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シリーズ・経済ジャーナリストインタビュー2015 <第38回>棚橋弘基氏

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 1938年生まれの棚橋弘基氏は、終戦時に群馬県渋川市に疎開していた。 その後、浦和市に移り、浦和高校卒業後の浪人時代に、戦後混乱期に事業に失敗、生命保険の歩合外務員をしていた父親が米軍トラックにはねられ死去。 経済的に苦しいのを知った父親の勤務先第一生命が特別に中途採用してくれたという。 翌春、夜間学部である早稲田大学の第二政経学部に入り、勤労学生の生活をおくった。 ただ、幼い頃から新聞記者に憧れていたこともあり、転職を決意。 当時の部長の協力も得て、新聞社を受験、幸い日本経済新聞社に合格。1961年からジャーナリストの世界に飛び込んだ。
 最初に配属されたのが市場部(現在の証券部)。 専門用語が飛び交う兜倶楽部での慣れない取材に苦労したが、そこで経済のイロハを叩き込まれたのが後々大いに役立った。 印象に残っている事件は山一倒産。先輩記者の下働き程度だったが、 新聞7社の取材協定に入っていなかった西日本新聞にスクープされたときの悔しさは今でも忘れない。
 1969年に「日経ビジネス」創刊時の担当記者に転じ、日経初の経済雑誌編集で悪戦苦闘した。 二年後証券部に戻った後、1973年にニューヨーク特派員になり、金融・証券専門記者としてウォ-ル街の取材に専念した。 その間、昭和天皇が訪米、随行した東京社会部デスクとともに昭和天皇のお人柄に触れる取材が出来たことも印象に残っている。 3年間の滞在中、NYニックス、ヤンキースなどの大ファンとなり、今でもアメリカ大好き人間を誇っている。
 帰国後、証券部デスクや経済部デスクを経て、1983年に証券部長に就任。 株価の史上最高値を経験したほか、大阪取引所の日経平均先物導入に際し、大証調査団の一員として実現へ向け直接関わったことが印象に残っているという。 1987年にマーケット拡大に対応しようと「日経金融新聞」創刊を進言し実現。初代編集長に就任。 「複眼独眼」、「スクランブル」など金融の裏側をえぐるコラムを掲載、また日銀総裁の記者会見を完全収録するなどして専門家の好評を得た。
 その後、日経グループ会社のQUICKに転じ、2000年に社長に就任。 ちょうど金融機関の再編成がおこり、株価も急落、一方、この分野の技術革新が急速に進行する時代だったが、 その変化に対応する新機種・システム開発に努め、経営の安定化を図った。ロンドン・クイックハウスの売却などスリム化も進めた。
 棚橋氏は、今後の経済ジャーナリズムについて「複雑化する世界の諸情勢、新しい通信手段の普及もあり、 原点に戻って経済に対するしっかりした眼、健全な批判精神を持った人をどう育てるかが重要」と語っている。

   インタビュワー
主担当:落合修平、副担当:谷所日向子  

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