3章1節


日本の教員養成システム



   高校入試の数学の試験が3割程度しか解けず、「学力不足」でクビになった高校の数学教師や、生徒に真剣に教える気がなくやる気のない先生の存在が近頃クローズアップされるようになり、「M教師」と呼ばれて問題となっている。こうした問題のある教師が目立つようになったことで、不適格教師をいかに改善させるかという制度に欠陥があり、それが長い間手付かずのままであったということが露呈された。

 さらに、私がもっと問題だと思うのは、教員養成制度そのものである。教師を目指す人は、まず大学で教職課程の授業を受けて単位を取得し、教員免許を取得する必要がある。そして、各都道府県で行われる採用試験に挑み、筆記試験と面接に合格した人が晴れて教師となる。この過程で、果たして本当に教師として適任である人が選抜されるのだろうか。大学での講義は単位を取るためのものになり、本来の教員養成機能は形骸化していないだろうか。

 私は、教師を目指している大学生数人から話を聞き、また彼・彼女らのやっていることを観察したことがあるが、子どもへの教え方・接し方や教員としての心構えを身につけるというよりは、教育基本法を暗記したり、試験に出る問題を研究したりと、ここでも「受験勉強」をしているのだという印象を受けた。つまり、それが教師になるために求められていることなのである。私はそのような勉強をするよりも、家庭教師や塾講師のアルバイトでもしたほうが、よっぽど教師として必要とされる能力や態度を身に付けれると思ってしまった。

 現在の教員養成の課程には、どのような問題が潜んでいるのか。また、どのような改革が行われているのか。重松清編著『教育とはなんだ』(築摩書房、2004年)の「5.教師とはなんだ」を参考に見て行くことにする。

 そもそも、戦前は、師範学校と呼ばれる教員養成学校があった。それが、戦後GHQが「師範教育が軍国主義に大きな影響を与えた」ということで、教員養成を一般の大学にも開放したのである。現在では、医学部など特別な学部を除けば、どこの学部でも、文部科学省から教職過程の過程認定さえ受ければ教員免許を出すことができるのである。

 少子化が進み、大学に生徒が集まらなくなると、大学は生き残りを考えなければいけなくなった。教員免許の取得を厳格にし、優秀な学生でなければ免許を取れないようなやり方では学生は付いて来ず、学生のニーズに答えるという名目で、希望があればどんどん教員免許を出した結果、現在のような粗製濫造につながっているのである。

 そうなると問題となるのは、例えば教育実習である。東京学芸大学や地方の教育大学のような教員養成大学には、附属の学校があるため、学生たちはそこで教育実習を受けることができる。ところが、一般の大学ではそうした受け皿がないので、学生は母校で実習をすることになる。しかも、教育実習を重視しようということで、以前の2週間が4週間という長さになった。そうなると、学生を迎え入れる現場の負担は重くなり、大変だということになる。受け入れる現場や教育委員会からは、採用試験に受かった学生だけにしてほしいという声があがり、一方では、学生からすると4年生の6月では採用試験の直前なので、むしろ実習を前倒しにして3年生でやらせてほしいと考える。教職科目も勉強しておらず、まだ教師になるのかどうかはっきりしない段階で教育実習を行うことには、教育委員会としてはとても賛成できない。このように、受け皿がないのを安易に母校実習に頼ってきたツケが出でいるのであり、教員免許のシステムが曲がり角に来ていると言わざるを得ない状況なのである。


・教職課程の例

教員免許取得のための実習例@S君

1年生 2年生 3年生 4年生
内容
介護体験 教育実習@ 教育実習A
実習先
老人ホーム
近隣校の養護学級
附属学校 地元の母校
期間
5日間
2日間
夏休みに3週間 2週間

教員免許取得のための実習例AMさん

1年生 2年生 3年生 4年生
内容
小学校見学 介護体験 教育実習@
教育実習A
実習先
公立校 老人ホーム
養護学校
公立校
母校(附属校)
期間
1日 5日間
2日間
3週間(6月)
2週間(秋)

 ここに示したのは、私の友人で都内の国立大学に通うS君と、私立大学に通うMさんが大学4年間で教員免許を取るために受けた実習を表にしたものである。S君の場合は、中学校と高校の教員免許を取得するための講義・実習を選んでおり、Mさんは、幼稚園と小学校の教員免許を取る過程である。S君もMさんも、附属校と地元の学校(もしくは大学の所在地にある学校)で、2回の教育実習を受けている。たいていは、いつ、どれくらいの期間教育実習をするかというのは、受け容れ側の学校によって決められるので、個人差がある。こうした実習と、教職課程に必要な単位を取って卒業することによって、教員免許を取得できるのである。ただ、この他にも、校長先生の話を聞くようなガイダンスが数回あり、「けっこう大変」とMさんは言う。

 表を見ればわかる通り、2人が共通して介護体験というものを経験している。教職課程を取っていない私にとって、この介護体験というのは不思議でならない。なぜ、教師の免許を取るのに介護体験をしなくてはならないのか。

 実はこれは、97年に当時衆議院議員だった田中真紀子の発案によって成立された、介護等体験特例法によるものである。この法律が98年4月に施行されたことによって、小中学校の免許を取りたい学生は、社会福祉施設と盲、ろう、養護学校で計7日間の介護体験を義務付けられたのである。この特例法ができた理由として、文部科学省のホームページには、「人の心の痛みのわかる人づくり,各人の価値観の相違を認められる心を持った人づくりの実現に資することを目的としている。」と書かれてある。教員の質の向上をねらおうという意図があっただろうということが見受けられる

 ところが、この介護体験制度をめぐって、「学生の学習態度が悪い」という声や、その意義を疑問視する意見があるということが、毎日新聞ホームページの記事(2001年9月12日付)に出ている。受容れ施設の条件設備が整わないままに、ただ制度を導入したため、十分に機能していないという趣旨の問題点を指摘している。「なぜ教員免許を取得するのに、介護がいるのか」という質問に、文部省(当時)の担当者から十分に答えてもらえなかったという大学講師の話も紹介している。

 確かに、介護の現場を経験することは、それなりに意義のあることだと思うが、専門的知識もないまま、ただ7日間の介護体験を受けることで、教師として必要などんな能力が身につくというのだろうか。受け容れる側の施設に十分な指導もなく、国が「なんとなく」やった方がいいからという理由で導入してしまった印象を受ける。理想を目指すだけで、政策を行う具体的な根拠がない。この介護体験制度を通して、国が裏づけとなるデータもなく政策を決めているという問題点が垣間見えるのである。

 さて、周知の通り、S君もMさんも教員免許を取っただけで教師の仕事に就ける訳ではない。公立の場合も私立の場合も、試験と面接を受けて合格しなければならない。では、公立校の教師を目指す人なら誰もが受ける教員採用試験とはどのようなものなのか。

 まず、この試験の問題を作っているのは、県の教育委員会の管理指導主事クラスであると言われる。これは、高校入試の問題作成委員とほぼ同じである。各都道府県で独自に作成されるものの、問題にはほとんど違いがない。教育法規の問題が教職教養の30%を占めるから、似たような問題になるのである。

 採用試験の問題の1つは、受験生が併願できない仕組みにある。どういうことかと言うと、各都道府県が採用試験の試験日を前もって話し合って同じ日に決めているのである。それにより、試験日が同じブロックが全国に5つあり、どんなにたくさん受験しようと思っても5つしか受けられないのだ。関東地方はぜんぶ同じブロックなので、東京都と神奈川県を併願することは不可能なのである。

 なぜこのようなことが起こるかと言うと、複数合格した学生に逆に選ばれることを都道府県が恐れているからなのだ。例えば、東京と千葉で合格した学生が、東京を選んだ場合、千葉では良い人材を逃がしたと考える。それを防ぎたいがために、試験日を同一にしているのである。教員の世界には競争原理というものがないとも言える。

 教員養成制度は見直すべきであり、問題のある教師の再教育や免許を更新制にすることについても考えていかなければならない。しかし、だ。気をつけなければいけないのは、私たちはあまりに多くのことを教師たちに求めてはいないだろうかということだ。学校で問題が起こる度に、生徒が何か事件を起こす度に、先生の責任だと押し付けてはいないだろうか。特にマスコミは、一人の問題教師を取り上げて、それがあたかも教師全員に関わる問題であるように拡大する、顕微鏡のような性質があるので、マス・メディアの影響を受けやすい現代人は、一度自分の頭で考えてみる必要があるだろう。友人、知人を当たるなり、母校に行くなりして自分の周りを探してみれば、教育熱心な先生が少なくとも一人は見つかるはずだ。その人が、生徒のためにどれだけのことをやっているか聞いてみれば、「先生って大変なんだ」と思うに違いない。私自身、この研究のために学校の先生や教師を目指している人に合って話を聞き、教師という仕事をするには、ただならぬ努力や熱意が必要だと改めて感じた。それに、教師も一人の人間であり、聖人ではない。いじめや校内暴力、学級崩壊などの問題を全て解決してくれるというのは、甘い考えだ。そもそも、こうした問題が起こる原因は、学校よりもむしろ家庭や地域コミュニティの変化にあるように私には思える。核家族化の進展や地域との結びつきが弱まるにつれて人間関係が希薄になり、「しつけ」や道徳、倫理、さらには常識を子どもに教えるといった、かつては家庭や地域が担っていた役割を、いつのまにか学校に押し付けるようになったのではないだろうか。教師が最もやるべきこととは、子どもに学力を身につけることである。そして、子どもと会話をすること。このようなことができる教師を一人でも多く生み出すシステムをつくることが必要だろう。


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