、道徳や倫理に促されて作り出されたものを超えて、じわりと湧いてくる。

 学生数に限らず、あらゆる面において、男性が多数を占めるものの、女性も増加しつつあるという本学の現状を呼吸している学生諸君には、今後さまざまな世界に羽ばたいていく前に、一度は「女性」、或いは「女性であること」について、ぜひ考えて戴きたい。そして第3問でYESと回答できるように、漠然としていてでも回答を出して頂きたい。

 本書は、一昔以上前の1989年の初版である。しかし現在、著者が「序」の中で記した状況には大きな変化はなく、また「結」において示した予測は、その実現に向かっている過程である。したがってその内容は、今なお透明感を帯びて響いてくるであろう。

(2002年1月17日掲載)

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『海からの贈物』 リンドバーグ夫人著 吉田健一訳
新潮文庫1967年7月発行 価格400円+税

(評者)厚見 恵一郎
   あつみ けいいちろう
(社会科学部助教授)
1967年生まれ
1996年4月嘱任
担当科目:政治思想史
北極星を仰ぐ想像力

 学生時代を振り返ると、何を考えても、結局行き着く先は自分のことであった。自分は何をしたらいいのか、何ができるのか、なぜこんなところにいるのか、どこから来てどこへ行くのか、将来は、職業は、恋愛・結婚は。そもそも自分とは何者なのか。そういうことが気になっている人に、「自分のことばかり考えてないで、現実の世界に目を向けろ。額に汗して働け」などと説教するつもりはない。「悩んでちゃ損だよ。今やりたいことを自由に楽しめや」という大雑把な励ましも、無責任に響くだろう。

 あえていうとすれば、「自分の一生を外から眺め、人間の人生の四季を思い巡らせるだけの想像力を養ってほしい」ということだろうか。これは、「若いうちから正しい自己分析にもとづいた人生設計を」といったような、何かのセミナーにありがちな主張ではない。むしろその正反対である。人生は設計図が通用しない大海だからこそ、北極星を仰げる想像力が必要なのだ。

 本書は、著名な飛行家の妻であり、みずからも世界の女流飛行家の草分けである著者が、ひとりの主婦として自分自身を相手に続けた対話である。邦訳にして100頁程の、さして厚くない本であるが、浜辺で拾ったさまざまな貝のかたちに人生のいくつかのステージを重ね合わせていく著者の感性と強靭な思考には、読むたびに圧倒される。

 健全な自己内対話が私小説を越えていくことを、本書はエッセイ風の柔らかな文体で示してくれる。知的であると同時に想像的で、抽象的であると同時にきわめてリアルな本である。


(2002年1月10日掲載)

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『私にとっての20世紀』 加藤周一 著
岩波書店2000年11月発行 価格2200円+税

〈評者〉丸川 誠司 
    まるかわ せいじ
(教育学部専任講師)
1967年生まれ
2001年4月嘱任
担当科目:フランス語 
加藤周一の20世紀と我々の21世紀

 加藤周一はこの本の中で危機感を込めて今の日本と世界、彼の日本人観を語っている。彼にとっての20世紀は一言で言うと戦争で人間性が深く破壊された世紀だった。彼がそれを強調するのは、その状況の再発が懸念されるからだ。

 一言で言うと、20世紀とはやはり大量生産、大量消費そして大量虐殺が世界的に起こった世紀である。ちょうどこの3つの「大量」をつなぐ一例として原子力がある。言うまでもなく日本はその悪用の的となり原爆が投下された。だが日本が必ずしも犠牲国の側面を強調できないのも周知の通りだ。それなのに憲法改正論等が公となる、集団的健忘症が顕著な今日。「時代と共に法の必要も変わる」という政治的言説があるなら、それをどう受け止めるか考えるべきだろう。加藤周一は、国民的特徴と言っても過言でない日本人の変わり身の早さを幾つか例を挙げて指摘している。その1つは第二次世界大戦直前の状況である。

 また現在の世界情勢については、彼の言う通り経済、政治面での一極化が進み、多様性を抑圧するその動きに反発する形で地域紛争やテロ行為が噴出している。この状況について考えた時、「相手の差異を認め、平等に接する」というこの本の言葉が頭に浮かぶ。ただし相手との差を認め尊重するには自己も確立されていなければならない。そしてこの本の結論を解釈するなら、自己確立の手段として最も世界共通で重要と言えるのが、言葉による自己表現、即ち文学である。

 19世紀の米女流詩人、E・ ディキンソンは「平和とは我々の信仰(faith)の虚構である」と書く。「神の死」が公認となって1世紀以上、信仰という言葉はもはや大きな意味を持たない。だが実はその1世紀が、大量虐殺や環境破壊の時代にもなった。虚構の平和が軽うじて続いている現在。どこに"faith"を見出すかは今後の重い課題の一つである。

(2001年12月13日掲載)

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『現代<子ども>暴力論(増補版)』 芦沢 俊介著
(春秋社1997年8月)発行 価格2200円+税

【評者】曽原 祥隆
   そはら よしたか
本庄高等学院国語科教諭
1968年生まれ
1998年嘱任
専攻分野 日本近代文学
イノセンスとは何か

 イノセンス ―――汚れのない、純真無垢な状態……。このイノセンスという語の流通ぶりを眺めていると、否定的な意味合いで用いられることがほとんどないということに気づく。してみると、多くの人々はイノセンスたることを切に希求しているらしい。けれども、それと同じ程度に、イノセンスたりえないことへの諦念をも抱いているようにみえる。

 おそらく、ヘーゲルよろしく、知った風な大人の顔をしてイノセンスを否定するのはたやすいことであろう。人は社会の中に生息しており、絶えず「媒介」の只中にいるのであって、その限りで他者との相互関係をまぬがれることはできない。自分ひとりで無垢なツラをしているのは、欺瞞以外の何ものでもない、と。

 確かにこうした論法が誤っているとはいえない。しかしながら、それだけで能事足れりとするのは、いささか拙速にすぎる。本書は読む人にそう教えてくれるだろう。筆者によれば、誰彼問わず人は自らの奥底にイノセンスをはらまざるをえない。それは、私たちが自らの生誕に一切関与できないという事実に起因する。すなわち、人はその出発点において世界に対して受動的であるほかなく、そこから否応なしに生ずるのがイノセンス――世界に対して「自分には責任がない」という心的状態なのである。これは、別言すれば、何人も自分がここに存在してよいのかという存在論的不安を抱えているということでもあろう。

 従来イノセンスという語は、ナルシシズムとの関連において、多分に心理学的な対象として捉えられてきたきらいがある。おそらく世の多くの人々が希求してやまぬイノセンスも、そうした類いのものでしかなかろう。だが、本書の記述にあるように、イノセンスは突き詰めれば存在の根拠のなさへと通じてゆく。教育論の体裁をとっている本書だが、その点を視野に収めているという意味で、優れた人間論たりえているといえるのである。

(2001年12月6日掲載)

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『無知』ミラン・クンデラ 著 西永良成 訳
早稲田大学出版部 2001年3月発行 価格本体1,900円+税

【評者】西村昭治
にしむらしょうじ
人間科学部助教授
1960年生まれ
1996年4月嘱任
専攻:情報科学・教育工学
担当科目: 情報処理I・II、マルチメディア表現および技術、コンピュータおよび情報処理、情報と職業、情報社会および情報倫理
帰還せし者の悲しみ

 本書は、私が大学院の学生時代に流行り映画にもなった「存在の耐えられない軽さ」の著者ミラン・クンデラの最新刊である。「存在の・・・」は16年前に著されたプラハの春の挫折を時代背景に持つ作品であったが、本書はその挫折後20年が経過した時点での男女2人の亡命者それぞれの故郷への帰還をホメーロスの「オデュセイア」になぞらえた作品となっている。

 あらすじは省くとして、「存在の・・・」が悲しい結末であったにもかかわらず、暖かい読後感を与えてくれたのに対し、本書は誰も死なないのに妙に悲しい読後感を与えてくれる。前者が冬の中の暖かい思い出だとすると、後者は晩秋の寂しさを想起させるそんな物語である。

 ところで、ゴルバチョフが監禁されたまさにその時、私はある学会でプラハにいた。「存在の……」は私が見た美しいボヘミアの風景やアメリカのバドワイザービールの由来にもなったブドワイゼルの澄んだビールを呼び起こすが、本書は事件当時の同じ学会に来ていたロシア人の狼狽と、妙に落ち着いて、それでいて悲し気なプラハの人々の表情の対比を思い出させる。そんな物語である。

 本書をベルリンの壁崩壊後のギュンター・グラスの作品と比較して東西冷戦時代とは何であったかを改めて考えるのを教師としては推奨するが、ただ晩秋の余韻に浸る為に本書を読むのであってもよろしいと思う。

(2001年11月29日掲載)

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『世界の福祉―その理念と具体化』久塚純一・岡沢憲芙編
早稲田大学出版部 2001年9月発行 価格本体2,800円+税

【評者】早田 宰
    そうだ おさむ
社会科学部助教授
1966年生まれ
1996年4月嘱任
担当科目: 都市科学概論、環境計画実習、居住環境論、英書研究、現代福祉、現代都市地域論
よりよく生きるヒケツ

 「よりよく生きる」ということは、人類共通の願いだろう。誰しも"将来こんなふうに暮らせたらいいナァ"という身の丈にあった夢をもっている。しかし現在地球上で、ほんのひと握りの人しか「よりよい生」なんて実感できていない。

 生き生きと暮らしている人を見ると、「そのヒケツは?」と仕事がら尋ねたくなる。でもそれをちゃんと問うことは案外難しい。いぶかしく思われ、「人に話すようなことではない」と固辞され、「あなたに関係ない」と怒られてしまうこともある。自分の内面にとって個人的に大切であるがゆえに、常識とか基準とか、全体像を議論することが非常に難しい分野だ。

 学生時代にイギリスの豊かな田園居住の生活を体験した。ホームステイ先のおばあさんは、午後のお茶の時間を大切にしていた。自分をすこしづつ開示しながら相手と接点をつくる、まったりとした時間である。会話の内容は日常の些細な喜怒哀楽の話しが多かった。生活習慣や感情がまるで違うため、お茶の時間には苦労と楽しさの両方が伴った。そのうち慣れ、コミュニティの成員にとって安定した対人距離を育む成熟した仕組みであることを理解した。逆に、日本という国は、暗黙の応答が求められ、コミュニケーションの苦手な人間にとっては生きにくいという気がしてきた。

 本書は、日本を初め、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン、ニュージーランド、先進7カ国の福祉の特色と現状を解剖し、グローバル時代の福祉を考える入門書である。具体的な話しを豊富に交えて、分かりやすく、かつ掘り下げて書いてある。「よりよく生きられる」日本と世界を考えるヒントを発見できる一冊。

(2001年11月22日掲載)

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『疑惑 JAL123便墜落事故』角田四郎著 
早稲田出版1993年12月発行  定価本体2136円+税

【評者】嶋本 薫
    しまもと しげる
大学院国際情報通信研究科助教授
1963年生まれ
2000年4月嘱任
担当科目:通信方式概論
無線・衛星通信特論
執念のノンフィクションは「疑惑」を解消したか

 先の米国におけるテロ事件の例を待たずとも、航空機事故は一度起こるとその被害たるや甚大なものである。1985年8月の日航機墜落事故は、単独の事故としては史上類をみない520人もの犠牲者を出した点でも記憶に新しい。私は当時某公共放送局でアルバイトをしており、事故当日も通常の4、5倍の局員でごったがえした報道の現場にいた。さまざまな情報の錯綜する中、現場の特定にあまりにも時間がかかることに疑問を感じ、その後の事故の特集番組制作にも関わったこともあり、原因究明など常に関心をもって見守ってきた。

 実はこの本の中に指摘してある、相模湾での自衛隊護衛艦試運転時でのミサイル誤発射等の可能性は、事故の翌日には既に軍事・航空関連に詳しい局員が指摘していた。当時は単なる憶測でしかなく調査困難ということで番組中では触れていないが、その後の事故調査委員会の圧力隔壁修理ミスという事故原因発表後も、私の中でその疑惑が消えることはなかった。まさにその疑惑を丹念に調査し、まとめ上げたのがこの本である。

 筆者は墜落寸前の該当機を目撃したり、知人が乗っていたりと、事故と間接的なかかわりをもっており、そこで生じた疑惑を解消するため専門知識ゼロの次元から8年の歳月を経てまとめ上げた。この本はいわゆるトンデモ本の1つと位置付ける人もいるかもしれないが、バイアスのかからない一個人としての探究心に基づいた取材は非常に純粋であり、一部思い込みがあるにせよ読み応えが十分ある。

 日航機長組合が調査委員会の結論に疑問点、矛盾点が多くあるとして今年の8月にも会社に対し再調査を要求するなど、まだ、この事故は終わっていないと思っている人は多いのではないだろうか。ボイスレコーダは現在WEBで聞けるが、聞くとあの緊迫したコックピットにタイムスリップするようで非常に怖くそして悲しい。


(2001年11月15日掲載)


『論理トレーニング』   野矢 茂樹 著
産業図書1997年11月発行 価格2400円+税

〈評者〉若田部 昌澄
    わかたべ まさずみ
(政治経済学部助教授)

1965年生まれ
1998年4月嘱任
担当科目:経済学史、経済学入門
ブームを超えて

 強迫的なほどの論理的思考ブームだ。ちょっとした本屋には「論理的思考を鍛える」といった本があふれており、サラリーマンとおぼしき人々が食い入るような目をして品定めをしている。皆さんも、高校、予備校あるいは大学教師から何かというと、論理的に思考しろ、と脅迫(?)されたことも多いだろう。そんな教師につきあっていられないと(非論理的に?)反発する人も、教師がいうのだからその通りだろうと(非論理的に?)納得してしまう人も、けれども、論理的思考とは何のことだろうと疑問に思ったことはないだろうか。そうした疑問に答えるのが本書だ。

 この本は、気鋭の論理・哲学者の挫折経験から生まれた。それまで「知的に面白いが役には立たない」論理学を講義していた著者は、ある私立大学でそうした講義に全く興味を持てない学生に直面する。出席者の減少、爆睡者の増加。従来のやり方の行き詰まりを感じた著者があみ出したのは、トレーニングに力点を置いた「役に立つ」論理学だった。  その中身は、なるほどと思うことばかりである。順接、逆接といった議論の流れを大きくつかむことからはじめ、論証、さらに論証の最も鋭利な武器である演繹へと議論を進め、最後は議論を作るためのポイントへと至る。ブームの強迫や、教師の脅迫とも関係なく、論理的思考がいかに大切かを理解することができる。

 野矢氏の続編『論理トレーニング101題』(産業図書、2001年)は、本書の一般向け再構成版で、練習問題の解答が載せられるなど読みやすくなっている。こちらも悪くはない。しかし、皆さんには解答が少ない本書を勧めたい。適度な緊張感をもって読むことができるだろう。

(2001年11月8日掲載)

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『30年代の危機と哲学』 M.ハイデッガーほか 清水多吉・手川誠士郎編訳
平凡社ライブラリー1999年8月発行 価格900円+税

(評者)守中 高明
    もりなか たかあき 
(法学部助教授)
1960年生まれ
2001年4月嘱任
専攻:フランス文学・思想
担当科目:フランス語
世界状況の中で思考するために

 世界規模で変動する歴史的―政治的状況の中で、学問は、哲学は、そして大学はどのように位置づけられ、どのような思考を確保するべきか――本書に収録されているのは、1930年代という未曾有の危機の時代に発せられた、3人の哲学者のマニフェストである。

 短いが衝撃的なマニフェストだ。現象学の確立者フッサールによる『ヨーロッパ的人間性の危機と哲学』、『存在と時間』によって名高いハイデッガーの『ドイツ的大学の自己主張』と『なぜわれらは田舎に留まるか』、そして、後年「フランクフルト学派」の中心人物となるホルクハイマーによる『社会の危機と科学の危機』。三人が語っているのは、ナチズム/ファシズムという近代ヨーロッパが生んだ最もネガティブな歴史状況の最深部からであり、ここで各人は、いわば思考の生命を賭けた態度表明をしている。

 最も問題含みであり、スキャンダラスですらあるのが、ハイデッガーの『自己主張』だろう。フライブルク大学の総長就任時に行われたこの演説の中で、哲学者は、大学を「民族国家への至高の奉仕のための緊張した結集の中心」と規定する。偉大な哲学者が、いったいなぜ「民族の精神」を肯定しつつナチ政権に加担するに至ったのか。他方、ユダヤ人であるフッサールは、「病ん」だ諸国民を前にして、「無限な理性目的の示す歴史的目的論」としての「ヨーロッパ」の回復を呼びかける。その自民族中心主義的側面は批判されねばならないにしても、ここには時代の熱狂に対する冷静な抵抗が読み取れよう。

 ひるがえって、われわれの世界状況は今どうなっているか。歴史の中で学問することの意味を考え直すために、ぜひ一読をすすめたい。

(2001年11月1日掲載)

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『ノラや』 内田百 著
中公文庫1997年1月発行 価格724円+税

〈評者〉嶋ア 尚子
   しまざき なおこ
(文学部教授)

1963年生まれ
2001年4月嘱任
担当科目
一文:社会調査法・社会学演習V(常磐炭砿で働いた人びと研究)・社会学研究(現代家族論)
二文:社会人間系演習(歴史のなかの家族)・総合講座3
とっておきの1冊

 ともかく、戻ってこないのだ。猫が。野良猫の「ノラ」が。『ノラや』は、昭和32年3月27日、内田百關謳カ宅から忽然と姿を消した「ノラ」捜索の顛末記である。失踪2週間後の記述。

 「就褥前又又風呂場へ這入り、すでにノラが寝た座布団を片づけた後の風呂蓋に顔を押しつけて、ノラやノラやと呼びながら、物置の屋根から降りて来た姿を彷彿して涙止まらず。今日の夕刊各新聞に十二日欄記載の折込み広告をした」

 この調子が延々と続く。100日を超してもその悲しみは一向に失せない。9月3日(161日目)「夜十二時ペンをおいた時からノラの事を思ひ出し、或はもう帰らないのではないかと思ったら可哀想で可愛くて声を立てて泣いた」。

 しかし泣いてばかりではないところが、この騒動なのだ。作家先生の周囲のあらゆるメディアを活用して大捜査網がはられていく。口コミや警察はむろんのこと、小説雑誌、NHKラジオ、新聞記事、新聞折込広告(英文も!)へと展開していく。そして驚くほど多くの情報が寄せられる。その一つひとつに、作家は、多大な期待を寄せては落胆する。この有様が淡々と綴られていく。

 『ノラや』は、社会史の視点からも興味深いのだが、何よりも百關謳カの胸中に圧倒される。動物嫌いの私も、「早く戻っておいで、ノラや」とさすがに願わずにはいられない。すでに60歳半ばを過ぎた作家は、その後没するまで10余年にわたり、このノラ騒動から離れることはなかった。

はたして、ノラは戻ったのか。秋の夜長にノラ捜索はいかがでしょう。

(2001年10月25日掲載)

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『三国志きらめく群像』 高島俊男著        
ちくま文庫2000年11月発行 価格880円+税

〈評者〉永冨 青地
    ながとみ せいじ
(理工学部助教授)

1961年生まれ
2000年4月嘱任
担当科目
理工学部:中国語T・U
第二文学部:漢文講読・思想宗教系演習
『三国志』入門の最良の一冊として

 子供の頃、NHKの人形劇によって『三国志』に開眼し、現在も『蒼天航路』を愛読しているといった、『三国志』フリークの学生諸君に本書を是非お薦めしたい。『三国志きらめく群像』という書名からは、よくある三国志のハウツー本と思われそうだが、著者は目下エッセイストとして活躍中の異色の中国学者であり、そんな安手なものではもちろんない。

 文中においては、劉備や諸葛亮(孔明)についての忌憚のない意見が披露され、特に「三顧の礼」について、「中小企業の親父が、大学を出たものの思わしい就職口もなくてぶらぶらしている青年の家をおとずれて、『どうだい、ウチへ来て事務でもやってくれんかい』と誘った程度のことと思えば話のつじつまが合うのである」と喝破しているあたりはまさに圧巻。『三国演義』からフアンになったビギナーは、本書で夢を壊されたように感じるかもしれない。しかし、その後、本書の各所に活写されている魅力ある人物像によって、小説ではない、歴史としての三国時代に対する関心を再びかきたてられるだろう。評者も本書によって初めて、韓遂という、『三国演義』では全くの脇役である人物に対する興味をかきたてられたことであった。

 また、本書の各所に、中国人の国民性に関する著者独特の見解がこめられており、現代中国に関心がある人にとっても、面白く読める一冊である。なお、老婆心ながら、本書は同じ著者による『三国志人物縦横談』(大修館書店)を文庫化したものである。重複買いをされないように。とはいかないか…。

(2001年10月18日掲載)

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『書く力をつけよう』 工藤信彦 著
岩波ジュニア新書1983年11月発行 価格631円+税

〈評者〉清水 和巳
    しみず かずみ
(文学部専任講師)
1961年生まれ
1998年4月嘱任
担当科目:経済学
書くことは色々な自分をもつこと

 ラブレターを書くときとレポートを書くとき、僕達は自然に書き方を変えているに違いない。なぜ、書き方を変えてしまうのだろう。色々理由はあると思うが、一番の理由は、想定する読者が違うからだろう。レポートは「教員」という名の一般的な読者に宛てられるの対して、ラブレターは「恋人(候補)」という唯一無二の読者に宛てられる。もし、この2種類の読者に限らず、想定する読者に応じて、書き方を変えていけたらどうだろうか。それは他(者)とのコミュニケーション手段を、自分との距離に応じて無限に持つ、ということになるだろう。それは素敵なことではないだろうか。

 「素材に手をかけて、人に饗し、できたものにウマイ・マズイがある」という意味で、書くことと料理することは似ている。不思議なことに、「日本人だから和食を作れる」と思っている人はそうはいないのに、「日本人だから日本語で文章が書ける」と思いこんでいる人は結構多い。ここが言葉の怖いところだ。そういう思いこみを捨てて、少しでも美味しい文章を書いてみたいと思っている人は、ぜひ、この本を参考に、本書に載っている5つのジャンル(日記・手紙・説明文・感想文・小論文)の技法を実践し、できたものを誰かに賞味してもらってみて欲しい。必ずや、腕は上がるはずである。また、この本で引用されている例文はそのほとんどが真似できないぐらい美味しい文章である。寝転びながら、その例文から読み始めて、真似したくなったところで、自分も書いてみる、というのも一法だろう。ただ、お味の方はなかなか例文どおりとはいかないが…。

(2001年10月11日掲載)

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『美しいままで』 ネーダーコールン靖子著、秋岡史解説・編
祥伝社2001年7月発行 価格1,600円+税

〈評者〉御子柴 善之
    みこしば よしゆき
(文学部専任講師)
1961年生まれ
2001年4月嘱任
担当科目:
哲学基礎講義、哲学選択演習、倫理学
専攻分野:
倫理学ならびにカント哲学
安楽死が生の重みを照らし出す

 本年オランダで「安楽死」法が成立したことは、日本でも報道された。すなわち、一定の条件を満たしている限り、医師が患者に対して(積極的)安楽死をひき起こしても、その刑事責任を問われることがなくなったのである。こうした動向は医療倫理学において今日なお討議中である。医療現場における「患者の自律」を尊重し、「患者が熟慮のすえ、自らの意思で安楽死を希望している」場合には、医師による薬物注射によって患者の死をひき起こしてもよいのか。それとも、そうした行為はあくまで殺人であり、延命治療を停止する(消極的)安楽死までしか認められないか。それとも、他の選択肢があるか。

 本書は、積極的安楽死が事実上認められていたオランダで、すでに四年前にそれを選択した日本生まれの女性の手記を中心にして編集されている。著者、靖子・ネーダーコールン=木村は、一九八七年に甲状腺ガンの手術を受けたが、九五年に転移が発見される。手記は、それ以後の著者の思考と感情の変遷を明瞭に伝えてくれる。彼女は決して安易に安楽死を選択したのではない。生きることへの希望を捨てず、生き続けることへの使命感をもって治療や手術に耐えた。その上で、苦痛の中に自分を失うことよりも、ポジティブに死を受け入れ幸福の中で逝くことを選んだのである。

 若者は時として生きることを軽んじる。そして中には自殺を選ぶ人もいる。しかし、自殺と安楽死とを混同してはならない。その相違を見定めつつ、「生きる」ことの素晴らしさと重さを実感するためにこそ、私は本書を多くの学生諸君に読んでほしいと思う。

(2001年10月4日掲載)

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