中世写本における福音書記者のイメージ − 福音書写本のヘッドピース図像について
早稲田大学大学院文学研究科博士課程 瀧口美香

タイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四福音書は、ビザンティン写本中最も重要なジャンルの一つである。現存する作例数は、他の聖書写本(旧約八大書、預言書、詩篇、使徒書簡、黙示録など)に比べてはるかに多く、福音書写本がビザンティン社会における写本制作の中で、主要な位置を占めるものであったことがうかがわれる。福音書写本に挿入される挿絵の多くは福音書記者の肖像であり、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ四人の記者像は各福音書冒頭のテキストに向き合う形で配置される。多くの場合、福音書記者は書斎に座り、書見台を前に筆記している姿で描かれる。このような典型的福音書記者肖像は、「福音書を著す」という記者の役割を強調するものである。

福音書記者肖像に関する先行研究の筆頭にあげるべきものといえば、1920年代に出されたフレンドによる研究である。彼は膨大な福音書記者肖像の作例を収集し、それらをタイプ別に分類している。フレンドの論文は、福音書記者肖像に関するほとんどただひとつの体系的・古典的研究として、これまでたびたび引用されてきた。この他、これまでに出版されたことがない未公開の写本紹介にともなって、福音書記者肖像がはじめて公開・記述されるというケースも見られるが、一般に書斎に座る記者の肖像にはそれほど大きなヴァリエーションは見られず、刺激的な研究になりにくいという実状があるように思われる。

しかしながら、何十何百と繰り返される福音書記者肖像の中には、ごくまれに特殊なものが含まれる。たとえば、福音書記者が旧約の預言者らと組み合わされるもの、福音書記者と寄進者がともに描かれるもの、キリストの生涯をあらわす説話場面の中に福音書記者が組み込まれるものなどである。そのような場合、記者肖像はどのような点において従来のタイプからはずれ、そのような逸脱はいったい何を表しているのだろうか。この発表では、福音書記者肖像の例外的作例を二点とりあげ、それらの図像が「福音書記者とは誰か」「福音書記者の役割とは何か」をどのように視覚化しているか、という点に注目する。二写本はいずれも、書斎にすわって筆記するタイプとは異なるものであり、それぞれのケースにおいて、福音書写本中で記者の肖像が果たす役割について考え、このように特殊な図像を作り出した画家の意図を解釈することを試みたい。



Copyright ©早稲田大学地中海研究所
本ページの無断転載を禁ず