大学院日本語教育研究科教授
蒲谷 宏
(かばや・ひろし)
 1986年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。語学教育研究所、日本語研究教育センターを経て、2001年より現職。「〈言語=行為〉観」に基づく日本語学・日本語教育学の構築を目指し、現在は「待遇コミュニケーション」を専門として、その研究・教育研究・教育実践を行う。
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 Essay [コミュニケーション考現学]

きもち・なかみ・かたち
〜三位一体で「大人」の敬語コミュニケーション〜

大学院日本語教育研究科教授 蒲谷 宏

蒲谷先生が受け持つ「敬語コミュニケーション」の授業
蒲谷先生が受け持つ「敬語コミュニケーション」の授業
「パンがいいですか?」、「パンでもいいです」等の日本語の細かいニュアンスに、留学生は敏感に反応する。
「パンがいいですか?」、「パンでもいいです」等の日本語の細かいニュアンスに、留学生は敏感に反応する。

  「敬語」がきちんと使えるようになりたい、使えなければならないと思っている人は多い。その一方で、「敬語」を使うことに対して抵抗を感じるという声もよく聞く。アメリカからのある留学生は、サークルでの先輩後輩関係の敬語使用に対して嫌悪感を覚えると言っていた。上下意識への違和感以上に、自分の気持ちを偽り、演じる姿勢に対する抵抗があるということだった。

「敬語」が使えるということと、「大人」であるということとは、関係が深いように思う。社会生活の中で、上下の関係に配慮し、立場や役割を認識できることが「大人」である。しかしその際に、自分の本当の気持ちを隠し、相手を欺くことができるのも、社会に適応した「大人」の一面だと考えられている。こうした「大人」であることの持つ両面性が、「敬語」に対する必要性と嫌悪感とにつながっているのではないだろうか。

 しかし、「敬語」を使うことを選ぶのは、あくまでも自分自身である。〈使いたくないけれども使わされている、自分の意思に反した表現をしている〉というのは、「大人」の態度であるとは言えない。「敬語」を使って適切に表現するということは、自分が伝えたい「きもち(意識・意図)」について、さまざまな「人間関係」とそれぞれの立場や役割を理解し、その時々の経緯や状況に対する認識をした上で、ふさわしい「なかみ(表現内容)」を選び、それを適切な「かたち(表現形式)」に乗せて表していくということである。これが適切にできることが「大人」の「敬語コミュニケーション」なのであって、相手や自分自身に嘘をつけることが「大人」なのではない。

 実際のコミュニケーションでは、思っている以上に「きもち」は伝わるし、また伝わってしまうものである。例えば、本当にほめたい「きもち」があってほめる場合と、単なるお世辞でほめている場合とがあるが、「きもち」が込もっていればどういう「かたち」であってもそれは伝わるし、いくら上手に「かたち」だけ整えても、それにふさわしい具体的な「なかみ」が伴っていなければ、「きもち」のないことが伝わってしまうのである。「きもち」を隠して偽りの「かたち」を示すことは、本当に成熟した「大人」のコミュニケーションであるとは言えない。〈裏表をうまく使い分けることが大事だ、軽蔑している相手にも敬語を使っておけばいいんだ〉などと嘯いていることは、むしろ「子ども」じみた態度である。

 もちろん、「きもち」だけがすべてではない。真に「大人」のコミュニケーションへと脱却するためにも、「きもち・なかみ・かたち」が一体化した「敬語コミュニケーション」が必要なのだと言えるだろう。

(2005年10月29日掲載)




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First drafted 2005 October 29.