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『実業之富山』 2007年2月号     

編集長インタビュー

山本武利氏 「プランゲ文庫資料にみる庶民の足跡」

 小誌は昨年一年間「占領期の地方出版と実業之富山」という連載を通して、占領期における検閲の実態を紹介してきた。取材の原動力となったのは米メリーランド大学マッケルディン図書館プランゲ文庫所収の占領期雑誌記事情報データベースである。このデータベースを活用して、さまざまな新事実が明らかになってきている。シリーズを締めくくるにあたり、データベース化を推進してきた山本武利早稲田大学教授にメディア学の立場から占領期の検閲について聞く。

 ――連載企画のそもそものきっかけは五年前、ある読者から送られてきた新聞記事でした。山本先生が中心になって進めておられた占領期雑誌記事情報データベース事業について朝日新聞が紹介した記事とともに掲載されている写真の中に、創刊の頃と思われる「実業之富山」の表紙が写っていたんです。富山版ではトリミングされていて写っていなかったのですが、東京版の記事で初めて知りました。
 創刊六十周年記念のシリーズ企画として、小誌が創刊された当時の状況を探るためにメリーランド大学図書館を訪ね、プランゲ文庫の実際にも触れました。一年間のネタがあるかなと心配していましたが、何とか続けることができました。

山本 昨年九月に私がメリーランド大学へ行ったとき、プランゲ文庫の閲覧室に「実業之富山」が置いてありました。プランゲ文庫の方も、きちんとまとめてあるということで実業之富山の仕事に注目しておられるようです。プランゲ文庫を訪問する他の閲覧者も見ておられると思いますよ。

 ――この連載では占領期雑誌記事情報データベースを随分活用させていただきました。このデータベースがあったからこそ、こうやって過去を振り返ることができたと思います。これが五年前、十年前だったら、こうした機会に巡り合えなかったかもしれません。事前にデータベースで調べて、プランゲ文庫にもあらかじめ閲覧したい資料を連絡し、スタッフの方々にいろいろ配慮していただきました。

山本 このデータベース事業には文科省でも一、二位を争う経費が投入されたので、私どもとしても広く活用してもらいたいと思っています。その一つの活用例として実業之富山の企画は非常に意味がある。連載を読みまして、貴重な指摘もいくつかありました。

 ――先生に初めて電話させていただいたとき、「占領期に発刊された雑誌が現在まで続いているとは」と驚いておられました。占領期に地方で創刊した雑誌で現在まで続いている雑誌は「実業之富山」以外にもありますか。

山本 確認はしていないけど、一県に一誌ぐらいあるでしょうか。ただしほとんどは同人誌で、「実業之富山」が唯一とは言いがたいけれど、商業誌では極めて珍しいと思います。

■アメリカ人の度量の広さ

山本 私がメリーランド大学のプランゲ文庫へ初めて行ったのは一九八〇年頃です。日本から行く人はまだ少なかったので、プランゲ文庫の日本人スタッフから歓迎されました。事前に連絡いただければワシントンのダレス空港までお迎えに伺ったのにと言われたものです。
 当時は少しずつ資料の整理を進めていた頃で、まだマイクロ化もやっていなかった。だから、自由にコピーできました。それを元に『占領期メディア分析』(法政大学出版局)という著書を出したのですが、途中で研究室の引っ越しがあったせいか、そのときに使った校閲ゲラのコピーがみつからなくて困っているのです(笑)。
 その後、プランゲ文庫へ行く人は増えましたが、今でもメリーランド大学に行くというと、それはどこにあるの、と聞かれます。たいていの日本人はメリーランド州が東海岸にあるのか西海岸にあるのかも分からない。
 御社ではどのぐらいの期間おられたのですか。

 ――プランゲ文庫には正味五日間通いました。朝八時過ぎから夜十時ごろまで、マイクロリーダーでマイクロ資料を見続けました。食事は学生食堂でとりました。アメリカの大学は初めてでしたが、二十四時間オープンで、しかも誰が行っても使えるということにはびっくりしました。すべての資料を保存するという姿勢にも驚きました。

山本 おっしゃる気持ちはよく分かります。資料として価値のあるものを共有財産として残すというところにアメリカ人の度量の広さを感じます。実際に使っているのは日本人ですから、日本人としても感謝しないといけないと思います。
 占領期の検閲資料はかつての敵国だった日本の資料ですし、日本語を読めるアメリカ人も非常に少なかったから、それほど活用されないだろうと思われていたんです。プランゲ博士は日本語を読めなかったらしいのですが、歴史家として慧眼の人でした。日本の占領が終わって検閲の資料をどうするかというときに、資料の将来的価値を見込んで、母校であるメリーランド大学へ送ったのです。
 メリーランド州は小さい州ですから、お金を工面するのも大変だったろうと思います。時間はかかりましたが、メリーランド大学は資料をきちんと整理し、さらにそれをマイクロ化して広く利用できるようにしました。日本の国立国会図書館をはじめ国際交流基金、日本財団も援助していますが、こうやって我々が利用できるのもメリーランド大学が残してくれたからです。仮に日本に残しておいても、日本人はその資料価値を見出せなくて廃棄処分していたかもしれません。

■プランゲ文庫は「拉致資料」?

 ――プランゲ文庫へ行ったとき、「実業之富山」の発行元として、自分たちの雑誌を返してもらえないかと聞いてみました。他の雑誌は出版社そのものが存在していないけど、実業之富山社は現在もあるわけです。ほしいという気持ちが半分、聞いてみたいという気持ちが半分でした。そうしたら駄目だと言われました。サンフランシスコ条約に則って当時押収したものはすべてアメリカに帰属するものである、所有権は条約とともに移っているという返事でした。

山本 そういう見解は初めて聞きました。検閲は占領当局が恣意的に行ったもので、アメリカ憲法上、また日本の新憲法上許されないことをやったわけです。国立国会図書館とメリーランド大学が共催したシンポジウムで、ある研究者がプランゲ文庫は「拉致資料」であると言いました。これはおもしろいと思った友人が質問したら、主催者があわてて途中で打ち切りましたけど(笑)。
 プランゲ文庫のマイクロのフルセットは四千万円もします。まさに「賠償価格」です。データベース事業は販売に寄与すること大だから一セットほしいとメリーランド大学に言いましたが、断られました。結局、入力をアウトソーシングした業者が一セット買って、完成してから早稲田大学に転売しました。苦肉の策でしたが、それで帳尻を合わせたんです。
 現在プランゲ文庫のマイクロをフルセットでもっているのは、国会図書館以外では、京都の国際日本文化研究センターと神奈川大学、熊本学園大学、早稲田大学の四カ所だけです。他の機関はほしいところだけを部分買いしています。早稲田大学はプランゲ文庫を「財産」だと認識し、私どものデータベースの修正やサーバーの維持のために協力してくれるようになりました。
 データベースの管理画面は私を入れた二人しか見られません。それで利用者のアドレスや利用回数が分かるのですが、ハーバード大学、エール大学、スタンフォード大学などアメリカの超一流の大学が使っていることが分かり、非常に心強く思っています。

■庶民の足跡がたどれる

 ――ところで雑誌記事のデータベース化を終えられて、どんなことが見えてきましたか。

山本 占領期の雑誌には、日本が初めて経験する敗戦の痛みの中で、それを乗り越えて新しい日本を作らないといけないという意欲というか息吹のようなものを感じます。そういう力強い動きを示している資料群であると思います。
 何と言っても地方の雑誌に特色があります。今年の末か来年ぐらいに岩波書店から私を編集代表とした「占領期雑誌文化資料大系」が刊行されますが、編集の基本姿勢は東京の視点で見るのでなく、地方と一般庶民の視点で資料を見るようにと編集スタッフには言っています。当時有名だった人とか、後に有名になる人の言説だけを収集しても意味がない。

 ――私たちも連載を通して、まさにそういうことを言いたかったのです。

山本 データベースは非常に便利なアクセスの道具です。雑誌メディアの足跡をたどると同時に、雑誌に表現された当時の社会の諸相というものが見えてきます。プランゲ文庫のデータベースを使えばいろんな視点でものが見える、占領期というものを捉え直すことができるということをもっと広く知っていただきたいのです。
 例えば、松下幸之助氏の足跡をたどるときに、データベースで「PHP」について調べると多くの松下の発言タイトルが出てきます。だけど、それだけでは幸之助の発言はフォローできない。そこで「松下幸之助」で検索すればあちこちで話した七十一件がヒットします。その半分以上が「PHP」や松下の販売店の機関誌以外の雑誌に出たものです。これには松下電器さんもびっくりしていました。
 松下幸之助さんは当時から有名でしたが、そうでない市井の人の言葉を掘り起こすことも意義があると思います。私事で恐縮ですが、昨年母が亡くなる寸前に、私はプランゲ文庫から母の短歌を集めてきて小さな冊子を作りました。母は未亡人で、田舎の郵便局に四十年間勤めた平凡な女性です。占領初期に短歌を作り出したことは知っていたので、もしかしたら雑誌に投稿したものがあるかもしれないと思って、データベースで調べたら六十首以上あったんです。急な編纂でしたが、当日の会葬者に記念として渡すことができました。

 ――プランゲ文庫で庶民の足跡が分かる。山本先生が身をもってその活用法を示されたんですね。

山本 母の歌は稚拙ですけど、子どもを育てながら生き抜いていこうという気持ちが非常によく表現されていると思いました。データベースを使うことで、有名無名の人の作品集ができるんです。

■新聞社の検閲への対応

 ――その他、占領期の雑誌について何か特徴というようなものはお感じになりますか。

山本 プランゲ文庫の雑誌は一万三千タイトルあります。商業誌から学校誌のようなものまで、幅広いメディアが収集されています。戦前の日本でも厳しい検閲が行われましたが、検閲の対象は中央の有料の雑誌に限定されていました。プランゲ文庫の強みは、地方の無名の雑誌やガリ版刷りのものに至るまで集められていることです。
 当時は食糧不足や紙不足などあらゆるものが雑誌刊行に不利な条件でしたが、そういうものを克服して雑誌を出したい、表現したいという庶民の意欲を感じます。社会のために、あるいは生きがいのために、そういう庶民の足跡がいろんな形で反映されています。

 ――プランゲ文庫の雑誌は、県によってかなりタイトル数が違います。富山は下から何番目という感じですけど、これは文化度の違いを意味しているのでしょうか。

山本 そういう面もあるかもしれませんが、検閲の仕方にもよると思います。検閲の元締めのある東京、大阪、福岡は目が行き届きます。地方でも共産党の活動が特に強いとか、ストライキがよくあるようなところはGHQも注視して出版物を丹念に集めたと思います。そうでなく、比較的平和な県という位置付けであれば、多くの出版物を集めることもない。そういう意味でGHQから見た富山は比較的平穏で、熱心に集めることがなかったのかもしれません。
 もう一つ、石炭やパルプ資源のあるところは雑誌を作るのに有利という面があります。福岡、山口、北海道などでは雑誌がたくさん残っています。

 ――取材の過程で、新聞社が占領軍に取り入っていたと思われるような資料が見つかりました。掲載する記事について事前に軍政部に相談しているんです。

山本 そういうことはよくあるんです。GHQの日誌にも、朝日新聞の社員が社内の内部事情を報告して相手派閥を相互に誹謗した足跡が書いてあります。新聞が事後検閲になったとき、朝日新聞の出版局長が、事後検閲ほど怖いものはない、全部自分にかかってくるから注意せよといった指示を出したことも資料から分かっています。
 北海道新聞や西日本新聞のように共産党や労働組合が強いところには、GHQの新聞課長のインポデンが乗り込んでいって、一声でストは収拾され、労組の生産管理は終わりました。GHQが法律を超えた存在ですから、つぶすと言われたらお終いなんです。

 ――日本人から見たらGHQは最大の権力だと思われていましたが、そのGHQの組織自体かなり大慌てで作ったものですし、検閲の実態はどうだったのでしょうか。

山本 検閲にもいろんな段階がありました。扱う対象によってランクがあり、吉田首相の記事なら上のレベル、県知事なら課長レベル、ふつうの記事なら日本人のアルバイトの学生が判断するわけです。マッカーサー関係の記事は一番上部の人が判断することになっていました。
 マッカーサーはアメリカの紙誌が自分について書いた記事を非常に気にしていました。ニューヨークタイムズやワシントンポストなど有力紙の東京駐在員がマッカーサーに対して批判的な記事を書いて、それを翻訳したものを日本の新聞が掲載したりすると、参謀第二部のウィロビー局長も判断できない。それで結局マッカーサー本人が掲載の可否を判断することになるのです。

 ――組合運動やイデオロギーに対してはどうでしたか。

山本 占領の初期には、共産党をうまく使っていました。共産党は嫌いなんだけど、日本の民主化のために右翼や軍部を追放するにはいい勢力だというので利用したんです。そして戦争を起こした勢力を一掃した後は共産党を排除するという二段構えの戦略です。そのあたりは非常に巧みだったと思いますね。

■日本人は従順だった

 ――GHQはどのように雑誌を収集したのでしょうか。特に地方における雑誌をすべて把握することはむずかしいと思いますが。

山本 GHQ自身の収集能力はそれほど高くないと思います。実際の雑誌の数はプランゲ文庫にある一万三千タイトルの二倍も三倍もあったはずです。落ちこぼれが相当ありますが、雑誌の把握は用紙統制のルートを使ってできたと思います。GHQは自分たちに都合のよいメディアにするため、戦前からの出版団体や用紙統制の団体をそのまま残しました。戦争責任を追及しなかったのもそれらの団体を利用できるからです。戦後は紙に価値があり、紙の配給によってメディアを統制することもできたので、それは非常に有効なやり方だったと思います。

 ――取材をしながら感じたのは、GHQの検閲というのは針の穴も漏らさないというようなものではなくて、割と″アバウト″なところもあるという印象でした。

山本 やはり大量のものを毎日検閲しているから、抜け落ちたりするわけです。例えば新聞のゲラに「検閲中」と書いたものをそのまま印刷したものもあります。もちろん後で大目玉ですよ。
 プレスコードは抽象的で簡単なものです。実際に検閲で迷うところについてはマニュアルがあって、検閲者には「キーログ」を暗記させていました。キーログは時代によって変わりますが、変わらないのはGHQのことを批判的に書いてはいけないということです。とにかく連合軍の動きは発表以外のことは報道してはいけない。素人日本人女性と兵士が一緒の写真も駄目なんです。
 プレスコードが出る前、朝日新聞は原爆投下を批判したり、アメリカ兵による婦女暴行の記事を載せたため、二日間の発行停止処分を受けています。そのうち日本人記者もこの程度はいいというのがだんだん分かってきて、そのあたりが検閲の攻防戦になるわけです。

 ――日本の占領の経験は、今のアメリカ軍によるイラク占領にも生かされているのでしょうか。

山本 イラクと日本では全く違います。日本を占領したとき、日本人はもっと戦うかと思っていたら、きわめて従順でした。GHQも最初は警戒して、郵便検閲で爆弾をどこかに貯蔵していないかといったことを中心に調べたけれど、そういう動きは一切ないことがわかった。喧嘩で負傷させたというケースはありましたが、占領軍兵士で日本人に殺されたのは一人もいません。
 実は、日本人が従順だということは捕虜の段階で分かっていました。食べさせてやれば連合軍に感謝するし、積極的に協力する。私の『日本兵捕虜は何をしゃべったか』(文春新書)にも書きましたけど、捕虜に司令部があるところを聞けばすぐ教えてくれた。嘘だろうと思いながら翌日そこへ行ってみたら本当にそこに司令部があったので、アメリカ兵はびっくりしているんです。  イラク戦争が始まる前、日本の占領が成功したから、イラクでも成功するだろうと言われていました。ところが、今の相手は頑強な抵抗分子で宗教的基盤も強い。それを日本人を手なずけたと同じように考えたのはアメリカ政府の判断ミスだったと思います。今出ようにも出られなくなって、ベトナム戦争以上に泥沼化しています。

■活字メディアは生き延びる

 ――戦後六十一年たって、今のメディアの状況をどう捉えられますか。

山本 今はインターネットの時代で、誰でも発言できます。中国でさえ、コントロールされているといいながらも、一億人の人がネット発言できる時代になっています。一般の人がメディアをもって発信できるという点では画期的だと思います。
 占領期には、庶民が発言できるメディアとして活字メディアを求めました。この時代のメディアは生活のために出すというのと同時に、表現したいという意欲が強かったと思います。明治維新の頃も、福沢諭吉をはじめいろんな人が雑誌を出しました。この二つの時代は活字メディアの疾風怒濤の時代と言えます。封建制の重圧、あるいは軍国主義の重圧から解放され、多くのメディアを輩出しました。ただし、つぶれていくのも多かった。戦争中は業界紙も入れて千以下だったのが、戦後は一万五千になり、それがあっという間に消えていきました。
 活字メディアはグーテンベルクの時代から六百年の歴史があります。インターネットの時代が来ても、活字メディアの伝統は必ず生き延びると思います。いくらインターネットが便利といっても、コピーを取らないと記録が残りません。機器がどんどん変わるので、再生できなくなる場合もあります。便利だけど、意外に残しにくいメディアなんです。経営的にむずかしい面はありますが、活字メディアはそういうものの中でも基幹メディアとして生命力をもっていくと思います。

 ――言論の在り方という意味ではどうですか。

山本 インターネットでいろいろな形で発言の場があり、多様な言論は出ていますが、その情報は本当に正しいのか、責任をもって発言しているのかどうかは分からないわけです。活字の場合は保存できるので、いい加減なものを書くと「恥をかく」という人間としての感情があるから慎重に調べて書くと思うんです。
 関西テレビの番組で捏造が明らかになったように、テレビの報道もいい加減ということが分かります。ブログも信憑性のないものが多い。玉石混交の多元化する情報を活字メディアはきちんと客観的に評価して、ふるい分けていかないといけないと思います。そうやって、その時代に意味をもつものを残していけば、必ず活字メディアに需要があると思います。
 

――ありがとうございました。

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