とっておきの話

2001年度後期分 目次



目指すは還暦のハーフ!


皆さんも一緒に汗を流しませんか?!
商学部 沢田 賢

 このリレーエッセイの依頼を受けた教育学部の藁谷先生と一緒に、ラグビーの早慶戦そして早明戦を見に行ってきた。ともに早稲田の勝利で、この調子を維持して大学選手権でも活躍してほしい。この文章が早稲田ウィークリーに載るころには、きっと優勝していることと確信している。

 このように書き始めるとラグビー観戦が私の趣味のように思われそうだが、実はラグビーをすることが私の趣味の一つである。もともと私の趣味は体を動かすことで、草野球・草サッカー・ゴルフ・スキー・テニス・釣り等いろいろやっている。以前からラグビーも一度はやってみたいと思っていたのだが、ラグビーは簡単に始めることのできない遠い存在だった。

 そんな折3年前に商学部職員(現在財務部)の渥美正義さんにラグビーの教職員チーム「オリザ」に誘っていただいたのが、ラグビーを始めるきっかけであった。「オリザ」には元早稲田ラグビー部のOBが何人か在部していて、かつてはかなり強いチームだったそうだが、だんだん参加者が少なくなってきていたようである。いないよりはましと私を誘ってくれたのだと思う。実際練習に参加するといつも7、8人しか参加者がいない状態であった。しかし、学生の頃本格的にラグビーをやっていたメンバーが、練習相手(彼らにとっては遊び相手)になってラグビーを教えてくれるのは、とても魅惑的で、習い事は一流の人からということを実感している。体力的にあと何年続くか分からないが、「オリザ」のメンバーで現在も試合に出場なさっている教育学部の菊山榮先生(多分還暦は過ぎておられると思う)の年齢ぐらいまで続けて、その時はスクラムハーフをやっているという大それた目標に向かって、メンバーに迷惑を掛けながら遊んでもらおうと思っている。「オリザ」の皆様、暖かいご指導を!

 ではこの辺で、私と違って教養溢れる商学部の矢内顕先生にバトンタッチ。

(2002年1月17日掲載)


「とっておき」の話

これが私の「とっておき」のマリー
これが私の「とっておき」のマリー
教育学部 藁谷(わらがい) 友紀

 瞳の奥をうかがおうとすると、目をそらし弄ぶ。しがみついてきたかと思うと、すぐにすねては背をむける。彼女の名前は、確か『ヴォイツエック』薄幸の女主人公の名前。私の前にいる彼女は薄幸とはまったく無縁の顔をしているのだけれど、そう、彼女の名前はマリー。

 ボン大学で勉強していた時代、教室の出入り口で、図書館の受付で、つながれることなくおとなしく主人を待つ姿を見て、飲み屋に行っても主人の足元で静かに待つ姿を見て、シェパードを飼おうと決意。でもうちのマリーといえば、足元にこぼれた酒をペロペロ、挙げ句の果ては腰が抜けて歩けなくなる有り様。事前の期待と事後の結果の落差がこれほど大きいとは。

 わたしのパートナーの人間の方は、声の調子、鼻の鳴らし方、目の合図、身振りとあらゆる手段を使って意志を通そうとするマリーの姿を見て、「コミュニケーションの本質を見る思いがする」などと、のんき極まりなし。事前と事後の落差はマリーばかりではなかった。

 驚いたのは、ボン駅券売機の押しボタンで見た犬印。料金は子どもと同一。ドアに禁止の札がなければ、たいていのところは犬も一緒に出入り自由。そこに、「共生」の理念を見るか、あるいは教育・訓練の成果を見るか、それとも…。道端にちょこんと座らされ、前には空き缶とカード一枚。「ペットにえさ代を…」と書かれたカードに何を見るか。

 そんなことにはなんのお構いもなく、お腹を出して開けっぴろげで鼾をかくマリーの姿。めくれた口の端からぬっと出ている犬歯の先は、獣医さんをも驚かせた尖りなしの丸型タイプ。座敷犬と化してしまったシェパード。育て方を誤ったのは間違いない。あのすねる姿はそれとも確信犯か。

 「とっておきのはなし」ではなく、わたしの「とっておき」についての話でした。次は、商学部の沢田賢先生にバトンタッチ。

(2002年1月10日掲載)


美味しく作って教育・研究の活力

「おいしい」という声を聞くのが料理人の楽しみ!
「おいしい」という声を聞くのが料理人の楽しみ!
理工学部教授 樋口 清秀

 このリレーエッセイの話が来たことを家内に告げ、「わが趣味あるいは特技についてだそうだ」と言うと、即座に「料理作りしかないわね」とのこと。結婚して13年目になるが、必要に応じて、水泳、スキー、テニス(子供との遊び)はやるものの、積極的に腰を上げて行動するものは、料理作りしかないことは確かだ。これは、伊豆の小さな家族経営の民宿みたいな温泉旅館の6人兄弟姉妹の三男であった私は、学部入学前、2年強家業を継ぐべく板前見習をやった事が大いに影響している。「自分が美味しいならば、お客も美味しいはずだ」をモットーに料理を習った。それは、美味しそうな食材を選び、美味しく作ることに尽きる。今や、休日の夕刻ともなると、家内とは相談することもなく、近くの農家の直販やショッピングセンターの食材コーナーを渡り歩き、美味しそうな食材を買い集め、それを調理し、家族の「おいしい」との声に満足している次第だ。

 食材を探すあての献立は、家を出る前のおおよその見当でしかない。自分の体調を頼りに、コレステロールがたまらず、カロリー、ミネラルの豊富な食材で新鮮で美味しそうな食材に出会えば、それに合わせて献立を変えてしまう。献立は和食が主だが、中華、西欧料理も見よう見真似でOK。和食の基本である煮物、焼き物、香の物を柱に、栄養、赤・白・黄色・緑の色彩、味を考え、最低3品は作る。来客といっても、大抵は現在慶應大理工学部職員の妹や独身の叔母だが、彼女たちを迎えたり、早く基本の献立が確定した時などは、品数は5ないし6品になることが普通。内容は御飯のおかずに適う、短時間で出来る大皿料理がほとんど。料理を美味しくするためには、料理の分量がどうしても多くなる。それも美味しく食べてくれるので、残ることはほとんどない。作る方としては、それが最大の喜びだ。しかし、この時期の家内の一番のお気に入りは大根葉の油揚げ炒めである。

 次は研究室後輩で25年ほどの付き合いになる藁谷友紀教育学部教授にバトンタッチします。

(2001年12月13日掲載)


我が家のいたずら者

ビッキーなしの生活はもはや考えられない!!
ビッキーなしの生活はもはや考えられない!!
アジア太平洋研究センター 眞野 芳樹

 趣味と言えるほどのめり込んでいることはないが、好きなことはたくさんある。その中でもオペラと落語は最も長い年月を重ねている。しかし、昨今はそれ以上に生活の一部に食い込んでいるものがある。それは、生後1年半ほどの犬である。

 4年前に転居し、犬が飼える環境となった。動物愛護協会に連絡を取ると、講習会を受講せよとのこと。犬と飼い主との間に心の繋がりができることは、子供の頃の経験で知ってはいたが、犬を家族の一員として迎えると言うような覚悟まではできていなかった。単に番犬として犬が飼いたいと思っただけなのだが、えらく大げさなことになってしまった。さらに、しつけについても簡単なガイダンスが行われ、基本は、家族の中の最下位にあることを知らしめなければならないことも分かった。

 その後、いよいよ犬を貰い、ビーグル犬の雑種なので、ビッキーと名づけた。顔は獰猛そうだが臆病者で、家に着くまで這いつくばって動こうともしなかった。が、最近はとても良い番犬となり、宅配便が玄関に向かうだけで吼えるので、何かが来つつあることが玄関のチャイムが鳴る前から分かる。帰宅時には必ず気付き、30m程手前から白い尾の先を左右に振る。はっきり見える距離になると、三拝九拝の姿勢で迎えてくれる。ただ、夜は横着をして外に出てこない。犬小屋入口に顔を近づけて呼ぶと、眠そうな目を開けて、「時間外です」と言わんばかりだ。朝は早い。朝刊が来る前には必ず起きて、誰か外に出てこないかと待ち構えている。新聞を取りに行くと、狂喜して二足立ちをする。

 彼は土を掘ることと球根をかじることが好きである。玉ねぎを食べると貧血になるそうで、チューリップの球根も同じことになるといけないので食べられないように気をつけている。先日、土中にある門灯のコードを掘り起こしコードをかじってしまった。植物の苗を植えると、必ずそこを掘り返す。ともかくも、家族の中のいたずら者である。

 こんなビッキーだが、苦手なものがある。水と獣医だ。草木に散水をするときは、犬小屋に隠れて出てこない。終わったと見るや、小屋から出て跳びかかってくる。先日、ワクチンを射ちに獣医に行ったが、医院に入るまでは意気揚揚としていたが、入るや否や足がすくみ、這いつくばってぶるぶると震えていた。医院を出ると一目散に家に跳んで帰ってきた。

 次は、理工学部の樋口清秀先生にお願いします。

(2001年12月6日掲載)


お墓好き

中国四川省にて
中国四川省にて
文学部教授 土田健次郎

 生来出不精の私は、旅自体を楽しむ旅はあまりしない。その私が珍しく旅に出ると、せっかくだからとやたらに墓詣でをする。他からは暗い趣味の持ち主に見えるかもしれない。中国でも墓詣でに精を出したが、彼の地では墓は埋葬される当人が生前に予め風水のよい場所に定めておくために、場所がばらばらで、探り当てるのに結構骨がおれる。その時に知ったのは、柏樹を探すとよいことである。柏樹を墓のまわりに植えるのは中国の風習で、この常緑樹の喬木は永遠の象徴であり、またよい目印にもなる。

 墓歩きも結構刺激的である。一番思い出深いのは、洛陽の郊外の范仲淹の墓に詣でた時である。1986年1月のことで今とは違い旅をするには全て不便な時代であった。泊まった宿も大雨の水が部屋の床を浸していた。

 さてバスもないところなので、相棒とタクシーを雇って大雑把な地図をもとにそれらしい場所に行ってみた。当然ながら標識も何もなかったが、道行く農家の人をつかまえては場所を尋ね、じわじわと進んだ。畦道を広げた程度の道には時々大きな岩が転がっていたが、車を降りてはどかし蹴散らし、行軍を続けた。ただ不思議に思ったのは、道を聞いた人たちのほとんどが墓の場所を知っていたことである。范仲淹は11世紀前半に活躍した北宋きっての名臣である。さりながらその令名が今でも鳴り響いているとは思えない。よほど印象的な何かがあるのであろう。

 とこうするうち冬枯れの畑がとぎれ、草もまばらな薄褐色の黄土の大地が眼前に開けた。その中に忽然と浮かびあがったのは、2つの真四角な黒い柏樹の森である。1つは范仲淹の、もう1つはその子孫の墓域であった。その先には断崖がある。遠くからは何だかわからぬ爆発音が聞こえる。荒涼たる自然の中に人工の異空間がはめこまれたような光景であった。

 次はアジア太平洋研究センターの真野芳樹教授にバトンタッチする。真野君は高校の同級生である。

(2001年11月15日掲載)


焚き火

今年最初の焚き火です
今年最初の焚き火です
法学部教授 吉田裕

 八年ほど前に引っ越して小さな庭ができて、焚き火をするのが楽しみになった。高校時代は山岳部員で、週末はいつも山だったし、そのあとも友人や家族でキャンプをしては夏の夜を楽しんできたが、その火を取り戻した。とは言っても、猫の額ほどの空間だから、風のない日を選び、バケツに水を用意して、ほんの小さな火を作る。そして秋から木枯らしが吹くまでのほんの短い期間だけのことである。燃やすものは、時々出る不要の木製品、それに枯れ枝と枯れ葉を加える。

 火の色というのは、何と表現していいのか、飽きの来ないものだ。プラスチックなどは奇妙な色を出し、落ち着かない気分にさせるので、ダイオキシンのこともあるが、入れない。火の動きは、千変万化、見つめていると時間の経つのを忘れてしまう。燃え上がる時、熾火になった時、午後の斜光線の中、夕闇の中、とそれぞれに表情を変える。煙だって退屈させない。時々友人がやってきて、一緒にこの火を囲むことがあるが、彼はきっと面白そうに火をつつき、分かったような顔をして具合をなおしては、ビールを飲む。

 つい出てしまったが、熱い火の傍らで飲むビールは、私のような下戸にも本当においしい。子供の友だちも来るが、これも例外なく楽しそうに木片を差し込み、こわごわ火の粉をたて、灰を崩してみる(もうみんな大きくなってしまった)。彼らには例によって焼き芋のごちそうがある。これは子供でなくてもおいしい。ビールにだって合う。というわけで焚き火は我が家の歓迎メニューの最重要項目でもある。

 では次は四半世紀来の畏友にして、いまだ謎に満ちた(つまり何を公開してくれるのか楽しみな)文学部の土田健次郎氏へ。

(2001年11月8日掲載)


指圧もどき


これは指圧ではなく操体法(文中参照)のデモ写真です。
文学部教授 石井康智

 祖母の肩揉みを小さい時からやらされてきたことがきっかけで、肩を揉むことや指圧のようなことが、ささやかな趣味の一つになりました。

 私は母方のおばあちゃん子として育ちました。夜になると肩凝り症だった祖母の肩をよく揉まされました。すぐ上の兄は器用な人で肩揉みが上手でした。祖母から「(兄の)良道の方が上手」とよく言われましたので、いつかは兄より上手くなりたいと切に思いました。祖母は肩揉みしてツボにうまく入るとゲップが出ました。兄がやる時はそのゲップが沢山出るのです。

 ところで私は大学生時代、増永静人先生(京大心理出身、尊父の後を継いで指圧界に)の本を購入して指圧を勉強しました。大学院生時代には、患者として指圧師の所に通い、指圧手技を盗んだりもしました。助手時代には恩師の春木豊先生(人間科学部)が教えてくださった増永先生の医王会に、指圧を習いに行きました。また動作時の体性感覚に注目した操体法(運動系の痛み等に対し即効性)という技法にも出会い、さらに後年福増廣幸先生(かつて牛への人工心臓埋め込み生存記録で世界記録を更新した心臓外科医。後に東洋医学の発想から触手療法を始めた)の手技療法に触れ、私の自己流指圧はますます変貌を遂げてしまいました。

 祖母のゲップを笑っていた母も、60を過ぎて肩揉みでゲップが出るようになりました。親子ですね。面白いことに指圧でゲップが沢山出るうちはまだ大きな治癒力(元気さ)があることを実感しました。もう80半ばに届く母は、体調を崩すと私が「主治医」になり、指圧しながらゲップの出具合から病気の重さを推し測り、回復予測をしました。ゲップの出る事が幸いし、出具合は回復のバロメータになりました。触ってみると母の体調が手に取るように分かるようになったのです。母は私の手技を非常に信頼してくれ、この気持ちが大いに回復を早めています。気持ちのあり方は本当に大切です。1時間程の指圧やマッサージもどきで事がうまく運び、幸運にも大体一度の「治療」で大幅に回復してきました。いつしか技術は兄より上になりました。

 次回は、法学部の吉田裕先生にバトンタッチします。

(2001年11月1日掲載)


研究活動に役立たない趣味ばかりなり

やっと釣れた真鯛
▲やっと釣れた真鯛
人間科学部教授   柴田重信

 執筆を依頼され、さてあなたの「特技」「趣味」は何ですかと聞かれたら、ほとんど人に言えるものがない事に気付いた。特に特技といったものは全くない。そこで、「人並みの趣味を」と考えてみたら、まあ少しはあるかなということになった。

 私は早稲田大学に来る前まで博多に住んでいたので、ちょっとドライブして玄海灘で魚釣りを楽しんでいた。この趣味とて場所と時間を要するものであるため、福岡でも実行しがたく、ましてや所沢では至難の技である。写真は去年相模湾で、立派な鯛を釣り上げたときのものである。中央が私で、横が息子で、反対隣が日本学術振興会特別研究員の守屋君である。今年の教室セミナー旅行は川奈セミナーハウスを使ったので、防波堤から小さな、小さなメジナと石鯛が釣れた。お昼のバーベキューにから揚げ焼きにして、学生に振る舞うと、なかなか好評だった。「釣った魚は必ず食べよ」と教育している。

 ところで、こちらに来て一年くらい経ったとき所沢キャンパスに立派なテニスコートがあることが分かったので、土曜日には研究室の学生たちと汗を流すことにしている。私のテニスは口と老獪さが勝負のテニスであり、若者に負けないように頑張っている。我が研究室は「良く遊び良く学べ」ということで、私自ら実践しているところである。

 もう一つの趣味は庭仕事である。これまた東京に来て厳しいものを感じているが、車庫の隅の空き地を利用し、とにかく雑多なものを植えまくっている。これではとてもガーデニングといった代物ではない。

 毎日の研究競争は非常に激しいが、何か息を抜く時も必要であると感じているこの頃でもある。研究内容はホームページまで遊びに来てください(http://faculty.web.waseda.ac.jp/shibatas/)。

 次は文学部の石井康智先生にバトンタッチです。

(2001年10月25日掲載)


ナノテクとダイヤモンド

川原田 洋教授
理工学部 電子・情報通信学科 教授 川原田 洋

 ナノテクノロジーという言葉が新聞の経済面にも現れるようになってきている。その理由は、アトム・ビット・ゲノム(物質、情報、遺伝子)の各技術が邂逅する領域として、二十一世紀初頭の先端産業(情報、バイオ、材料)を支えるプラットフォーム提供への期待である。外貨獲得の大半を先端の製造業に頼るわが国の産業構造にあって、それを維持する上で死活問題だからでもある。

 この技術は、大きさのスケールでナノメートル(nm=10の-9乗m)を中心に0.1nm〜100mで生じる物理現象(機械的、電気的現象)やそのスケールで飛躍的に増殖する化学反応等を利用する。SF的な言い方をすれば、ナノマシン、ナノジェネレータ、ナノリアクター、ナノセンサからなるナノロボットが、体内等さまざまな環境で人の意志をナノスケールで実現することである。

 私の自身のナノテク経験は半導体集積回路(当時は10〜1μmのスケール、μmは10の-6乗m)から始まり、電子顕微鏡やトンネル顕微鏡で原子レベル(0.1nm)で半導体の原子配列観察に没頭した時期もある。ここ数年はまた作る側にたって、1μm〜10nmのところでトランジスタ、センサ等を開発している。当然、より小さいところでもの作りをしたいと思っている。

 同業の他の研究グループと違うところは、半導体にダイヤモンドを使っている点がある。ダイヤモンドは、人のスケール(指の制御範囲)では、機械的に丈夫で摩擦が少ないため、宝石、切削工具、軸受となっている。ナノの世界の方では、電気的にも化学的にも丈夫で、熱や電子を高速で伝える素材であるため、従来の素材では動作しない環境でのナノトランジスタ、ナノ化学センサへと発展しつつある。さらに炭素の生体適合性から体内埋め込み型バイオチップやプロティンチップへの期待もある。ダイヤモンドは大学の研究室で比較的容易に合成できるようになり、シリコン、カーボンナノチューブとともにナノテクにとって重要な素材の一つとなってきた。

 ただし、半導体からバイオへの道はなかなか険しそうである。そもそも生体分子の化学反応はナノスケールよりもはるかに小さな動きであり、半導体のような固体が生体分子の活動の役に立つのかという疑問も生じる。しかし、最近の研究では、生命誕生前の太古の海で、海底鉱物の表面構造やその構成原子が生体分子の基本構造(生命の前駆体)形成に(例えば、容器、足場、鋳型、触媒、反応物として)重要な役割を果たしたことが確実となっている。もともと鉱物(ミネラル)である半導体やダイヤモンドは、原始の海ではなく、21世紀のラボにおいて、ナノテクとバイオテクの出会いの場を提供するに違いない。

 次回は人間科学部の柴田重信教授にバトンタッチします。

(2001年10月18日掲載)


一枚の似顔絵

一枚の似顔絵
これにひげをはやせば今の私
語学教育研究所教授 岡村三郎

 30年前にドイツのギムナージウムで教育実習をしたことがある。
 大学4年生の時に、奨学金をもらってミュンヘン大学に留学した。ひょんなことでゲーテ・インスティテュート(ドイツ語とドイツ文化の普及をめざす組織でイギリスのブリティシュカウンシルに相当する)のドイツ語教師養成コースに入ってしまい、その卒業要件にはギムナージウム(日本なら中高一貫教育の学校に相当する)でのドイツ語授業の教育実習が入っていた。2カ月近くその学校に行き、ドイツ語の授業を参観し、自分でも授業を何回か試してみるというものだった。
 実習としてあるクラスでは詩を扱った。生徒たちは、熱心に授業に参加してくれたが、彼らにとっても日本人に習うのが興味深かったようで、授業の後、漢字を教えてくださいと何人かの生徒に取り囲まれた。その時一人の生徒がノートの切れ端を渡してくれた。見るとどうやら私の似顔絵らしい、嬉しかったのはサッカーボールを蹴っている姿だったことだ。ミュンヘンではサッカーは見るだけだったが、ベッケンバウアーがミドルシュートを決めたシーンを今でもはっきりと覚えている。
 その5年後、今度はライン川沿いの都市マンハイムの学生寮で生活することになった。この学生寮では火曜日の午後は男子寮生ほとんど総出でライン川の河川敷の芝生でサッカーをすることになっていた。私も下手の横好きで毎回参加した。シュートを決めることはほとんどなかった代わりに、ときどきミスしてボールをライン川に蹴り込んでしまった。その都度、近いところにいた人が、およそきれいとは言えないライン川にどぶんと飛び込み、ボールを取ってきた。その寮生に有り難うというのはもちろんだが、その夜は寮の地下にあるバーで彼にビールをおごらねばならなかった。それがこの寮の不文律だった。
 ずいぶん昔のことになってしまったような気もするが、黄ばんだノートの似顔絵を見るたびに学生時代に体験したドイツ、そしてサッカーのことが目に浮かぶ。

 次は理工学部の川原田洋先生にお願いいたします。

(2001年10月11日掲載)


園芸療法

さて今日は、ミントのハーブティーを飲みましょうか?
さて今日は、ミントのハーブティーを飲みましょうか?
芸術学校教授 卯月盛夫

 昨年十二月、私が設計した自宅に引っ越した。もちろん予想どおりに(?)毎日快適な生活を送っている。しかし以前の生活と大きく違ったのは、「庭仕事」である。
 それほど大きなスペースではないが、世田谷区のみどりの条例に合致するように高木、中木、低木も規定本数を植えた。そして花壇も作った。また旗竿敷地のアプローチ十メートルの両側には、ハンギングバスケットを二十程作った。つまり、結構張り切って見栄えの良い庭を作った。この庭の手入れが、実はなんと大変な仕事であった。
 樹種に合わせて肥料や薬を与え、土壌を改良しながら、雑草も取り、季節ごとの花を植える。そして毎朝、必ず水やりをする。近頃(七月)は全く雨が降らないので、一日でも水やりをさぼったら、花びらの元気が失せてしまう。家族は当初から庭仕事は手伝わないと宣言しているので、私が出張の時ぐらいしか水やりをしてくれない。
 この庭仕事が、近頃結構楽しい。枯れそうになった花が植えかえによって生き返るのを見るのは感動的である。また鳥や蝶が庭を訪れるのを見ながら、冷やした自家製のイタリアントマトを食べるのは、なかなか至福の時である。
 まだ四十代でこれは早すぎる、と言われるかも知れないが、ちょうど今、痴呆症高齢者グループホームの建物の設計が終わり、中庭の設計をしているので、実はこれが極めて役に立っている。既に海外では園芸療法の成果はかなり報告されているが、日本ではまだまだ事例が少ない。私自身もこの庭仕事でかなり癒されているという実感があるので、適切な指導者とプログラムによっては、痴呆症高齢者にもかなり効果があるのではないかと大いに期待している。

 次回は、語学教育研究所の岡村三郎先生にバトンタッチします。

(2001年10月4日掲載)