ブラジルの人種           

 田中 さゆり

 

はじめに

アメリカの人類学者チャールズ・ワグレーはかつてアメリカ大陸の人種関係に関して三つの地域分布を行った。一つ目に血統主義の北アメリカ、二つ目に文化的基準を重視するメキシコ、グアテマラ、中央アンデス諸国、三つ目に身体的特徴を重視するブラジル、カリブ海地域である。一番目の地域である北アメリカは、血統によって白人と黒人が決まり、黒人の血を受け継いでいる者はすべて黒人とみなされてきた。現在では、ラテンアメリカ系の人々の増大により、白人と黒人とに二分する困難な状態になっているが、人種対立はなおも問題となっている。二番目の地域は、国の人種構成に先住民とメスティーソがほとんどを占めている地域である。この地域では、文化的基準を重視するため血統による基準は二の次となる。ここでは、先住民からの脱出が住む場所、社会的文化的価値を改めることによりある程度は可能であり、出生がすべてを決めるというわけではない。そこで有色人は白人に対して反発というよりは、憧れを抱いている。三番目の地域では、かつて黒人奴隷制によるプランテーションがさかんだった地域である。この地域ではどの人種カテゴリーに属するかを決定するのは、表面にあらわれた身体的特徴であるが、それは個人の社会的地位によりある程度変化する。

 ワグレーによる人種関係の地域分類は、ラテンアメリカを少なくとも二つに分けられる。私は、三番目の地域にあたるブラジルについて研究を行った。ブラジルといえば、サッカーが非常に有名でその選手たちはムラートが多いという印象を受ける。しかし、政治や社会面において目立つのは白人である。この複雑な国家について興味をもったことがきっかけとなり、ブラジル社会における人種の捉え方を研究することに決めた。

初めに、ラテンアメリカは国際社会において人種差別のない社会として賞賛される存在であったが、それは確かであったのか考察する。次に、チャールズ・ワグレーが行った調査に基づいてブラジルの人種概念について考え、ブラジルの人種構成と人種カテゴリーへの帰属意識の関係を見る。そして、ブラジルが日本移民とその子孫に対して人種差別を行ってきたのかどうかを調べた。最後に、現代のブラジルの新しい動き、社会の変化を見てみる。

 

ラテンアメリカ=人種差別のない社会

ラテンアメリカは、1920年代頃から北アメリカとの対比において「人種差別のない社会」と主張され、白人でもないインディオでもない「混血国民国家」が登場した。「人種差別のない社会」とは、身体的、文化的な「混血」を通して人種的な緊張が緩和されることで均質な国民や国民文化が形成された社会を示す。ヨーロッパや北アメリカで人種問題が多発している時代であったため、その人種主義の欠如は人種問題で社会が混乱している国家と比べることで「国民的誇り」とされ、そして語られていた。ラテンアメリカは混血を通じて人種差異をなくした実の例として世界から注目されていた。

ラテンアメリカの知識人の中から、ラテンアメリカは多人種社会の理想像であり、人種間の接触の増大が予想される人類社会のすばらしい未来像を提供しているのだと主張する人たちが現れた。その中でも有名でかつ大きな影響を与えたのがメキシコの文人ホセ・バスコンセロスとブラジルの社会史家ジルベルト・フレイレであった。

ホセ・バスコンセロスは『ラ・ラサ・コスミカ』(1925)のなかでラテンアメリカの国民は混血を通して人種的、文化的に融合し、既存の人種を超越した優れた要素を受け継いだ新しい人種「宇宙的人種」として出現するとした。彼は、ラテンアメリカの人々は混血を通して共通した文化が担われる人間集団となり、人種差別は問題にすることはないという立場をとった。彼は北アメリカが国際的に強大な権力を持ち、発展が進んでいるにもかかわらず、白人と黒人との人種問題を解決できなかったということからその文明の限界を感じ取り、それに比較して多人種をかかえるラテンアメリカ文明は将来の人類社会を支える、と主張した。バスコンセロスの主張は、19世紀末の実証主義思想からの大転換だった。

実証主義は19世紀末の政治や社会を席巻し、近代国民国家の形成、確立期に大きな影響を与えた。実証主義により、思想家たちはラテンアメリカの後進性は民族的、人種的劣等性に関係していると考えた。この思想は反カトリック的であり、秩序が強調された。実証主義者たちは世俗化運動を推進することに努めた。また、スペンサーによる影響を大きく受けていた。彼は、政治的秩序と物質的進歩を重視し、進歩を進める能力を持つエリートによるテクノクラート支配体制を主張した。実証主義は社会ダーウィニズム(生物界における生存競争、適者生存の原理を人間社会に適用し、社会には闘争と優勝劣敗の原理が支配すると主張する思想)を受け入れており、経済に介入することに反対し、社会秩序や進歩に悪影響を及ぼす弱者救済の福祉国家を非難した。それは、国家というものは生存競争の結果の審判の役目であるという信念に基づいたものであったからである。社会ダーウィニズムの思想は人種主義思想と結びついて、有色人種を劣等視する思想が流行していた。実証主義思想は20世紀初頭まで続き、その衰退後も物質主義や世俗主義は大きな力を持っていた。

1920年代、法学者のオリヴェイラ・ヴィアンナは、「われわれの間には優等な混血と劣等な混血がいる」と断言し、ブラジルの白人、黒人、インディオという三つの人種のうち黒人とインディオの二つの野蛮な人種は、白人と交わることで純血性を失い、そのとき初めて文明の担い手となると述べた。ブラジルのアーリア人の比率を高めることで彼らが混血住民と混合を重ね、アーリア的濃度を高めるのに貢献するヨーロッパ移民を奨励した。実際に、19世紀後半以降はブラジルの移民政策は白人中心で有色人の移民をなるべく排除する方針だった。ヴィアンナに対してフレイレは混血こそが社会的民主化をもたらすと主張した。

フレイレは『カザ・グランデとセンザーラ(奴隷主の館と奴隷小屋)(1933)のなかでブラジルにおける奴隷制の下での奴隷と奴隷主とのパターナルな人間関係を描き、白人と黒人を隔てる垣根がなくなることで中間層の混血児の誕生という混血社会を示した。そこで、黒人奴隷は現在のブラジル社会形成に大きな役割を果たしたことを強調し、ブラジル社会の混血性を高く評価した。フレイレの著作が出た1930年代は、ナチスドイツがアーリア種族の純血を叫んでいた時代であった。彼はこの著作を出すことで同時代ヨーロッパや北アメリカに広まっていた「白人主義」「純血主義」に対して鋭く批判していた。ブラジルは世界で最も融和的人種関係を築き上げた国と称揚され、人類が融和して生きていくためにユネスコは1940年代末からブラジルの人類関係調査を行うことにした。

フレイレは第二次世界大戦直後にブラジルは少数支配とアナーキズム的傾向をもつため政治上の民主主義は成し遂げることはできなかったが、人種間が混血によって偏見・差別が融解され、社会的自由や平等が実現されているという人種デモクラシーの点では北アメリカやヨーロッパよりも進んでいると考えた。この人種デモクラシーはラテンアメリカの知識人、政治家に大きく影響を与えた。

サンダースによれば、人種デモクラシーのイデオロギーはブラジル社会の構造を特色付けるもので、その影響は三つ挙げられるという。一つ目に、ブラジルの奴隷解放が国内に深刻な問題や紛争を起こさないで実現したのはこのイデオロギーがあったためであるということ。二つ目に、ブラジル社会での人間関係は相手の思いやりを重要視していることからわかるように、多人種構成の他のどの国家よりも人種関係はうまくいっているということ。そして、たとえ人種偏見があったとしてもそれはとても小さなことである。三つ目に、アメリカのように人種問題関係の暴動や紛争は起こらないということである。

 

人種デモクラシーの神話

海外からの評価をうけ、ブラジル政府も国民もブラジルは人種偏見がないそれぞれの人種が平等の権利を持つ世界に誇るべき人種民主主義国家であると信じていた。しかしながら、「ラテンアメリカ=人種民主主義国家」が本当に成り立つのだろうかと疑問をもつ人々が現れた。          

ブラジルの社会学者であるフロレスタン・フェルナンデスは、その「人種デモクラシー」というスローガンは偽善であると主張した。ラテンアメリカの知識人や政治家が「ラテンアメリカ=人種民主主義国家」という公式を植え付けることによって、その固定観念が社会全体に浸透するため人種主義が存在しているにもかかわらず有色人はこの「神話」に順応せざるをえない状況にあるということを彼は指摘した。彼は、”Brazilians exhibit the prejudice of having no prejudice” と表現した。そして、皮膚の色と社会的地位の相関関係や人種間の教育水準の差、経済格差の原因が問われた。その「神話」が存在している限り、社会的地位の向上は個人の能力によるものだという「能力主義」を前に出すことによって、人種による不平等は表になかなか出てこなかった。人種主義が支配的な社会であるのに、有色人を含めた国民の大多数が人種差別はないと信じているため政府では人種差別を是正する政策、対策が生まれてこなかった。彼によると、「人種デモクラシー」は過去の白人支配層のパターナルな人種関係の延長線上にある思想といわれた。

アメリカ合衆国の歴史家であるカール・デグラーは、黒人が混血によって「ムラート」という別の人種カテゴリーに移動するという「ムラート脱出口(mulatto escape hatch)」があると指摘した。自分よりも肌の白い相手と結婚することで子供により高い社会的地位についてもらおうと期待をかけ「ムラート」や「モレーノ」として「黒人」とは一線を画すことで黒人であることの帰属意識や連帯意識を弱めている。

 1970年代では「人種デモクラシー」に反論する知識人は少数であったが、現在では国内での民主化や黒人運動の影響を受けて、人種主義を認めようという動きがある。しかしながら、国の指導者が主張する「人種デモクラシー」は今日でも信じている人々が大きく存在している。

 

人種概念

チャールズ・ワグレーは、1950年初めユネスコの人種関係研究プロジェクトの一環でブラジルを調査した。その結果から、ブラジルの人種はおもに貧富の差によって決定されるとして、彼はこれを「社会的人種」と呼んだ。社会的人種は個人の人種カテゴリーが身体的特徴によって決定されるという考え方を前提とした概念である。彼は、このような身体的人種の観念が存在しないことをもって人種と社会的階級をほぼ同一のものとして捉え、人種デモクラシーの存在を認識した。

 ワグレーはブラジルの人種が社会的人種であることを示すあるアマゾンの村での調査例をあげている。その調査はその村でよく知られている人々の人種を尋ねるというものだった。結果は、「身体的特徴が明らかにネグロイドやコーカソイドの場合」と「身体的外見が社会的地位に一致している場合」にはほぼ一致した回答が得られるのだが、混血によって身体的特徴が「それほど明確ではない場合」と「身体的外見が社会的地位と一致していない場合」には様々な回答が得られた。例えば、村一番の商店主で、白人の父親と黒人の母親をもつ「色の濃いムラート」の女性については、二人が「モレーナ」、残りの九人が「白人」と答えた。見た目は明らかに混血でも白人と認識するということは、日本人が考えている人種概念とは異なっているということがわかる。ブラジルの人種概念の特徴は、宗教や階級は文化的、社会的分野に入るが、それはしばしば身体的特徴と考えられ、遺伝によって世代間で継承されるものといえる。それゆえ、人種概念は社会的性格を有し、社会的価値観によってつくられ人々の価値観に左右されるものであるため評価がわかれる。また、時間の経過や地理的な移動によっても評価がわかれる。そのため、ある人物の人種はその人との親密度や社会的背景によって変化する。

 このワグレーの調査結果では、村一番の商店主の女性に対してワグレーは「ムラート」と表現しているのに対して、村人たちは「モレーナ」と表現した。それは、その村で「ムラート」は性的魅力を示しているため、普通は女性形の「ムラータ」でしか使われていないため、村人は「モレーナ(モレーノ)」を使った。「ムラータ」は、売春や婚外の性的関係を暗示するが、「モレーノ(モレーナ)」は健康的な性的関係を暗示している。例えば、その商店主の女性が自分の人種を白人ではなく、混血だと感じている場合でも「モレーナ」と答えるであろう。混血を表す言葉はいろいろあるが、人は自分の人種カテゴリーを意識的に選択しているのだ。どの人種カテゴリー自分が属するかは、見た目の身体的特徴や血縁関係に加え、それぞれの人種カテゴリーがその地域で与えられている社会的文化的意味や価値観による。単純に見た目の皮膚の色だけで人種カテゴリーを決定するのは誤りなのである。

 

ブラジルの人種

1990年にブラジルの地理統計院が行った調査によれば、ブラジルの人種構成の比率は白人55.3%、黒人4.9%、パルド39.3%、黄色人0.5%であった。白人の比率が高いが、これは白人の概念に社会的に地位の高い混血の者を含むからである。この調査はある個人がどの人種カテゴリーに属しているかは自己申告制となっているため、黒人はパルドに、パルドは白人にというように現実とは異なる結果が出てきている。この調査の人種カテゴリーは白人、黒人、パルド、黄色人の四つしかないが、ブラジル人の日常によく使う人種カテゴリーの名称は多様である。どの人種カテゴリーに個人が属するかは、財産や職業、教育水準などを総合的に見た社会的地位が大きく影響を与えている。

その調査において、白人全体の約四分の一が絶対的貧困ラインとなる最低賃金以下であることがわかっている。実際に、農村での浮動労働者や、日雇い労働者、都市の下層社会、ファベーラの中にはかなりの白人がいる。貧困な白人は、ムラートや黒人の貧困層と同じ地域に住み、社会から疎外され差別されている。この事実は、ムラートや黒人の貧困層が受ける差別が社会的、文化的であるもので、決して人種的ではないと信じさせ、それは社会的地位上昇という期待させる原動力となる。それは同時に自らの人種カテゴリーへの帰属意識の低下へとつながるのである。

黒人やムラートがある程度社会的に高い地位につくことが達成できて、ホワイトカラーの職業に就こうとしたり、エリート的社交クラブや有名名門校に入ろうとしたりする時になんらかの理由をつけて黒人やムラートの締め出しがされる場合がある。その理由とは、会員はすでにいっぱいで受け付けることができないとか、申し込みをもう締め切ったとかいうように、皮膚の色を理由にすることはない。経済発展や工業化が進んでいる都市部では、黒人やムラートの社会上昇志向は強いがそれが差別の強化にもつながっている。

 

日本移民の導入までの経緯

ブラジルではイギリスの圧力により1850年に奴隷貿易が廃止され、ブラジルの経済を支えていたコーヒー農園は深刻な労働力不足問題を抱えていた。そこでヨーロッパ移民に労働力を求めた。サンパウロ州政府による移民促進協会を通じてヨーロッパでのコーヒー産業宣伝活動や渡航費補助制度設置、移民収容所の開設により、移民の受け入れ体制が整い、契約労働者としてヨーロッパ移民が増大した。1885年頃からヨーロッパ移民が本格化し、奴隷制度が廃止された1888年には外国移民に急増した。80年代後半にはブラジルを支配していたポルトガルを抜いてイタリアがブラジルへの移民送出国第一位となった。1820年から1930年に外国移民制限法が制定されるまでにブラジルに導入された外国移民の総数は400万人と推定されている。1889年から1897年には輸出総額の60%強を占めていた。

しかしながら、1897年にコーヒー価格は暴落したため、コーヒー経済に不況が起こり、経営の悪化、労働者に対する賃金の未払いが起こった。イタリア政府は1889年から90年の二年間、そして1902年から1917年のサンパウロ州政府資金による移民の取り扱いを移民業者に禁止したため、イタリア移民は途絶した。また、コーヒー農民の契約労働者たちは不況のために農民から都市に移住したり、母国に帰国したりしたため、1907年にはサンパウロから転出した移民数(約44000人)は入移民の数(約40000人)を上回った。移民の途絶と労働者の転出によって労働力不足に陥ったため、サンパウロ農園主は日本に移民送出を求めた。1895年に修好通商渡航条約が調印されたことで国交が樹立した。サンパウロ州政府は、1900年日本移民に対する補助金交付を決定し、積極的に日本移民導入活動を行った。日本は日露戦争の直前であったために、移民送出は許可されていなかったが、日露戦争の後に不況がおこり、海外移民が注目された。しかし、1900年にはハワイで契約移民が禁止され、それ以降オーストラリアでのアジア系移民の排斥、アメリカでの排日運動により日本移民の送出先の国は狭まった。アメリカとカナダ、ハワイ、オーストリアへの日本移民の自粛により移民送出先国としてブラジルに注目が集まった。皇国殖民会社とサンパウロ州農務局との間で3年間に3000人の移民を送る契約を結び、1908年に神戸港を出航してブラジルへの移民が開始された。

しかし、日本移民は単なる労働力の代替として一時的導入を行っただけで永続的な導入を考えてはいなかった。ブラジルは白色化を目指していたため、日本移民は歓迎されなかったのだ。当時ブラジルの知識人はヨーロッパの人種主義に大きく影響を受けていたために自国のアフリカ的文化、社会に対して激しい劣等感を抱いていた。フランス大使であったジョセフ・アーサー・ゴビノーは、アーリア至上主義を唱え、ブラジル住民の多くの黒人と混血の有色人種を劣等民族と断言した。ブラジルは国際的に劣等な人種の集まりと評されるのを懸念して「脱アフリカ化」を標榜した。「脱アフリカ化」は、白人と交わることで身体的特徴を白人に近くしようとする劣等な社会を改良する「ブランケアント」の手段であった。ヨーロッパ移民は日本人のような単なる労働力を提供するだけでなく、ブランケアントの役割もあった。そのため、ヨーロッパ移民は歓迎され、優先的に導入されていた。

 

ブラジル社会における日本人

1910年代からヨーロッパ移民が増加するようになると、サンパウロ州政府は日本移民に対する補助金の交付を渋るようになった。1914年一月には補助金中止を告げた。日本移民は、高コストの割にヨーロッパ移民と比較して利点がない。1913年には、アメリカのカリフォルニア州で日本人に対して土地の取得や借地を禁止する外国人土地法が制定され、排日の機運が高まっていたことも影響を与えた。1911年3月の移植民会議でブラジルの国際法学者アントニオ・メロは、日本人は西欧文化に合わず、同化が困難なため日本移民のブラジルへの統合は難しいと述べた。1914年7月、日本移民会社はサンパウロ州政府に補助金交付を申請するが、拒否されてしまう。第一次世界大戦により、再び移民がヨーロッパへ戻り、労働力不足になった。そのため、日本の移民会社はサンパウロ政府と移民送出の交渉し、1916年8月には移民送出更新の契約が結ばれた。

第一次世界大戦後は、アメリカのヨーロッパ移民に対する制限によってブラジルでは移民が再び増大した。その当時の大統領エピタシオ・ペッソア大統領は、優生学的にも道徳的にも日本移民はブラジルに好ましくないと考えていた。192310月ミナスジェライス州の国会議員レイスは、最初の日本移民制限の法律を下院に提出した。彼は、諸外国がアジア系人種の入り口を禁止していることに見習い、ヨーロッパ移民の積極的導入を唱えた。初めに黒人を導入したこと自体過ちであって、黄色人種を導入することは同じ過ちであると考えた。

国会議員のオリヴェイラ・ボテーリョは財務委員会から依頼されて日本移民の状況を調査した。彼は、サンパウロ州の日本人移民を訪問し、調査したが、そこでは日本移民が好印象で受け止められており、報告書は日本人移民に好意的なものであった。日本人の貢献を称え、日本人を不同化と言い切るには時期尚早であると考え、継続的に日本移民を導入することを求めた。その結果、彼はレイス法案がアジア系移民を対象とすることを決定し、財務委員会に提出した。日本政府は、ブラジルの補助金を要求することは将来難しくなると判断し、日本政府の補助によって移民送出の諸制度が確立され、ブラジルへの移民送出は日本の国策となった。1929年の世界恐慌によって、経済は大きな打撃を受け1930年には外国移民の入国を制限するようになった。

 

ヴァルガス大統領による同化政策

ヴァルガス大統領によって、その外国移民の制限は強化された。彼は、入国している移民をブラジル人に同化させようとした。多様な外国移民を導入してきたブラジルは国内の外国移民をブラジル国民として統合することで国民国家を形成しようとしていた。移植民審議会は、アブラジイアメント・キャンペーンを展開して、外国移民の同化促進を図った。「ブラジル人」という新たな人種を形成し、共通のブラジル人としての意識を作り出すことで外国移民ともにブラジル国家に統合させることが目標であった。ヴァルガス大統領の同化政策は、国家という側面からみれば、ブラジル国民、住民に対して合理的な要求であった。しかし、同化を拒否する者は非難を受け、ブラジル社会で生活することは難しくなった。日本人は日本語の使用を禁止され、「日本人」としてのアイデンティティーを保持することは困難だった。ブラジルの教育をうけ、ブラジル市民として生活していたが、60年代末になるとアメリカやカナダでは多文化主義政策がとられた。ブラジルもそれに見習い、民族特定地域のすみわけを認めるようになった。日本人移民とその子孫は「ブラジル人」ではなく、「日系ブラジル人」としてのアイデンティティーをもつことが可能となった。198910月のブラジルの新憲法に教育における多文化主義の実践が定められた。多文化、多民族、多言語を認める働きはとても進歩的であった。

 

現代のブラジル社会

 ブラジル社会は、客観的には人種的不平等が存在していたのに、差別をしている白人側と差別される側のどちらもそれが人種不平等、人種差別と感じることは少なかった。現代、混血国家モデルが白色化する手段と認識されるようになったのに加え、共存や共生を目指す多文化主義の高まりからそのモデルが衰退した。そのモデルは、同化や統合を拒否する人々を社会から除外、排除する抑圧的傾向をもつものであった。

新しい動きとして、19969月、ブラジルのサンパウロで黒人による黒人のための月刊総合誌を発刊した。それは、黒人モデルを使って広告や美容の記事を載せていた。黒人独特の美しさを表し、白人が美しいという既存の概念に対抗するものであった。人種問題についての記事の掲載されることによって黒人意識を高める効果があった。「ムラート」や「モレーノ」、「パルド」といった混血者の中には、これまで黒人とは一線をおいていた人でも意識が変化し、黒人としての意識をもつ人々が以前に比べて増大する傾向にある。そのような人々は、白色化やムラート脱出口の手段をとらず、黒人であるということに誇りをもつ人々が登場してきたのだ。

現実には貧困層や失業者の多数が黒人と混血者で占めており、根強い人種差別が残っている。200210月にブラジル大統領選で当選した左派・労働党ルイス・イナシオ・ルラ・ダシルバ名誉総裁は、人種差別反対運動の中心的存在で、今回の選挙で黒人やムラートの70%以上が彼に投票したと伝えられている。経済危機が悪化すると労働市場での白人と黒人、混血者との労働市場の格差は広がっている。黒人は教育水準が低く、識字率は低い。彼の所属する労働者党は選挙期間中「人種差別なきブラジル」を掲げ、民間企業に平等な雇用の徹底や黒人への高等教育奨励などを打ち出した。人種問題と貧困問題の二つを結びつけて改善しようと考える政権はこれまでに登場しておらず、労働者階級出身の初の大統領に国民の期待はかなり高い。 

 

結論

19世紀末は人種主義がラテンアメリカを席巻しており、民族的人種的劣等感を感じていた。しかし、バスコンセロスやフレイレの登場によって世界からの評価が変化し、ラテンアメリカは混血を通して人種問題を解決した実の事例であると賞賛された。ラテンアメリカの中でも特に賞賛されたのは、人種構成がもっとも複雑なブラジルだった。その当時は、アメリカやヨーロッパで人種問題が社会を混乱させていた時期である。知識人によれば、ブラジルでは混血を通して偏見や差別が融解されるため人種問題は浮上しないという。人種問題が出たとしても、それは取るに足りないものだという考えであった。しかし、現実には皮膚の色によって教育水準に差がでてくる。教育水準によって専門職につけるか決まる。黒人は教育水準が低く、白人は教育水準が高いため、教育格差は激しい。職業は社会的地位を示し、財産を決定する。それゆえ、白人と黒人、有色人との経済格差が生まれるという悪循環に陥っている。しかし、政治家や知識人は現実には差別はありながらも、ブラジルは人種民主主義国と国民に信じ込ませていた。それゆえ、人種差別を改善する対策が取られず、黒人は自分の力で上がっていかなければならなかった。教育水準を変えることは難しいため、配偶者を自分よりも白い相手とすることで子供の身体的特徴をより白くして子供に自分よりも高い社会的地位についてもらおうと期待をかける。人種とは、肌の色だけで決定される単純なものではなく、その人の職業やその人との親密度によって変化する。

ブラジルの日本人およびその子孫の日本人の数はアメリカを凌いで海外で最も多くの日本人がブラジルで生活している。日本移民は労働力のみを求められ、ヨーロッパ移民のように歓迎されなかった。ブラジルは自国の文化、社会に対して劣等感を抱いていたため、白色化を目指していたからであった。日本人はブラジルへの同化が難しく、道徳的にふさわしくないと判断され、差別を受けていた。ヴァルガス大統領による同化政策が行われると、日本人としてのアイデンティティーを持つことは不可能となった。60年代末には、多文化主義が認められたが、人種問題は未だに残っている。新しい大統領は、貧困・雇用対策を公約に掲げブラジルを改革しようとしている。人種差別は簡単にはなくならないが、意識改革は必要である。ブラジルには日本人の血を受け継ぐ人がたくさんいるのだから、我々日本人もブラジルが直面している問題に真剣に対処し、協力しなければならない。

 

参考文献

清水透編 『ラテンアメリカ 統合圧力と拡散のエネルギー』 大月書店 1999

清水透編 『転換期としての現代世界』 国際書院 1993

小林一宏編 『現代ラテンアメリカ思想の先駆者たち』 刀水書房 2002

斎藤広志編 『新しいブラジル』 サイマル出版社 1983

中川文雄編 『ラテンアメリカ 人と社会』 新評論 1995

読売新聞 朝刊 20021114日 

読売新聞 朝刊 2003年1月3

http://www.nd.edu/~kellog/WPS/173.pdf