研究代表者:早稲田大学台湾研究所 西川 潤 所長
早稲田大学では「アジア太平洋地域の共創」を目標にさまざまな改革に取り組んでおります。
中でも、地域間を横断する教育研究ネットワークの構築を最重要課題としていますが、
これは本学のみならず、日本全体で取り組んでいかなければならない問題でもあります。
本学は戦前から台湾との関係が深く、現在も台北に台湾校友会というOB組織があり、会員
は1200名を超えています。また 学内には90名を超す台湾人留学生が勉学に励んでいます。
学内の教育においては台湾を歴史・文化・社会・政治・経済など多面的に紹介する
講座「台湾を知る」を2001年度に開講しています。こうした取組みを通して、
今後益々台湾との関係が深まっていく事と思います。
さて、この度、台北駐日経済文化代表処・台湾校友会の皆様方から多大なご支援を頂き、
学内においてプロシェクト研究所として台湾研究所を開設する事になりました。今後、
本研究所において、様々な研究教育活動を展開して参りますが、既存の枠にとらわれない
新しい台湾研究のあり方を示すためにも、学内のみならず、日本の内外の皆様のご意見を
いただければ幸いです。このように本研究所は日本における台湾研究の一つの拠点として
整備してまいりたいと習っております。それと同時に本研究所を台湾について勉強するの
より開かれた場として各方面からご活用いただけるよう願っております。
最後になりますが、今後、本研究所での活動を通して日台の学術交流がより活発化し、
実りのある学術研究ができることを祈りつつ、皆様のご支援、ご指導をよろしくお願い申し上げます。
台湾研究所設立に当たって
早稲田大学はこのたび、台湾研究所を設立することになり、2003年10月に設立記念のシンポジウムが
早稲田大学小野講堂でもたれました。昔から台湾と早稲田の関係には深いものがあり、現在(2003年度)
早稲田大字には、九七名の台湾からの留学生が学んでいます。ここ数年増える傾向にありますが、一時は百数十名を数えた時期もあり、その頃から見るとまだ淋しいものがあり、この台湾研究所設立をきっかけに、教員学生の交流をおおいに活発化したいと考えております。
この数十年アジア太平洋地域は非常に高い経済成長を遂げました。言うまでもなく、台湾は「四つの竜」の一つとして、この経済成長の有力な推進因となりました。台湾経済のダイナミズムを担った要因としては、世界、とりわけアメリカ市場への輸出、半導体産業などの積極的な技術移転、優秀な人材の養成等、いろいろありますが、何といっても中小企業の競争的なダイナミズムは大きな要因でしょう。グローバリゼーションは台湾経済にどういうインパクトを与えているか、また、いま述べた中小企業のダイナミズムがどのような展開を見せているか、不況期の台湾経済でその課題は何か、いまアシアで交渉の始まった自由貿易協定(FTA)で、台湾の役割は何か、こうした経済的分析は非常に興味深い研究対象です。
また同時に、この十数年、台湾における民主化にはめざましいものがあります。つい二○年前までは、国民党の強権支配の下に、秘密警察がにらみを利かせていたことを思えば、その変化にはまったく驚くばかりです。外省人と本島人との力関係もまったく変わりました。この変化を促した台湾の強力な市民社会、民主化運動、それと並行する活発な歴史・文化・伝統の見直し、環境保全運動も、私達の学ぶべき対象です。民主化連動が従来の国家ガバナンスをどう変化させているか、その運動の中で新しい息吹きを見せている牡区など地域発展や先住民のアイデンティティ確立の運動が何をめざしているか、これら草の根からの変化の動きは陳水篇総統再選の今日、ますます非可逆的な運動と考ぇられるだけに、そのきちんとした分析が必要です。いま、台湾ではちょっとした「歴史ブーム」が起こっていますが、幸い、早稲田大字には、かつて後藤新平の右腕として台湾での法制導入に活躍した民法学者岡松参太郎の文書がご遺族から寄付されており、法学部の浅古弘教授らの手で整理が進められていますので、日本側の原資科整備という形で、台湾の日治時代の歴史再考に貢献できると考えております。
また、今日、クローバリゼーションの進展するなかで、新たに、ASEAN+3を軸とした「東アジア経済圏」という地域主義、地域協力の動きも始まってきました。東北アジアの平和と安全の問題、また、東アシアの地域協力を考える際に、台湾企業の海外投資、とりわけ中国大陸投資、それによる両岸関係の変化の可能性も見落とすことのできないテーマです。
台湾の外貨準備は昨年末で2000億ドル近く、日本の約半分で、中国、香港、韓国を合わせると7000億ドルを優に上回り、全世界の外貨準備の三分の一が東アジアに集中しています。
この膨大な外貨をとう域内発展に利用していくか、も東アジア研究にとっての大きなテーマです。私たちは、アシア経済を語る際に落とすことのできない華人経済圏の中軸の−としての位置からも、また、平和と安全保障の見地から言っても、東アジア協力の新しい動きの中に、台湾を位置付けていく努力が必要である、と考えています。
三年前に、台北経済文化代表処のご協力を得て、私たちは早稲田大学のオープン教育センター科目として「台湾を知る」と題した通年講座を全学部対象に設置しましたが、その受講生はことし110名にのぼり、同じオープン教育センターに設けられている「中国を知る」講座の受講者と匹敵する数にのぼります。若者たちの間で台湾に対する関心はきわめて強いものがあり、私たちもこれに応える必要を痛感していました。
今回、台北経済文化代表処の新たなご協力を得て発足するこの研究所では、一つには、教育面での事業で、従来の「台湾を知る」講座に、さらに社会各層からの代表的な人物をお招きする形で、これをますます充実、発展させていきたいと考えております。また、現在早稲田大学は台湾では台湾国立大学、中央研究院、淡江大学、中山大学、東海大学、中原大学等と学術協定を結んでおりますので、これらの大学への講師派遣による日本事情の紹介も考えていきたいものです。
第二には、研究面での交流で、台湾の学界のご協力を得ながら、いくつかの日台共同研究を上述の問題関心を踏まえながら組織し、日台の相互理解に貢献していくことに努めたく存じております。第三に、これらを総合した形で、日台双方の研究者、学生の相互交流をセミナー、シンポシウムや、講演等の開催を通じて促進していくことに努めてまいります。 既に、「台湾を知る」の受講者を対象として毎年行っている研修旅行もたいへん好評で、参加者の中から「吟日(ハーリー)族」ならぬ「台湾フリック」の若者もずいぶん出ています。かれらは、将来、日本と台湾のよい架け橋となるでしょう。
いま述べたような日台間のインターディシプリナリイな知的交流の活層化は必ずや東アジアの平和、経済発展・協力に貢献しることと確信しています。グローバリゼーションの問題に日本と台湾が共通して直面している中で、台湾研究が新たな地平線を開けるかどうか、また、現われつつある東アジア協力体制に新たな次元を示しうるかどうかは、皆様のご指導、ご協力にかかっております。台湾研究所を暖かい目で見守り、積極的にご示唆を頂き、ご指導を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。
台湾研究所設立のためにご尽力下さいました早稲田大学白井克彦総長はじめ、西川潤教授および多くの関係者の皆様に深く感謝申し上げます。
このたびは早稲田大学に「台湾研究所」が開設されるはこびとなり心よりお慶び申し上げます。これまで日本における台湾研究を推進する学術団体といえば1998年に結成された「日本台湾学会」がありましたが、日本有数の大学の中に台湾研究を専門的に行う組織が設置されるのは早稲田大学が初めてであり、台湾について系統的な研究が今後ますます盛んになることを期待しています。
台湾と日本の関係を考えますと、日本の教育が我が国の近代化に果たしてきた役割は実に大きいです。私は台湾の近代化は、20世紀と重なる百年間一戦前の五○年間の日本統治時代と戦後の約半世紀−から成り立っていると考えるようになりました。そしてこの百年における台湾の変化を理解するためには、台湾人知識階層の形成が重要な視点となります。まずは植民地台湾において、明治時代の日本と同じ近代教育制度が台湾に導入され、日本語を媒介として台湾人が「文明開化」に接し、いわゆる知識人が育成されていったわけです。大正11年(1922)には日本で学ぶ台湾人留学生は2400名にのぼり、昭和時代にかけてさらに増え続けました。日本で新しい知識と技術を身につけたと共に、大正デモクランーという時代の空気を吸い、台湾が近代国家のあるべき姿を追求することを考える契機ともなりました。
戦後、こうした戦前の日本の教育を受けた知識人たちが、戦後の日本との経済関係の推進や、日本からの技術導入などで果たした役割は大きく、今に引き継がれています。こうした両国の歴史的な繋がりが日本において台湾研究を行う際に、非常に有意義な問題意識を提供してくれると思います。
台湾が研究対象としてのもう一つの魅力は、その:文化の多様性であります。台湾の社会的原動力の根源は、台湾という島に多様な文化が交叉してきたことです。「文化の相場」ともいえる台湾は、古来より住み続けてきたアミ族、タイヤル族など王要10民族からなる先住民族と大陸からきた中国系住民の文化に加え、ポルトガル、スペインやオランダ、そして日本の植民地統治など、東西にわたる様々な文化の影響を受け、ダイナミックな社会を構成しています。大航海時代から始まった移民国家が形成され、文化の融合と変容、エスニック集団間の関係、そして複雑な社会構造からもたらされる民主主義なとは、多くの研究者にとって重要な研究テーマを提供できるに違いありません。
早稲田大学における台湾研究所がこれらのテーマを取り上げ、エキサイティングな台湾研究を展開すると信じております。また、早稲田大学台湾研究所が、21世紀における日本と台湾の大学関係者の交流の要所となり、活発な意見交換の場を提供し、両国の交流がさらなる発展をとげることを祈念してごあいさつとさせていただきます。
私は5年ほど前に、友人たちと「日本台湾学会」を設立しました。初めは100名ほと会員が集まれば満足でき、
また、2年に一度学術大会を開催することを目標にスタートしました。しかし、台湾学会の反響は予想よりはるかに上回り、
結果として毎年大会を行うことができるようになりました。現在、大学院生を中心に会員数は300名を超え、2002年、2003年
の大会には200名以上の参加者を集めることができました。今後、本台湾学会が、組織的なセンターとしてますます活躍していけることを願っております。
さて、本日の主題である地域研究としての台湾研究について、以下の3点を中心にお話をしたいと思います。
@学際的な台湾研究の推進:
学際的な台湾研究を目指す早稲田大学台湾研究所と、地域研究を主な課題にしている日本台湾学会は基本的に理念を同じくしていると思います。ここで、私は台湾学会と台湾を研究対象とする者のコミュニティーについて、少しお話したいと思います。
まず、研究の対象となる地域はそれぞれに個性があり、その個性が地域を学ぶ必要性につながると思い、アクチュアリティーという言葉があてはまるかと思われます。たとえば、台湾の歴史を考えてみても、明確な個性があることが分かります。台湾人にとってつらいことかもしれないですが、17世紀以来様々な統治者が台湾にやってきて、異なる文化をもたらしました。そして、統治者の交代とともに様々な人たちが移住し、それぞれのエスニックグループが歴史的に異なる経緯で形成され、現在のように共存するようになりました。このことを、私は多重族群社会という言葉を使って表現しております。それは台湾のエスニックの構成が複雑さを表すものであり、単に多くのエスニックグループが存在するだけではなく、それぞれのグループが歴史的に異なった経緯で形成されてきたことを理解することが貴賓となります。今後、このような多重族群社会における異なるエスニックグループの共存のために、台湾社会の民主システムの進展が大きく問われることになると考えられます。
台湾は台湾自身であろうとしています。自分の能動性が経済発眉と民主化の中で比較的に明確化してきています。これはあたらしい現象です。いったいこの現象がアジア太平洋の秩序に新たな変化をもたらすのかはわれわれに研究の材料を提供するわけです。アクチュアリティーの面においては、台湾が真剣な学問対象になると信じて疑いません。その意味では自らの研究を開いて互いに協力することはどうしても必要とします。
A領域再生
台湾を研究するにあたって、まずオランダのことをしらないといけないです。帝国の組織をみないといけないです。日本の近代史がわかる人がいないといけないです。そして近代中国史の人材も必要とします。台湾近代史を知るなら、近代中国(戦後のことをやると中華民国の成り立ち展開構造の知識)、近代日本の歴史を知らなければなりません。戦後ならアメリカの歴史も知らなければなりません。異なった領域の研究者と交流しないといけないです。領域再生が要求されます。とくに台湾を研究する人の「コミュニティー・学際性・領域性・開放性の重要性を強調したいです。巨分の領域から台湾を研究するに際しても、網を投げかければ重なってきます。網の目の濃いところができてきます。台湾研究のsubstanceが生まれてきます。台湾研究所が生まれてくる根拠にもなってきます(台湾の外から網を投げかけてくれる人を大事にしないといけないです。そういうスタンスのほうが台湾研究にはいいです。台湾研究にはやっかいな政治性があります。台湾がどうあるべきかという2つのナショナリズムがあり、台湾内外で争っています。研究者の中にもいろいろな立場の人間がいますが、リベラリスムとプラグマティズム(いい議論があれば歓迎する)で対応したいです。
台湾は経済発展の成功で注目されており、これらの問題意識に関する大量の文献が生産されました。80年代後半から、民主化への政治的プロセスの中でダイナミズムが出て来ました。とりわけ民主化系列の問題意識に関連するものです。20世紀の第4半世轟己、1974,5年でハンチントンが第三の渡と呼んだ時代のなかで、台湾が韓国と共に注目を浴びました。非民主的体制、権威主義体制がいかに民主体制に移行するかについて、大量の文献がでました。これを皮肉ってtransitionologyといわれました。学会がこれに飽きる頃に、民主化の定着が次の注目ととなりました。二の民主体制は役に立つ物なのかという疑問がわきました。民主体制の定着(consolidation)です。
Bアイデンティティー
台湾のアイデンティティーとはなにかについて研究が盛んになりました。アイデンティティ、に関わりそうな研究が盛んになり、これによって外部の人間が影響を受ける。歴史文学言語多重族群社会、政治体制民王体制、ナン′ヨナリズムの関係です。ナンヨナルアイデンティティーとは何かを政治社会的に測定するなどの研究が出て来ました。最近は西欧のポストコロニアルの影響による研究がでてきています。戦後の時期はポストコロニアルの影響があります。日本の50年の統富台はポストコロニアルな台湾でどういう影響を及ぼしていますか。戦後日本が忘れてしまった日本が台湾にあります。それをどう考えるべきですか。といった観点が出され始めています。
ここ30年の間にテーマは多様化し、台湾研究に参入する人が爆発的に増えていますが、個人的に興味があるのはもちろん、日本の隣にある国なので、一定の割合の人間が興味を持つのは必然であろう。こ清聴ありがとうございました。
Tはじめに一問題提起
若林先生の政治分野に関するご講演を拝聴しますと、これから私が申し述べる経済分野は利益誘導型の応用学問ではないかと、講演内容の相違を予想される方がおられるかもしれません。しかし、私が教わった経済学はそうではなく、むしろ一つの見方ないし発想の学
問でありました。したがって、特定の経済政策に対して良いアイデアを出すとか、金儲けや利益誘導に役立つ学問ではありませんでした。
つまり「実学」ではなく、その逆の「虚字」でありました。まずはこの点を申し述べておきたいと思います。今日用意させていただいたレジュメをご覧いただきたい(文末に添付)。四項目から構成されていますが、Tの「はじめ」とWの「終わりに」を除くと、あとはUの「戦前の日本統治時代」とVの「戦後の東西冷戦時代」の二項目しかありません。つまり、「戦前」と「戦後」からなる構成です。極めて単純明快です。この構成自体がひとつの発想(視点)と問題認識を示しております。皆様に受け入れられるかどうか、心許ないが、以下、その歴史的文脈にそってお話させていただきたいと思います。
1 経済学の基礎単位−「国民経済」論
まず、台湾経済を論じるに当たり、「国民経済」とは仙か、から入らせていただきます。と申しますと、「国民経済」が経済学のパラダイム(思考の枠組みの全体構造のこと)ないし基礎単位をなしているからです。つまり、経済学は「国民経済」を前提に自己完結な論理体系が成立つ学問なのです。誤解を恐れずに平たくいうと、「国民経済」に立脚した発想です。
それでは「国民経済」は何を以って存立するかというと、それは端的に申しますと、自主通貨(制度)と自王関税(制度)であります。前者は通貨(為替)政策、後者は通商(関税)政策によって具体的に展開されます。この二つの基礎条件が整っていないと、「国民経
済」は国際分業に直接参画できません。自国の市場確保と産業振興は望まれません。したがって、その国の経済は世界経済のなかで自己の立脚点がなく、他国の統治を受けて植民化されるか、さもなければ「統合」されてみずから姿を消していくしかありません。余談になります(誤解は避けたい)が、経済学が「国民経済」を基礎早位に成り立つ学問体系である以上、経済学が意外にナショナリスティックな発想に陥りがちな学問であることを痛感させられます。
2 台湾経済の歴史性−
「国際分業」の文脈からそこで問題提起したいのは、なぜ台湾は戦後、独自の通貨制度と自主関税制度をもつようになったのか。戦後台湾経済の出発点はこの貴において提起されるのです。そのためには戦前の歴史的コンテキストから説いてみることが一つの方法ではないかと考えます。いまひとつは「国際分業」の視点です。基本的にはその「国民経済」が国際収支(主として貿易収支)の上で「自立」(黒字創出)することが前提となります。
国際収支構造が脆弱な「国民経済」は、所詮、国際競争から敗退し、滅びることもあり得るのです。「国際分業」の視点はその点で「国民経済」存続の条件を問うことでもあります。重要視される所以です。
U 戦前の日本統治時代
1日本資本主義論−「最後の帝国」(列強による世界争覇)台湾が日本の統治を受けた当初(1895年頃)には120種類ほどのローカル通貨が流通していたといわれます。日本は台湾銀行を創設し、ドイツの「ゲルマン紙幣」を模倣した立派な札を発行したこともありました。台湾の経済社会は商品経済がかなり発達していたので、新札の浸透に苦労したのです。ちなみに、日本銀行が金本位制を導入したのは1897年であります。靖国から得た莫大な戦争賠償金がその原資でした。日本が完全な自主関税権を取り戻したのは1911年でした。日本の台湾統治をどう見るか。私が教えられた日本資本主義論では日本が「最後の帝国主義」であることでした。資本主義が成熟すると、経済的に対外膨張し帝国主義化するという論理です。台湾領有はその筋一歩ですが、世界史的にみると、列強のなかで「最後」の帝国に位置するというわけです。しかし、この「最後の帝国主義」論には台湾が日本の「最初の植民地」であるという台湾の視点が抜け落ちています。台湾のあとには朝鮮半島、「満州国」(中国東北三省)が相次いで日本の統治ないし管轄下におかれたのです。「最後の帝国主義」(日本)と「最初の植民地」(台湾)、この両者を同時に関連づけて捉えることが戦後の台湾を理解する上で不可欠であります。研究者の多くは、日本と台湾を含めて、どちらかの一方を欠いたいわば片手落ちの把握に終始しているように思われます。台湾が日本の「最初の植民地」のあったというその歴史的位置の再吟味が重要となります。
2 台湾植民地経営論−
「最初の植民地」(日本の対外膨張)まず貿易収支面で捉えてみると、台湾は対日「移出」
超過であり、米糖中心に対日「黒字」はその金額は16億25百万円(1896−40年、日本側)ないし18億21百万円(1899−37年、台湾側)と記録されています(図1参照)。この分、日本は台湾から「物的支援」を受けた勘定になります。一方、朝鮮は対日「移入」超過であり、その規模は15億08百万円(1906−40年、日本側)でした。詳しくはふれませんが、対植民地貿易収支の物的循環構造からみると、結局、日本は台湾からの「移入」(受け取り)をもって対朝鮮への「移出」(持ち出し)とし、この物的補完を可能としたのです。投資面で日本が朝鮮に機械設備を「持ち出した」ことが貿易面にも表れたわけであります。つまり、台湾の「領有」なくして朝鮮の「統治」は物的には困難であったのです。日本は「満州国」に対しても大量の投資(「移出」)をおこなったが、それも多かれ少なかれ台湾の「黒字」経営に負ったのです。ただ、対「満州」投資は完全に回収する前に日本は敗戦し、終戦を迎えました。植民の経営形態にしても日本は三者三様でした。台湾は「衝有」による直接統治形態であるのに対して、朝鮮は「条約」による合併統治をとりました。「満州国」になると傀儡統治に形を変えました。なぜ、日本の植民統治形態がこのように移り変わるのか、日本帝国主義論(対外膨張)研究の上で大きなテーマになりますが、ここではこれ以上立ち入りしません。ただ、台湾がなぜ直接支配にされたかがここでの問題関心です。
2 台湾植民地経営論−
「最初の植民地」(日本の対外膨張)日本の「領有」による直接支配は、台湾の植民地産業の多様化をもたらした。製糖(1900年代半ば)に始まり、ついでに米作(1920年代半ば)が加わり、さらに軍需産業(1930年代後半)が移植された。朝鮮のモノカルチャ(単一作物年産)構造とは一線を画いた。米、糖、軍需へと広がりをみせた植民地篠済構造の多様化は、結局、対日移出を軸に輸出黒字をキープし、清朝時代からの黒字基調をさらに定着させた。この点は、戦後に引き継がれ、台湾通貨「新台幣」の対外安定(為替)に大きく寄与したことは否めない。戦後の視点からいうと、台湾植民地経営のいまひとつの焦点は1940年代の対日依存の低下である。日中戦争(1937年)さらに太平洋戦争(1941年)による金融・貿易統制の強化と拡大で台湾は対‘日移出が1939年をピークに減退し、それに替わって南洋支援と島内中心の経済運営に方向が大きく変転した。台湾総督府の権限集中(産業動員)と軍勢力の増強(軍事基地化)はいうまでもない。台湾が軍事経済体制に移行する過程で「自給自足」的経済単位にしいられていたことは否めないであろう。台湾の戦後移行(1945年以降)は、その意味で戦争中(1940年代前半)に徐々に形成されつつあったといえなくもないのです。この点の解明もまた待たされているといえましょう。
V戦後の東西冷戦時代
1「国民経済」の形成一内外条件の交錯
冒頭でふれたが、なぜ台湾は「国民経済」単位を形成したのか。つまり、独自の通貨制度と自主関税制度をもつようになったのか。この点は極めて重大な問題提起であるが、まだ不明のところが多く、推測の域も少なくない。考えられる一つは国民(党)政府が台湾「光復」(「回収」)に際して、事前に周到な「接収計画」を持ち合わせていなかったことではないか。国民党政府は東北三省(旧満州国)に要員を派遣し「接収」に臨んだが、台湾に対してはそれほど力を入れなかったように見受けられる。この間の事情は微妙であったが、ともかく台湾では中央銀行(国民政府)による「台湾流通券」は陽の目を見ないまま発行予定を取り消された。台湾社会に通じない(発行しての信頼されない)ことがその理由の一つであり、いまひとつは中国大陸のインフレが激化してきた、などが考えられます。その替わりに、旧台湾銀行券(認印を加えて)が「応急」措置としてそのまま流通させました。それが1949年のデノミ改革までずっと使われました。今日の「新台湾幣」のいわばルーツとなったわけであります。今日の台湾国民経済の基礎はその一つがここに築き上げられ、その起点でもあります。関税制度に一言ふれますと、事態の推移は一層不明瞭であります。資料の不足が目立ちます。終戦当時、残された米と砂糖のみが輸出の頼り商品でした。台湾から中国に持ち出された米糖の貿易決済は、中国大陸の外為銀行が指定され、実質的に貿易統制が敷かれた状態でした。新政府(陳儀、台湾省行政長官、兼台湾省警備総司令をトップに)による金融・産業の全面的「国有・国営化」(利益の独占)の方針の下で、対中国大陸「輸出」は「貿易局」(省の直轄機関)の一括統制の下におかれました。
中国市場との貿易関係は二、三年続きましたが、その後間もなくアメリカ「援助物資」と日本との貿易開始(ハダー制)でトライアングル(台湾、アメリカ、日本)の原型がここにみられました。日本もアメリカの「援助」(ガリオア・エロア=占領地行政救済・占領地においえる経済復興、1945−52年、総額約20億ドル)を頼りに台湾からの輸入ができたのでしょう。 ここで一言ふれておかねばならないことが一つあります。香港の「国民経済」形成であります。香港はイギリス統治下において香巷ドルと関税地域の地位を与えられました。香港がその複「両岸関係」の上で一定の役割を演じることができたのも、この点と深く関わっています。以上のように通貨と関税の両面から台湾の「国民経済」化が進められました。この1945−49年のほぼ四年間は台湾経済の戦後基礎づくりの時期でした。この方面の研究が待たれています。
2「国民経済」の発展―トライアングル(NIES化)論
1949年以降の台湾経済の歩みを発展段階に沿って時期区分しますと、誤解を恐れずに、時の政権交替に合わせて捉えると、次の四段階が浮かび上がってきます。第1段階―輪入代替工業化時代。保護された国内市場が利潤の主たる源泉であります。匡民党系官僚資本が独占する蒋介石時代(1949−71年)がほぼこの段階の当たると考えられます。第2段階―輪出指向工業化時代。輸出優遇(外資導入を含む)の貿易市場が利潤の主たる源泉であります。輸出企業(中小企業)、外資ジョイント企業(中堅企業)、為替銀行(政府系)、海運業等が潤う蒋経国時代(1972−86年)がほほこの段階に相当しましょう。第3段階―対外直接投資時代。対外投資が輸出を牽引し、両者合わせて利潤を生みます。在外資産の保謹が政策課題となってきます。株式市場の値上がり(キャピタル・ゲイン)が主たる資本蓄積の様式になります。証券・投資信託系会社、金融保険系会社等が潤う。IT系上場企業の創業者利得も巨大化する。李登輝時代(1987−99年)がほぼこの段階でありましょう。題4段階−国際金融投信時代。専門用語になるが、貨幣市場(為替・ホットマネー)と資本市場(外資投信と株式・言正券市場)が混在し、値上り益を漁る。IT情報の発達がそれを増幅させる。中国市場の登場で低賃金競合、巨大消費市場と世界生産基地の再編成が進む。世界デフレ時代でもあります。国際ネットワークの企業・金融授倍が潤う。陳水扁時代(2000年以降)がその幕を切って落とされる。この期間はまだ浅く、なお進行中であります。台湾がここまで進むことになったが、その条件(原因)を語るのは余りにも複雑で一筋ではない。ただ、台湾がいち早く(1971年)国際収支の壁(赤字)を克服した点は大いに注目されてよいのです。台湾通貨(新台湾幣)がそれのよって安定性(対米ドルレート)が大いに高まったからです。貿易黒字の創出、この点が台湾のNIES(新興工業地域)化を突出させています。上記の四段階論に照らして申しますと、第2段階の後半期に当たると考えられます。台湾が国民経済として、米日両経済超大国の成長軌道(貿易・投資)にコミットメントした意味は大きい。私にいわせるとトライアングル論の誕生であります(図2参照)。このトライアングルは1986−87年に最も典型的に現れ、発達ました。対米輸出、対日輸入の比重が合わせて最も高く記録されたのです。その後、ASEANの登場、それを追いつき追いこす形で中国が現れてきます(回3参照)。いずれもNIES(台湾)の「外資導入・輸出指向」パターンを追随(コピー)しています。トライアンクルの複合化、重層化であります。香港を含む「両岸関係」のその一環として据えることもできます(図4参照)。蛇足になるが、東アジア全体を鳥瞰して、その構成員の経済的地位を措定してみると、日本はアジアのなかで先進的地位にあること(先進性)は異議はなかろう。これを一つの尺度にして共通項にすると、NIESは早熟した市場経済社会であり(早熟性。早すぎた対外投資段階の訪れ)、ASEANは未熟な市場経済社会(未熱性。アジア通貨危機の勃発)、中国は「社会主義市場経済」を標接していることから後進的段階にある(後進性。私的所有制の未確立)、という全体の構区が見えてきます。台湾はその中で安定した地位を確保するのはどうすべきか、この全体構図のなかから見取り図が描き出せるかもしれません。
W 終わりに−ポスト冷戦
下の「転機」最後に、次の二束を指摘し、お話の終わりにさせていただきます。一つは台湾経済が負っている今日的特異性であります。それはなんといっても対外関係における経済と政治の「市離」ではないでしょうか。つまり、国際社会において、台湾は経済の「成功」と政治の「孤立」が並存している状況におかれています。台湾経済は、対外展開を進めるにはつねにこの点に直面せざるをえません。他匡には見当たらない特異な状況がなお続いていることです。いま一つは日本と台湾の経済関係がもつ歴史的意味であります。アシアの資本主義化の歴史に照らしてみますと、日本による植民地経営は資本主義の移植にほかありません。台湾の資本主義化はその起点であるとすると、アシアのなかで一定の成果を挙げた「移植」として最も早い部類に入るのではないかと思います。その意味で(善し悪しは別として)日本と台湾の経済関係は、アジアのなかで近代資本主義の起点を画する歴史的ランドマークの地位にあるのではないかと思うのです。早稲田大学に台湾研究所が開所される意義も、思えばこの辺と無縁ではなく、今日、再吟味されてもよいのではないでしょうか。 以上で私のお詣を終わらせていただきます。ご清聴有り難うございました。