第一章 アジア通貨危機とバーツ下落の背景

 97年7月2目、タイ中央銀行は、通貨バーツの事実上の切り下げを容認し、これを契機にバーツは1ドル24.7バーツから28.5バーツヘと15.4%も急下落し、しかもこの後もバーツは30%以上の下落をみせたのである。
 そしてこのバーツ危機はアジア全体に波及し、今やアジア金融恐慌の様相すら呈しているのである。しかも10月下旬から叫ばれている世界同時株安…。私はこの経済恐慌の根底にある背景を分析することを目指してきたここにその一端を明らかにしようと思う。

タイ経済の構造的矛盾の爆発…バーツ暴落とその意味

 今回のアジア通貨危機とアジア・バブル連鎖崩壊、その震源は、言うまでもなく7月2目、タイ通貨バーツの相場決定方式が管理フロート制(いわば実質上の管理変動相場制)へ移行したことに端を発したタイ・バーツの大幅な下落に他ならない。だがこのことはむしろ、タイ経済に長年にわたってはらまれてきたいくつかの構造的矛盾が今日の世界情勢の変化によって爆発したことなのである。以下にその構造的矛盾の説明に入る。

(1)外貨依存の経済成長政策

 タイは、輸出現品を中心にその産業分野を工業化していく国家戦略をとり、これは先進資本主義国資本の直接投資を導入することによって実行された。だがしかし、この政策は、当初、生産設備の高度化がなされておらず、そして何よりも先進国の直接投資の最大の目的が、タイの低廉な労働力を使用することであるがゆえに、生産工程の単純な一部分のみを大量に移管されることとなったタイにおいては、機械設備、中間部品、原材料などの大量の海外からの輸入をともない、工業化の進展に平行して、常に莫大な経常赤字を生み出す経済構造をもったのである。
 そもそも、タイは、この輸入製品主導型の工業化政策を外国資本を利用することを通して実行していくことになるが、外資の導入にあたって2つの方策がとられたその1つが、先進国企業やアジアの華僑企業を、その製品の生産地としてタイへ誘致し、タイの現地企業と合併することで輸出産業の育成と工業化をはかること、つまりは外国資本による直接投資である。そしてもう1つ、そうした進出企業の資金調達として、戦後、東アジアにおける最大の金融市場の1つとなった香港を中心に、海外から外貨資金を獲得することである。そして、この海外からの資金の流入を保ち、かつ促進するうえでなされたのが、為替レート変動の「安定化」政策であり、それにもとづいて為替相場は84年から、「バスケットペッグ方式」と呼ばれる制度によって運営されていたのだ。(「バスケットペッグ方式」とは、自国の為替レートを決めるにあたって、米国のドルや日本の円など主要国の通貨を一定の割合でバスケットにいれて、その主要国の加重平均したものに自国通貨を連動させる方式)。タイは、バスケット内のドルのウェートを高くし(推定で米ドルが8割と言われている)、実質上ドルリンクの為替政策をとっていたわけである。
 この「実質ドルリンクの為替政策」によって、バーツの為替レートはドルと連携し、つまり、“予想できる範囲内で”変動することになり、海外の投資家や銀行、金融機関は為替レートの変動リスクの恐怖から一時解放され、タイへの投資を進めることとなったのである。そして同時に、タイは、近年、金利を米国より常に5%程度高く設定することにより、こうした海外からの短期資金を呼び込み・その流入は年々増加の一途をたどるようになった。また85年のプラザ合意による超円高もタイ国内への直接投資を後押しし、タイの高度経済成長が始まったのである。

(2)中国への直接投資の移転とバンコク・オフショア市場の開設

 こうした中で、タイは95年までの10年間においては、GDPで換算すると、平均10%近い伸びを見せ、タイ政府にとっては束の間の夢となった。これは、80年代後半になり、アジアNIESの為替相場の上昇と、これらの国において労働賃金が上昇したことによって、より安い労働力を求める先進国資本がその労働集約型産業の移転先を、NIES諸国からASEAN諸国へ変化させてきたがゆえなのである。特にタイは、反共国家として活況を呈することとなったのである。特に、日本企業は先進5カ国(G5)介入後の急激な円高の中で、アジアでの進出処点をタイを中心とした東南アジア諸国に向け、タイのこの10年間の「成長」を支えてきたのである。
 だがしかし、90年代に入り、タイのこの経済「成長」に崩壊の端緒が見られるようになる。この時期に、東南アジア華僑資本や日米の独占資本の投資が、タイから、中国へ向かい始めたのである。これによって、93年のタイの直接投資受入額は前年の1000億ドルから430億ドルヘと57.1%もの激減を見せることになり、そして一方、この年の中国への直接投資額は、前年の561.2億ドルから1114.4億ドルへ54%もの急激な増大を見せる。資金流入を大幅に失ったタイは、その経常赤字を表面化させることとなる。
 そこでタイは、この経常赤字の補填を目的として、そして同時に、当時、タイヘ進出した企業の資金調達が頭打ちになっていたという状況を乗り切る必要から、「タイをインドシナの金融拠点とすること」を目指し、バンコク・オフショア市場(BIBF)を開設、海外からの投資目当ての短期・外貨資金の導入をはかったのである。(オフショア市場制度とは、タイ中銀から認定を受けた銀行=BIBF行がオフショア市場を通じて海外からの外貨を取り入れて、それを外貨のままタイ国内の企業に貸し付けることができる制度)。このオフショア市場制度により、タイに住まない非居住者の自由な資本取引が可能となった。これに加えて、タイは、バーツの高金利政策と、バーツ相場を米ドルとと連動させることによって為替リスクがほとんど生まれないという金融政策を維持し続けることで、諸外国から大量のドル資金が国内へ流入することになる。またこの93年には、オフショア市場開設の他にもタイは非居住者のバーツ預金を許可するなど、金融市場の対外開放を一挙的に推進したのである。このオフショア市場制度導入を中心環とする金融自由化によって、タイヘの資金流入は数量的には上昇し続けることとなる。
 だが、これを契機に、タイの経常赤字は、94年を結節点として飛躍的に伸び続け始め、しかも、94年からの資金流入のうち借入金が70%も占めることになったという事実からも分かるように、タイは、慢性的な貿易赤字中心の赤字体質に加え、さらに債務によっても赤字を増大させるという致命的な経済構造を持つに至ったのである。95年には、タイの対外債務の増加額は何と72%がBIBF経由でタイに流入してきたものなのである。

(3)輸出停滞と経常赤字の飛躍的増大

 とはいえ、95年まではタイは中国やASEAN諸国向けの衣類、紙などの労働集約型産業と、日本、アメリカ、シンガポール、台湾などのNIES諸国向けのICなどのコンピューター部品や、電気部品、電気製品の輸出をのばす一方で主に電気、電子機器や機械機器などの分類や紙や繊維などの軽工業において日本をNIES諸国を中心に直接投資が拡大したことによって、94年、95年は8.0%台のGDPの伸びをみせた。とりわけ、95年には直接投資は過去最高の4109億バーツを記録したのである。特に、90〜95年までは、円のドル為替レートは、それ以前に比しては円安であるとはいえ、円高傾向で推移したため、製造業を中心に日本企業は、94年から東南アジアヘの直接投資を増加させ、(92から93年は低落傾向であった)、タイの94年から95年の投資に大きな割合を占めたのである。
 しかしながら、94年に中国がそれまでの公式レートを1ドル=5.7人民元から8.7人民元に通貨切り下げを行ったことを契機として、中国製品がその低価格のゆえに、ASEAN諸国が対米・対日輸出産業としてきた繊維、衣料、玩具、雑貨、家電製品をその輸出市場において駆逐し始めたのだ。特に95年には、中国製品に加え、台湾元切り下げにともない、タイ製品は台湾製品との競争激化にもさらされることになり、タイの輸出は完全に頭打ちとなったのである。しかも、おりしの世界的なコンビューター製品の供給過剰と、円安下でのエレクトロニクス中間財などの部門での日本国内製品の競争力拡大という世界経済の条件がこれに拍車をかけ、タイの96年の輸出増加率は20%もの激減を見せたのである。この輸出激減は、タイの労働賃金の上昇によってタイ製品の価格競争力が低下し、中国をはじめとする各国にそのシェアを奪われたことを意味している。
 タイ国内の賃金は、その労働力不足から、90年から93年の4年間で2桁の伸びを示し、90年代を通じて現在まで9割以上も上昇し、(ちなみにタイの製造業の賃金は、フィリピンの1.5倍、インドネシアの4.4倍である)、一方、先進国の諸独占体はこのタイの賃金上昇を嫌い、中国を中心に、インドネシア、フィリピンなどにその新たな直接投資先の比重を移しつつあり、こうした中国に進出した外資系企業がタイを脅かしていることからして、96、97年と続くタイの輸出不振は根本的には、先進国資本の中国進出にもとづいているのだ。
 そして、この輸出の不振により、タイはさらなる貿易収支の悪化に見舞われたのである。つまり、タイは、殊に88年以降、外国資本の直接投資により機会機器、電気機械産業の生産設備の工業化を推進してきたのであるが、基礎産業や部品産業が未熟であるがゆえに、こうした工業化にまさに比例して、海外から資本財、中間部品、工業原料の輸入が増大し、それに伴う貿易赤字を膨張させることになる。そして96年以降のこの輸出の減退は貿易収支を悪化させ、貿易赤字の拡大を生み、タイの経常赤字をスパイラル的に上昇させたのである。95年、96年のタイは、それぞれ135億ドル147位ドルもの巨額の経常赤字を記録することになるのだ。

(4)タイ版バブル崩壊とバーツ暴落

 それだけではない。タイ国内においては95年までの国内消費、輸出の両面の拡大を受けての設備投資競争によって、深刻な過剰投資の状況が現出しているのである、自動車産業を例にとれば、日本、アメリカなどの自動車独占体が相次いで96年に、タイへ工場を建設し、2000年段階でタイの生産能力は、96年の市場規模の倍に相当する120万台を越すまでと言われている。こうしたタイ国内市場の限界露呈と輸出の伸び悩みによってタイはすでに資本の絶対的過剰の状態へ陥りつつあるのだ。しかも、この過剰投資は、外資の進出によってその生産能力を高めた中国とタイとが、生産力や設備の高度化の面での差異が失われつつあるがゆえに、価格競争力に劣るタイが設備投資によって産業のさらなる高度化をはかった結果なのである。そして、悲劇的なのは、タイはこの中国との輸出競争を資本構成の高度化と共に労働力の大量購入によって行ったということが、タイの過剰投資に拍車をかけることとなったということである。(タイの近年における労賃の上昇はこれにもとづく。)
 そして一方、こうした巨額の投資を支えたのが、BIBFを中心としてタイへ流入した大量の短期外貨資金に他ならない。だがしかし、高金利と為替リスクの無さを条件として、流入した外資の量は莫大な額にのぼり、やがては長期的投資資金(具体的には設備投資や労働力の購入にあてられ、直接に資本の拡大再生産を目的とする貨幣資本)の需要を越え出て、大量に余剰となったた資金が不動産投機や株などの証券投資へと回り始め、金融機関の不動産、オートローンなどへの貸し付け競争も激化し、バブルを生むことになるのである。
 しかし、この不動産開発が供給過剰に落ち込むや否や、不動産価格は急激な下落を見せ、バブル崩壊を呼ぶことになる。これによって、タイの金融機関は多額の不良債権を抱え込んだのだ。一説によれば、タイの金融機関は不動産融資の約4割、総額130億ドルにもわたる不動産関連の不良債権をもっていると言われている。こうしたタイ国内の金融機関の経営悪化は、タイの金融システムへの信用低下をもたらし、諸外国の投資家のタイからの短期資金撤退=バーツ売りが雪崩をうって始まるのである。
 それに加えて、BIBFを経て巨額の資金が流れ込むことにより投資超過が進展し、経常赤字を急速に生み出す大きな要因となっており、そして、輸出低迷という状況の中で、従来タイが抱え込んでいた貿易赤字が増大していることとも相まって、タイの対外債務残高と経常赤字はここにきて、過去最高となったのだ。そして、この赤字の対外決済は、ドルで行われるため、バーツ売り・ドル買いが急速に進むこととなる。
 この経常赤字決済と投機筋の撤退に規定されたバーツ流出によるバーツ価格の下落傾向への対処として、タイは外貨準備を切り崩しバーツ価格を維持するために、ドル売り・バーツ買いを続げたが、バーツ売りの流れは止められず、直接には2回に及ぶアメリカの機関投資家のバーツ売り・ドル買い攻勢に抗せず、(その中でもかのジョージ・ソロス氏のタイヘの攻勢は激しかった)、これを契機にして実質上の変動相場制=管理フロート制へ移行することとなったのである。そしてこれを境にして、バーツは下落し続け、バーツ暴落=バーツ危機が現出したのである。

(5)タイ・バーツ危機の意味とは

 ここまでの考察からこの危機の大枠の流れは、好調に見えたタイ経済は実は外資に完全に依存していると言う内実を持つものであり、諸外国の追い上げ等の諸問題によりその体質の不安定性が高まったところに不良債権問題=バブルが発生、そして崩壊した。そこからタイ経済の先行きに対してあざとい外国投資家の撤退が起こり、タイ当局は今までの為替政策=固定相場制を維持できなくなったタイ経済は大混乱に陥り、企業の経営不振や倒産が相次ぎ、自力で立ち直る術を持たず(タイ蔵相のタノンはてテレビで「自らの力で立ち直ることはできない」と発言)、外国からの援助に頼るほかなくなってしまった、というところであろう。このことは、まぎれもなく外貨依存型経済発展の脆弱性の露呈と言えるだろう。内実抜きの経済発展=国民経済指標の数値の上昇のみを自己目的化したものの末路と言えなくもないのではなかろうか。とにかく今後タイ政府は、今までの経済体質を抜本的に変える必要をせまられたのである。

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