おおえ・たける
◎大学院アジア太平洋研究科教授。1964年日本大学理工学部物理学科卒業。米国、メリーランド大学理学博士(Ph.D.)、コロンビア大学経営学修士。ダイモジャパン社社長を経て、76年大江事務所を創業。98年より現職(新規事業論、起業家教育論)。主な著書は『なぜ新規事業は成功しないか 新版』(日本経済新聞社)、『起業家教育でこどもが変わる』(同、共著)。
 回想録 わが仕事人生

働くこと・起業すること

大江 建 大学院アジア太平洋研究科教授

好きなことをして社会に貢献する

長い研究生活から一転して会社勤め、そして起業へ。
「60歳までは自分の知らないことで飯を食う」をモットーに
いつでも「好きなこと」を追い求めて生きてきた。
そんな仕事人生を振り返り、働く意味を考えてみた。



1965年 アメリカ留学時代
ニューヨークの友人宅でのクリスマスは楽しい思い出

1972年 留学終了
履歴書の写真。営業の仕事はなかなか見つからなかった

1975年 コンサルタント時代
スイス
初めてスイスに行って、その景色の雄大さと美しさに驚いた。

1985年 コンサルタント時代
スイス
友人のスキーロッジへ。直前にけがをし、景色を見るに終わる。

1990年 学会にて
経営学国際学会にて。物理学では正解は1つだが、経営学ではそうではなく「儲けられれば正解」ということに驚いた。

1990年 コンサルタント時代 京都
南禅寺近くの豆腐懐石の店でクライアントを接待するが、クライアントはあまり食べられなかった。

2000年 早稲田ベンチャーキッズキャンプ
小中学生のための起業家教育を開催。参加者が作った商品を首に飾った

大学院での研究生活

  私には、サラリーマンの経験が二年間しかない。また、自分で稼ぐという経験が、他の人たちより十年間も短い。三十二歳まで、大学院で実験物理学のPh.D.をとるために奨学金による学生生活をしていた。また、三十八歳から二年間は経営大学院でMBAを取得するために自分の蓄えから、学生生活を送っていた。

 大学院には合計十年間も通ったことになる。成績が悪かったので、飽きることなく勉強し続けられたのかもしれない。なぜ三十二歳まで実験物理学を勉強していたのか、今でもよく分からない。しかし、難解な勉強が続けられたのは、「いったん始めたことは、終わらせる」という自分のガイドラインに基づいていたことは確かである。

 だから、メリーランド大学でPh.D.を取得した一週間後には物理学をあきらめることができた。指導教授に物理学を辞めると説明したが、あまり反対されなかった。物理学者としての可能性をあまり高く評価してもらえなかったのかもしれない。今、アジア太平洋研究科の博士課程の学生を指導しているが、学生に無理強いはしないことにしている。

就職して三カ月で 社長に任命される

  物理学科の助手を辞めたので、生活費を稼ぐためと経験を積む必要から、積極的に就職活動をした。日立やIBMなどの大企業の中央研究所などから研究員として採用してくれるという話があったが、私がセールスマンとしての採用を願い出ると、誰も興味を示してくれなかった。

 セールスマンを志望したのは、「売らなければ会社は成り立たない」という非常に単純な考えに基づくものであった。それまでは一切、ビジネスや社会のニュースに興味がなかったし、仕事をしたこともなかったので、私のビジネスの知識は大学一年生レベルであった。

 大企業はセールスマンとして採用してくれそうもなかったので、Japan Timesの求人欄から、「小さくて、儲かっていそうな会社」の募集を中心に探した。小さい企業なら会社全般のことを短期間でいろいろ学習できるだろうし、またすぐ昇進する可能性もあるし、儲かっている会社なら給料も多いだろうという考えに基づくものであった。

 幸いなことに、外資系のダイモジャパン社という、社員百二十人ぐらいの会社の新規事業担当課長に採用してもらった。なぜ私が新規事業担当課長なのかは分からないし、どんな仕事をやるべきかなども分からなかった。そこで、会社が直面しているさまざまな問題について物理学で習得した論理的な手法を利用して、三カ月間いろいろなレポートをまとめて提案していたら、急にアメリカ本社の社長に呼ばれた。

 そして、日本支社の社長に任命され、経営のリストラを命じられた。まだ働きだして数カ月で、リストラの意味もよく理解していなかったが、社長になることは、私のキャリアにとって損になることはないと考え、引き受けた。会社にとって私が適任だとは思わなかったが、それは私ではなく、本社の社長が考えることであると割り切って、私自身は深く悩まなかった。

コンサルタントになり 会社を立ち上げる

  試行錯誤の末、二年間でリストラを終わらせた。しかし、いちいち本社の意向をチェックしなければならず、「社長でも、雇われ社長は嫌だなあ」という気持ちが強くなってきたので、会社を辞め、経営コンサルタントになることにした。

 といっても、公認会計士や中小企業診断士や司法書士のような資格の試験を受験し、合格してから、とは考えなかった。試験には合格しないという変な自信があったからだ。

 名刺にコンサルタントと印刷すれば、コンサルタントになれるので、株式会社大江事務所というコンサルティング会社を起業した。幸いなことに、前の会社が最初の顧客になってくれた。ありがたいことである。しかし、一社だけでは経営が安定しないので、数社と契約することを考えた。

 ここで、核融合の勉強が役に立った。核融合の実現には、プラズマ状態を安定的に保持する必要がある。そのためには、「Dynamicな方法」が「Staticな方法」よりも優れていることが実験的に証明されていた。

 つまり、生活を安定させるために会社に勤めていることは、Staticな安定で、コンサルタントとして数社と契約することがDynamicな安定ではないかと勝手に類推した。この考えにより、有名な大企業に勤めていなくても全く心配しなかった。

 コンサルティングの分野には、半導体を選んだ。深い考えがあったわけではない。産業の「米」になる分野がいいなあという思いからである。

 コネもなく、誰も知っているわけでもないので、世界の半導体メーカー十社の社長に直接、手紙を書いた。返事が来た会社の中で、一番大きな会社だったフェアーチャイルド社とコンサルティング契約を結んだ。

 コンサルティングの内容は、日本におけるマーケティング戦略のアドバイスである。マーケティングを本格的に勉強したわけではないが、物理学で学習した、「問題を明確にして、仮説を立ててそれを検証する」という、実験計画法の手法を利用した。

 また、名古屋大学にあった核融合研究所情報センターで、核融合研究計画のコンサルティングを引き受けた。奨学金をもらって勉強した物理学を放棄した罪滅ぼしの意味を含めて、これは手弁当であった。

 ここでは、経営学で学習した方法論を利用して、「研究の研究」を行った。つまり、研究活動の成果や研究費との関連などを調査した。ビジネスの指標や分析方法を利用するために、一つの類推が必要であった。研究活動において売上に相当するものが何か、という問題を最初に解決する必要があった。

 そこで、「論文を発表したり、出版したりする」ことがまさに「売上活動」ではないかという類推を立て、利益に相当するものが、引用論文数であり、また特許数や、核融合係数(電子温度、閉じ込め時間、電子密度を掛け合わせたもの)であると類推をした。いったん、これらの類推ができると、利益率に相当する研究貢献率(引用論文数/出版論文数)とか、経験曲線に相当する研究努力曲線(核融合係数/累積論文数)とかいった新しいコンセプトを提案することができた。しかし、多くの研究者から論文数を売上高と同様に扱うことに反発をもらったが......。

四十歳を目前に 新しい分野へ進出

   経営コンサルティングが自分に適しているのではないかという自信がわいてきたのは、三十五歳ぐらいのことだった。小さい時から自分が何をしたいかが分かっている人をうらやましく思ってきたが、本当に分かっているのかと疑問にも思う。

 四十歳になる前、経営学を勉強しようと思い立ち、大江事務所から自分自身の有給休暇を勝手に取って、要するに大江事務所をいったん休業し、コロンビア大学のMBAプログラムに留学した。

 六百人中二十人近くの人は、私と同じようにいろいろな分野の博士号を持っていた。博士号取得者の就職問題を各自が試行錯誤で解決しようとしているのだなあ、と心強く思った。

 私がMBAを始めた一九七九年は、アメリカのビジネススクールがベンチャーについて教え始めた時期だった。ここでベンチャー学と出合い、アントレプレナーシップとかベンチャーとか新規事業とかに、学問的にも興味を持つことになる。

 帰国後、大江事務所も起業や新事業を中心に行おうと方向転換をした。そして、LSIロジック社やコグネックス社などの立ち上げコンサルティングを手がけた。

 しかし、自分の好きなテーマでコンサルティングをすることにフォーカスしたため、大江事務所は大きくはならなかった。起業家としては、失敗である。

 その間、ベンチャーや新事業への学問的興味から、手弁当で研究をし、「成功する起業家の特性;違うけれど違いすぎない」などの研究成果を海外の学会で発表していた。それが縁で、松田修一先生に呼ばれて九八年から早稲田大学の大学院でアントレプレナーシップや新事業を教えているわけだ。

好きなことをするために 自ら負う責任

  私にとって「働くこと」は常に自分の好きなことをすること、そして常に勉強することである。重要なのは、いつでも自分が好きなことができるように、学力的にも、体力的にも、精神的にも、生活面でも準備しておくことだ。

 それを実行するための私のガイドラインは「六十歳までは常に自分の知らないことで飯を食う」という決意だった。今はその歳を超えてしまったが、相変わらず「自分の知らないことで飯を食って」いる。

 早稲田大学で勉強できることは皆さんの特権である。しかし、これから先、自分の好きなことをするには、自分自身で責任を負わなければならない。また、社会に貢献することも自分自身に対する責任である。

 就職や起業をするときは、自分がしたいことをできるかどうか、社会に貢献できるかどうかで決めるべきなのだ。幸い、好きなことができるだけ日本は自由で、豊かである。


(2006年9月30日掲載)




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First drafted 2006 Sep 30.