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日本経済新聞 2007年4月15日 書評欄     

書評
『新聞人群像』
(嶺隆 著 中央公論新社)

評:山本武利(早稲田大学教授)

■明治大正期の記者の権力批判

 日本の新聞は140年前の明治維新期に誕生した。新聞記者は操觚者とか木鐸とか呼ばれ次第に社会にその存在が認められた。とくに反権力の姿勢が評価されたのは、日本では長い封建時代が続いて、言論の自由がなかったからである。著者は誕生期から大正末期までの時代を振り返り、著名な新聞記者が権力批判をどのように展開したかをたどる。
 記者として筆禍第1号となったのは、官軍批判で逮捕され、処刑寸前までいった『江湖新聞』福地桜痴であるが、後に『東京日日新聞』で新政府の御用記者になった。『万朝報』を創刊し、3面記事で権力者の醜行を暴いた黒岩涙香は、桜痴の追悼記事の中で彼の遊冶郎ぶりを載せて死者に鞭打った。その涙香も大正初期に大隈内閣擁護の論功行賞で勳3等に叙せられた。明治後期に『大阪毎日新聞』社長となった小松原英太郎は明治初期に2年の禁獄に処せられたが、出獄まもなく権力側に転身し、桂内閣の文部大臣となった。
 こうしてみると著者の尊敬する反権力の記者は少なくなってしまう。本書で最も評価されているのは成島柳北である。彼は幕末の高官であったが、新政府からの誘いを断り、『柳橋新誌』で文名を上げ、『朝野新聞』のコラムで諧謔的な権力批判を展開した。そして同僚の末広鉄腸とともに下獄し、その獄中記でさらに人気を得た。死ぬまで幕臣として、また反藩閥の操觚者としての矜持を保っていた。
 しかし彼は記者として短命であった。柳北は改進党、鉄腸は自由党幹部であった。両党の民権派内部の内ゲバを藩閥側が煽ったとき、社長としての柳北は『朝野新聞』の旗幟を鮮明にできず、衰退に導いた点が本書で触れられていない。権力者は反権力の記者の分断を図る。買収、地位・情報提供といった老獪な手を使う。権力側の誘いに乗って、権力との関係でなんらかの蹉跌ないし過失が生じる。それを全面的に否定し去ることはできるだろうか。

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