1880年代イタリア王国における美術をめぐる状況と松岡壽
河上眞理

岡壽は、明治13年から明治20年までローマで絵画を学んだ。本稿は、1880年代のイタリア王国の美術状況をふまえ、彼のイタリア留学時代を考察した。

1880年代、地方都市では新興美術運動が盛んになる。しかしイタリア王国の首都となったローマでは、むしろ古典的な美術が保護される環境があったと考えられる。国家の顔となる新省舎が建設され、その内部には官学派の画家が伝統的な手法によって国家礼賛に結びつく歴史画を描いたからである。松岡が師事した画家として知られるチェーザレ・マッカーリもその一人である。松岡がローマ王立美術学校で師事した他の教師には、ドメーニコ・ブルスキやダリオ・クエルチらがおり、彼らも現役の歴史画家であったことを明らかにした。松岡は歴史画が西洋美術の正統であることを学んだだろう。松岡も、晩年、歴史画の大作を描く機会を得る。

歴史画を最上位におく官学派の絵画教育は、印刷物教材の臨画に始まり、石膏模型のデッサンへ進み、最後に生きた人体モデルの着衣及び裸体のデッサンで終わる。松岡も裸体デッサンを最後にローマ王立美術学校を終えた。その学習成果は、帰国後に制作した肖像画や自画像に反映されているだろう。人物画を専門に行う画家になるという工部美術学校時代から彼の志は留学を通して達成されたと考えられる。

ローマ留学を通して、松岡が、デッサンは造形芸術一般の出発点であると理解したことは、帰国後行った講演で、建築も含めた西洋美術におけるデッサンの重要性を真っ先に説いていることからわかる。この考えはむしろ応用美術教育の場で生かされた。

純粋美術と応用美術とは別個のものと考えがちで、洋画家としての松岡と、応用美術振興者としての松岡の二人が存在し、両者の間には溝があるように思われる。しかし、松岡は両者に共通する出発点にデッサンがあると考えたならば、そこには溝はなかったはずである。ローマでの体験が松岡のその後を決定づけた可能性がある。

なお、詳しくは、青木茂・歌田眞介編『松岡壽研究』(中央公論美術出版、2002.07.15)所収の同名の拙論(pp. 422-463)をご参照下さい。



Copyright ©早稲田大学地中海研究所
本ページの無断転載を禁ず