研究者の横顔#53 河原直人

「研究者の横顔」

研究者自らの手により、哲学やエッセイなどテーマを自由に設定し、その人物像を赤裸々に紹介する特設サイト

河原直人(KAWAHARA, Naoto)

早稲田大学 先端科学健康医療融合研究機構
生命医療工学インスティテュート 准教授

2000 早稲田大学大学院人間科学研究科修士課程修了,
   同大学院人間科学研究科博士後期課程単位取得退学
2001 早稲田大学人間総合研究センター バイオエシックス・プロジェクト助手
2004 早稲田大学国際バイオエシックス・バイオ法研究所客員研究員
   国立成育医療センター研究所 成育政策科学研究部 共同研究員
2005 早稲田大学生命医療工学研究所講師
2007 早稲田大学生命医療工学研究所准教授

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「不思議ちゃんのメリーゴーラウンド」

はじめに

 ここ数年,自らの職務に打ち込み,奔走するような日々を送ってきた。今回,コーヒーブレイクのような良い機会を与えられたので,ちょっと一息入れて,自分自身の事柄をエッセイ風に書いてみたいと思う。
 自分で言うのも何であるが,私はどちらかといえば,暗くて風変わりな印象を周囲に与えているかもしれない。当たり前のことだけれども,昔は,いつも笑っていたし,泣いたりもしていた。時には,面白いとか,可愛いとか(!)も言われたりした。しかし,今ではどうだろう…嗚呼,よく言えば,わりあい真面目といえるけれども。
 ところで,私の専門は「生命倫理」という領域である。これについても,もしかしたら明るく楽しい印象を持たない人は周囲に多いかもしれない。私が楽しそうに,こうした話をしてこなかったのが,その遠因の一つになっているとしたら,それは,大いに反省すべき点だと思っている。こうした領域だって,渋いしかめ面で取り組むだけで問題が解決するというものでもない。実際,倫理に係る諸問題に直面した場合,峻厳たる態度のみならず,時には肩の力を抜いて,明るく楽しくのぞむ,ひまわりのような態度もまた,きわめて重要である,と痛感することは多い。喜怒哀楽という言葉があるように,様々な見方のバランスが,やはり大切なのだろう。
 いずれにしても,私は,朗らかに笑って,楽しく人と過ごし続けることこそ,自分自身の人生の課題であると思っている。ある意味,それこそが,倫理的,といえることなのかも知れない。
これは,単に能天気になるという意味でない。眩しいばかりでは,その良さが分かりにくい,ということがあると思う。暗い部分もそれなりに意識できたうえで,明るさの素晴らしさを心から実感できるようになりたい。これは,簡単そうで,意外と難しい。
 さて,本稿で「回顧録」というには,まだ私は若輩過ぎるけれども,これまでの自分が過ごしてきた日々を振り返って,今の自分を見つめなおし,今後を展望してみたい。



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近年稀にみる(自分で云うのもどうかと思うが)結構爽やかな写真。2年前,ジムに通い続けてダイエットに成功した時の記念写真。しかし,それも束の間,またかげりが…持続こそが大事ということなのだろう。坐して膨らみ,走って縮む。伸縮自在の風船のよう。

兵庫県西宮市出身 ─ 関西のことは夢のまた夢

 私は,兵庫県西宮市というところの出身で,幼い頃から,神戸や大阪の街に慣れ親しみながら過ごした。一人っ子ということもあって,わりあい「おぼっちゃん」のように育てられたと思う。思春期を迎えて多感な年頃になると,私自身もご多分に漏れず,とにかく勉強以外の事柄に好奇心旺盛であり,芸能界の有名人とか,着る服の流行とか,異性と恋愛することとか,悪友と遊ぶこととか,そういった事柄中心で心揺らす日々を送っていた。学校の先生によく叱られたりして,祖母や両親に心配をかけたのも,この頃である。
 一応,私は,小学校から高校にかけて数学や理科が好きな方だったので,高校時代も文系コースではなく,理数系コースというクラスに在籍していた。
 しかし,高校卒業後,大学にすぐに進学しようとせず,いわゆる浪人をするというわけでもない,とにかく色々なアルバイトをしながら毎日を送るという,ある意味,空虚な時代が私にはあった。この時期は,よくオートバイにまたがって神戸の海までよく出掛けたりもしていた。今,省みれば,非常に甘えがあってお恥ずかしい話だけれども,いったい自分が何を目指して良いのか分からないまま,自らの人生に漠然とした不安を抱え込んでいるような時期でもあった。

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当時の神戸港,愛車カワサキZ400-LTDと共に。この頃は,オートバイが趣味で幾台か乗り変えた。

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理工学部実習工場の焼け跡(実家にあった『早稲田大学創立70周年記念アルバム』[昭和27年12月20日発行] より)

大学入学のため上京

結局,私は色々迷った挙句,早稲田大学に進学することになった。これは,当時の家庭の影響が大きかったかもしれない。思えば,私の祖父が早稲田の商学部(昭和3年)、父が第一法学部(昭和36年)に学んで以来,叔父も従兄弟も皆,早稲田という状況であった。
実際,実家には,祖父の頃からの早稲田大学関連の資料が多くあって,個人的に,幼い頃からそれらに接しながら育ってきた。特に,戦争の焼け跡の中から同大学が復興するくだりには強い印象を抱いていたものである。そういうわけで,私にとって,早稲田大学は,進学する以前から,わりあい親しみを抱いていた大学であった。
私は理系も文系もできるだけ分けないかたちで色々やってみたいと思っていたので,何となく漫然と,当時は聞きなれない新設学部であった人間科学部というところに進学することになった。当時から「不思議ちゃん」扱いされていた私にとっては,ある意味,好都合の進学先であったのかもしれない。
進学してからも,何をしたいというわけでもなく,とにかく学部に設置されているほとんどの科目を履修していた。ここでは,実験のできる理系の演習もあれば,文系の講義もまた多くあったため,私には面白くして仕方がなく,結果的に,卒業時には170単位以上取得していたと記憶している。 
気分転換に,アメリカに短期留学したりしたのもこの頃であった。UCLAに約1ヶ月通っている間,寮で知り合った仲間と放課後,近隣のロデオドライブ,ユニバーサルスタジオなどに出掛けたり,クラスメートと映画に行ったりした。
休日には,レンタカーを借りて,ラスベガスやグランドキャニオンまで行ったりもした。
独りで初めてアメリカに渡った初日,寮の場所が分からないまま日が暮れて,半泣きになったことも,グランドキャニオンではしゃぎ過ぎて,崖から落ちそうになったことも…今ではすべて良い思い出となっている。 
日本語だけではない,メディアの上だけでもない,そして,堅苦しい話だけでもない,コミュニケーションの面白さについて,この頃,実に多くの事を学んだように思う。

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UCLA滞在時,休日,ユニバーサルスタジオにて友人らと共に(中央筆者)

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UCLA滞在時,休日,グランドキャニオンにて(中央筆者)

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大学時代,ゼミ研修の一環で米国の高齢者施設を訪問した際,現地の新聞で紹介された記事(後列左から4人目が筆者,前列右から2人目が木村先生)

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大学時代,ゼミ研修で訪問したワシントンDCにて

恩師との出会い

 私は,不束者だけれども,幸いなことに,今まで実に多くの素晴らしい先生方に出会うことができた。これは,何にも変えがたい天の恵みであると思っている。とりわけ,大学に入って,専攻するゼミを決めかねている時,木村利人先生(当時・早大人間科学部教授,ジョージタウン大学客員教授)に出逢えた意味は大きい。
 私は,大学入学後しばらくして,父が病気で他界するという体験をした。高校時代,祖母を亡くした時もショックではあったが,この衝撃は大きかった。また,ちょうど阪神大震災が起きて実家が半壊し,途方に暮れたのも,この時期であった。それまでどちらかというと,ふざけることも多く,ふわついていた私は,このあたりから,少しずつではあるけれども(そして,大げさかも知れないけれども)しばしば,人生の意味について,わりあい系統立てて,客観的に思索を試みるようになったように思う。
 まさに,そんな時に出逢ったのが,木村先生であって,今につながる学問領域 ─ 生命倫理,バイオエシックスであった。木村先生は,バイオエシックスのわが国におけるパイオニアの一人であり,私は,その先生のゼミ生になれたおかげで,大変貴重な体験談をいつも直接聴くことができた。また,同先生は,ジョージタウン大学の客員教授でもあったため,ゼミの研修では,同大学の附属病院や,世界初の大学附置のバイオエシックス研究所であるケネディ倫理研究所,近隣のヘルスケアに関する様々な施設,さらに,米国立衛生研究所等にも連れていっていただいて,貴重な知見を得ることができた。
 気がついたら,私は,大学の研究室に連日泊り込んで,文献をひたすら読み漁るほど,この領域に夢中になっていた。いかなる領域の研究者もみな味わったことがあるだろうけれども,ある意味,自分の人生,意気に感じるものを見つけられたような喜びが,そこにはあった。



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ゼミの歓送会にて木村利人先生と共に

研究者,教育者への道のり

 大学院時代,私は,修士課程でバイオエシックス(生命倫理)を研究する一方,博士後期課程で衛生学・公衆衛生学の教室に入ることになった。白衣を着て,チームワークによる動物実験,健康調査のフィールドワーク,生化学的な様々な分析の現場に携わることができたのもこの頃であり,人文・社会科学的な考究とともに,自然科学的な真理の探究の意義をあらためて学ぶことになった。
 この頃,私は,早稲田大学人間総合研究センターのバイオエシックス・プロジェクトの助手として採用されたこともあって,生命倫理という学問領域について,いよいよ本格的に,多様な経験を積むことができるようになった。
 中国に初めて渡ったのもこの時期であった。この時は,中国の医療倫理教育の現状を見ようと,衛生学・公衆衛生学教室の仲間の趙医師と共に,天津医科大学の医学人文科学系主任で教務所長(学部長・当時)の張金鐘教授を訪問した。また,ホスピス・リサーチセンターの孟憲武副主任(当時)とも面談し,その後,天津市第三中心医院を見学させていただいた。
 この経験で,欧米のみならず,すぐ隣の大国の中国からも,自分自身が専攻する学問領域の広がりを実感することができた。科学においても勿論そうであるけれども,海の向こうには,貴重な文化的「知」の集積があることを,改めて思い知らされたわけである。このことは,今でも,実に良い思い出となっている。
 また,研究のみならず教壇に立つ機会が増えたのも,この時期からであった。多くの大学,専門学校等の様々な学部・学科で,生命・医療倫理の講義を行うようになった。専攻領域を超えて,学生たちの生命倫理への関心は高く,彼らから私自身が学んだことも多い。「先生」と呼ばれるには若過ぎることをよく自覚していたが,逆に,生徒たちは親近感のようなものを抱いて私に接してくれることも多かった。この経験は,早稲田大学先端科学・健康医療融合研究機構の教育ドメイン教員として採用された後の活動にも大きく資するものとなっている。

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中国天津市訪問時,友人の趙医師と共に(背景は「天塔」と呼ばれる天津タワー)

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友人の趙医師と共に苦労して仕上げた,生命倫理の国際研究に関する中国語の依頼状。当該領域において,当時,本学ではまだ珍しい試みであった。

研究者として,教育者として,そして,人間として

 助手の仕事にも慣れつつあった頃,私は最愛の母を亡くした。私は一人っ子で,結婚もしていなかったため,遠く離れた故郷で独り暮らす母の看病のため,仕事の合間をぬって色々な事をこなす必要に迫られた。昼間の大学での勤務が終わったら,その足で夜行列車に乗って,幾度も関西の母のいる病院に通った。最期の一ヶ月は,病院に寝泊りして,当直の医師や看護師さんらと共に過ごす時間が多くなった。
 私は,自分の専門とする分野について,両親や近しい友人らにあまり詳しく語ってこなかったけれども,母は最期に「良い勉強になったでしょう?」と私に笑いながら云った。この言葉は今でも私の心の奥底に深く刻まれている。
 暗く悲しい話をするつもりはないけれども,父の最期と同様,母の最期をこの目で看取ったことも,その後の私の人生観に大きな影響を及ぼしているように思う。そして,こうした一人称から二人称にまたがるような経験が,私の信念の原動力になっていることは疑いない。
 だからこそ,冒頭で述べたように,悲しいことも知ったうえで,楽しいことの有り難さを心底実感できてもいるように感じることがある。苦渋の表情は,やがて,満面の笑みをもたらす「きっかけ」になるものでなければ意味はない,とも思う。
 振り返れば,父は私に規範的な生き方のようなものを教えようとし,母はそれ以外の重要な何か…私のアイデンティティに関わる,何かを伝えようとしていたように思う。
 一人で実家の荷物を整理していたとき,ヘルマン・ ホイヴェルスの随想集『人生の秋に』という書籍が両親の使っていた箪笥から出てきた。この書籍を参照できるようになるまで,そして,人生の「稔りのとき」に至るまで,私にはまだ為すべきことは多くある。いかなるリスクにさらされても,最大限,本当の収穫とは何かを長い目で考えていきたい。両親の気持ち,世話になった先生方の志,これらを受け継いで,自分なりの収穫の時期をやがて迎えなければならない ─ そう思っている。
 そして,自分自身がやがて伴侶を見出し,夫として,親として,次に何を果たしえるのか…これも重要ということになるのだろう。研究者としての学業だけでなく,様々な人的交流を通して,人間としての業績を積んでいくことも肝要であるように思う。勿論,この文脈では,たとえば,弛まない愛情,その持続的発展のありようといったものについて考えることも含まれるだろう。これもまた,私にとって,重要な課題の一つといえるかもしれない。



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今は亡き,懐かしい父と母。しかし,両親は今も私の内に生きている。

■おわりに

 以上,本稿では,当初,面白いことをなるべくたくさん書こうと思って気負ってみたものの,結局,真面目な話が多くなってしまった。弁解するわけではないけれども,人は程度の差こそあれ,基本的に誰しも,面白さと真面目さを,その心の内に同居させているものだと思う。私は,不器用なところがあって,この面白さと真面目さをうまく融合させる,という重要な営みをどちらかというと看過してきたようにも思う。
 しかしながら,この営みは意図的過ぎれば,往々にして滑るものであり,自然の成り行きの中で,熟成されるものであるようにも思う。それには,ただ他人から「何を考えているのか分からない」,「得体の知れない」と思われるような,勝手気ままな不思議ちゃんではなくて,「良い意味での不思議ちゃん」になることが大切であるように思う。すなわち,物事を客観的且つ合理的に見極めようとする態度,そして,独創性の陶冶に努めるけれども,一方で,協調性もあって,ちゃんと他人の不確実な心情も思いやれる ─ 贅沢を云えば,そんな不思議ちゃんに,私はなりたい。  
 今までよそ見も結構してきたし,試行錯誤も人一倍重ねてきた。しかし,とにかく一生懸命に頑張ってきた自分は,確かに存在していると思う。そして,それを支えてくれた多くの人がいた。とても感謝している。
 この十数年間,グルグル駈けずりまわって,さながらメリーゴーラウンドのような状況もあった。しかし,一周するごとに,その景色は,確実に新しいものに変化を遂げていた。だから,それは,単にグルグル廻り続けていたのではなくて,ある意味,スパイラル状に廻り続けて,新しい世界を導き出すメリーゴーラウンドであったようにも思う。これからもどんな景色が自分の周りに現れ出すか分からないけれども,なるべく周囲を知り,自分も知れるように頑張っていきたい,研究者として,教育者として,人間としても。



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早稲田大学にて,国際的な生命倫理学者H.T. エンゲルハルト先生(米国ベイラー医科大学名誉教授/ライス大学哲学科教授)ご一行と共に。右がエンゲルハルト先生。