山崎 寛和     Hirokazu Yamazaki

早稲田大学社会科学部 上沼ゼミ(政策科学研究)

■研究テーマ:これからの日本の農業のあり方を考える
■研究ケース:農地法改正等による農業の法人化の推進

■研究動機■

私は農家の長男である。 しかし、私の両親は私が農業を継ぐことを強制しないし、私も今のところ継ぐつもりはない。 このままでは我が家の家業である農業は廃業になってしまう。

また、日本全体の農業もかねてから、衰退の一途をたどっており、多くの問題が山積している。 農業は、ただ単に食糧を生産するというだけでなく、自然環境の保全などの多面的な機能を持っており、 農業が廃れることによって様々な弊害が生じることが予想される。

農業の後継者不足が叫ばれる中、 自分は農業を継がずに他の職につこうとしていることには少なからず罪悪感を感じる。 個人的な事情だけではなく、日本という国にとっても農業の問題は目を背けてはならない問題であり、 農業を研究テーマとすることを決意するに至った。

日本の農業が停滞している原因は様々考えられるが、私がまず思いついたのは経営方法であった。 日本の農業は大半が家族経営で、細々とやっているというイメージがある。 旧態依然とした農業経営ではなく、市場原理を導入し、一般企業のようにマーケティングを行い、 消費者のニーズをつかんだ経営を行うことによって、農業は活性化されるのではないかと漠然と思ったのである。 そこから、農業の法人化というキーワードが浮かんでくるまでそれ程時間はかからなかった。 そして農業法人に関して少し調べてみたところ、興味深い事実を知ることとなった。

平成13年3月(施行)の農地法改正によって、農業生産法人(農業法人の一種)に 新たに株式会社という形態が認められたのである。 これは、改正前からかなり賛否が争われた問題であり、農業法人の歴史の中でもかなり画期的な出来事であった。

そこで、私はこの農業法人に対する株式会社の認可という事実を足がかりとして、 農業法人(特に株式会社)の可能性を検証していくと共に、 これからの日本の農業(農業政策、農業経営)のあり方について考察していきたいと思う。



■章立て■

 
第1章 株式会社の農業法人への参入 1-1.農地法改正による農業生産法人の株式会社形態の認可   
1-2.農業法人とは
1-3.農業法人化の歴史
第2章 日本農業の構造的問題 2-1.戦後の日本農政のあゆみ
2-2.農協の歴史
第3章 日本における農業法人の実状 3-1.農業法人の現状              
3-2.株式会社形態の農業生産法人                     
第4章 これからの日本の農業のあり方



第1章. 株式会社の農業法人への参入

  平成13年3月(施行)の農地法改正により、農業生産法人(農業法人の一種)の形態として株式会社が認められた。 それまで農業生産法人の形態は、農事組合法人、合名会社、合資会社、有限会社に限られていたが、そこに新たに株式会社が加わったのである。 また、事業内容などその他の要件に関しても改正が行われた。 これら改正はどのような目的で行われ、どのような意味を持つのだろうか? この章では、この改正について詳しく見ていくと同時に、 「そもそも農業法人とは何なのか?」「どのような背景で制定されたのか?」といったところを探り、 最終的に株式会社の認可によって農業生産法人や農業全体にどのような影響がもたらされるのかということについて論じていきたいと思う。

1-1. 農地法改正による農業生産法人の株式会社形態の認可

   平成13年3月に農地法が改正された。これにより農業生産法人(農業経営を目的として農地の取得ができる法人)の要件が見直された。 最大の改正点は、法人の形態として株式会社が新たに認められたことである。 改正前は農事組合法人、合名会社、合資会社、有限会社という形態に限定されており、株式会社は認められていなかった。 また事業要件に関しては、改正前は農業及び関連事業に限定されていたが、改正によりその他の事業も可能となった。 構成員要件に関しても、新たに「地方公共団体」「法人と継続的取引関係にある個人・法人」が追加された。 このように農業生産法人の要件は大きく緩和されたのであるが、これにより農業生産法人は実際にどのようなことが出来るようになるのであろうか。 

  食料・農業・農村基本法には、農業経営や農業法人に関して定めた以下のような条文がある。

      
<望ましい農業構造の確立>
第21条  国は、効率的かつ安定的な農業経営を育成し、 これらの農業経営が農業生産の相当部分を担う農業構造を確立するため、営農の類型及び地域の特性に応じ、農業生産の基盤の整備の推進、 農業経営の規模の拡大その他農業経営基盤の強化の促進に必要な施策を講ずるものとする。

<専ら農業を営む者等による農業経営の展開>
第22条  国は、専ら農業を営む者その他経営意欲のある農業者が創意工夫を生かした農業経営を展開できるようにすることが 重要であることにかんがみ、経営管理の合理化その他の経営の発展及びその円滑な継承に資する条件を整備し、家族農業経営の活性化を図るとともに、 農業経営の法人化を推進するために必要な施策を講ずるものとする。       

  ここに定められている「効率的かつ安定的な農業経営」や「農業経営の法人化を推進するために必要な施策」を実現するための1つの方法として 株式会社の認可が議論されるようになったと思われる。 農業生産法人への株式会社の導入が政府で議論されるようになったのは、平成4年頃からである。その後幾度にわたる検討がなされたが、 平成12年12月に農地法の一部改正法案が臨時国会に提出され、可決・成立に至った。 農業生産法人に株式会社を認可することにより、情報力や技術開発力、マーケティング・ノウハウなどの様々な経営能力を活用することが出来るようになり 農業経営の効率化を図ることが出来る。 しかし、株式会社の認可は株式会社による農地の取得を認めることになり、これにより株式会社は投機や資産保有目的で農地取得を行い、 農地が本来の目的に使われなくなることが懸念される。 また家族経営や地域社会のつながりに基礎を置く伝統的な農業社会の秩序が乱れてしまう恐れがある。 このように株式会社の導入には、大きな利点もあるが同時に様々な障害も予想される。 そもそも農業法人自体は昭和37年に制定されているが、当初から平成13年の農地法改正までは株式会社という形態は認められていなかった訳で、 長い間認められなかったことには何らかの原因があるはずである。これについては後で触れることにする。

                                   
平成13年3月の農地法改正による農業生産法人の要件の変更

改正前改正後
法人形態要件農事組合法人、合名会社、合資会社、有限会社のみ 株式会社(株式の譲渡制限のあるもの)を追加
事業要件農業(関連事業を含む)に限定       
※関連事業:農産物製造加工・運搬・販売、農業生産資材の製造、農作業の受託 等
農業(関連事業を含む)が主(売上高の過半)であるとの範囲でその他事業の実施が可能       
(例)民宿、キャンプ場、造園、除雪 等
構成員要件農業の常時従事者、農地の権利提供者       
農地保有合理化法人       
農業協同組合、農業協同組合連合会
地方公共団体を追加 
法人から物資の供給等を受ける個人又は法人の事業の円滑化に寄与する者       
(例)産直契約する個人、ライセンス契約する種苗会社       
(注)総議決権の4分の1以下(1構成員は10分の1以下) 
法人と継続的取引関係にある個人・法人を追加       
(例)生協、スーパー、食品加工業者、農産物運送業者等 
役員要件役員の過半は、法人の農業の常時従事者(農作業に主として従事)である構成員役員の過半は、法人の農業の常時従事者である構成員       
そのうち、過半の者が法人の農作業に従事する役員 


平成13年3月施行の農地法改正の経緯

  1. 新しい食料・農業・農村政策の方向(平成4年6月)
    株式会社については、株式会社一般に農地取得を認めることは投機及び資産保有目的での農地取得を行うおそれがあることから適当ではないが、農業生産法人の一形態としての株式会社については、農業・農村に及ぼす影響を見極めつつ更に検討を行う。
  2.  
  3. 農業生産法人に関する検討(平成8年5月〜9年3月)     
    農業生産法人制度に関し、株式会社の農業経営への関わり方、事業要件のあり方等について幅広い検討を行うため、学識経験者等からヒアリングを行うなど検討を実施。
  4.  
  5. 食料・農業・農村基本問題調査会における検討開始(平成9年4月)     
    土地利用型農業において株式会社の農地の権利取得を認めるか否かについて、関わり方等について、賛否両論あり。
                                      ↓
  6.                       
  7. 食料・農業・農村基本問題調査会答申(平成10年9月)      
    土地利用型農業の経営形態としての株式会社は、      
    @農地の投機的な取得を行う、家族農業経営と調和した経営が行われない等の懸念があり、株式会社一般に認めることは合意が得がたい。      
    A耕作者が主体である農業生産法人の一形態としてであって、懸念払拭措置を講じることができれば、その途を開くことが考えられる。

  8. 自民党基本政策小委員会(10年9月) ※上記と並行して検討 
                          ↓
  9.  
  10. 農政改革大綱(抄)(平成10年12月省議決定)      
    農業生産法人の一形態としての株式会社について、専門家による委員会を設けて懸念払拭措置等を検討すること。      
                          ↓
  11.  
  12. 農業生産法人制度検討会(平成11年1月〜7月)      
    @農業生産法人の一形態として、株式譲渡制限のある株式会社を認める。      
    A勧告、立入調査等の懸念払拭措置を講じる。      
                          ↓ 
  13.  
  14. 農地法の一部改正法案 通常国会提出(平成12年3月)・廃案       
    自民党の国対委員の一部が農地法改正案の審議入りに反対し、結局、平成12年6月29日の衆議院総選挙を控えて会期延長での対応も困難となり、審議されることなく廃案となる。     
                          ↓
  15.  
  16. 農地法の一部改正法案 臨時国会提出、可決・成立(平成12年12月)      
    重要法案として、衆参約27時間の審議を経て、可決成立。



1-2. 農業法人とは

  前節では農業生産法人に株式会社が認められたことについて見てきた訳だが、それでは農業生産法人や農業法人とは一体何なのであろうか。 ここではまず農業生産法人、農業法人の定義を明らかにし、これらがどういった背景で制定され、どのような経緯をたどってきたのかを見ていきたいと思う。

農業法人とは、「法人形態」によって農業を営む法人の総称である。この農業法人には、「農事組合法人」と 「会社法人」の2つのタイプがある。 また、農業法人は、農地の権利取得の有無によって、「農業生産法人」と「一般農業法人」に大別される。
会社形態をとる法人はいうまでもなく、普通一般の株式会社や有限会社、合資会社、合名会社で、 一般企業の法人制度を農業も利用しようというものである。これらの会社制度を規定しているのは、有限会社に関しては 有限会社法、その他の会社に関しては商法で、組織体として営業行為を行おうとするものである。 有限会社は有限会社法、合資会社、合名会社は商法を根拠法とし、株式会社よりも小型のもので、少数の人数で、 個人の出資によって構成されるため、農地の権利を取得して農業経営を行うことができるものとされた。 株式会社は商法を根拠法とし、資本が多く集められるように株式を発行するもので、しかも、株式の譲渡が自由に行われる ため、農地の権利を取得して農業経営を行うことができなかったたが、経営管理能力の向上や対外的信用力の向上等に 資する農業経営の法人化をより一層推進する観点から、平成12年に農地法の改正を行い、平成13年3月1日から 株式の譲渡制限のある株式会社に限って、農地の権利を取得して農業経営を行うことができるようになった。

一方、農事組合法人の制度は、昭和37年の農業協同組合法改正により設けられたもので、組合員の共同の利益増進を 目的とした組合法人である。当時農業基本法の制定により、自立経営とともに協業の助長が政策として掲げられたが、 この制度もその一環として生まれたもので、農民の協同組織に法人格をもたせたものである。 したがって、農事組合法人の組織や運営に関することは、すべて農業協同組合法に規定されているのである。 もっとも、いわゆるJA(農業協同組合)と農事組合法人とでは、農民の協同組織という根本は同じでもその性格は大部 異なる。農業協同組合は、主に流通面の事業を通じて組合員に奉仕するものだが、農事組合法人は、農業生産に直接関連 する事業を行うわけで、とくに農業経営を営む法人の場合は、その組織自体が経営活動を行う点で、むしろ農家と同じ 経営体であり、経済単位といえる。なお、この農事組合法人には、事業のうえから農業経営を行う法人と、共同利用施設 の設置等を行う法人の2つの種類が設けられている。
このように組織法のうえから2つの農業法人がある。会社法人は、営利を目的とする一般の企業のために設けられたもの であり、これに対し農事組合法人は農業経営等を法人化するため、農業独特のものとして設けられたもので、いわば 協同組織体的性格を持っている。したがって両者の間に性格上の大きな違いがあるのは当然である。

農業法人の仕組みで重要なことは、農業生産法人という仕組みがあることである。 農業生産法人というのは、農地法のうえで規定された呼び名で、それによると、 「農地または採草放牧地の所有権や使用収益権を取得することのできる法人」ということになっている。 つまり、農地や採草放牧地を利用して農業経営を行うことのできる法人、ということである。 農地がなくてもできる養鶏、養豚などは別であるが、その他の作目は農地を必要とする法人であるから、 会社であろうと農事組合法人であろうと、農業生産法人という農地法上の要件を満たすことが絶対的要件となる。

1-3.農業法人化の歴史

農業法人という言葉が使われだしたのは昭和37年年代初めからである。国会では、農地法並びに農協法の一部改正 として昭和37年7月1日より施行され、農地法上、法人による農地取得が始めて公的に認められその資格を持つ 「農業生産法人」が位置付けられた。加えて、農業基本法の協業の助長の理念を反映して「農事組合法人」制度が農協法 の中に新設された。このように、農業法人は、昭和37年に「農業生産法人」と「農事組合法人」の制度ができてから 数えても、すでに40年以上の歴史がある。さらに、制度発足以前から多くの法人経営、例えば農地を必要としない 養豚、養鶏の施設型農業法人経営等があったことを考えると、農業法人化の歴史はかなり長いものになる。 昭和37年当時の法人化制度の直接の契機は農業所得税に対する不満であったが、その背景には農業者の経営への目覚め、 体質改善という本質的な課題への取り組みがあったと考えられる。

戦後における農業の第一の転換期を農地所有の近代化を実現した農地改革とすれば、農業経営の法人化により農業の 近代化を目指した昭和30年代は第二の転機とも言える時代である。当時、日本経済は高度成長の時代に入り、重化学工業 に傾斜した産業政策が採られていた。一方で農業経済は停滞し、農工間の所得格差の拡大、農業労働力の都市への流出、 兼業化、出稼ぎの増加など農村と都市の格差は急速に拡大していた。このような中で起こった農業法人化運動は、 工業優先の経済政策の中で農業者自らの経営の体質改善と自立化を求めた、いわば農業経営の企業化の萌芽ともいえる 動きであった。

農業法人制度化の動きと時期を同じくして、昭和36年には農業の近代化・合理化による農業と他産業との生活水準の 均衡化を目指した農業基本法が制定された。まさに、当時の農業法人化は、時代の要請であったと言える。

農業法人の形態

                    
農業生産法人制度の変遷
事業要件法人形態要件趣旨
1962年(昭和37年)農業及びこれに附帯する事業 農事組合法人、有限会社、合名会社、合資会社(株式の譲渡制限のあるもの)を追加 家族農業経営の発展等に資するための協業の助長
1970年(昭和45年) 借地、雇用労働力による経営規模の拡大
1980年(昭和55年)農地等の権利を有しない農業後継者等の農業生産法人の経営への参画
1993年(平成5年) 関連事業を追加 農業経営の法人化の推進のための事業範囲、構成員要件の拡大
2000年(平成12年)主たる事業が農業及び関連事業株式会社を追加 経営形態の選択肢の拡大、経営の多角化等による農業経営の法人化の推進及びその活性化

農業生産法人数の推移



▲章立て

第2章. 日本農業の構造的問題

農業法人は昭和37年の農地法改正によって制度化されたということは第1章で述べたが、農業法人について論じる上で農業政策との関わりを探る事は必要不可欠である。そこで、この章では戦後の日本農政と共に農業政策と切っても切り離せない農協についても見ていきたいと思う。

2-1.戦後の日本農政のあゆみ

敗戦直後の農業政策 1940年代後半

終戦後の日本において、失業や食糧不足、インフレなどの深刻な社会不安を払拭し経済再建の一歩を印すのが、時の政府の役割だった。 その役割の優先順位は、まず食糧の確保におかれた。国民の胃袋を最低限保証し、人力によって経済社会での全体的な生産性を上げていくというものだ。 一方、GHQ主導の占領軍は、アメリカの極東政策が色濃く反映された占領政策を打ち出し、その基本を軍国主義の除去と民主化の促進においた。 軍国主義の基盤にもなった財閥は、経済の民主化を進める意味でも弊害とされて解体。それと同時に地主・小作制度が日本全体の民主化を妨げるものだとして 農地改革も実施された。復興政策と民主化政策は、農業協同組合法や労働組合法の制定・婦人参政権の実現・圧制的諸制度の廃止など、 次々と発せられるGHQ指令で基盤整備され、主権在民・戦争の永久放棄・基本的人権尊重などが盛り込まれた日本国憲法の公布(1946年11月3日)に至った。

農地解放により自作農化された農民は、水を得た魚の如く農業の大地に立って生産意欲を高め、増産に汗を流していった。しかし、食糧増産・確保には限界があった。農地の所有関係を改め、いくら生産意欲を高揚させても、国全体の農業者数と農地面積そのものには変わりがないから、 食糧増産にも限界があるという現実と、政府の思い通には食糧が集まらないという現実である。この現実に対しての解決策を講じることから、 戦後処理の再建復興型農政は具体的に開始されることになる。 政府は大枠として三つの解決策を発想、農地が足らないのならば農地を拡大することを、農業者数に限りがあるのならば農業形態の種類を増やすことを、 思いどおりに食糧確保できないのならば強引に管理・確保することを考えた。そして、農地拡大策には開拓・干拓という手法が用いられ、 農業形態の種類増加策には有畜農業の奨励という手法が用いられ、食糧確保には食糧管理法を盾にした強権発動での強制供出という手法が用いられていった。

だが、これをもってしても重要な眼目としての食糧増産・確保は、農政の意図どおりには達成できなかった。 供出を強制しても、基本的な低米価政策と慢性的な食糧不足は、ヤミ価格の高騰を招くばかりで、1949(昭和24)年で玄米10kg当たり生産者米価245円、 消費者米価405円に対し、ヤミ米価1000円という状況で、農家は供出の網をぬうようにしてヤミに走る。その結果、強権発動型の食糧強制供出率は 45%内外にとどまっていった。また有畜農業奨励も、水田裏作や田畑輪換で飼料作物の導入が図られたとしても、それで飼える家畜は数頭にすぎず、 しかも年中無休状態になることから、ヤミに走り、利益を上げ始めている農家にとっては魅力を感じるものでは到底なかったので、有畜農業奨励は 絵にかいた餅に終わる。そして農地拡大型の開拓も、1945年11月に「緊急開拓事業実施」をぶち上げたものの、北海道(定着率34%)を代表とする 過酷な条件下での開拓入植に対しては、掛け声ほどには成果が上がらなかった。 しかし、現実の動向がどうであれ、農政においての食糧増産は国家命題でもある。これを達成せずにはすまされない。 そこで次々と農業分野に各種奨励金が投入され、1953(昭和28)年には財政投入額は336億円に達していた。

そんな折の1954(昭和29)年、アメリカは条件案付きで日本に経済社会構築のための防衛上の再軍備実施と食糧増産の打ち切りを要求、 財政投入型の食糧増産をやめて日本はアメリカの余剰農産物を円で買う、そのかわりにアメリカは受け取ったその円を日本への防衛投資や 日本製品購入に当てるという内容のMSA協定を提示。それを日本政府は、アメリカ側の新しい援助だとして飛び付き、即座にMSA協定を締結すると、 日本の農政も、これまでの方針を大転換、米麦を中心とした増産対策(いわば食糧自給)の放棄と小農保護政策の中止を決めていく。 こうして戦後農政は、意図どおりには達成できないという厳しくも当たり前の現実と、自前の方向性は描き得ないで進んでいくというところから開始される。

高度経済成長期の農政 1960年代頃

講和条約の発効、国際通貨基金や世界銀行への加盟、MSA協定調印、ガット加盟と、アメリカに支えられることを唯一の頼りとして敗戦処理を進めながら 精力的に国際社会に復帰することを目指した日本は、1960(昭和35)年、「もはや戦後ではない」と表明した『経済白書』を出し、混乱期からの脱出完了宣言をする。 政府は、経済の自立と成長を至上のものと位置付けて「経済自立五カ年計画」「所得倍増計画」「全国総合開発計画」「新都市計画」「経済社会発展計画」と、 文字通り目白押しの計画を次々と打ち出していった。そして、実質の経済成長率は直ちに10%の大台に乗り、GNP(国民総生産額)がアメリカにつぐ 世界第二位の規模にまで達していった。この間、新幹線、高速道路、東京オリンピック、万国博覧会と大型プロジェクトも続々と誕生。 日本全体が、発展という興奮の中で経済最優先の国家計画に完全に組み込まれ、国民は好むと好まざるとにかかわらず、 「政・官」主導の計画経済管理路線に「財」や「特殊法人および団体組織」が相乗りして癒着する、というシステムを認知するようになっていく。 そんなシステムの中にある農政も、1961(昭和36)年、国家計画の命題でもある所得倍増計画の下で、これからの農業に関する目標を示した 『農業基本法』を制定。その政策目標を、農業と工業間の生産性格差や所得格差の是正に置き、進める方向を、 近代化する産業構造に農業も追随して生産効率を上げるところに置いた。 そして農業を近代化して労働生産性を上げることが農業所得を伸ばすことにつながり、それが結果として農家の自立を促すことになると理屈付けた。

そこでは大きく分けて三つの具体的方策が用意された。一つ目は生産品目の拡大、二つ目は生産基盤そのものの整備、三つ目は農業経営だけでやっていける 農家の育成だった。 生産品目の拡大としては、経済成長に伴って国民の食生活の内容が変化し、高級化も進むことから、それに対応して、果樹・畜産・酪農・各種野菜などを手がけ、 より高級品に重点を置いた生産を広げるべきだと考えた。 そして方法としては、都道府県や市町村ごとにその得意分野を選定して導入を決め、分野別での地域専業路線が最良だとされた。果樹なら果樹一本槍の地域、 酪農なら酪農一本槍の地域、各種野菜なら各種野菜一本槍の地域、畜産なら畜産一本槍の地域、という具合にである。 それが日本全体で見れば生産品目の拡大になるし、農業の基本、適地適作に通じることだとされた。 生産基盤そのものの整備としては、経済成長に伴って社会そのものが効率的な生活環境を求めることから、農業をする環境も整備して近代化する必要があると考えた。 そして方法としては、全国の農業地域で灌漑や排水路の整備、圃場の拡大を含む区画整理・整備や農道の舗装など、農業の構造改善をする上でも、 農業土木工事を遂行することが最良だとされた。そして、水田を中心に一区画30aに拡大、農道も5m以上に拡幅整備して、機械化や大型化を進め易くして、 高能率化した農業の姿を実現させるとした。 農業経営だけでやっていける農家の育成としては、農家一戸の耕地面積(当時平均0・8ha)では規模が小さいので、これを拡大(2・4haを目安)して整備し、 規模拡大によるスケールメリット追求型の農業が必要だと考えた。 そして方法としては、生産基盤整備とセットで農地の圃場整備をしながら個々の農家をふるいにかけて三分の二の農家に離農を促し、農地の集団化や 協業方式を含めて規模拡大できる農家だけを残すことが良いとされた。 そして、これらの3本柱を支柱にして、1962(昭和37)年、「農業経営の規模拡大、農地の集団化、機械化、農地保有の合理化などによる農業の近代化」 を目指した『農業構造改善促進対策事業』が本格化、農業政策の金看板「機械化一貫体系」が大きく掲げられていくと同時に、これらの施策を実施していくために、 数限りない補助事業や助成事業を金融制度と絡めてセットにして誘導するという、言い替えれば「目の前に補助金というカネをぶらさげて食いつかせて従わせる」 という今日に至る農政の施策パターンの原型をつくりあげていった。

生産基盤整備と機械化等で農業労働は大幅に軽減された。それは、政府の意図する二つの要件を満たすに、ほぼ順当な滑り出しとなっていった。 その一つは「より大きいことがいいことだ」とする考え方の浸透と「農業生産は設備投資で」とする装置化への取り組みという流れで、もう一つは、 省力化で余った農業労働力を工業労働力に吸収するというものだ。 もともと政府は、農業重視の政策は取っていなかった。それは1963(昭和38)年の『国民所得倍増計画中間検討報告』にも見て取れる。 これによると、10年後の1973年の目標を鉱工業生産の伸び432%に対して農業生産の伸びを144%にあらかじめ設定。 計画経済の枠組みの中でも鉱工業と農業の生産性水準は、初めから大きく開くように計画されていたのだった。 そして農業そのものは、むしろ工業製品としての機械や設備などを売り込んだり、基盤整備という名目で農業土木工事をして公共土木事業の 拡大に結び付ける格好の消費市場になっていった。 その結果として農業地帯には、構造改善事業を名目に多額の資金を投入したカントリーエレベーターを代表とするライスセンター、大型ハウス、 大規模選果場、大規模畜産施設、大型酪農施設など、いわゆる箱物がどんどんできていき、農業の工業化が、高度経済成長路線上で一気に推し進められていった。 そしてこれらは、米の増産や野菜の早期化、長期化、周年化を促し、価格の安定した量産タマゴや食肉、乳製品などの原料生産も可能にした。 また、装置化で余った労働力や規模拡大から外れた労働力は、鉱工業への労働力に移行し、さらに1971(昭和46)年の『農村地域工業導入促進法』で 農地までもが工業用地に移行していき、国家計画が意図する「鉱工業の生産性の伸び」にも大きく貢献していった。

農業現場では、農政の意図どうりに畜産・酪農・園芸などの拡大が進んでいき、どの部門でも、機械化・装置化・大型化・施設化・効率化には拍車がかかっていった。 そして、機械所有は20倍、石油燃料の消費量は30倍、飼料用穀物の輸入量は20倍、農薬の使用量は40倍と膨れ上がっていき、農業現場そのものが、 石油関連業界や商社、機具・設備メーカー、そして取扱窓口をほぼ独占、農政に足並みを合わせる農協の大規模な商業活動に大きく貢献していく、 いわゆる「得意先」になっていった。 その反面、農家は、機械化や設備化の推進で購入負担が増し、経済的に圧迫されて「機械化貧乏」という状況に悲鳴をあげた。 そして、借金を抱えて機械化・設備化して生産性を高め、家計のやりくりに必死になって息子や娘たちを高学歴社会や企業社会に送り出すと、 農家は、ただひたすら高齢化の一途を辿っていくようになる。

産品目の地域別拡大が、作目の単一単作化に大きくシフトされていくと、稲作部門でも、その傾向が顕著になっていった。 政策としは、「稲作以外の生産品目の単作化」がもくろまれていたのだが、「逆ザヤ」という米価算定方式(政府は生産者から米を高く買って、 消費者に安く売る方式をとった)では、稲作が最も条件的に安定、有利になっていることから、稲作を拡大選択する農家や地域が多く見られるようになっていった。 さらに、国家計画の意図通り工場の地方進出・分散が進み、道路網の整備やモータリゼーションが浸透していくようになると、 農家自らも他産業への在宅通勤が可能になり、農政の薦める「小規模農家の離農」いわば「挙家離村」の必要もなくなり、どこかに勤務する傍ら 自分の農地で時間的に拘束されることが比較的少ない稲作をやっていく、いわゆる兼業農家が増えていくようになっていった。 そして、農政がぶちあげた「農業経営だけでやっていける農家の育成」、つまりは「農業だけで他産業並の所得確保を実現する」ことを、 農業現場では皮肉にも、農家自らが兼業化して自分たちの工夫で他産業との所得格差の是正を実現させていくのだった。 一方、農政の方針にそって規模拡大した畜産部門は、設備投資に失敗して破産するところが続発。 酪農部門では乳量の生産過剰が乳価の低下を呼んで酪農そのものが成立しなくなり、果樹部門もまた、作付拡大による過剰生産で所得の伸びも頭打ちし、 農業経営だけでやっていける農家は、ほんの一握りの出現にとどまるのだった。 農政が意図する以上に稲作の単作化が進むと、米は生産過剰気味になり、米の生産量がグングン伸びていく一方で、日本人食生活の変化が 一気に米消費の減少に拍車をかけていく。そして、「逆ザヤ」という米価負担は過剰米でさらに増していき、米在庫過多の中で食管会計の赤字が始まる。 それを抑止するために、「他産業との所得均衡を図る米価算定方式」を放棄して「価格や数量は生産者側と流通側の双方が決定する」という 自主流通米制度の導入と、規模拡大の考えとは矛盾する方向の「米の生産調整」いわゆる「減反政策」を取っていく。 この減反政策は1969(昭和44)年から開始されるが、生産調整に対する補助金で財政支出して、転作誘導の奨励金でまた支出と、 「目の前に補助金というカネをぶら下げて食いつかせて従わせる」という悪癖に天罰が下ったかのように支出が続き、食管会計赤字地獄を 農政自らが演出していくことになる。そしてさらに、思うように進まない減反に苛立つあまりに、収穫を待たずに稲を刈り取らせるという、 最も愚かしい「青刈り」という行為を、農政機関および農協が、農業者に対して強制していくのだった。

経済低成長期の農政 1980年代頃

ニクソン・ショックによるドルの切り下げや中東戦争に端を発する石油ショックによるインフレ、イタイイタイ病や水俣病や四日市ぜんそくなどの公害問題と、70年代からは、必然的に経済成長最優先の矛盾と不均衡が噴出。邁進する高度経済成長路線上で、それを妨げる条件が次々と発生していく。しかし、日本経済は低成長ながらもかろうじてマイナスを回避し、成長率5〜6%で推移、1985年のプラザ合意の時を迎える。 日本は円高、低金利、原油安のトリプルメリットを享受すると、停滞気味の経済は、ウサを晴らすように暴走を開始。株価上昇と地価上昇が「バブル経済」を生み、1990年には「あがり食い」後のような「崩壊」に到達する。つまり日本経済は、戦後の混乱期から復興期、発展期、安定期を経て、限界点に達する。

日本の農政の方向はその間、『80年代の農政の基本方針』から『新しい食料・農業・農村のあり方』に移行し、『新たな国際環境に対応した農政の展開方向』へと流れていく。 農政が意図した「農業経営だけでやっていける農家の育成」とそれに伴なった「規模拡大」は、農家が自助努力によって成立させた「オール兼業化」という現実の前にあえなく挫折。 すると今度は、1980(昭和55)年の『80年代の農政の基本方針』で、「16歳以上60歳未満の男子で、年間自家農業従事日数が160日以上の者のいる農家」を「中核農家」とにわかに命名、中核農家の概念を「市場メカニズムを重視して、市場競争に耐えられるよう、高い生産性と農業所得を実現できる農業経営体」と表現して、「中核農家の規模拡大を地域ぐるみで推進し、兼業農家も成立するように図る」という方針を打ち出していく。 それをありていに表現すれば、「農業政策としては、自立経営農家の育成を図ったが実現できずに、実態としては日本の農業はオール兼業化の状態になってしまった。だからこれからは、兼業の中でも、農業収入に比較的重点を置いて暮らしている農家を、農業政策上で取り込んで、農政の悲願でもある規模拡大に誘導したい」というところだ。 そして、この中核農家への施策の集中を図って農地の流動化を促し、規模拡大へとつなげていこうとした。 しかし現実には「農業収入に重点を置いて暮らしている農家(いわゆる第一種兼業農家)」よりも「農業以外で主な収入を得て、自給的な農業をやる農家(いわゆる第二種兼業農家)」の方が多く、規模拡大への誘導がなかなか進まない。 むしろ農地は、地価上昇によって農地そのものが資産化していく傾向にあり、不動産取引の対象物件として貴重にはなるものの、農地としてはさっぱり流動化しないという現実だけが存在していった。 そして、農政が描くところの「農業の自立」は、一向にその姿すら見えて来ず、農家自らが成立させる「専業や兼業にかかわらず農業を持続させていく」という実質的な姿だけが鮮明になっていくのだった。

一方、国際社会では対日貿易収支の不均衡の解消を農産物の市場拡大に求める動きが活発化し、牛肉・オレンジの自由化交渉妥結とガットのウルグアイ・ラウンド交渉での米市場の開放要求にまで至っていた。 そこで1992年に『新しい食料・農業・農村のあり方』いわゆる「新農政」を発表。農政としては国際化と競争化に向けての「農業経営」としての「規模拡大」の成立にあくまでもこだわり、「農業を魅力ある職業とするため、他産業並の労働時間で、生涯所得が他産業従事者と遜色のない基準(1800〜2000時間労働で生涯所得2〜2・5億円程度)とする」ことを目標とする。 そして、農業形態を「個別経営体」「組織経営体」「個別経営体以外の販売農家」「自給的農家」にわざわざ分類し、「個別経営体」と「組織経営体」が、日本の農業を担っていくとした。 ここでは2000(平成12)年の農業の姿を、農家250〜300万戸の内「個別経営体」および「組織経営体」を総数35〜40万戸と想定。その内「稲作単一経営で10〜20ha規模」「稲作と集約作物の複合経営で5〜10ha規模」の2パターンで15万戸、「組織経営体」を、農業生産法人や生産組織などで受託耕作を含めて法人化した農業経営をやる集団として2万戸とし、これらを中心に、農地制度や土地改良制度を見直し、農地の集積を図って、あくまでも机上の計算での規模拡大の方針をとり続ける。 これを現実の世界で、現状のままの表現に言い換えれば「農家戸数約300万戸のうち規模拡大できる農家は約40万戸程度だから、農政としては2000年に向けて、あくまでもこの農業経営体中心の施策でやっていく」というところだ。 そして農政は、その方針の曖昧さを、日本の農家総数の85%が占める「兼業農家」にホローしてもらい、独自の努力で農業経営にこだわって努力をする「篤農家」に穴を埋めてもらい、失政については全農家に尻拭いをしてもらいながら、農業の本質や現実、そして農業現場の実態とは大きく遊離したところで存在していくのだった。

新時代に向けての農政 1990年代の頃
1993(平成5)年の夏、日本列島は異常な低温に見舞われ、米の作況指数は74という時を迎えた。 日本には「国民食糧ノ確保及国民経済ノ安定ヲ図ル為食糧ヲ管理……」を第一条にしてはじまる食糧管理法があり、1983(昭和58)年の水田利用再編第三期対策では「米備蓄開始」が決定されているから、一度の不作に対しては国民は不安を抱く必要はない、筈だった。 ところが、その食糧管理法を司る主管官庁自らが、その基本的責任での仕事を事実上放棄、「米備蓄量はたったの26万tだった」という無責任な現実を見せつける。そして、慌てて米不足を数の論理だけで補う緊急輸入に走り、あげくは緊急輸入米を余らせ、農政丸抱えの米生産・米流通・米消費は悲劇的状況に遭遇する。 それと同時にガット・ウルグアイ・ラウンドの決着でのミニマム・アクセスによる米輸入と、外圧や内圧による既成緩和促進も加わって、53年間に及んだ食管制度は、遅すぎた廃止の時を迎える。 政府は、農産物の輸入自由化や規制緩和促進による制度変更などで、環境変化に対応する基盤をつくるために6兆100億円規模の対策費を投入。それは、誰の目にも「国が米をはじめ農業そのものを管理・統制・誘導」する時代は完全に終り、すべての農産物が自由化の時を迎える時がきた、と映るのに十分な情勢だった。

農政は『新たな国際環境に対応した農政の展開方向』に沿って「稲作農家の自主性に基づいた生産現場の体質強化と、市場原理導入や既成緩和を促した米流通の合理化」の方針を打ち出す。 時代の流れの中であまりにも形骸化しすぎた食糧管理法が、米の市場開放(輸入自由化)という外的要因であっさりと終焉の時を迎え、「売る自由と作る自由」に向かう時が到来したのである。 しかし、1995(平成7)年11月、「食糧管理法を廃止して、政府が直接的に行なう操作は特定の政策目標を有するところに限定し、自由経済の下での米の需給と価格水準の安定を図る」ことを名目にして生まれた『主要食糧の需給および価格の安定に関する法律』(新食糧法)は、食管廃止どころか「需給計画」の下で、ますます随所に主管官庁(農林水産省・食糧庁)の職域と主導権の確保が講じられた「新たな間接統制型の米制度」と「米流通業界および系統農協に対する再編・統制法」として制定される。 そして、大枠としては「売る自由」と「作る自由」を掲げながら、「価格水準の安定」を目的とした新食糧法の蓋が開く。 ある程度の売る自由は早速、これまで既得権を貪り続けてきた米の流通業界と、それに対抗する新規参入組との間で発生する中途半端な米販売での価格破壊を導く一方で産地間競争に拍車をかけていき、ほとんどの米が入札で底値に張り付いて、最終的には稲作農家そのものの受取金額に大きく影響していくのだった。 さらに、米の価格では食糧管理法時代の在庫米のほうが、新食糧法時代の米よりも価格が高くなるという、新米と古米の、価格逆転現象まで発生させてしまう。 また、「生産者の自主的判断を尊重する」とした「米の生産調整」は、農協に新たに「生産調整協力義務」を付加したために、実際には、ほとんどの農家が、農協の半強制的な要請による生産調整(減反)システムに取り込まれていき、「作る自由」は、新食糧法施行間もない時期に消えていく。 一方、農産物の市場開放に備えた「農業経営基盤強化法」や「特定農山村活性化法」に基づいて行なわれる農業や農村を活性化させるための施策は、「国際化に対応し得る生産基盤の確立」や「生産基盤と生活環境の一体的整備」の名の下に、ほとんどが農業土木工事にあてられていき、いつも通りの予算消化型の公共工事による内需拡大策の一部と化していく。

戦後50年間、農政は、農業の方向をただ一点、「産業としての農業の確立」に見出だし、その内容を「効率化」に絞り、実現させる手段を「農政への服従」に置き、ありとあらゆる誘導政策で施策を繰り返していった。その中心になったのが1961(昭和36)年に制定された農業基本法だった。 しかし、その農基法農政は、ただ単に中央集権体制の産物として全国一律に農業の工業化マニュアルを補助金付きで提供したに過ぎなかった。結果的には農基法農政が描いた農業の方向性と誘導政策の道程は失敗に終り、逆に産業としての農業の実現さえ困難にし、農業そのものを窮地に追い込んだ。そして今、今後の農政の基本をあくまでも「経営感覚に優れた農業経営者の自立とそれに対する支援」に置きながら、功無き農政の総仕上げとして「農業基本法を廃止して新農業基本法を制定する」作業が進められている。 しかし、この新農業基本法制定の動きは、戦後50年農政の反省から内発的に生まれてきたものではなく、食管の見直しがガット・ウルグァイ・ラウンド(多角的貿易交渉)の結果(ミニマム・アクセスの受入)という「外圧」によって実施されたのと同様に、WTO(世界貿易機関)設立に基づいた協定(総自由化を目指す体制づくり)という「外圧」によって、そうせざるを得なくなったから否応なく出てきた動きにしか過ぎないのだった。

戦後農政というよりむしろ明治以降引き続いてきた農政の基本は、農業を規模拡大することだった。しかし、戦後の農地解放で個々に自作農化して細分化された農業は、規模拡大を唯一のものだとする農政からすれば、目標に逆行する大きなデメリットという認識が強い。 それは、農地解放から12年が経過した1957(昭和32)年の農林白書にも見てとれる。それによると「(農地解放で)耕作者の地位が安定したことは、農業生産力の発展の上に大きな刺激となった」としながらも「(農地解放は)一方で、日本農業の零細性を止揚するものでなかったことも、動かせない事実」と、農地解放の「功と罪」をあげている。 いわば1961(昭和36)年からの農基法農政は、そのデメリットを克服するための取り組みでもあった。そして、農基法農政下で、規模拡大を促すための農地に関する施策を、あの手この手と打ち続けてきた。 そしてそれは、「相続による農地分割の制限」「農協を通した農地売買を円滑に進めるための農地信託制度」「農用地利用増進制度」にまで至り、農用地利用増進制度で、所有権の移転による規模拡大から利用権の設定による規模拡大へと、その施策の中心を移したほどだった。 しかし、それらの施策の甲斐もなく、農政が描いた「土地利用型の規模拡大された農業経営」は、結果として実現せず、現在に至っても依然として小規模にとどまっているのが実情だ。 「農地解放がなければ、生産コストの低い農業経営ができたはずだ」。農基法農政下で遅々として進まない「農業の規模拡大と農地の流動化」に苛立つあまりに、そう口にする農政関係者は、少なくはない。農政からすれば、中途半端な民主化が進んで統制しずらくなるより、むしろ思い通りに権力が発揮できる封建的な農村であり続けたほうが良かったのだった。

戦後の民主化は、一面では地主の役割に取って代わったかのような農協を出現させた。しかし、農協には今や農業者を統括する力はない。「農協だけには頼れない」。それが今の農林水産官僚の本音でもある。むしろ、農業者を農政の意のままにうまく政策誘導できなくなっている農協には、もう可能性を見出だせなくなっているし、事実、農協と農林水産省の相互依存関係は、WTO体制での自由化を前に、大きな転換を余儀なくされている。 このまま農協一本槍で相互依存型農政を慣行していると、農政を司る官僚機構が、日本の農協や農業が衰退するのと足並みを合わせるように弱体化の一途をたどり、悪くすれば農林水産官僚機構そのものまでが、不要なものにもなりかねない。それでなくても日本の産業界の中には、「農林水産省を通商産業省に統合して通産省農林水産局にした方がまだましだ」という意見もあるほどだ。 日本の農業が壊滅しても農政を司る官僚機構が生き延びるには、これまでの農協依存型を大きく見直し、これからは総自由化を目指すWTO(世界貿易機関)体制に沿いながら政策展開するしかない。 そして、制度上で企業を優遇して企業ともしっかり手を組み、これまで以上に官僚がトップダウンできる体制を確保したい。「日本の農業と心中するのはまっぴら」というわけだ。いわば自らの体制への保身と権力へのこだわりだ。 それにはまず、企業に農地を取得させ、企業も農協と同様に農林水産官僚体制の支配下におく。そのためには、これまで禁止されていた企業の農地取得を解禁し、補助金あるいは優遇税制がらみの農政誘導で網をかけて企業を取り込む。 これを批判をかわしながら進めるには、農業生産法人制度に手を加え、企業も農業生産法人として農業に参入する領域を確保する方法が最適だというわけだ。 そして、企業の農地取得で農地の流動化を促進させ、規模拡大に結び付ける。さらに、より企業の参入を進めやすくするための条件整備として「補助金や助成金誘導での農村工業導入制度の改定」もぶちあげる。 農業現場に農産品加工をはじめとする食品工場や、あわよくば他産業の工場までも積極的に誘致する農工制度をこれまで以上に優遇措置を用意して整えれば、「農業者の働き先も確保できて、農村の活性化にも結びつく」大義名分も立ち、農林水産省としても、さらに広範囲に監督権が行使できるというわけだ。 だから、これから検討されて制定される「新しい農業基本法」もまた、結果としては、新食糧法がそうであったように、そして、これまでの全般的な農政機関の動向が顕著に示しているように、まずは農政を司る主管官庁自らの職域確保と監督権や主導権確保を優先させるための手立てが講じられた「さらなる愚策」としての制度にとどまっていく様相を呈しはじめている。

その基本姿勢を農政側は、「戦後50年農政を抜本的に見直す中から、これから何をなすべきかを、国際社会という視野で、環境保全や食料の安全性も、国際ルールや国際的な常識との整合性を十分に考慮しながら検討していき、国民のコンセンサス(合意)として制定されるべき」とする。 しかし、実際の改定作業上での新農業基本法制定に向けての検討骨子は、大枠では1992(平成4)年に策定された「新農政」や1994(平成6)年に答申として示された農政審議会の「新たな国際環境に対応した農政の展開方向」(といっても、農政審議会の実務的な答申づくりは、農林水産省・官房企画室が手がけるので、最終的には現行農政に沿った答申しか出ない仕組になっている)に沿いつつ、次の5点に集約される。 (1)「価格・所得・経営をどうするか」(2)「農地・農法・組織など、農業の構造をどうするか」(3)「国際社会との協調をどうするか」(4)「農業生産や農業経営に加えて、食料という視点の導入」(5)「農業・農村の有する多面的な機能等(環境保全を含む)の位置付け」 そして、新しい視座は勿論のこと、農業現場で営々と農業にたずさわる人たちの思いや意向を真摯な気持ちになって知る、あるいは知る努力をする、というごくあたりまえの姿勢を、農政および農政機関は今後も持ち得ないまま、あくまでも机上の計画で「産業としての農業」や「輸出入や農業交流という領域での国際化」や「環境としての農業」といった領域の事を考え、民間レベルの動きを巧妙に選別して取り込みながら、これからも不毛な施策を繰り返し、結果としては、基本的にこれからの農業の姿に対するとらえ方の稚拙さまでも鮮明に示していくことになる。 そして私たちは気付く。戦後50年、農政の姿勢を変幻自在に変化していく「猫の目」と評し続けたのが間違いだったのを。 農政および主管官庁は、これまでも、そしてこれからも、「猫の目」どころか一貫して産業としての農業の成立とその支配および利害だけにこだわり続け、公僕としての役割を忘れ、自らの姿勢を何ひとつ改めることなく、頑として官僚体制確保と主管官庁主導に固執するための不遜かつ画一的な方策を施し続けていくのだった。

2-2.農協の歴史

農協(農業協同組合)の誕生

戦後復興と民主化は、GHQ(アメリカ軍が主体になった占領軍)政策の下で「財閥解体」「労働三法の成立」「農地解放(改革)」の3本柱で進められた。 農地解放は、「全人口のほとんど半分が農耕に従事している国において、長い間、農業機構を蝕んできた甚だしい害悪を根絶しようとするもの」(GHQの農地解放指令)という趣旨の下で、小作と地主の関係を代表とする封建的な弊害を解消するために実施された。 そしてGHQは、農地解放で自作農化した日本の農業現場の民主化をさらに進めるために、『農地改革に関する覚書』で「農民の利益を無視した政府の官憲的な統制や非農民的勢力の支配を脱し、日本農民の経済的、文化的向上に資す農業協同組合運動を助長し奨励すること」を指示し、日本政府に農業協同組合をつくりあげるように指導していった。 しかし、1947(昭和22)年に成立した「農業協同組合法」に基づいてできたはずの日本の農業協同組合は、実際にはそれとは異質の組織として誕生していく。

GHQによる農地解放は、日本に旧くから残っている封建的な土地の所有関係を一掃し、実際に働く農民自らが土地を持ち、民主的な農村をつくることを目的として実施された。 そしてさらに、農地解放によって土地を地主から取り上げて自作農化しても、そのまま放置していたのでは、どんな勢力が地主に代わって農村を包囲し、支配するかもわからない、という事から、未然の防止策として、農民が結束して自分たちの利益を守る協同組合をつくることが最良の方法だとGHQは考え、農業協同組合の設立を促した。 GHQの指令に基づいて具体案をつくった農林省は「すでにある農業会を民主主義の方向にそって部分的に手直しして農協に改編、これを職能協同組合組織とする」とした。しかし、農業会そのものは、戦争中の統制経済体制の中から誕生した食糧供出を強要する封建的な統制団体で、いわば民主化の敵。これを排除するのがGHQの方針であり主張でもあった。 しかし、日本政府とGHQの駆け引きは、食糧難の解消(食糧供出の徹底)という当面の課題とマッカーサー指令による「反共の防壁」という利害のまえに、GHQが日本の政府案に譲歩することで決着。 実際には、農業者の意識が高まって議論を尽くし、農業者自らが主体的な組合員となって結集に動いて農業協同組合を作り上げたものではなく、農業会の資産を含めすべてをそっくり引き継いだ形で、政府が用意したひな形に沿って、農業者を組合員としてはめ込むようにして農協が誕生していくのだった。 そして「農業協同組合法」施行後わずか数か月という短期間に1万3800の総合農協が全国にできていき、都道府県単位の連合会が全国に660も乱立するという結果にもなっていった。 だから実際には、組合員にしても農協の当事者にしても、農業会と農協がどれほどの違いがあるのか、協同組合が一体何であるのかは、皆目見当もつかない状態での出発になっていた。

協同組合の何たるかも把握せずに誕生した、いわば泥縄的組織は、運営においても当初から決して明るいものではなかった。 信用事業では、農地改革が進むに連れて地主の経済力が急速に弱まり、預貯金の引き出しが頻繁に行なわれるようになっていった。そして、米麦を除く多くの農産物が食糧統制から外れると、農業会の遺産を引き継いだだけの運営方針もない、形だけの農業協同組合は、経営形態の確立もままならない状態に陥っていく。 そしてそれは、アメリカ側から出された経済安定政策「ドッジ・ライン」の影響で、より深刻な状況になっていく。 その頃の日本は、物資不足と終戦処理のための紙幣の乱発で、急速にインフレが進行していた。その悪化を避けるためにアメリカの公使・ドッジは、課税政策とデフレ政策を指導。独自の打開策を持ち得ない日本政府はこれに従い、今日に至るまでの政策展開の悪癖でもあるアメリカの政策提案に従属しながら行き当たりばったりの政策施行をする原型をつくっていった。 そのために農産物の販売価格も急暴落、それと同時に、農産物販売に比重が高まっていた農協金融も逼迫し、赤字農協が全体の40%を占め、預貯金の払い出しを停止する農協が全国で255、払い出しを制限する農協が800にも達していった。 ここから農協は、方針なき組織の姿を鮮明にさせる。 1950(昭和25)年、農協経営の健全化(赤字解消)を政府に救済してもらうことで成立させようと、農協代表者会議は日本政府に救済を嘆願。政府は、GHQが規定した「農協に国家権力は介入してはならない」ことを理由に、自力での立上がりを農協に指示するのだが、農協はただひたすら日本政府に救済を要請。そして政府の「農林漁業組合再建整備法」「農林漁業組合連合会整備促進法」「農業協同組合整備特別措置法」(再建三法)による二重三重の援助で、農協はかろうじて成立していくようになる。 また、政府援助に寄りかかり過ぎた農協は、団体再編成問題でも国に依存。1952(昭和27)年頃から頻発した農協組織とは別の農事団体・組織発足の動きに対しても、新しい組織づくりを阻止するために、農協をあげて強烈な反対運動を展開し、政治力を結集してそれらの動きを押さえ込んでいった。 そして、再建三法で救済された農協は、一気に行政省庁の監督下に入り、1954(昭和29)年に改定された「農協法」で、全国の府県連を傘下におさめた現在の全国農協中央会(全中)を誕生させ、農業現場をほぼ統括する基盤を、政府おかかえの下でつくりあげる。 それと共に、1955(昭和30)年に成立した講和条約で占領軍の手を離れた日本政府は、農業協同組合設立の定款作成や許認可にも介入できるように改定した「農協法」を盾に、農協組織の完全掌握・支配を手中に納めていく。農協側もまた、行政省庁の監督下での従属が、最も安定した組織の姿であることを認識していく。 そして、これらを契機に、日本独特の農業協同組合が本格的に成立。これはまた、戦後農政と一蓮托生の歩みを続ける農協の今日に至る姿の出発点にもなっていくのだった。

1960(昭和31)年に「もはや戦後ではない」と経済白書で表明した政府は、経済の自立と成長を至上のものと位置付け、所得倍増計画を代表とする経済成長路線を突き進み始める。 その頃、政府の肝入りによって首の皮一枚で救われた農協は、協同組合の精神を置き去りにしたまま、ただただ農協を維持させていくための米価を代表とする価格支持政策の要求といった政策依存の動きに没頭。経済成長路線上に生まれた「農業基本法農政」に対しても「行政指導優位」「農協経営の優先」を農協運営の中心に据えて従順に対応していく。 農業地帯をほぼ踏襲する農協は、高度経済成長と相舞って、何ら自らが経営努力することもなく、農業者自らが主体となった協同組合づくりを喚起することもなく、まして農業の岐路を十分に掌握することもなく、農業者が機械化貧乏に悲鳴を上げるのと反比例して、取扱事業高を飛躍的に伸ばしていった。 そして「信用事業」が1961(昭和36)年の9744億円から1970(昭和45)年の5兆2000億円に、「購買事業」が1800億円から9600億円(昭和37年〜43年)に、「販売事業」が1兆6296億円から4兆8967億円(昭和35年〜42年)に、「共済事業」が3兆6517億円から8兆9000億円(昭和41年〜45年)にと急伸していく。

協同ではなく統制を選んだ農協

農基法農政の金看板「農業の構造改善事業による機械化一貫体系」に、農協は、構造改善事業の事業主体として積極的に関わり、誘導政策に「農政の下請け機関」として従いつつ補助金や助成金に全面的に依存いくようになっていく。 しかし現実には、補助を受け、せっかく融資をすすめて大型トラクターをはじめとする大型農業機械を導入したり、ライスセンターを代表とする大型施設をつくっても、それを利用するのに十分な周辺環境が整わず、それだけが農業現場で孤立し、稼働率も悪く、ほとんどが遊休化して償却費だけが高くつくという極めて不経済なものになっていった。 また、例えば農家が、農協の薦める補助事業の下で牛舎を建設する場合などは、柱一本の寸法から材質に至るまで「補助事業の規格」に支配され、雪国でもない地域にも豪雪に耐え得るほどの柱が要求されるという具合に、補助事業を利用すると結局は高くつくことにもなっていった。そして、そうした多くの負担が最後には農家個々の肩に重くのしかかり、農家は機械化や設備投資貧乏に悲鳴をあげるようにもなっていった。 構造改善事業に絡めて農協が全組織をあげて押しすすめた「営農団地構想(稲作、畜産、野菜などについて生産地を選定して主産地化し、農協が誘導する集団生産によって農業生産を合理化し、生産性を高め、量産と規格化、農産品加工によって市場の支配を高めて農業所得の伸びに結び付けようとしたもの)」も、どのような形で生産し、作ったものをどう売るかという販売面の取り組みがおろそかになり、生産の省力化、効率化を狙った機械化や近代化にばかり力を入れて設備投資が膨らみ、ほんの一部の取り組みを除いて結果的に、殆どが実りのないものに終わっていく。 営農団地構想は、企業が食品加工に進出し、食品メーカーが農協を飛び越して農業者と直接取引しはじめたのに対抗して考えられたものでもあったが、農協では、1・5次産業に匹敵するくらいの食品加工の技術や能力もなく、市場を支配するとした農産品の加工販売も結局は絵に書いた餅に終わってしまう。

そして、生産資材の売り込みと米の取扱代金ばかりに依存する農協の姿勢は、減反政策の出現で、その対応能力の無さを明確にしていくことになる。 販売事業の殆どを米の取扱高に依存していた農協は、例えば1967(昭和42)年の販売事業による総取扱高4兆8967億円の内7割以上の3兆6085億円が米の取扱高で占められていたという具合に、何も努力しないでも不労所得としての手数料商売や金利収入で経営が続けられていくという悪癖が染み込んでいた。 だから、米を取り扱う権利、つまり食糧管理法は、農協にとっては無くてはならないものになり、米価闘争と食管堅持の活動が農協の取組そのものにもなっていった。 しかし、農協が唯一の頼みにしていた米に、厳しい試練の時がやってくる。食管の見直しと米の生産調整、いわゆる減反である。 1966(昭和44)年から開始された米の生産調整と自主流通米制度(生産者から政府が米を高く買って消費者に安く売る「逆ザヤ」算定方式から価格や流通量は生産者側と流通側の双方で決める制度)を農協は、農協が米集荷の窓口をほぼ独占する形での自主流通米制度の導入と生産調整に対する補助金や転作誘導の奨励金の支給という条件付で受入れていく。 そして現実には、農業者の立場を尊重して農協のあるべき姿を追求するというよりもむしろ、農政の立場を尊重して農協経営を進め、農協の利益に直結する食管体制を固持して農協を守るために、「行政の出先機関」の役割を果たしていく。 そして、政府と農協が一体となって減反を推し進め、生産調整(減反)に対する補助金で財政支出して転作奨励金でまた支出と、雪だるまのように膨らんでいく食管会計赤字地獄をつくりあげていくのだった。 いくら米が余ろうが、需給を無視して値上がりするのが米価だった。農村票を意識した政治的圧力が、戦後の米価の元凶でもあった。米審が始まったのは1949(昭和24)年。設立の目的は、GHQ(占領軍指令部)に農民の声を伝え、日本の立場を主張するためだった。しかし、1955(昭和30)年、講和条約発効と共に占領時代が終わると、米審は与野党の政争の場と化し、生産者が動員されて実力行使に荒れた。抑制米価を諮問した農相には農民から米が投げつけられ、米価引き下げを諮問した農相は、米審会場に閉じ込められた。自民党と農協主導の米価づくりが進むと米審は、他の審議会のような機能が果たせなくなっていった。そして、政治のおもちゃにされた米価闘争は、着実に日本農業の衰退に貢献していった。

また、1961(昭和36)年に「大きいことはいいことだ」とする農業基本法を背景に生まれた農協合併助成法にも、農協は従順に対応。これまでの市町村単位での行政区域内の農協合併の姿から、事業区域での農協合併、いわば経済圏を拡大するための合併の姿に、農協合併は形を変えていく。 合併して農協の事業区域が広がって一つの単位農協が掌握する農業者数が増えれば、それだけ信用・販売・購買・共済事業の取扱高も増え、経済効果が発揮し易くなるし資金繰りも楽になる、という考えだ。 ところが一方では、農協が大型化すれば、農協(組合)と農業者(組合員)の関係が希薄になり、農業者(組合員)の意思や意向が農協(組合)に通りにくくなり、農協(組合)の仕事もお役所的になっていく要素を含んでいる。だから合併するについては、様々なマイナス要因も考えて慎重に行なわれることが農業者(組合員)の側から強く求められていた。 しかし現実には、それらの事は殆ど考慮されずに、助成金のあるのをいいことに、上(農協中央会および農林省)からの半強制的な指導で、規模拡大という事だけで簡単に合併していく単位農協が大部分を占めていった。そして、助成法が公布された年から1970(昭和45)年までに、1万2000農協から6185農協へと合併が進む。

農業者(組合員)や単位農協の声が反映されない農政追随型の農協の上部組織への不信や疑念、そして不満が、減反受入でピークに達すると、農協中央会は、1970(昭和45)年の第12回農協大会で「安易な政治依存を廃し、自主自立互助の協同組合精神の本旨に立ち返らねばならない」と、農業者(組合員)や単位農協の不満をかわす努力を必死で開始する。 そして、「農協の自主建設路線」を確立するために「組織がばらばらになってはいけない。これまでのいきさつを捨て、組合員の自主的な組織である組合の縦横のつながりを強め、総合した力で問題解決に立ち向かっていく」と、にわかに「協同組合」の顔を演出していく。 だが実際には、その議論の下で出現した筈の『総合三か年計画』の具体的な施策は「組合員(農業者)利益のために」とした「農畜産物の生産販売一貫体制の確立」「生活活動の拡充強化」「物的流通体制の確立」というもので、協同組合としての運営やこれからの方針をどのようしていくのかという内容とは異質の、上意下達的な農協の経営方針が高らかに謳われるだけになっていく。 そして、これを機に、「協同の精神」と「組合員利益」という極めて便利な論調の持ち出し、つまりは、対策に窮するごとに、あるいは誘導政策を推し進めなければならなくなるたびに、「協同の精神」と「組合員利益」を持ち出しては最終的に農業者(組合員)の不満をかわして合意を取り付けることが、農業者(組合員)に対する巧妙な説得テクニックの原型になり、今日に至るまでの農協の必須の手段になっていくのだった。一方、農業者にしてもその多くが、自らが組合員として農協の運営に主体的にかかわることもなく、まして意に沿わない名前だけの協同組合から脱退することもなく、すべての方針を農協や農協職員に委ねて依存。農協の姿に不満や危機感を持ちながらも「農協が何とかするし、してくれる」という依頼心ばかりが強くなっていくのだった。

統制から独占経営へ


1972(昭和47)年には、全国購買農業協同組合連合会(全購連)と全国販売農業協同組合連合会(全販連)とが合併して全国農業協同組合連合会(全農)を誕生させる。 そして、これで農林系統の中央組織は、金融(信用)事業組織としての農林中央金庫(農林中金/1923年設立)、保険(共済)事業組織としての全国共済農業協同組合連合会(全共連/1951年設立)、政策組織としての全国農業協同組合中央会(全中/1954年設立)、経済(販売)事業組織としての全国農業協同組合連合会(全農/1972年設立)の4本柱になり、農政下での農協組織一貫体制が整う。 しかし、それと同時に現実の「農」の周辺をとりまく「産業としての日本農業の姿」は、農業をとりまく組織だけが頑強に肥大化しつつも、産業としての農業にたずさわる人たち(農業者)の高齢化や後継者不足で先細っていき、奇妙な形に歪み始める。またそれは、農業の世界のみならず、いわゆる経済合理主義の観点で一丸となって進む日本全体のおおかたの姿でもあった。 そして、70年代から必然的に浮き彫りにされてきた「政・官・財・特殊法人・関係団体組織」主導型の経済成長最優先や効率化一本槍の歩みが必然的にもたらした矛盾と不均衡は、80年代のバブルおよび90年代のバブル崩壊として見事に表面化していき、今やその解消策を含めて現時点での人間の持つ価値観や知恵の限界までも示すことになっていく。 一方、農業もほぼ硬直状態に入り、さらなる農業の担い手や後継者不足、農産物の市場開放、新食糧法の制定、農業基本法および農協法や農地法の見直しと、大きな転換期を迎える。 そして、「JA」に名称変更した農協は、農林系統組織自らの経営環境を守るために、農政指導下で、合併を代表とする組織リストラでの生き残りとさらなる独占体制の整備を開始。「経営の合理化」「事業・組織の改革」を旗印にJA改革『新経営刷新五か年計画』を策定し、農林水産省が制定する「組織整備法」の下、経済(販売)事業組織の全農(全国農業協同組合連合会)に経済連(都道府県単位の経済農業協同組合連合会)を統合、金融(信用)事業組織の農林中央金庫に信連(都道府県単位の信用農業協同組合連合会)を統合、保険(共済)事業組織の全共連(全国共済農業協同組合連合会)に都道府県単位の共済連(共済農業協同組合連合会)を統合。 これらを進めながら、約2200程度ある全国の単位農協を、広域合併で550農協に集約して地域単位の農協-県単位の連合会-中央の組織連合会(3段階組織)を広域合併農協-統合連合会(2段階組織)に体制整備することに没頭していく。 こうして、農政と農協/JAは、一層の相互依存的関係を深めながら、実際には現在の農業現場とは大きく遊離したところで施策を繰り返していくのだった。

1995年、食糧管理法が見直されて農家の「作る自由」や「売る自由」が保証される筈だった新食糧法が施行される頃、JAは、農政との相互依存体制の下で、新食糧法体制での「米の生産調整(減反)」を受け入れていく。そして、新食糧法でJAの「米の生産調整(減反)協力義務」まで明記。それと引き替えに地域生産調整推進助成金を、全農家参加型の生産調整いわゆる「とも補償」(生産調整を地域全体の取り組みで促進させる助成金がらみの減反強制手法で、農家個々の基金に依存せず、全額が地域生産調整推進助成金で賄われる)での実施に限定して農政から取り付けていく。 これによって農家の自主的判断による生産調整への参加・不参加や「作る自由」は事実上消滅。「米の価格安定のために」と農家を説得して生産調整を新たに10万7000ha増やし、JAが「農政の出先機関」として全体で約80万haの生産調整を稲作現場で強行させ、1998年までに70万tの米の在庫削減を目指す。   しかし現実には、当然のことながら市場原理を導入した新食糧法に、米の販売価格を支配する方策や権利はなく、大半の米価格は、実際の販売動向に左右されて、一部の人気銘柄米を除いて殆どが下落傾向を示してしていく。 そして、自主流通米の入札価格での落ち込みに対して、「組合員(農家)利益」を優先させる筈のJAは、県経済連自らのリスクを回避するための手段として「農家への仮渡し価格の引き下げ」で対応。農家(組合員)は、規模拡大した稲作農家になればなるほど減反増加分と仮渡し価格の引き下げというダブルパンチに見舞われ、手取り収入の大幅な減少という痛手を被っていくのだった。 米の市場開放を事実上阻止できなかったJA組織はまた、「組合貿易」という法人を通じて米輸入にも積極的に参入。「日本の農業を守る顔」と「農産物の完全輸入自由化に商社として対応する顔」を見せ始める。 そしてさらに、農業者(組合員)が基本的に支え合うはずの信用事業では、カネ余り現象とずさんな運営管理体制の下で、バブル期の株投機からバブル崩壊期の株投機の失敗を皮切りに、住宅金融専門会社(住専)や他のノンバンクへの貸し込みと融資の焦げ付き問題へと、農業とは大きくかけ離れた世界の金融ゲームに飲み込まれていく。 そして挙句の果ては、自らの経営上の取り組みで墓穴を掘っていながらも、その失態に対する責任を不在のままにして、結局は政府による救済と処理に依存。JA組織自らが、さらに農政機関に監督・統制される道を選択するという自立不可能な奇妙な協同組合組織になっていくのだった。

農協の没落

誕生して50年の農協組織はいま、時代の節目の二巡目を迎えている。そして、余分な要素や理屈を取り除いて、その二巡目の節目を見ると、節目ごとの対応が、あまりにも「いつか来た道」のこれまでに似かより過ぎているのに気付く。 例えば、現在進行形の農協合併や統合の姿は、1961(昭和36)年から1970(昭和45)年の10年間で実施された合併の構図や統合の姿に似ている。また、現在進行形のさらなる減反受入れは、1966(昭和44)年からの減反開始で取った農協の姿勢によく似ている。そして、輸入自由化や食管廃止に付随した補助金農政にぶら下がった農協の姿は、1961(昭和32)年の農業基本法農政に従属していった図式に似ているし、住専処理とその後の農協の姿は、1950(昭和25)年の農協救済と、その後の政府の農協支配の図式に、あまりにもよく似すぎている。 にもかかわらず、大きくなり過ぎた農協組織は、大きくなり過ぎたがゆえに、自らが何をどのようにしているのかも気が付かない内に、それよりもさらに大きな網に掛り、抜き差しならない世界に引き摺り込まれ始めているのだった。

農業者の相互扶助を目的とした協同組合の顔と効率的経営を展開しようとする総合商社の顔と信用事業に寄って立つ金融機関の顔と農政に連動する下請的出先機関の顔。それらの顔を併せ持ち、用途に応じてその顔や機能を器用に使い分けて巨大化してきた農協組織。 しかしそれは、一方では、その姿が変幻自在であればある程、協同組合としても、金融事業にしても、商社的活動にしても、保険事業にしても、すべての取り組みを中途半端なものにしていき、今では逆に、どの面においても時代遅れで独創性のない組織としての姿を、より鮮明にしていくばかりなのだった。 そして、これまでの農協組織というシステムが、その性質を大枠で示してきたものは、「組織化は、おおむね上意下達的な発想による指導・強制に極めて便利という利点以外には、その性質は、殆どあり得ない」という事だった。 また、農協組織が、実際の取り組みの中で示すものは、「さらに世の中が複雑になればなるほど、独裁的な手法が尽くされ、その側(特に中央組織)が執り行ないたい事柄は、すべて巧妙に、多くの人が望んだように見せかけようとする」事だった。 これまで以上に農協という組織は、政・官を相手にした政策交渉に明け暮れ、農政と一体となって施策を推し進め、金融や共済事業にも固執しながら、「より大きいことがいいことだ」とする単位JAの広域合併を代表とする一元化と画一化の取り組みに邁進していく模様だ。すると政治の世界がそうであるように、挙句は、偽善と猿芝居が日常の作法になり、これまで以上に人は、理性に背を向けて茶番の世界に生きる事になっていくのだった。 そして最終的には、金融や共済事業に固執するあまりに金融ビッグバンの中で完全に落ちこぼれ、農協の存在理由の正否や存在価値は、否定されこそすれ肯定や支持されることもなく、徐々に、そしてある時期を境に一気に凋落していく様相を呈しはじめている。

▲章立て

第3章. 日本における農業法人の実状

3-1.農業法人の現状

日本経済新聞社が2003年に行った農業法人に対する調査によると、回答を得た655社のうち、株式会社になっているのはグリーンきゅうず(滋賀県中主町)など39社(6%)であった。

今後3年以内に株式会社化を計画・検討している法人が90社に上った。株式会社化の利点(複数回答)は「社会的信用」(56%)、「出資者の幅が広がる」(38%)などが上位を占めた。

資金調達は現在、銀行など金融機関、農協、自治体などの制度融資が三本柱だが、今後は「オーナー制度など消費者などからの出資」(10%)、「ベンチャーキャピタルなど外部資本の活用」(6%)、「債権発行」(3%)なども考えている。

こうした積極姿勢の裏には、農協に依存した従来型の生産・販売に限界を感じているのも一因。その一端が今後の販売戦略に表れる。

現在の販売ルートは「農協に委託」(30%)、「卸売市場へ販売」(15%)が中心だが、今後強化したいチャネルは「直販所で販売」(21%)、「インターネットを含めた消費者への直販」(19%)などで、「農協」(15%)は現状から半減する。「生産している農産物に自分のブランドをつけている」法人は29%。17%が今後つけたいと検討中だ。

政府が推進する構造改革特区のうち「農業特区」は、株式会社が用地を借りて農業に参入することを認める計画だが、6割以上の農業法人がこれを支持している。農業法人には攻め込まれる機会になりかねないが、特区の効果(複数回答)として「事業の受託やノウハウ提供などビジネスチャンスが広がる」(48%)、「遊休農地が有効活用できる」(56%)などを期待している。

ただ規制緩和には不満もある。一般企業の農業法人出資は現行では25%が上限(一社あたりは10%まで)。出資受け入れを計画・検討している法人の54%が、上限引き上げを求めている。

売上高は1億円以上が47%を占め、十億円以上も6%。養豚業のはざま(宮崎県都城市)など6社は30億円以上で、地域の中堅企業と肩を並べている。

2002年度決算は52%が黒字で、赤字は25%。売り上げが前年度に比べ減少した法人は18%にとどまる。

農業生産法人に関心を寄せる企業は多い。食品メーカーの場合は農家への委託栽培に比べて、自社の生産技術などが生かせるからだ。トレーサビリティー(生産履歴の追跡確認)など「食の安全」の確保の観点から注目する企業もある。ただ農業特区に限定して認めている株式会社の参入基準の見直しなど、一層の規制緩和を求める声があがっている。

メルシャンは6月、長野県丸子町で高級ワイン用ブドウを生産する農業生産法人を立ち上げた。 有限会社でメルシャンの出資は9%。従来は同県内の農家に委託していたが、世界的なブドウ栽培技術の進歩などを生かすためには「自社栽培」が有利と判断した。2年後には同県内で同様の事業を立ち上げる計画もある。

国内最大の「トマト農家」を目指すカゴメは広島県、高知県下の農業生産法人に約10%出資した。オランダから導入した栽培技術を使い、独自ブランドの生食用トマトを生産する。カゴメの2003年度の生食用トマトの販売計画は6千トン。2006年度には2万トンを見込む。しかし、一段の事業拡大には「経営の自由度を増すような規制緩和を期待したい」という。

3-2.株式会社形態の農業生産法人

農水省の資料によると、平成14年7月現在での株式会社形態の農業生産法人として27社が挙げられている。全体的に資本金額が1,000万円から2,000万円、構成員数も10人以内と株式会社としては小規模の組織が多い。事業内容としては、農産物の生産にとどまらず、加工や販売に至るまで多岐に及んでいる。特徴的なのは、もともと有限会社形態の農業生産法人が組織変更したケースよりも、農業以外の株式会社が農地取得をしたり農業生産法人を設立したケースが多いということである。株式会社形態の認可により一般企業の農業への参入が促されたことがうかがえる。



株式会社形態の農業生産法人の実態(平成14年7月現在)
  1. 食品・飲料メーカー、農産物販売会社等の株式会社が農地取得・・・14社
  2. 建設・運輸・観光業者等が農業生産法人を設立・・・4社
  3. 畜産・花きなど施設型農業を行う株式会社が農地取得・・・5社
  4. 有限会社からの組織変更その他・・・4社
計・・・27社
このうち                                         
区分法人名資本金経営面積事業の内容構成員備考
鰍`
(北海道)
1,000万円4.2ha・アスパラガスの生産販売3人建設業者が設立
鰍j
(北海道)
4,000万円12.6ha・乳牛、肉用素牛の生産育成・増殖販売(乳牛50頭、肉用牛600頭)
・精肉、枝肉等の販売
・牧草の作付け生産販売
3人牛の取引販売会社が牧草畑を取得
鰍m
(北海道)
1,500万円17.6ha・トマトの生産、加工、販売
・山林及び木材販売に関するコンサルタント業務等
3人解散した農業生産法人の事業を継続するため設立
鰍m
(北海道)
1,500万円3.1ha・コントラクター事業
・牧草の生産販売
4人+3社運輸関連の子会社が町、農協の要請により牧草生産
鰍h
(北海道)
1,000万円11.1ha・小麦、馬鈴薯、玉葱の生産販売
・農畜産物の製造販売(パスタ、うどん等)
・農作業の受託
・有機堆肥、土壌改良材の生産販売
・農業技術コンサルタント
8人+6社土壌分析等にITを活用した経営を行うため、情報システム会社等と生産者が共同して設立
鰍g
(宮城県)
8,120万円1.4ha・飼料栽培
・養豚(13000頭)
・資材の製造(家畜排泄物処理、有機肥料の製造・販売)
7人有限会社からの組織変更と同時に農地取得
鰍`
(宮城県)
1,000万円0.67ha・有機栽培による米、野菜の生産
・みそ、梅干の製造販売
・堆肥の製造(プラント)
7人農産物販売会社が自社生産を開始
鰍`
(埼玉県)
2,000万円5.5ha・茶葉の生産
・茶を原料とした飲料の製造販売
8人飲料の製造会社が原料の自社生産を開始

(山梨県)
1,000万円1.9ha・有機・低農薬野菜、花壇苗等の生産、販売4人+2社野菜等の有機・低農薬栽培に取り組むため設立。Fグループ2社が出資
10鰍h
(長野県)
1,000万円0.61ha・ブドウの生産
・果実酒、果汁の製造販売
・土産、雑貨販売
3人ワインの製造会社が原料の自社生産を開始
11鰍r(長野県)1,360万円0.51ha・花き(バラ等)の生産
・園芸業、草花及び園芸用樹木の販売
・土産、雑貨販売
4人花き販売会社が生産
12鰍e(長野県)1,000万円0.53ha・リンゴ、米、野菜等の生産
・野菜、そ菜加工品の製造販売
4人+2社ジャム等の加工製造会社が農地取得。食品企業、商事会社が出資
13鰍m(長野県)1,000万円2.3ha・リンゴの生産、加工、販売6人飲料の製造会社が原料の自社生産を開始
14鰍g(長野県)1,200万円0.6ha・本しめじ、果樹、アスパラ栽培
・食糧品、青果物、食品製造機器開発、販売
2人キノコ類生産会社が果樹、野菜等に取り組むため農地取得
15鰍g(静岡県)1,000万円1.2ha・花き栽培(ハーブ路地栽培)
・観葉植物の施設栽培
・観葉植物の販売(直販)
3人花き販売会社が花き生産
16鰍m(新潟県)2,000万円1.9ha・米の生産販売3人米販売を行う会社が、生産と販売を一体化して行うため農地取得
17鰍a(石川県)1,000万円18ha・米麦、そ菜、大豆等の生産
・農作業の受託
・農産物の加工(かぶら寿司、漬物、かきもち等)
・農産物の販売(有機栽培米コシヒカリ、野菜の直販・通販)
4人有限会社から組織変更
18鰍d(福井県)4,000万円4.3ha・米、そ菜の生産
・農作業(田植え)の受託
・農産品受託販売
4人+三方町+農協市町村と農協出資の農作業受託会社が生産部門拡大
19鰍`(三重県)3,500万円3.2ha・花き、花木、園芸種苗の生産、販売
・農作業の受託
・農業関連技術の研究開発
5人花き販売会社が自社生産を開始
20鰍f(滋賀県)1,000万円89ha・米麦の生産
・農作業の受託
5人+農協有限会社から組織変更
21R(広島県)1,500万円0.57ha・水稲、野菜、果実の生産
・肥料の製造販売
・肥料の生産設備システムの開発、製造販売
5人肥料製造会社が自社肥料を活用した農産物の生産を開始
22S梶i徳島県)1,000万円0.6ha・ヤーコン栽培、ヤーコンの生イモの流通加工
・健康食品の販売
4人健康食品製造会社が野菜(ヤーコン)の生産を開始
23鰍m(愛媛県)1,000万円2.98ha・果樹の栽培、果実(みかん)の生産、加工販売4人果実の加工販売等を行う会社が自社生産を開始
24鰍`(佐賀県)2,000万円1.97ha・大葉の栽培、販売3人有限会社から組織変更
25鰍g(熊本県)1,000万円0.51ha・椎茸栽培、里芋栽培
・植物油の製造販売、クワガタ、カブトムシの養殖
3人椎茸栽培、植物油の製造会社が農地取得
26鰍d(鹿児島県)1,000万円1.7ha・根菜類等の生産
・有機農畜産物の加工販売
・リサイクル事業等
3人リサイクル業者が有機農産物の生産を開始
27O(鹿児島県)1,000万円2.6ha・秋大根、白菜、春大根の生産
・漬物の加工販売
・飲食店の経営
3人食品加工販売会社が原料の自社生産を開始
資料:農林水産省経営局


▲章立て

第4章. これからの日本の農業のあり方

最後に

農業法人は設立以来、徐々にその数を増やし続け、認知度を上げてきたということはこれまで見てきた通り確かな事実であると言える。 大規模経営による効率化を図ったり、新しい販売ルートの開拓や生産物のブランド化など今までになかった経営手法を取り入れることによって利益を伸ばしている法人も多く、民間企業の参入も盛んになりつつある。 ただ、農業法人は未だに成立要件や株式会社の参入などに厳しい基準が設けられており、より一層の規制緩和が求められていることは言うまでもない。

また、農業法人が増加しているといっても全農家数に占める割合で考えたらその数は微々たるものであり、農業法人化の流れが農業全体の主流であるとはいい難い。そう考えると農業法人という制度は、まだ日本農業の活性化に大きな効果をもたらす段階には来ていないと言わざるを得ない。日本の農家の大多数を占める家族経営の小規模農家にとって、法人化や株式会社化にはあまり現実味を感じられないのが実情ではないだろうか。戦後の日本農政ではまず農地改革で寄生地主制が廃止され小規模の自作農家が急増したが、高度経済成長期を迎えるにあたり、工業と同様に大規模化・効率化という方針がとられ、農業法人という制度が生まれた。そこでは、一部の大規模経営農家が政策の中核とされ、その他の小規模農家はあまり考慮に入れられていないという傾向があった。そういった部分が現在の農業法人の現状にも反映されているような気がしてならない。

法人にしろ、そうでないにしろ、国から保護を受ける代わりに服従するという従来のやり方では限界を迎えており、より自立した経営と競争力の強化が求められる時代となった。法人組織ならではの新しい取り組みで成果を上げ、農業全体に刺激を与えていく事がこれからの農業法人に与えられた使命ではないだろうか。

▲章立て

参考文献

木村信男編著『農業法人の経営管理とその支援』(社)全国農業改良普及協会(1999)
北出俊明『日本農政の50年』日本経済評論社(2001)
『農業経営の法人化の推進について』農林水産省経営局(2002)
朝日新聞
日経新聞

参考ホームページ


農林水産省ホームページ
(社)日本農業法人協会
(社)日本アグリビジネスセンター
福井県農業会議
ニュース漂流・農食医
▲章立て