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シリーズ・経済ジャーナリストインタビュー2015 <第15回>尾関謙一郎氏

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 尾関謙一郎氏は1950年東京に生まれ、1969年に進学した学習院大学では大学新聞の発行と改革に努めた。 小学生の頃に見たテレビドラマをきっかけに新聞記者を目指し、1975年に読売新聞社へ入社。
 入社後配属された福島支局を経て、1981年に社会部へ異動。 1982年に起きた日本航空350便墜落事故の現場取材をした経験から 「現場で見たというだけじゃ駄目で、『気が付く』というのが本当の報道記者なのだ」と「後で気が付いた」という。 その後入社10年目で社会部から経済部へと異例の異動となる。 外務省、農水省、通産省とクラブを変えつつ、当時「コメ開放」で注目を集めていたウルグアイラウンドを長く追いかけ続けた。 その中で経済取材における多角的な見方の必要性を実感した。 また、企業の社長交代や合併のスクープでは、企業の広報や匿名情報の扱い、吟味の難しさを体験した。 日銀キャップを離れる頃に、バブル経済の崩壊が始まり、マクロ経済の政策ものから、民間の金融ものへと経済記事の中心が変わってゆく流れだったという。
 1994年に経済部のデスクを務め、1996年にはJリーグのヴェルディ川崎の広報部長になる。 当時の広報対応について「スポーツジャーナリズムであって、経済ジャーナリズムとは全く違うということが最初は気がつきませんでした」と語る。
 2001年から一年間は、社長室宣伝部長としてピクチャートレインの企画やCMへのタレント起用など積極的な広報活動を展開した。 翌2002年にはプランタン銀座の取締役広報担当となり、これまでとは質の違う「女性をターゲットにした広報活動」を経験した。
 尾関氏は経済報道について「一般の人に物凄い影響を与えているという自覚を持たなきゃいけない」と述べ、 「ニュースを政経社国際という部門で考えれば、…読者に一番関係があるのは経済なのだ」が 「それが難しいとか、関係ないとか思われたりするのは…書き手のせいで、経済ジャーナリズムのマイナス面だ」と言う。 特に速報が要求される経済ニュースだが、ネット時代には、速報とデータと解説とをそれぞれ別の人が担当するように分化するべきではないかと尾関氏は語った。

   インタビュワー
主担当:則常麻里子、副担当:山田日月  

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