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カワン・スタント(Ken Kawan Soetanto)

第13回05/10/15

カワン・スタント(Ken Kawan Soetanto)

早稲田大学国際教養学術院教授
早稲田大学臨床教育科学研究所所長

感動教育―スタント効果で
学生の「やる気」をよみがえらせる

工学、医学、薬学、教育学の4つの分野で博士号を取得

 私は1974年に、大学進学のために日本に来て、工学博士と医学博士を取り、最近になってさらに薬学博士、教育学博士を取得しました。もともと医用工学という学際的な領域からスタートしたこともあって、異なる領域へと興味を広げてきたのは自然な流れでした。理工学では人の健康のための機械についての研究、医学では臨床に医療機械を結びつける研究、さらに検査だけでなく治療に結びつけるために、薬学の視点から超音波造影剤の研究と発明を行いました。超音波造影剤では日本で数十、米国で2つの基本特許を保有しています。

 最後の教育学が、それまでの3つの博士号とは少し違っています。1993年、私はアメリカでの研究生活に別れを告げ、日本の新興の私立大学である桐蔭横浜大学の教壇に立つことになりました。当時、日本全国に多くの新しい大学ができていました。しかし、そこに入学してくる学生たちには、勉強するという意欲がありませんでした。大学とは、学問を修める場所であり、学問とは、学び、そして問うことなのに、そこには、高校と変わらない「学習」があるだけでした。

 キャンパスは、「やる気のない」学生であふれていました。そして、教師の側も、それを黙って見逃していました。そんな日本の大学の教壇に、私が立つことになりました。しかし、インドネシアから出てきて、ひたすら学問を求めてきた「私」には、我慢がならなかったのです。全体の8割にも上るであろう、できない学生、やる気を見せない学生を、このまま放置しておいていいのか。私の挑戦が始まりました。そして、桐蔭横浜大学に赴任してから今日まで、心を育てる教育や感動教育を実施してきました。教育も研究課題として考え、研究と教育を両立できるように心がけてきました。その実践の中で、教員が変われば学生が変わる。さらに、学校も変わるということもわかりました。

 4つめの博士号は、こうした私自身の日本での教育体験を「IOC(Interactive Operation Control)教育法」として理論化したものです。ひと言でいえば、どうしたら学生をやる気にさせる講義ができるのか、どんな教育が学生の意欲や熱意を駆り立てるのかについての研究です。私にとって人文・社会の分野で博士号を取ることは、大変なことでした。しかし、独自の教育論が評価されて本学の教員となり、これから教育学と脳科学を結びつける新しい研究領域に挑戦したいと意欲を燃やしています。

 学者として狭い領域を掘り下げることも重要ですが、加えて社会的変化を追いかけることができれば、やりがいが増します。さらには、誰でもできるようなことではなく、新しい分野のパイオニアとしてリーダーシップを取っていくことができれば、幸せも倍増です。その点では、途中ちょっと働き過ぎ、無理をし過ぎの時もありましたが、とても幸せな人生を送ってきたと思います。

 日本に来る前、母国のインドネシアでは、高校生の頃から兄の電子機器及びその部品の商社を手伝っていました。ちょうど高校1年生のときに9・30事件という、スカルノ大統領政権下での共産勢力によるクーデター未遂事件が起こり、華人の高校が閉鎖になって学校へ行くことができなくなったのです。兄の会社では、香港などで買い付けた医療用製品を国内で卸していました。兄よりも経営の才覚があったようで、私の決断がどんどん当たって、会社は順調に大きくなりました。

 会社の手伝いと同時に、学校へ行けない子どもたちの家庭を訪ねて、ボランティアで家庭教師をする活動も行っていました。インドネシアでは、小学校を出ることすらままならない子どもがたくさんいます。その中で、ある家族のことが心に残っています。母親が難産で亡くなったため、6人の子どもと酒浸りで乱暴な父親とで暮らしている家族で、食事のお金もなく、子どもたちもそれぞれ日銭稼ぎに忙しく、勉強どころではありません。私はまったく邪魔者扱いで、家にも上げてもらえませんでした。しかしあるとき、ようやく家に上がることができるようになって、子どもたちと一緒に家事をやったり、水汲みに行ったり、洗濯をしたり、とても強い戦闘凧を作ってあげたりしました。

 その家は電灯が60Wしかなく、家の中は薄暗い。しかしよく目をこらして見ると、部屋の壁は叩き潰された蚊の血痕のついた死骸でいっぱいでした。ある日、私は自分でお金を出して、安い石灰を買ってきて色を混ぜて壁をきれいにペイントしました。少しでも子どもたちの気分転換になればいいと思ったのです。これで父親の態度がぐっと変わりました。ついに、「おまえなら、子どもは任す」と言われました。子どもたちも「お父さんが変わった!」と目の色を変えて叫びました。

 じつはそのお父さんは、昔は学校の先生だったのです。だから、私の前に来た家庭教師たちの態度が、本音でぶつかってくるものではなかったために、父親には気に入らなかったのです。でも、どんな人とでも誠実に向き合えば、必ず気持ちは通じます。この時の本音でぶつかっていった体験が、その後の私の教育への姿勢につながっています。

 その一方で、インドネシアの高校に入り直して、再び勉強も始めました。当時、電子・電気工学分野に興味があったのですが、インドネシアには専門の学校がありません。英語の本を海外から取り寄せて独学で勉強し、さらに友人たちを集めて教えたりもしました。インドネシアでは、高額な切手を狙って本の小包がよく盗まれるのですが、私の注文した本もなかなか届かないことがありました。仕方がないので、闇市へ行って盗まれた本を探し出し、それを値切って買い戻してくるなど、大変な思いをしました。これが私の理工学の勉強の始まりです。

 まもなく、日本の大学へ行って工学を本格的に学びたいと考えるようになりました。ふつう華人は、欧米の大学へ留学することが多いのですが、私は当時の日本の電機メーカーの優秀さに引かれて、日本で技術を学びたいと考えていました。兄は「せっかく会社が儲かってきたのに、留学なんてとんでもない」と猛反対でした。しかし、どうしても勉強したかったので、なんとか説得しました。外国人が日本で永住することは難しいということは、家族も皆知っていましたから、「まあ、そのうち帰ってくるだろう」と許してくれたのです。そして1年間分の貯金を持って日本へ渡りました。

米国での準教授職を経て再び日本へ戻り、独自の教育手法、スタント・メソッドの確立へ

 日本ではまず日本語の勉強をしてから、人より8歳遅れて、26歳で東京農工大学に入りました。その後、東工大の大学院に進み、医用工学の研究で工学博士号を取得しました。しかし、博士号を取ったくらいでは日本では職には就けません。そこで発奮して、さらに東北大学の大学院に進んで医学博士号を取りました。しかし、2つめの博士号を取っても、依然として仕事はありません。やはり、日本で研究職を見つけるのは難しいだろうと考え、米国の学会で自分の研究を発表したところ、すぐに超音波医療診断装置の分野で第一人者だった教授から声をかけられ、米国の大学で職を得ることができました。Drexel 大学とThomas Jefferson 大学で準教授職に就き、米国NIH(国立衛生研究所)から1億円以上の研究助成金を受けるなど、順調な学者生活を送っていました。

 そんな時、「日本に戻って来ないか」という話が舞い込んできました。日本へ戻るのには複雑な思いがありましたが、懐かしさがそれに勝りました。結局、米国での教授職の話を断り、1993年に日本に戻って、私立大学の桐蔭横浜大学(当時は桐蔭学園横浜大学)に着任しました。ここで、日本で初めて医用工学科という専攻を立ち上げ、当時の文部省から15億円もの助成金を受けて、先端医用工学センターの設置を実現しました。その一方で、学生教育ではのちに「スタント・メソッド」と呼ばれる独自の教育手法を確立します。

 私の講義では、授業には7割以上出席すること、10分以上講義に遅れたら入室禁止、私語は厳禁などのルールを学生に課しました。いくら試験で高い点数を取っても、これらのルールが守れなければ不合格です。さらに授業で使う資料類はすべて英語、講義後半に行う演習とテストも英語にしました。その代わり私は学生たちに、「私はあなたたちにとって重要なことを、興味を持って学べるよう講義します。私の講義を1年間受ければ、あなたたちがエンジニアの卵、研究者の卵として、自信を持って将来に望めるようになることを約束します。」と宣言しました。

 この約束を果たすのは、私自身にとっても大変厳しいことです。いかに自分の講義を、学生たちにとって魅力的なものにするか。それも1回、2回ではなく、 10回、15回と継続しなければなりません。高校までの50分の講義ですら、学生にとっては長いし退屈だと感じられてきたのですから、大学の90分の講義を面白く感じてもらうのは、並大抵のことではありません。電子工学などの理工系の基礎を教えながらも、例えば、学生にとってためになる雑談や教訓のような話を混ぜていきます。それもただ面白ければいいのではなく、学生たちの心を動かし、脳裏に長く残るような話でなければなりません。

 結果からいえば、学生たちは私の期待に見事に応えてくれました。次第に「スタントの講義は面白いし、ためになる。何より自分にもやれるという気が湧いてくる」と評判が広がり、2年目でかなりの手応えがありました。学生の潜在パワーを引き出す私のやり方は、いつのまにか「スタント効果」といわれるようになりました。学生たちからの感想文を読むと、いかに意識が変わったか、自信に目覚めたかが、手に取るようにわかります。

 例えばある学生は、次のように書いています。「私の体の奥底に何か熱いものがこみ上げてきて体の震えが止まりませんでした。その瞬間まだ間に合う、今なら生まれ変われる、変わりたい、もう自分に劣等感を感じたくない、と強く思いました」。この学生は、かつて医者になることが夢だったが、もうそんな夢はとっくにあきらめていたのです。しかし、私の専門が医用工学であり、工学博士を取ったあとに医学博士を取ったということを知り、「自分にももしかしたら…」という希望がよみがえってきたのです。私の教育者としての仕事は、こうした学生に夢をあきらめさせない、「やればできる」ということを気づかせることなのです。

 先ほどの感想文の学生は、のちに私の研究室に所属することになりましたが、私は超音波造影剤の研究の重要な部分を彼に任せ、さらには特許の申請書も書かせました。試行錯誤しながらも、彼は立派にやり遂げました。ともかく任せる、自分で考えさせるということが大事なのです。そのことがやる気につながり、やればできるという自信につながります。

 結局、これまでの日本の甘すぎるやり方が、「楽な方法でいい」という悪習慣に学生たちを染めてしまい、彼らをダメにしてきたのです。今、必要なのは、彼らの意識を変える教育です。努力なしに得られるものがある社会なんてあり得ないという厳しい事実を、しっかり受け止めてもらう必要があります。「僕は君たちを信じている。だから頑張ってほしい」という思いを投げて、失っていた自信を取り戻し、自分を取り巻く環境に立ち向かう感性を培うことが大切です。

 桐蔭横浜大学には9年間いましたが、7年連続で、最優秀研究者と最優秀教育者の両方に選ばれました。博士も出しましたし、東工大をはじめ一流大学の博士後期課程に何人も卒業生を送り出しました。こうした評判を聞いて、私の研究室に来るために留年して待つという研究室浪人まで生まれたほどです。日本の大学では、優秀な学者は研究が第一、教育は二の次でいいという考え方が根強くあります。しかし、私は両方が大切だと思います。

 その後、働き過ぎで体調を崩してしまい、しばらく休養していました。とはいえ、どうもじっと休んではいられない性格で、その間にこれまでの超音波造影剤の研究をベースとして、東京理科大学で薬学博士を取得しました。続けて、10年にわたるスタント・メソッドの実践をベースに、2003年7月に早稲田大学で教育学博士を取得しました。これと前後して、2003年1月から本学の国際教養学部の客員教授に招聘され、2003年9月1日から正式に教授となりました。

脳科学と理工学を結びつけながら、やる気のメカニズムの解明に挑戦したい

 2004 年9月6日の日本経済新聞のインタビューコラム「領空侵犯」に、私の「感動なき高等教育の責任:〈フリーター対策〉では遅い」という記事が掲載されました。その中での「教師は学生の2割しか相手にせず、残りの学生は社会に出ても邪魔者扱いされる」「小手先の対症療法でなく、一瞬で人を変えるような、感動を呼ぶ教育法を考えた方がよい」という私の発言は大きな反響を呼びました。

 フリーターやニートなど、就職しない若者、やる気のない若者の存在が社会問題になっていますが、私はその根本的な原因は、学生の「やる気」を起こさせることのできない日本の学校教育、若者の無気力や甘えを許す親の価値観などにあると考えています。日本では、偏差値の低い学生たちを、最初から「やる気のない学生たち」と見なしてしまい、はなから教育をあきらめているところがあります。たとえ社会を動かしているのが、上位の1、2割だとしても、残りの8割の人間がきちんとしていなかったら、社会も環境もだめになってしまいます。

 日本の大学教育には、まだまだ問題が山積です。相変わらず学生たちにはやる気がない。これは日本の社会の問題、家庭のあり方の問題などが大きく関わっています。そして多くの大学教官もまた、学生たちをやる気にさせようとする教育への技法や意欲に欠けている。ここを何とかしていくことが、私の学者生活の最後の挑戦となるでしょう。本学を拠点として、第一にスタント・メソッドの国内や海外での実践と普及活動を行い、第二に脳科学と理工学を結びつけて、やる気=モチベーションのメカニズムの解明に科学的なアプローチで取り組み、スタント・メソッドをさらに進化させていきたいと考えています。

 2004 年10月には私がリーダーとなって、学内共同研究のためのプロジェクト研究所「臨床教育科学研究所」を立ち上げました。2005年2月には、イタリアのヴェニス国際大学で行われた4ヵ月間の特別コースで、スタント・メソッドの実践を行う機会に恵まれました。世界中の10校以上の一流大学から集まった学生を相手に、「高等教育の比較論」と「高等教育の問題と解決法」という2つの講義を英語で行いました。もちろん、2つの講義ではどちらもスタント・メソッドの理論を実践し、その効果を改めて実証することができました。学生たちは、講義の最初と最後とで見違えるほど講義への積極性が増し、スタント効果には国や地域も関係ないということを実証しました。

 アジアへの啓発普及活動も始めています。2004年の春に、日本のWAA(We are Asian)という団体が主催する講演会で話をしたときに、たまたま中国の先生が聴衆の中におり、国に帰ってすぐにスタント・メソッドをマーケティングの講義で実践して、「大成功した。大学で一番人気の教授になった」という手紙をくれました。いきなりの手紙だったので大変驚きましたが、とてもうれしかったです。

 インドネシアでも、2000年から積極的に講演活動を行っています。2005年6月には、本学とインドネシアのプレジデント大学との間でMOU(了解覚書)提携を結びました。その際、インドネシアで記念講演を行ったところ、3つのテレビ局で紹介され、大手新聞も「激励式教育」という呼び名で、スタント・メソッドの実践に関する記事を大きく紹介してくれました。「4つも博士号を持っていて、日本の早稲田大学で教授になっているインドネシア人がいる」ということが現地で大きな話題を呼んでおり、さながら「スタント現象」といった感じです。これをきっかけに、母国に恩返しできれば何よりうれしいことです。

 日本国内では、専修大学の経営学の先生や、広島市立大学の情報科学の先生が、スタント・メソッドを実践してくださっています。学生にとっては、それが誰が始めたものかは、関係ありません。私もそれを主張するつもりなどありません。実践した先生方が、スタント・メソッドを自分のメソッドとして発展させてくださればいいのです。

 昨年は、代々木ゼミナールでも講演しました。地方会場でのビデオ受講者も含めて、数千人の学生が参加してくれました。この日の夜には、全国の学生たちから驚くほどの数のメールが寄せられました。携帯電話からのメールもどしどし入ってきました。「感動した。自分にもできるんだと思った」「スタント先生のところで学びたい」など、本当に涙が出るほどうれしかったです。

  じつは先日、本学で「Motivation and Education」というクラスの初回講義を行ったのですが、受講生の中に代ゼミの講演を聞いて本学に進んだ人がいました。その学生は英語の感想文に次のように書いてくれました。「昨年の代ゼミの先生のスピーチで先生にパワーをいただいて、何でもできる気がしました。先生の講義を受講したい、早大の SILS(国際教養学部)に絶対入学しようと努力しました。今日、先生の最初の講義を聞いて、さらなるショックを覚え、自分の甘さを感じ、さらなる頑張りと心の変化が必要だと痛感しました」。やはり、学生が主人公であるという私の信念は間違っていない、彼らの一人ひとりが立派な人間ドラマを演じてくれる、あらためてそう確信しています。

 時代はこの10年で大きく変わりました。成果主義による競争社会化が進み、加えて少子化が進む中で、一流大学であろうと、大学の名前で勝負できる時代ではなくなっています。東大に入ったから、早稲田に入ったからといって、決してバラ色の将来が約束されているわけではありません。これからの豊かな人生は、自分自身を磨き、自らの可能性を切り開き、本当にやりたいことを自ら見出していくことで、初めて手に入れられるのです。大学はそのための「場」でなければならないのです。

インドネシアの高校での講演風景−1
インドネシアの高校での講演風景−1
インドネシアの高校での講演風景−2
インドネシアの高校での講演風景−2
早稲田大学 臨床教育科学研究所ホームページ
早稲田大学 臨床教育科学研究所ホームページ
http://www.waseda.jp/kikou/lab/lab_n1.html
(インタビュー・構成/田柳恵美子)
カワン・スタント(Ken Kawan Soetanto)

■プロフィール

カワン・スタント

早稲田大学国際教養学術院教授
早稲田大学臨床教育科学研究所所長

1951年、インドネシア・スラバヤ生まれ。専門は、臨床教育心理学、医用工学、超音波医学、薬科学、計測・装置工学。1988年、デュレクセル大学工学部準教授、1989年、トーマス・ジェファーソン医科大学医学部準教授、桐蔭横浜大学工学部教授を経て、現職。その間、経済産業省産業構造審議会21世紀経済産業政策検討小委員会委員などを務める。米国超音波医学会、米国音響学会、日本音響学会、日本超音波医学会などで受賞歴がある。共編書に『嫌われる理工学の楽しさ』、『超音波造影法の進歩』など。