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『正論』平成19年1月号     

米戦時情報局が見た中国共産党の日本人洗脳工作
山本武利(早稲田大学政治経済学術院教授)

■人民神話の由来
 中国共産党と中国政府は日本軍国主義者と日本人民を区分するのが好きだ。たとえば靖国問題では、軍国主義者の代表格のA級戦犯と一般将兵とを区分し、前者の合祀に反対している。この二分法が初めて対日基本原則として日本側に伝わったのは1955年であるという(毛里和子『日中関係』岩波新書)。しかしその原則形成の起源は定かにされていない。私は2006年2月にA5判896ページという浩瀚な『延安リポート―アメリカ戦時情報局の対日軍事工作』(山本武利編訳、高杉忠明訳、岩波書店)を刊行した。同書は戦争末期の1944年に中国共産党のメッカである延安を訪問したアメリカ軍事視察団(ディキシー・ミッション)の内のプロパガンダ専任の戦時情報局(OWI)のスタッフが作成した71号に及ぶリポートである。内容は多岐にわたっているが、中国共産党軍主力である八路軍の日本兵捕虜の扱いや岡野進(野坂参三)主導の反戦捕虜による日本軍民へのプロパガンダ・宣撫工作が中心である。毛沢東ら幹部は軍事視察団を大歓迎し、後では、しまったと思われる軍事機密などの貴重な情報をアメリカ軍側に提供した。とくにアメリカとの関係が蜜月状態であった1944年7月から11月までに、八路軍幹部はアメリカの要請を受け、現在も隠している延安の冷徹な対日工作の戦略、成功失敗を口頭だけでなく、軍事文書の形でも洗いざらい提供したようである。
 同書の翻訳過程で私は二分法の起源の証拠をいくつか見いだした。とりわけ貴重なものは八路軍総政治部対敵軍工作部編「敵軍工作ハンドブック」第五版である。この末尾には「機密資料である。全員が注意して扱うべきである。上官の許可なくして、貸してはならない。身に危険が及んだとき以外、これを処分してはならない。また処分した場合は上官に報告すること。もし紛失したら、上官に報告書を提出しなければならない」(第46号)との注意書きがしたためられている。もちろんこの資料は現在も公開されていない。

■八路軍の捕虜扱いの試行錯誤
 日本軍の特攻や玉砕に大きな被害を受け、その対策を心理戦争の面から講じようとしていたアメリカ軍とくにOWIは、延安で中国共産党軍とくに八路軍が多くの日本兵捕虜を獲得し、日本労農学校で反戦教育を施し、その卒業生の日本人民解放連盟への組織化によって日本軍へのプロパガンダ工作をシステマティックに実施しているのに驚いた。
 筆者が『日本兵捕虜は何をしゃべったか』(文春新書)で明らかにしたように、太平洋戦域ではアメリカは日本兵捕虜から有用な日本軍情報を入手していた。そこで延安でも同様な期待をいだいた。OWIの重慶支局現地責任者のフィッシャーは八路軍敵軍工作部の幹部からの「敵軍工作ハンドブック」などの軍令の入手、彼らへのインタビューに基づいて八路軍の心理戦争組織の形成過程を四つの段階にまとめている。初めのころ、前線のトーチカなどに籠もる日本兵に中国人兵士が下手な日本語で、“日本で革命を起こせ!”“天皇制を打倒せよ!”“軍国主義者を打倒せよ!”“将校を殺せ!”とビラやメガホンで叫んでも、返事は鉄砲玉のお見舞いであった。投降者がまったくなかった。
 そこで捕虜を処刑せず、希望する者は釈放するといった方針、つまり友人として日本兵を扱うことを八路軍の兵士、農民に徹底的に教育し始めたのが第一段階である。第二段階では、捕虜の反戦組織をつくり、さらに第三段階ではビラやメガホン、電話、手紙、贈り物で日本兵へ投降呼びかけや後方攪乱の工作を行う。そして1944年の現在は岡野の提唱した日本人民解放連盟が中国ばかりか日本でも反戦活動を行う準備を進めている第四段階である。
 膠着した中国戦線では多数の日本兵捕虜が発生した。捕虜を使ったこうした対日本軍工作は国民党軍がもともと始め、中国共産党がそれから学んだものである。しかし国民党軍の戦闘が部隊単位で正面からの戦闘を行う正規戦であったため、八路軍ほど重視されなかった。毛沢東はゲリラで日本軍に対峙し、敵の士気を弱め、徐々に厭戦感を強め、自軍の勢力を温存させ、日本軍の敗北後に国民党軍との正面衝突で中国支配の決着をつけるという長期的展望に基づく持久戦論を実践していた。前線、後方での敵軍工作とくにプロパガンダ工作がゲリラ戦浸透、根拠地拡大に有効だった。ゲリラ戦中心の八路軍の戦術、戦略にとって日本兵捕虜がきわめて重要であった。軍隊の一翼というよりも主力を構成する不可欠な戦力が日本兵捕虜であったからである。

■日本軍捕虜――処刑から利用へ
 八路軍が初期の段階で捕虜を殺害していたという記述が、『延安リポート』には散見される。1938年、八路軍は朱徳将軍の署名入りで、日本人捕虜を殺害せず、親切かつ丁重に扱うよう命令を出した。この軍令は、八路軍が中日両国の人民の解放のために戦っているという毛の主張に則ったものであった。したがって中国人や兵士の敵は、民衆出身の日本兵ではなく、彼らを強制的に兵役につかせ、彼とその家族を自らの目的のために利用し、抑圧している日本の軍閥や財閥であった。日本の民衆が八路軍との戦闘に加担している限り、何ら容赦されることはない。しかし、ひとたび彼らが囚われの身になれば、客人あるいは友人として扱われるのである。

 「この方針は、そう簡単には中国兵や農民の間に浸透しなかった。古参兵から構成された数少ない部隊では、国民党軍との戦争が始まった頃から日本人捕虜を一定期間拘束した後に釈放していたが、それは例外的なものであった。ほとんどの中国人にとって、日本人は冷酷な侵略者であり、彼らの日本人に対する敵意は強かった。中国の若者たちは、しばしば、ただ復讐のためだけに八路軍に参加した。そして日本人捕虜はほとんどの場合、殺害された」(第48号)。

 この軍令は処刑を禁止するだけではなかった。八路軍の誠意の印として日本人捕虜は希望すれば、原隊に戻ることが許される。八路軍は日本兵捕虜の報復的な殺害から厚遇する方向へ180度転換した。日本の帝国主義者は日本人民に自国への狂信的な愛国心、さらには中国人への民族的な偏見を吹き込んでいる、それゆえに日本軍は頑強で、日本兵は降伏しないとの認識が八路軍側にあった。

 「日本軍の戦闘能力を崩壊させるには、このような日本人の中国民族に対する盲目的敵愾心をできるだけ小さくし、根絶してゆくことが必要である。この点において、我々の宣伝工作は重要な役割を果たしている。しかしこの宣伝工作を効果的ならしめるには、我々は心情に訴えるアプローチをとらなければならない。それによって我々は徐々に政治的理解を得られるようになるのである。ある程度の心情的理解なくしては、政治的意識が芽生えるはずもなく、歴史的偏見を打破することもできない。我々が捕虜や日本の負傷兵たちを優遇する政策をとる理由はまさしくそこにある。日本人捕虜や負傷兵は、我々が日本兵との良好な関係を築く上で格好の媒体となりうるのである」(第3号)。

 捕虜となれば、自国で不名誉な扱いを受けるばかりか、原隊に帰っても、部隊指導者が彼らを見せしめに処刑することが分かって、原隊への復帰を希望しない日本兵が急増するようになった。「戦陣訓」のしばりによって、日本兵捕虜には敗戦協力しか帰国の途はないことに八路軍は気づいた。そこで敵軍工作部は反軍国主義、さらには社会主義思想注入のための再教育を捕虜に受けさせる。さらに思想改造をしたかれら捕虜を前線に送り込み始めた。政治部工作員によって準備された中国人の大衆集会で「いかにして自分は軍国主義者に騙されたか」を日本人捕虜に話させた。またこのテーマにそった単純な劇が八路軍の前線の農村で捕虜によって演じられた。彼らは中国の農村に入り、農民と共に生活し、同じものを食べ、同じ時間だけ仕事をした。そうして彼らと接触した農民たちは「捕虜の優遇」を理解し、八路軍の方針に協力するようになったという。
 こうした捕虜の扱いの変遷を見れば、日本人兵士への人道的配慮ではなく、捕虜利用こそが八路軍のプロパガンダ、宣撫活動、さらにはその勝利に不可欠との冷徹な計算が八路軍幹部に終始働いたことを如実に示している。そして軍国主義者と人民との二分法はすでに1938年から始まり、現在までに70年もの歴史の中で繰り返し、中国共産党によって日本人ばかりか中国人に向けて繰り返し発信されてきたことが確認される。

■日本労農学校における集団批判
 アメリカ軍は太平洋戦域では多数の日本兵を捉えながら、彼らから情報を収集するだけで、彼らへの教育活動は実施していなかった。OWIや国務省のジョン・エマーソンらは、延安で設立され、多数の日本兵捕虜の再教育を行っている日本労農学校に注目した。『延安リポート』で48ページに及ぶ長文のリポート第45号「日本労農学校(一つの研究)」はOWIのコージ・アリヨシの授業参観や取材に基づく労作である。同校の学生管理の総則、細則に始まり、小史、組織図、教師、日常活動が紹介され、A、B、Cの三つのレベルの学級での教育活動がカリキュラム観察や学生の反応を織り交ぜながら説明される。自己批判や集団討論も社会主義的人間養成の場として注目され、さらにスパイ摘発のノウハウやスパイの告白までの苦悩、葛藤が事例に基づいて語られる。
 リポート第22号「日本兵捕虜の一般的意見調査」は労農学校での98人の捕虜を対象にした一種の世論調査である。第26号「日本兵捕虜の心理」はこの結果の質的な分析である。日本の近い将来での敗戦が見通せる時期になされたこの調査は、占領ともなれば日本人全員が捕虜になるだけに、その「出口調査」の意味合いもあった。この調査を実施したエマーソンは天皇制批判の数字が高いことから、日本人の天皇崇拝も教育によって破壊されることに驚きを示している。
 ところで労農学校で捕虜教育の陣頭指揮にあたった岡野によれば、その破壊は思ったほどやさしくなかった。「なかにはどうしても軍国主義的観念の抜け切れないものがあった。それらのものは学校の内部でいろいろ破壊工作をやったが、そういふ人々にたいしては、一方に、あらゆる方法で説得するといふ方法をとるとともに、それでもきかない場合には、学生全体の大会をひらき、大衆の力によってその誤りを批判するといふ民主的な方法をとった」(野坂参三『亡命十六年』時事通信社)。
岡野のいう「民主的な方法」とは集団批判のことである。実際にそれを実際に見学したアリヨシは「延安では、批判は各学生が自分自身を最も見つめる鏡と見なされている」との書き出しで集団批判についてこう記述している(45号)

 「学校では、岡野校長は批判と自己批判を学生の進歩に不可欠なものと信じている。彼によれば、それは深く染み付いた古い思考を脱ぎ捨て、新しい生活様式を受け入れるのに役立つ。それは利己的、個人主義、ご都合主義を排除する。それは相互をよりよく理解させ、彼らが猜疑心や不信感を持たずにより密接に協調するという結果を生む。さらにもともとそれ自体が目的ではないが、集団的批判はスパイを摘発するのに役立つ。
 学生は入学したときから、建設的批判を受容するように次第に条件づけられる。新入生への批判はソフトになされるが、彼らが再教育で進歩するにつれ、自己批判と相互批判がより個人的に、より突っこんで、そしてより厳しくなる。この際教育の局面を新入生が理解するのはなかなか困難である。なぜなら運命というものが彼らの全ての生活に染み込んでいるからである。彼らは母国でも軍隊でも横暴な指導を受け入れ、それに盲目的に従うように教育されてきた。労農学校で得た表現の自由は彼らにとって全く新しい経験であるが、礼儀正しさとメンツをたてることは依然として相互にとって考慮すべき重要なことである。
 学生は責任ある地位に就くにしたがい、相互の欠点を遠慮なく調べ、指摘する。幹部や共産主義者同盟員は相互に容赦なく批判するため、傷つきやすい者は落涙する。」

 さらにその際、批判された学生(捕虜)が「ここは牢獄のようだ」とひとことホンネを洩らした。すると彼は2人の学生から批判され、謝罪した。アリヨシの以下の観察は鋭い。

 「筆者の感想では、二人の学生、つまり議長と書記を除けば、参加者の間に生き生きとした問題関心や知的好奇心が欠如していた。彼ら二人は他の者よりも八路軍と長く行動をともにし、延安に来る前に前線での宣伝工作を行った経験があった。学生は授業を暗記するという日本人の習慣から抜け出ていなかった。上の二人だけが独自な思考を行う能力を持っていた。授業内容のオウムのような繰り返しがほとんどの議論で見られ、同じ材料がほとんど全ての学生に使われていた。学生が軍部や資本家の打倒を唱道したとき、彼らの幾人かは訳もわからずにしゃべっているように見えた。」

 したがって「彼等の話の中に飛び出して来るマルキシズムや階級闘争の話がいかにも幼稚で、かえって反感を持たせるに役立った」(鈴木伝三郎『延安捕虜日記』国書刊行会)。

■第二学校という名の強制収用所
 第50号「日本労農学校の最近の捕虜再教育」によると、A学級では次のような皮肉な質問が出た。

 ○同志とはどんな意味ですか、それは日本人ですか、中国人ですか、それとも朝鮮人ですか。
 ○今社会問題のことをしゃべられましたが、それは動物社会の問題ですか、それとも植物社会の問題ですか。
 ○女性、子供、老人が労働を強制されているというのは、正しくない。もしそうなら、彼らが強制されている例を示してください。

 これらの質問は華北の傀儡組織である新民会顧問をしていて捕虜となった数人からだ。彼らは大学卒で、当初は捕虜教育やレベルの低いにマルクス主義に反発していた。だが「延安に来ると、学校に入るしかない。できるだけ他の生徒が学校でしゃべっていることに合わせるようにしてみよう。自分は連中の活動に共感することはなど絶対にないだろう」といった態度に変わった。彼らも集団批判にさらされたのだろう。その際、彼らは一般学生の面前では謝り、延安生活に次第に同調し、洗脳されたフリをした。そのため他に悪影響がないとの判断で学校幹部からのそれ以上の追及はなかった。それどころか彼らは他の低学歴の一般捕虜とは別の洞窟で特別優遇された生活をしていた(『延安捕虜日記』)。終戦後の彼らの利用価値を岡野らは考えていたからだろう。
 延安に連行された当初に捕虜教育に反発するだけでなく、集団批判にさらされても態度を変えない捕虜を収容、拘置する場所がこの『延安リポート』によって初めて明らかにされた。その名は第二学校で、労農学校から約4マイル離れた丘の急斜面にあり、非常に人目につきにくかった。1944年4月に開校し、主として労農学校で継続的にトラブルを起こす反抗的な者やスパイが収容された。「第二学校には守衛がいないし、学生の自主管理に任されている。唯一の違いは村を訪問する通行証が学生に与えられていないことである。学生が校舎を離れて川へ洗濯に行くとか、映画や演劇を見に行くときは、集団で行く。今まで第二学校から逃亡した者はいない(中略)第二学校での主要な危険は、学生が団結して幹部に反抗することである。それゆえ幹部は仲間的雰囲気を維持するように努めているが、学生同士があまり親密になるとか、派閥をつくったりしないように注意している。もう一つやっかいなのは学生の敵対的な態度である(第45号)」とアリヨシは証言している。

■反戦ロボット製作の日本人民解放連盟
 中国人への蔑視が強く、残虐行為を平然と行っていた捕虜がなぜ八路軍に協力したのか。思想改造されたとしても、自軍への反戦活動までするのかとの疑問は解消されない。労農学校で教育を終了した捕虜は、日本人民解放連盟に加入させられた。彼らはそこでビラを作ったり、各前線の工作に派遣されたりした。遊撃戦を得意とする八路軍は前線でのプロパガンダ工作に力を入れた。したがって解放連盟の歴史は八路軍の敵軍工作部の歴史であり、両者は表裏一体の関係にあった。
 網走刑務所にいる日本共産党幹部徳田球一から延安の岡野に密使として派遣された岡田文吉(延安名、沢田淳)という日本共産党員がいる。彼は捕虜工作を岡野の下で行い、終戦直前に岡野よりも一足早く延安から帰国の途についた。彼は北京で足止めをくっているとき、川口忠篤なる日本軍特務機関長に帰国の便宜を求めた。岡田は「延安入りを敢行した際にも、特に軍部に顔の利く、河本大作氏の庇護をうけて、その目的を達した」という(川口忠篤『日僑秘録』太陽少年社)。その旧知に再会したのをきっかけに、川口は延安から華北周辺の残留日本人のために派遣されてきた解放同盟員に接触する機会が増えた。彼は軍国主義者の立場から次のような連盟員へのシニカルな印象記を残している。

 「彼ら自身にしてみても、いくら戦勝の余威に傲ってはみても、逃亡者や捕虜などという過去の経歴が、同胞の前に誇れるものではないから、その心中は所詮、孤独であり、民族の血は、やはり彼らにとつて、哀しい三界のくびきなのだった。こうした祖国喪失者たちに対して、中共が一切の過去を抹殺して、これに共産主義者としての新生命を与えたことは、まことに賢明で、たしかに人間性の急所を衝いたやり方であった。彼らにとっては、共産主義者になることだけが、その血のくびきを絶ち切って、呪われた過去の記憶から、自らを解脱させる、唯一つの方法なのだった。そこで彼らは、一様に共産主義者に変貌して、毛沢東を同志と呼び、中共軍を解放軍と賞讃して、そのもとに働く彼ら自身を、解放の戦士と呼称することによって、そこに儚ない自己肯定の立場をつくっているのであるが、その教養は概ね低く、品性は卑しく、特に長年にわたる捕虜生活の卑屈さが、骨の髄までしみ込んでいて、どうにも人間として相許せぬ連中が多かった」(『日僑秘録』)。

 八路軍が日本兵士反戦同盟を日本人民解放連盟に改称することを承認したことは、将来的には中国戦線だけを解放連盟に担当させるつもりではなかったことを示唆している。1945年末にも予定される連合軍上陸に解放連盟は八路軍とともに上陸し、連携した宣伝・宣撫の戦術、戦略を練っていたことに注目したい。第44号「華北日本人民反戦同盟第一回大会 日本兵士代表の諸決定」は反戦同盟の上に意識の高い者を集めた共産主義者同盟があることを示している。毛沢東が絶好機の到来があれば、解放連盟の共産主義者同盟員を第5列に仕立て、八路軍による日本占領の戦略を念頭に入れていたとも考えられる。ただし原爆投下とソ連参戦で上陸作戦が無用になったことと、終戦直後から大陸で内戦が始まったため、連盟員は旧日本軍将兵や残留民への中国共産党の工作に動員されることになった。

■「洗脳」の効果
 国民党軍も日本軍も攻略できない要塞が延安である。逆にそこからの捕虜や脱党者の逃走の絶望の地が延安である。『延安リポート』には潜入スパイや反抗的捕虜の脱走事例が出てくるが、成功した記録は本書にも他の回想録などにも見当たらない。「捕虜は前線地域や小規模な軍区から釈放あるいは送還されることはあったが、延安到着後に釈放され、送還された者は誰一人としていなかった」(第11号)。「延安を出ようとする行為は脱走とみなされ、脱走者は処刑された。延安は、地域全体が刑務所のようなものだった」(ユン・チアン『マオ』上巻、講談社)。
 労農学校でも第二学校でも監視がほとんどなく、自由の環境で捕虜は学校生活を送ったとされるが、真綿で首を絞めるに近い環境で教育工作がなされたことは明らかである。『一九八四年』でジョージ・オーウェル描く共産党支配者が抜かりない監視の目を光らせていた。

 「学校では、捕虜の間に反抗的で手に負えない兆候が出てきた場合、宿舎全体に巧みに張り巡らされた「内偵者」ネットワークから定期的に送られてくる報告を通じて、直ちに発見されるようになっている」(第21号)
 「班の中で学生は一緒に生活しているので、同志意識、会話やグループ学習の形での再教育が比較的容易に実行される。もともと共産主義者同盟員が防諜網を作っている。彼らは真の転向者であり、彼ら全てが幹部である。冬の夜には、長期間にわたって連盟員が交互に監視している」(第45号)

 監視ネットワークが下は日本人解放連盟や共産主義者同盟の幹部から上は毛沢東の各段階に存在していた。こうした毛沢東の相互監視による洗脳化工作は他の同時期のファシストや独裁者よりも陰湿かつ厳しかったという説がある。

 「一般の工作単位(職場)を事実上の監獄に変えてしまうというやり方は毛沢東の発想による重要な新機軸で、毛沢東は中国を統治した全期間を通じてこの方法を使いつづけた。この点においては、毛沢東はヒトラーもスターリンも遠く及ばないシステムを作り上げたといえる。すなわち、人民の中から一部を看守に仕立て、それまで同じ職場の同僚だった人々を一方は囚人、一方は看守という立場にして同じ敷地内に生活させる、というシステムである(共産中国においては、職場と住居が同じ敷地内にある場合が多かった)。このようにして、毛沢東は共に働き生活する人間どうしのあいだに大きなくさびを打ち込んだだけでなく、拷問を含む抑圧に手を染める人間の数を大幅に増やした。スターリンやヒトラーの場合、こうした目的にはおもに秘密警察のエリート(KGBやゲシュタポ)を使い、犠牲者も一般の目に触れない場所に隔離されていたが、毛沢東はこうした活動の範囲を大きく広げたのである」(『マオ』上巻)。

 岡野は毛の指示を受け、労農学校で集団批判や監視活動を実行した。重慶には鹿地亘や青山和夫のような日本人亡命者が捕虜を指導したし、国民党軍は彼らの協力を歓迎した。しかし三民主義の教育は許されたが、社会主義教育は禁止された。国民党軍の捕虜収容所では、反戦活動を行うのは「表」、軍国主義を保持し、日本の勝利を信じる「勝ち組」は「裏」と呼ばれていたが、どちらに所属するのも捕虜の自由に任されていた(菊池一隆『日本人反戦兵士と日中戦争』御茶の水書房)。日本人捕虜がいる世界の戦域において延安のみで、「社会主義的非戦思想の教育ないし洗脳」(『日本兵捕虜は何をしゃべったか』)が行われた。そしてアリヨシが描いているように、捕慮はおしなべて条件づけられたオウムのようであった。
 朝鮮戦争において中国軍による連合軍兵捕虜への外部隔離や尋問、集団・自己批判がなされた。それは人格破壊による共産主義への強制的思想改造であったため、brain washing(洗脳)という新語が生まれた。延安では朝鮮戦争のような露骨な洗脳は避けられたが、本質的には洗脳と同じ集団批判の手法が中国人反党分子だけでなく、日本人捕虜に使われた最初といってよかろう。

 「この心理的圧迫は、疲労の催眠状態をつくり出し、人が恍惚状態になっている間に、何度も何度も長たらしく自分自身の言葉で、要求された政治的教義を反復させるという、巧妙に工夫された技術を使っている。それでも、この心理的圧迫はこれで終ったのではない。これはただ準備段階にすぎなかった。真の圧迫は、クラスの状態が批判的で、非常に圧迫した場合に加えられることになっていた」(ハンター『洗脳』法政大学出版局)。

 労農学校での1年間も時間をかけた教育は、日本兵の持つ頑強な天皇制イデオロギーや封建的意識の切り崩しにはある程度成功した。捕虜となった後に教化された者の中には、「天皇のための死」とか「靖国神社への安置」といったことばを冷笑する者も現れていた(第26号)。

■二分法に味をしめた中国共産党
 初期の日本兵への工作や捕虜への教育を通じて、天皇批判のプロパガンダは日本人や日本兵には絶対に避けるべきことだと中国共産党は認識した。それはアメリカ軍と同様であった。対日プロパガンダにおいて、本来なら天皇に当るところに軍国主義者を据えた。そして軍国主義者と人民を区別し、軍国主義者への批判と人民への同情を中国人や兵士に呼びかける心理工作を繰り返した。延安を訪れる連合国側のジャーナリストやアメリカ軍の将校に対し、共産党色を隠し、穏健な民主主義者のポーズを取った。こうした手法が5年後の毛沢東の中国支配の道をひらいた。
 日本兵を最初は処刑していた彼らが時間をかけて洗脳活動を行ったのは、日本軍を葬りさるという長期戦略があったからである。1938年は侵略者としての罪悪感や贖罪意識を植え付ける長期的プロパガンダを展開し、洗脳し、日本人全体を精神的捕虜にしようとする出発点となった。反戦日本兵の育成は敵の士気を弱め、徐々に厭戦感を強めるのに功があった。占領期日本では戦時期に洗脳された捕虜や知識人が道具として利用された。その後は工作を受けた一部の日本の政治家やジャーナリストが彼らに代わった。
 70年間にわたり、教科書問題でも、靖国問題でも、二分法のプロパガンダが日本人に向けて断続的になされてきた。しかし人民に戦争責任がなく、むしろ被害者であるという論理は欺瞞的である。日本人民が中国侵略を支え、中国人民が文化大革命を進めたにもかかわらず、人民への追及は故意に避けられた。さらに言えば文革で4人組と人民を区分し、毛の責任を故意に無視したように、人民や天皇の戦争責任を無視し、A級戦犯のみに責任を被せた。中国侵略批判での「天皇」隠し、文革批判での「毛」隠しは、最高責任者への責任追及を避ける隠蔽的二分法である。GHQも中国共産党もその手を使ってきた。しかし天皇を免責したとの中国側の発言を見聞きしたことはない。中国では文革での毛の責任追及が開放されるようになった。政治状況次第では、靖国神社からA級戦犯が排除されても、昭和天皇の戦争責任を追及する対日プロパガンダが展開されるかもしれない。

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