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シリーズ・経済ジャーナリストインタビュー2015 <第16回>大軒由敬氏

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 大軒由敬氏は1950年東京で生まれる。 小学五年生から中学三年生までを関西で過ごした後、麻布高校に進学。 1970年に一橋大学社会学部に入学。 「私達の世代は学生運動の一番盛んな時代を経験しているが、その渦中にはいなかった特異な世代」と証言する。 家庭裁判所の調査官と迷った結果、1974年朝日新聞社に入社する。
 最初に配属された秋田支局では、温かくて家庭的な職場や先輩に恵まれながら、 言葉が通じない「異国」を楽しむ一方、秋田市市長選の立候補予定者が、立候補の断念に至ったとの特ダネを獲得。 1978年に宇都宮支局に異動し、1979年大平内閣時の総選挙を取材。 前回の総選挙で落選していた小平氏が再出馬を断念して引退を決めたという特ダネも得て、政治取材の面白さを知る。
 1980年に東京本社経済部に移り、同じ一橋出身の部長の下、証券、農水省、日銀を担当した。 兜町のシマ言葉に苦戦しつつも相場を記録。 「動きを見るだけでなく、これは何を反映しているのかというのを読み解く必要性に経済取材の本質がある」 と主張する。 1984年から人事交流で科学部に一年四ヶ月ほど在籍した後、1985年に経済部に再び戻り、 「ウィークエンド経済」を担当。 当時流行っていた「財テク」の取材をした。 1987年には大蔵省の担当となり、バブル絶頂期に、竹下内閣による消費税導入を追い、多数の記事を執筆する。
 消費税が導入された1989年には大阪本社の経済部に異動し、 1991年に東京本社に戻り、当時刊行三年目の『AERA』を担当。 副編集長となり、様々な専門性を持った人達と仕事をし、関心の幅を広げた。 また、経済記事の書き方の違いも実感した。そこで、「ゼロ成長を楽しむ」という持論に基づく特集も出した。 1994年には経済部次長に就任し、長期の企画記事である「負担増の前に」を担当。
 1997年から紙面委員、『asahi.com』の編集長、データベースセクション・マネジャー、 朝日ホール総支配人などを経て、2005年には企画報道部長兼『be』編集長としてオピニオン面を担当した。 2006年に論説委員、2007年に論説副主幹となり、シリーズ社説「希望社会への提言」を担当。 2010年から2012年までは論説主幹を務めた。 その間、2011年3月11日の東日本大震災とそれによる原発事故の発生を受けて、 署名論文「提言 原発ゼロ社会」と、関連する社説五本を2011年7月13日朝刊に掲載し、 『朝日新聞』の社論を原発容認から原発廃止へと転換させた。 社内のコンセンサスをとりながら提言を取りまとめるまでの過程は、 後に夕刊の連載『原発とメディア』の最終シリーズで報告され、単行本として刊行されている。
 大軒氏は戦後経済ジャーナリズムの反省点として、オイルショックを予見出来なかったことと、 バブルを作って崩壊させたことを挙げ、「経済記者の役割は破綻の程度をなるべく少なくなるようなことを考えつつ、 きちんと取材しそれを伝えること」と述べた。

   インタビュワー
主担当:内村美夢、副担当:齋藤周也  

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