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シリーズ・経済ジャーナリストインタビュー2015 <第21回>萩尾千里氏

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 萩尾千里氏は1937年、愛知県に生まれる。 八歳で終戦を経験、熊本へ移り住む。 高校では野球に没頭し、野球の強豪であった関西大学の商学部へ入学した。 大学卒業後、兄からのつてで、1960年日刊工業新聞社に入社。大阪支社の神戸支局へ配属、中小企業の担当になる。 物作りより経営に着目するようになり、昭和40年不況では企業の信用状況を取材。 戦後最大の倒産となった昭和40年の山陽特殊製鋼倒産の情報をいち早く掴んでいたことなどから「倒産記者」と呼ばれた。 1966年には大阪支社へ戻り鉄鋼を担当した。鉄鋼や周辺の分野に深く精通し、企業へ足繁く通い、信用を得る。 「一次情報をくれるのは、やはり人間です。企業経営もコンピュータではなく人間が判断して行うものなので、 人間との密接な対話を大切にしなければ、本当の取材はできません」と語る。 1968年には当時富士製鐵の社長だった永野重雄氏に直接取材し、富士製鐵と八幡製鉄の合併をスクープする。
 数々のスクープの実績から、1969年に朝日新聞社に中途採用される。 戦後初めての中途採用であったが、初めから大阪経済部に配属される。 「最初の一年はカルチャーショックの連続だった」と言う。 「『日刊工業新聞』は産業だけの視点で取材をしていましたが、『朝日新聞』は社会に視野を広げ、その中の経済という視点です」 また、『朝日新聞』は「赤」一色ではなく右も左も両方の記事を載せる新聞だったと言う。 その中で「初めて会った人から聞いたことを記事にしてはいけない。 背景も人脈もビヘイビアも分からない人が言ったことに、どこまで真実性があるか分からない」を教訓に、 人との関係を重視した取材を続けた。三年間の東京勤務を経た後、大阪へ戻り、1977年から十年間編集委員を務める。
 1987年、関西経済同友会事務局長更迭により、その後任として常任理事事務局長に就任することになり、朝日新聞社を退社。 中国や米国の財界人や知識人たちとの民間交流を推進。国際問題を動かすには「産官学の橋梁体制が不可欠です」と述べる。 2000年には共産党からの申し出で、当時書記局長だった志位和夫氏との対談を行い、堂々と共産党を批判した。
 今のジャーナリズムは左右のバランスが取れていて健全な一方で、今の記者は人間関係を築くことが下手だと指摘する。 そして、財界人にとってもジャーナリストにとっても「物事を達成するには、まず志と夢を持ち、先見性、洞察力、構想力をもってシナリオを書き、 実行力をもってそれを形にすることが大切です」と語った。

   インタビュワー
主担当:鈴木翔太、副担当:落合修平  

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