ジャマイカにおけるラスタファリ運動
2003/02/13 池亀康二
ラスタファリ運動はジャマイカ特有のメシア運動であり、このメンバーは、エチオピアの皇帝ハイレセラシエが、白人による圧政下にあるこの世界で流浪の身とされたすべての黒人を救済する黒いメシアの現し身であると信じられている。これから、ジャマイカにおける宗教、ラスタファリ運動の歴史的背景、展開、ラスタ的信仰世界を考察することで、ラスタファリ運動に対する理解を深める。
T、ジャマイカ史おける宗教
ラスタファリ運動というのはジャマイカにおける一番新しい宗教である。そこでラスタファリ運動について触れる前にジャマイカ史における宗教の歴史について触れ、ラスタファリ運動が起こるまでの歴史的宗教背景を考えたい。
ジャマイカは1494年にコロンブスに発見されてからスペインによって支配され、1655年までには原住民であるアラワク族は絶滅してしまう。1655年にイギリスがスペインを駆逐すると、イギリス人によって、西アフリカから何万人もの奴隷が連行された。この連行されてきた西アフリカ人はゴールド・コーストかナイジェリア出身であった。中でも、アシャンティ人はジャマイカにおいて初めて土着の民族宗教を発展させ、それは、クミナとかオビア・クミナ・マイリズムと呼ばれる。クミナは祖霊憑依の信仰であり、奴隷期におけるすべてのアフリカ人にとって宗教的表現の手段となった。イギリス人プランターが奴隷と宗教を共有するのを拒み、奴隷に対して布教活動をしなかったことで、奴隷は故郷のアフリカ的宗教を自由に発展させることができたのだ。クミナの特徴として、特別な儀式であり、通過儀礼(誕生、婚礼、死など)でおこなわれ、儀式では、ドラムと踊りが伴い、常に神への供物がかかせない。そして、聖霊憑依に達するまで続くということがあげられる。
この島に到来した伝来宗教について言及したい。1509年にスペイン人によってローマ・カトリックが伝えられるが原住民であるアラワク族はその後絶滅させられてしまう。その後、17c後半にイギリス人に続いてイギリス国協会が到来するが、イギリス人プランターはアフリカ人にまったく関心がなく、国協会の布教活動をすることはなかった。キリスト教モラヴィア派(1734年)、メソジスト派(1736年)、バプテスト派(1783年)、長老派(1823年)がそれぞれ島に到来すると、これらの非国協会派は国協会にとってまさに脅威となった。特に初期のメソジスト派とバペテスト派の儀礼は、感情のほとばしりが激しく、熱狂的な奴隷宗教にぴったりのものだった。こうして、キリスト教と様々なアフリカ宗教による初期のシンクレティズムが生まれた。脅威に感じたイギリス国教会は合法、非合法の双方から必死に抵抗、迫害をするが、いたらず、1834年の奴隷解放へとつながっていく。しかし、非国教会は、公に承認されることで権威づけをはじめ、奴隷の利益から程遠い宗規や儀礼、組織構造を持つようになっていき、崇高さを失っていった。
1860年〜1861年にかけて、伝来宗教諸派は活動強化に励み、信仰復興運動が島を席巻した。この運動は宣教師が対処しきれないほどに非常に熱狂的になっていき、数千の奴隷たちが日中やかかわらず教会に連日群がった。この信仰復興運動の行動様式は、歌、叫び、踊り、聖霊憑依とまさにクミナ影響を受けており、長年抑圧されてきたダイナミックなアフリカ宗教がキリスト教を装って自ら主張するという形になった。これはジャマイカの伝来宗教と現在のアフロ・クリスチャンの分岐点であると考えられ、それ以来キリスト教は「リヴァイバル」と呼ばれるアフリカ系宗教運動にあらたな活力をあたえる補助役になっていった。
現在のジャマイカではアフロ・クリスチャンの宗派は三派に展開されている。プクミナ(儀礼や教義はほとんどアフリカ的なもの)、リバイヴァル・カルト(アフリカ宗教とキリスト教の折衷)、リヴァイバル・ザイオン(儀礼や教義においてアフリカ的なものが少なく、キリスト教色が濃いもの)の三派である。これらのアフロ・クリスチャン3派は総じてリヴァイバル派と呼ばれた。プクミナに比べて、リヴァイバル・カルトとリヴァイバル・ザイオンの宗派はよりキリスト教に近く、プクミナがもっぱら魔術や呪文を用いるのに対し、リヴァイバルは魔術に対抗して呪文を解く宗派である。
ジャマイカ社会が急激に変化するにつれて、土着宗教も劇的な変化を遂げた。1929年にアメリカからペンテコステ派が到来したことをきっかけに。この宗派は島で大いに広まっていき、あるところでは伝来諸派のメンバーを激減させることとなった。しかし、リヴァイバル派は他の宗派が弱体化していくにもかかわらず、さほど衝撃を受けなかった。というのも、両派の類似点と相違点がたがいに補足しあっていたからだと考えられる。その類似点として、ヒーリングを中心とした儀礼所作や下層社会に目を向け、体制的な宗派や支配階級に強い反感を抱いた組織構造が挙げられる。
この結果として、リヴァイバル派とペンテコステ派がシンクレティズムした分派さえ生まれた。また、両派の相違点として、聖書中心のペンテコステ派に対し、聖書は表面的で、夢や幻覚に力点をおくリヴァイバル派。ペンテコステ派が酒やタバコ、さらには踊りや恋愛を慎むのに対し、それらを健全な行為とみなすリヴァイバル派など挙げられる。このリヴァイバル派とペンテコステ派はラスタファリアンの信仰上の言い回しをとりいれることもあり、今日までともに広くジャマイカ全土に浸透している。
このようにジャマイカにおける宗教諸派の流れを見てきたが、奴隷時代にしっかり根づいたアフリカ宗教の原型は、いろんな理由から、伝道宗教にとって代わられることはなかったのである。伝統的アフリカ宗教では、英知だけでなく、感情や本能を重んじていて、生者と死者をも含むあらゆるものが参加する宗教なのだ。そして、神や聖霊のみならず、生物に危害を加える悪霊や悪魔の存在をも認めるのである。大半のジャマイカ人はこうした信条を保持している。彼らにとって宗教とは、精神面だけでなく、すべてにかかわるものだ。人は宗教によって、生活し、行動し、そして存在感を得るのである。
ジャマイカのラスタファリ運動は、搾取と抑圧の惨めな歴史を体験した民衆による、もっとも新しい宗教形態である。この宗教は、ラスタにとって社会的・政治的に恐れるべき勢力の前であまりに非現実的であるように思われた、土着宗教への反動として生まれた。また、依然として植民地主義的な抑圧をもたらす宗教勢力と映る伝道宗教への反動でもある。
U、ラスタファリ運動開花に至る歴史的背景〜奴隷解放運動の歴史〜
ジャマイカの歴史は人間の苦悩と無法状態、そしてあくどい金儲けが入りくんだ哀れなアフリカ人奴隷の歴史である。ジャマイカの奴隷制度には人間らしいところがひとつもなく、一握りの強欲なプランターが何千もの奴隷に絶対的な権力を振るっていた。そんな圧制に対する反動として生まれてきたのがラスタファリ運動である。ここではラスタファリ運動が出現するまでの主な奴隷解放運動を振り返り、ラスタファリ運動開花に至る歴史的背景を考えていきたい。
ジャマイカにおける解放運動はマルーンの闘争から始まる。イギリス人による奴隷制に納得がいかないスペイン人の奴隷は丘陵地域に身をおき、イギリス軍と壮絶なまでに戦った。彼らは「どう猛な人間」という意味であるマルーンと呼ばれた。マルーンの戦術は自然の地形等を利用した奇襲攻撃を得意とし、当時の戦いにおいても紳士的であろうとするイギリス軍にはなじみのないものであった。イギリス軍は45年間の負け戦の末、1739年、マルーンと和平条約を結ぶに至った。しかし、この条約は闘争的マルーンを、勇敢な戦士から、イギリス人プランターの無給の軍団、実質上のイギリスの常駐警察隊に転じてしまった。これ以降、ジャマイカにおけるあらゆる奴隷解放運動の芽が元奴隷であるマルーンによってことごとく摘み取られていくという皮肉な状況が続いていった。
19世紀奴隷制度にとって重要な年となった。フランス革命が勃発し、特権階級が突然崩れていくのを、ヨーロッパの庶民が目にしたのだった。カリブ海域では、ハイチの奴隷たちが奴隷制度からいち早く解放されたのだ。いっぽうイギリスでは、奴隷制反対協会が人身貿易にやがて終止符を打とうとするところだった。そんな中、1831年、土着バプテスト協会のリーダーであったサム・シャープが、サム・シャープの反乱を起こした。この反乱により1834年、ついにジャマイカにおいて176年間にもおよんだ奴隷制度が廃止された。そして、これにより、賃金労働による年季奉公制度が奴隷の労働力に代わって登場した。これは理想的な形であったが、現実の社会にはやはりうまく機能することができず、奴隷側、プランター側双方に現状に対する不満が募る結果になってしまった。また奴隷制廃止をきっかけに国教会や元奴隷所有者と土着バプテストをはじめとする周辺宗教グループがその対立をあらわにし始めた。そして、1865年、奴隷制が廃止されたにもかかわらず、依然として圧政下にある現状に不満が爆発し、土着バプテストを中心として、モラント・ベイの反乱が勃発した。この反乱はイギリス人総督によって鎮圧されるが、決して無駄に終わったわけではなかった。反乱は、計り知れない不安感と、未来への不吉な予感をもたらしたのだ。そのため、イギリス植民地じゅうでもっとも無知で手に負えないこの島のプランターたちが、ついに自ら特権を手放さざるをえなくなったのである。こうして、1865年、202年にわたる代議政体は終わり、ジャマイカは直轄植民地となったのである。しかし、植民地立法議会の議員はやはり圧倒的多数が白人であるというのが現状であり、政治状況は無気力のままで、黒人に対する無関心と蔑視がつづいた。
支配者階級が黒人による自己表現を締め付け、社会的にも経済的にも停滞していた時代、 黒いモーセ、マーカス・ガーヴィーによって万国黒人向上協会が結成される。「予言者は自らの故郷では歓迎されない」というわけでジャマイカを離れざるを得なかったが、アメリカにおいて万国黒人向上協会は活動の広がりをみせることとなった。ガーヴィー運動の目的は第一に、世界的規模の刻人種の組織を結成すること。第二に、孤立した後進的な植民地のアフリカを、全ての黒人が誇れるような自立した大国にすること。第三に、アフリカを、世界の主要勢力の一員として、すべての黒人が帰還しうるような発展した黒人国家にすること。それから、黒人国家から、世界の主要国・主要都市へ黒人の代表を送ること。第五に、黒人文化を教授する黒人の教育機関を設立することであった。ガーヴィー運動の精神は彼が死んでからも衰退することはなく、「母国ならびに海外にいるアフリカ人のためのアフリカ」という彼の哲学はさまざまな黒人運動のなかに受け継がれることとなり、そのひとつが、ジャマイカにおけるラスタファリ運動であった。
1920年にニューヨークにて「世界黒人権利宣言」採択されると、ガーヴィーによって、エチオピアニズムは最高潮に達した。そんなエチオピアニズムが盛り上がる中、1930年、エチオピアの皇帝にハイレ・セラシエ即位することとなる。彼は伝説のソロモン王の血統と自称し、彼の戴冠はガーヴィー信奉者にとってはまさに神の啓示となった。そして、この神の啓示をきっかけに、キングストンにおいて、ガーヴィー主義者であるレナード・ハウエル、ジョゼフ・ヒバート、アーチボールド・ダンクリー、ロバート・ハインズの4人によって初期ラスタファリ運動が開花していったのだ。ところで、ラス・タファリという言葉はラスがエチオピアの王室を称える称号で、タファリとは王の姓を意味し、つまりはハイレ・セラシエへの賞賛を意味している。
V、ラスタファリ運動の展開
1930年〜33年にかけて、キングストンのスラムにて運動が開花する。この運動はハウエルが全島に伝道者が送ることで、いっきに盛り上がりをみせていった。しかし、運動が過激的かつ革命的であると判断した政府は1934年、弾圧を始めた。ハウエルは「エチオピア救世協会」を組織し、丘陵の奥地において、ピナクルというコミューンを展開していった。ここでの共同生活はラスタファリ運動特有の信仰世界をほぼ確立していった。
1938年、エチオピア世界連盟のジャマイカ支部が設立される。これはハイレセラシエの配下が直接組織し、世界の黒人を一致団結させ、解放の自由を与えることを綱領と活動した。これにより、ラスタ集団の活動がより活性化されていった。しかし、運動が盛り上がりを見せるなか、政府による弾圧はいっそう激しさを増し、1954年にはピナクルは壊滅させられてしまう。これにより、ラスタファリ運動は停滞期を迎えることとなる。
この停滞期において1959年、クローディア・ヘンリーは母国帰還運動を失敗させ、テロ革命未遂事件を起こす。この出来事は世論を巻き込んで大きな反響を呼び、ついには世界中から注目を浴びることとなった。この事件をきっかけとして、1960年には西インド大学の調査隊による「大学報告」がジャマイカ政府に提言され、ラスタの社会的経済的状況が一般に明らかになり、ラスタという宗派の歴史と教義が知られるようになる。当時の首相マンリーは提言を受け止め、大胆にも実行していった。この提言はラスタファリアンを擁護すべく出されたものであったので、マンリーの対応によってラスタファリ運動は自由を獲得していった。
1961年〜1971年は‘定型化への流動期’とされた。1961年、ラスタファリアンであるラス・ブラウンが「二十一項目」の綱領を持って議員選挙に立候補し、政界に進出すると、平均的市民層に運動の哲学に対する新しい視点を与え、はじめてエリート層の目を向けさせた。彼が政界に進出したことは、当時のラスタファリアンの哲学に反する革新的なことであり、彼の宣言はラスタファリアンの教義にも矛盾していた。しかし、彼は現実主義者であり、また予言者でもあった。彼はおこりつつある運動の定型化の実際の青写真となった堅固な礎づくりを主張したのだった。また、これは民主社会主義イデオロギーの先駆けとなったのだった。
1962年には、イギリスの直轄領からジャマイカは独立を達成する。しかし、町は暴力に溢れ社会的には不安定であった。1965年末からの社会情勢の切迫による治安の乱れを一掃すべく行われた政府の政策として、バック・O・ウォールが壊滅された。バック・O・ウォールにはラス・ブラウンのラスタファリ案・ムーブメント・リクルート・センターと、プリンス・イマニュエルのアフリカ国民会議があり、ラスタファリアンはこの試練を冷静に受け止め、この破壊を、政府による貧弱者へのあらたな残虐行為にすぎないと解釈して、エチオピアへの渇望をさらに強めたのだった。
そんな折、1966年、ハイレセラシエ皇帝がジャマイカに来訪する。これはよりふたつの重要な変化が生じた。まず、王がおもなラスタファリアンに、みずから特別な私信をおくったといわれていること。これは、ラスタファリアンがジャマイカ人民を解放するまで、エチオピア移住を控えるように、というものであった。「帰還の前に解放を」という新しいイデオロギーは、若いメンバーの間で運動を定型化する手段になった。また、ラスタファリアンがジャマイカ社会の現実に順応するのにも、効果的な役割を果たした。第二点は、四月二十一日をラスタファリアンの得別な聖日として祝うようになったことだ。
こうしてラスタファリ運動はジャマイカ社会に根付いていった。ラスタファリアンの独創性は芸術表現の主流にもなっていったのだ。そんななかで、若者たちから強烈なラスタファリアンの香りを放つ新しい音楽が生まれる。レゲエ音楽の誕生(1968年)である。レゲエ音楽はラスタファリアンのメッセージの伝達手段となり、その後広がっていった。また、定型化への要因として他に、政府による擁護政策に伴う運動の急成長、60パーセントにもおよぶ大衆のラスタファリ運動支持などが挙げられ、ラスタのイデオロギーは、政治、経済、社会関係、教育制度などに影響を与えるようになっていった。
1975年には、ハイレセラシエ一世の退位と死という事件が起こり、ショックは全島を駆け巡るが、運動後退の原因にはならなかった。歌う予言者ボブ・マーリーが全世界にメッセージを発信しつづけたのだ。こうして、レゲエは運動に「美学的威信」をあたえ、社会の主流により広く運動が受け入れられたのであった。そして、運動に世界的一体感をもたせた。
70年代後半にはイスラエル十二部族が台頭した。これはキャリントンによって、キリスト教、ユダヤ教、神秘的数霊学、系図学、占星術、そしてラスタファリアニズムのあらたな統合体が創り上げられた組織であり、多くの信者を集めた。イスラエル十二部族の特徴としては、レゲエを儀式に取り入れ始めたことや、キャリントンを予言者とし、ボブ・マーリーを崇拝したことが挙げられる。
ハイレセラシエの死去後、ラスタファリ運動の象徴的存在にもなってきたボブ・マーリーが1981年に死去すると大きな波紋を呼んだ。一部ではボブマーリーは「死んでいない」という噂が広まり、キリストの復活と同じ現象であるこの話は伝説となった。
現在、ジャマイカ社会は劇的に変化しつつある。その変化の多くは、かつて存在していた非人間的な生活様式に対するラスタファリアンの挑戦によって、間接的にもたらされ他ものだ。もし、変化をめざす勢力が成功して、この島の未来にとって、全ての国民が等しく意味をもつ「安定した国家」が生まれたとしたら、抵抗運動に注がれる抑圧されたエネルギーは、全体の利益をはるか創造的な潮流の中に拡散されていくことになろう。そうなるときこそ、ラスタファリアンのような運動はようやくその使命をまっとうする。
W、ラスタ的信仰世界
カルトの運動では、系統的な教義がおもなエネルギー源になりうることがある。このエネルギーは組織的な、あるいは論理的な真理よりも、むしろイデオロギーのもつ心理的・感情的なものからえられる。このことは、とりわけラスタファリアンの教義にあてはまるだろう。これからの教義をはじめとする、ラスタファリアンのさまざまな信仰世界について触れ、このラスタファリ運動に関する論文を閉めたいと思う。
■教義
@ ハイレ・セラシエは生き神である。
A 黒人は古代イスラエル人の化身である。白人の手により、現在ジャマイカで異郷生活を送っている。
B 白人は黒人より劣る。
C ジャマイカの状況は光なき地獄である。エチオピアは天国である。
D エチオピアの無敵の皇帝は、現在、国外追放にあったアフリカ起源の人びとがエチオピアに帰還するための準備をされている。
E 近い将来に、黒人が世界を統治する。
■儀礼
祈り、経典の朗読、音楽、供養、断食、戒律の確認など
◆ナイヤビンギ
月に一度行われる集会で、特徴は、宵のうちに始まり、ダンスやガンジャの吸飲、食事などをともなって、一晩中つづけられるという点にある。ときには一週間も続くこともある。
◆聖書
ラスタファリアンにとってまさに神聖な書。聖書を皇帝が推奨したという事実が重要な使用理由である。しかし、自分たちには矛盾すると思われる箇所は無視して、この箇所を、彼ら自身による解釈以外にはいかなる聖書解釈も認めるべきではないとしている。
◆ハーブ
俗にガンジャと呼ばれる麻薬。宗教上神聖なものであり、社会への反抗手段、体制から真に自由であることの指標となった。また、使用することで、幻覚を生み、仲間との一体感を高め、憂鬱や不安を一掃し、もたざるものの心に平穏をもたらした。
■戒律
@ 身体を汚すのに用いる鋭利な道具(髪を刈ったり、ひげを剃ったり、身体を切り込んだりするもの)に異議を唱える。
A 基本的に菜食主義である。特に豚肉、甲殻類、うろこのない魚、巻き貝などは禁じられる。
B いかなる宗派の信者でも尊ぶが、ラスタファリ以外の神を崇拝したり、認めたりしない。他の全ての異教崇拝を禁ずる。
C 人類の兄弟愛を尊ぶが、まず第一にハムの子孫に愛が注がれる。
D 憎しみ、嫉妬、うらやみ、いかさま、背信、欺瞞は認めない。
E 現代社会の快楽および現代の悪を認めない。
F ひとつの兄弟愛の世界を創造することを明言する。
G 窮境にいるあらゆる兄弟に慈しみの手を伸ばすことを義務とする。まず第一に、ラスタファリ・グループの兄弟に、それからあらゆる人間、動物、植物に伸べられる。
H エチオピアの古代律法に断固として従う。
I 恐怖のために与えられる援助、権利、富に思いを寄せてはならない。目的に応えるものは、ラスタファリの愛である。
■シンボル
◇ドレッドロックス
社会への挑発のシンボル。このシンボルはお互いに「ドレッド」と呼ぶラスタたちに一体感を持たせる役割を果たしている。
◇アイタル・フード
自然な状態にあるものを食事として認める。ラスタファリアンは基本的に菜食主義で、身体に有害とされる豚肉はまず食べない。主食としては12インチにみたない小魚や、果物、あらゆる種類のジュースがあげられる。
◇ユダのライオン
ユダ族の征服獅子王、ハイレ・セラシエを象徴するライオン。また、ラスタ社会における男性優位の象徴ともされ、家、旗、礼拝所などいたるところに見られる。
◇ラスタ言語
ラスタファリアンの言語。動詞を用いず、主語と目的語の対立関係を避けるというのが特徴。「われわれ」=「I & I」と言うなど、社会で悩む他者を自己同一視する過程において、二項対立をのり越える魂の言語である。
ザイオンには夜はこない そこには夜はこない
ラス・タファライは光だ 蝋燭の火はいらない
ハレルヤ そこには夜はこない
・・・・
涙を拭いてラス・タファライに会いにくるがいい
[ミスティック・レヴェレーション・オブ・ラスタファリのアルバム「テイルズ・オブ・モザンビーク」より抜粋]
参考資料
「ラスタファリアンズ レゲエを生んだ思想」レナード・E・バレット著 1996年 平凡社
「レゲエ・トレイン ディアスポラの響き」鈴木慎一郎著 2000年 青土社
「ジャマイカ&レゲエ A to Z」鈴木健一、永田よしのり著 1997年 TOKYO FM 出 版
「カリブ・ラテンアメリカ 音の地図」東琢磨編集 2002年 音楽之友社