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■■【2002年】■■     
新書案内:『大衆紙の源流―明治期小新聞の研究 』――――土屋 礼子【著

ふりがな新聞が拓いたメディアの近代。挿絵と総ふりがなにより、商品としての新聞と読書する大衆への道を見いだした小新聞(こしんぶん)の実証的研究。

目次  
第1章 小新聞とは何か
第2章 小新聞と識字階層
第3章 小新聞の文体と言語空間
第4章 錦絵新聞から絵入り小新聞へ
第5章 初期小新聞にみる投書とコミュニケーション
第6章 明治初期の言論統制と小新聞の筆禍
第7章 『いろは新聞』にみる明治十年代半ばの小新聞
第8章 政党系小新聞にみる明治十年代後半における小新聞の変貌
第9章 大阪における小新聞の展開
第10章 小新聞の新たな試み―初期の『都新聞』と『やまと新聞』
終章 小新聞の終焉と大衆紙の始まり

著者:土屋 礼子(つちや れいこ)
大阪市立大学大学院文学研究科助教授
本体 \3,200(税別)
2002年12月10日

書評――中川 隆介(評論家)

 明治時代の新聞のことに話が及んだ時、大新聞、小新聞という言葉がよく出てくる。大新聞とは政論中心で漢語の多い知識人向け新聞、小新聞は娯楽的な町ダネ中心でフリガナつきの庶民向け新聞という特徴があったが、のち大新聞は衰退し、小新聞が政論その他を取り入れて綜合化して今日の全国向け大部数新聞になったとされている。土屋礼子著『大衆紙の源流−−明治期小新聞の研究−−』(A5判・271頁・3200円・世界思想社)は、その小新聞を実証的に分析したものである。
 内容は序章と終章のほか十章建てだが、そのうち八つの章は過去十数年にわたっていくつかの専門誌に発表してきた論文で、これらをもとにして提出した博士論文を加筆修正したのが本書である。したがってていねいな資料分析に基づいた厳密な記述になっており、一般向けの読み物とは言い難い。テーマ領域も地味である。しかし門外漢の私が呼んでみても興味深いことが数多くある。以下私が興味を引かれた部分を紹介する。
 まず、小新聞という言葉は明治10年代に用いられるようになったが、初めは傍訓新聞という呼び方が一般的であった。そして新聞研究というか新聞のことを論じる中でその性格づけを行ったうえで小新聞という言葉を使った例は、著者によると、明治38年に某雑誌に掲載されたある新聞人の回想録が最初らしい。なおこの回想録が書かれたころはすでに実態としては大新聞、小新聞という区分がなくなっていたとのことである。その後初の本格的新聞史研究である『日本新聞発達史』(小野秀雄・大正11年)でも小新聞画明確にとりあげられたという。小新聞のはじめは『読売新聞』(明治7年創刊)、『東京絵入り新聞』『仮名読新聞』(明治8年創刊)などであった。そして江戸時代の伝統を受け継ぐ戯作作家たちの書く読み物が好まれた(第1章「小新聞とは何か」)。

・・・中略・・・

 そして著者は終章「小新聞の終焉と大衆紙の始まり」でさまざまな課題を提示し、またさまざまな持論を開陳しているが、多岐にわたっているので、紙数からいっても紹介は難しい。いずれにしても、大衆紙について深く本質的に考察しようとする著者の意欲はきわめて強い。今後の研究に期待したい。
 最後に、本書を送り出した作業の側面について、過去十年間個別に書いた論文を並べて博士論文になりえたということにいささか驚いた。たしかに限定されたテーマ領域ではあるが、長期にわたって順不同で個別に書いてきた複数の論文が、実は全体として論理的に構成可能な体系性をもっていたというのは、相当な計画力だと思う。しかも初期段階から一定水準の論文を書いていたわけで、それにも感心した。著者の指導に当たった研究者がいるはずだけれも、師弟ともども相当な計画力と実行力と粘り強さを兼ね備えたコンビなのだろう。その2人に敬意を表したい。
出版ニュース


諧謔と風刺とたくましさと――川村邦光(大阪大教授)

 読売・朝日・毎日といった現在の大手新聞の始まりはどのようなものだったろうか。本書はこれらの新聞の系譜に連なる明治初期の「小新聞(こしんぶん)」研究である。
 小新聞は明治七年創刊の読売に始まる。「児童婦女子」にもわかりやすいと標榜(ひょうぼう)し、漢字にはすべてふりがながつけられた。扱った記事は市井の事件や娯楽である。この小新聞に対して、大新聞(おおしんぶん)と名づけられたものがある。こちらには漢字にふりがながなく、政治的な論説を中心とする。
 小新聞も大新聞も、東京を中心に発展していった。大阪は「新聞不毛の地」であった。大阪で初めて小新聞の日刊紙が創刊されても、さっぱり売れなかった。「新聞ては何(な)んだす、お上のお布令(ふれ)だっか」が大方の反応だった。「お上」には無関心を決め込む大阪人気質を表していよう。しかし、全国紙として発展を遂げたのは、大阪誕生の朝日・毎日である。「大毎大朝」と並び称される一時代を築いていくことになる。それはどうしてなのか。
 明治十二年、絵入り小新聞として朝日が創刊される。千部に満たない発行部数での出発であった。紙面を拡大し、ふりがな付きの論説欄を設け、小新聞が大新聞を兼ねるという紙面改革を行った。大新聞と小新聞の垣根が崩され、「中新聞化」が推進されていくことになる。これが、国民型大衆紙へと発展するきっかけとなったのである。
 著者の指摘する小新聞の魅力とは、ふりがなや俗語、ビジュアルな挿絵を用いて幅広い読者層を開拓し、筆禍事件に見舞われながらも、「諧謔(かいぎゃく)と風刺をこめた裏側からの政府批判」をたくましく展開して「民衆的な政治の楽しみかた」を追求したところにある。だが、それを国民型大衆紙は失っていったというのが、はっきりと語られてはいないが、著者の批判であろう。
 本書で扱われているのは、明治七年から二十年あたりまでである。それにしても、新聞のたどった激動の歴史がまざまざと掘り起こされ、浮き彫りにされている。著者の着眼点の的確さ、見事さによる。それは並大抵ではない資料の探索・収集・読解の労苦の賜物(たまもの)だろう。
朝日新聞(2003/02/09 朝刊)

新書案内:『岡田桑三 映像の世紀―グラフィズム・プロパガンダ・科学映画』
――――川崎賢子・原田健一共著

俳優「山内光」として、また日本の戦時宣伝を担った東方社の理事長として、現代の映像表現史に足跡を刻んだ巨人・岡田桑三(1903〜83)の生涯を辿る。複数の領域を自在に歩いた彼の知的交流の水脈が鮮明に浮かび上がる。

社会的パフォーマーとしての岡田桑三―表の領域と裏の領域
岡田桑三の少年期―教会人脈と女縁
はじめての西欧―岡田桑三がベルリンで得たもの
関東大震災後の社会運動と文化運動―新人会と心座
メディアの産業化とマルクス主義―プロデューサーの誕生
映画俳優「山内光」の誕生―岡田桑三と岡田嘉子の周辺
結婚―一九二九年ソビエト旅行の同伴者
プロレタリア映画への夢―ソビエト映画が徴たもの
プロレタリア映画の挫折―プロキノと岡田桑三
対抗的な文化運動としての写真―ソヴェートの友の会と『光画』〔ほか〕

著者:
川崎賢子[カワサキケンコ]
1956年生まれ。東京女子大学大学院文学研究科修了。専攻、近代日本文学文化。文芸評論家。東京女子大学非常勤講師など。著書に『彼等の昭和』(白水社、サントリー学芸賞受賞)など

原田健一[ハラダケンイチ]
1956年生まれ。映像・音楽の製作、プロデュースをおこなう。1992年より、和歌山県田辺市南方熊楠旧邸の調査に従事、『熊楠研究』編集委員。現在、東洋大学大学院博士課程在籍中。専攻、メディア史、マス・コミュニケーション理論

本体 5,800円
2002年9月4日

文章に希望、占領期の息吹――山本武利
日本経済新聞(2002年8月16日朝刊)より
 米に保管の雑誌15万冊データベース化 
 敗戦後の一九四五―四九年に発行されたすべての出版物は、GHQ(連合国軍総司令部)の検閲下におかれ、民間検閲局(CCD)の検閲を受けなければならなかった。検閲制度終了後、保管されていた検閲済み出版物は、CCDに勤めていたゴードン・プランゲ博士を通じて米メリーランド大学に寄贈された。 
 プランゲ文庫は、学術、文芸、風俗、教育などの一般誌を網羅し、全国各地の企業の社内報や、青年団雑誌、労働組合機関誌、短歌、俳句の同人誌など民衆メディアも収録している。所蔵タイトル数は一万三千七百八十七。推定ページ数は六百十万、推定冊数十五万にも上り、大半は日本国内には現存していない。 
 ◎ ◎ ◎ 
 記事のタイトル入力 
 メディア史を専門とする私は、文部科学省の助成を得て、研究仲間とプランゲ文庫に収められた占領期雑誌の目次に関するデータベース(DB)作りを進めている。二〇〇〇年から五年がかりで、全雑誌・全号に掲載された記事のタイトルや、執筆者、出版者、出版地など四十項目を超える情報を入力する計画だ。 
 昨年春、政治、法律、行政、経済、社会、労働の雑誌を扱った初年度の成果を一枚のCD―ROMにまとめた。ここには、雑誌タイトル数が千四百二十、記事件数二十四万のデータが収められている。教育、歴史、地理、哲学、宗教、芸術、言語、文学の雑誌を対象とした第二年度の作業も完了し、今秋にもインターネット上での公開を始める。 
 第一弾のDBは硬派の雑誌を対象としているが、著名な作家もこの種の雑誌に新作や評論、エッセーを寄稿していた。敗戦直後、新興の出版社が次々と生まれ、地方の都市からも多数の雑誌が創刊された。それら群小の雑誌に、生活難にあえぐ有名作家が新作を寄せ、戦前に発表した作品の転載を許可していた。 
 武者小路実篤が『政経春秋』四六年三月号に寄せた「私は日本人を信用する」という一文は、占領期における実篤の天皇観を考えるうえで意義深い内容を持つ。宗像和重早大教授(日本近代文学)によると、CD―ROMには二十四点の彼の作品が出てくるが、うち二十件は、全集の詳細な著作目録にも掲載されていない。 
 佐藤春夫、林芙美子についても、専門家も知らなかった作品名が多数収録されていることが確認できた。一方、谷崎潤一郎は沈黙を守るかのようにこの時期、硬派系の雑誌にはほとんど投稿していない。これは、谷崎の戦争観を考える手掛かりになるのではないか。 
 ◎ ◎ ◎ 
 中曽根元首相の著作も 
 著作目録が完備されているといわれた石橋湛山や大山郁夫、長谷川如是閑についても、数点の論文やエッセーが未収録であることが分かった。如是閑が『速報 先見経済』四九年六月二十八日号に寄稿した「現代政治の科学的検討」は、中央大学が編集・刊行した著作目録にはない。堀真清早大教授(日本政治史)によると、戦争責任観を語ったものとして貴重だという。現存の政治家では、中曽根康弘元首相のものが十点収録されている。同氏の事務所でも把握していなかったものばかりだという。 
 プランゲ文庫の目録には、私の幼年期に郷里周辺で出された雑誌の名前も載っていた。夫を戦争で失った母は『いつかし』(発行地・愛媛県宇和島市)という短歌雑誌に投稿することを生きがいにした。同文庫には『いつかし』のようなアララギ派の同人誌は、少なくとも二十一誌が収録されている。母が購読していた『大耕』(同・同県内子町)や、私の最初の愛読誌『銀の鈴』(同・広島市)もそろっていた。 
 ガリ版刷りの小中学校の文集や文芸部、生徒会の会報まで同文庫に収められている。DBが完成すれば一般の方でも簡単に、自分が子供のころに書いた文章が載った出版物を探せるようになるだろう。 
 ◎ ◎ ◎ 
 自分の言葉で表現 
 占領期は、近代日本のメディア史において、明治初期に続く、第二の転換期だった。今まで自分の考えや夢を文章で表現したことのない人々が、新しい時代を自分の言葉で表現した。青年団員、引き揚げ者、結核療養者、戦争未亡人など従来、メディアとは無関係だった人びとも文章を書き、それを出版物にした。プランゲ文庫は、こうした時代の息吹を伝えるメディアの宝庫だ。 
 DB作りと並行して、新しい研究材料を見つけることも私たちの目標になっている。昨年七月には「20世紀メディア研究所」という組織を設立し、研究成果を発表する場として、今年三月、雑誌『Intelligence(インテリジェンス)』を創刊した。 
 幅広い分野の研究者に参加してもらい、占領期日本の社会状況を多角的に研究する機運も盛り上げたいと思っている。(やまもと・たけとし=早稲田大学教授)
ダイク局長辞任の真相――――毎日新聞(2002年6月6日夕刊)より

 戦後の占領初期に連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)初代局長を務めたK・R・ダイク(1897〜1980年)は、日本の民主化政策を強力に進めた中心人物として知られる。しかし、ダイクの在任期間は1945年9月から翌46年5月までと短く、辞任後は米本国に帰国し、NBC副社長に就任した。後任にはダイクとは対照的にに保守的なニュージェントが就いた。こうしたことから、マッカーサーの不興を買ったための真実上の解任という説が根強いなど、ダイク辞任の理由は占領期の歴史上の謎の一つとなっていた。

 その真相について、1日に東京都内で開けられた「20世紀メディア研究会」(代表、山本武利・早稲田大学教授)で谷川建司・埼玉大講師(米映画史)が、米国立公文書館で発見した新資料に基づき報告した。ダイクは46年2〜4月に休暇を取って帰国していたが、この間の動静が、公開された米国務省、陸軍省の資料からわかったという。

 例えば、休暇を終えて日本に戻ったダイクからベントン国務次官補へあてた4月23日付の手紙には、あと半年か1年、CIE局長の座にとどまることはできるが、6月半ばには日本を後にするつもりでその旨をマッカーサーにも既に伝えた。後継者としてニュージェントを推薦するつもりだが、マッカーサーに自分の勧告が認められるかどうかは自信がない――などの記述があったという。

 谷川講師によると、中佐という低い階級にあったニュージェントをダイクが後任に指名したのは異例の人事であり、彼自身も自信がないと述べていたにもかかわらず、結果としてこれが受け入れられたことから、ダイクに対するマッカーサーの信任は最後まで厚かったことなどが、これによって確認できる。したがって、マッカーサーの不興を買ったことによる解任という説は誤りであることがはっきりしたという。

 いうまでもないが、日本にとって敗戦――占領という体験は重く、政治や経済、社会のさまざまな課題がこの時期に端を発すると論じられることも今なお多い。占領終結から既には世紀を経た現在、とかく遅れが指摘される日本側の資料公開も含めて、この時期の研究の進展に注目していきたい。

新書案内:『アメリカ映画と占領政策』――――谷川建司

1946年2月、戦禍生々しい日本に早くもアメリカ映画が復活した。この復活劇は、じつは慎重に準備されたものだった。アメリカは、太平洋戦争の最中に既に戦後の対日占領政策を立案しており、アメリカ流民主化を遂行するのに映画の活用をはかろうとし、それを実行したのである。その過程を、アメリカの官僚たちの証言(一次資料)で綴る。

目次  
序 アメリカ合衆国による占領期対日映画政策とは何であったか  
第1部 アメリカ合衆国による占領期対日映画政策の立案過程
第1章 戦時下における対日占領政策の立案
  第1節 原案の作成国務省戦後計画委員会
  第2節 マスター・プランの完成国務・陸軍・海軍三省調整委員会
  第3節 対日占領政策案における対日映画政策
第2章 戦時情報局による極東映画政策案
  第1節 対外プロパガンダ政策を巡るヘゲモニーの争い
  第2節 戦時情報局とハリウッドの協力関係
  第3節 戦時情報局の極東政策BMPによる独自の対日映画政策案の作成
第3章 国務省による占領期対日映画政策案
   第1節 対外映画政策の開始国務省文化関係部
   第2節 政府諸機関との調整国務省国際情報部
   第3節 映画産業界との摩擦国務省国際映画部
第2部 アメリカ合衆国による占領期対日映画政策の実施
第4章 占領期対日映画政策の概要
  第1節 民間情報教育局と民間検閲部の設立
  第2節 民間情報教育局と民間検閲部の対立
  第3節 民間情報教育局による映画を用いた民主化促進政策
第5章 ハリウッド映画産業界の極東マーケット政策
  第1節 GHQ外郭団体としてのセントラル映画社の設立
  第2節 陸軍省民政部との連携
  第3節 私企業としてのセントラル映画社
第6章 占領期対日映画政策の実相とその評価
  第1節 コミュニズムへの警戒
  第2節 日本人の国民感情への配慮
  第3節 アメリカ映画は民主主義をプロモートし得たか
あとがき
参考文献一覧
索 引

著者:谷川 建司(たにかわ たけし)
埼玉大学・専修大学非常勤講師、映画ジャーナリスト
著書:『GHQ日本占領史19 演劇・映画』(共編、日本図書センター、1996)
専門分野:日米映画史

 A5判・499頁・5,000円・02/5

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20世紀を回顧させる重量感たっぷりの大書――千葉伸夫

 世界の映画は作品を仲立ちに、製作と観客とのコミュニケーションによって成長した。一九三〇年代に音声を得て、形式はほぼ確定する。1939年に始まる第二次世界大戦では、唯一の動く映像メディアとして、各国によってちがいはあるものの政治的に抱え込まれることになる。『オックスフォード・コンパニオン・トゥ・フィルム』が、世界の映画のプロパガンダの歴史を解説する冒頭に、〈あらゆる映画はプロパガンダの性質を帯び、製作者は一方で政治システムの存続に、一方で社会情勢に反応する観客の動向に意向を払う、とくに戦時において〉という映画史上、最大の局面があらわれることになった。国際関係、政治システム、社会情勢、製作、観客が関数であり、変数でもある。複雑なパラダイムの中におかれたわけである。研究者にとっても何度の高い領域。谷川さんはこの領域に真っ向から挑戦して、社会的、歴史的研究主題になり得ることを堂々、証明した。五つの関数のうち、徹底的にアメリカ国務省を中心とした、アメリカ政府の戦時映画政策に重点をしぼり、関連文書を逐次フォロー、他の関数は要点を記述、そのダイナミズム、特質を追跡していく。文書保存、公開の意義も教えられることになる。
 第1部の「立案過程」では、対戦勃発直後、まだ参戦していないアメリカ国務省は、ドイツの敗北を想定、戦後問題の検討に入っていたことに驚かされる。2年3ヶ月後の太平洋戦争の勃発によって、日本が視野に入った。セクションやスタッフが変わっても、周到にして、慎重、懐の深い、準備過程の厚みに圧倒された。アメリカ映画企業への対応にしても、基本は政策と観客の関係という自由主義の尊重、民主主義への配慮があり、一九三九年に成立した日本の映画法、その審議過程にあらわれた全体主義的な教化主義、統制主義とのちがいに感心させられることになった。その結果、アメリカ映画は史上最高の繁栄を得、日本映画は破滅へと導かれることになる。
 第2部の「日本占領」による実施にいたって、スタッフ、理念、セクションによる主導権争いは白熱してくる。アメリカのディスカッション、ドラマを見ている迫力があった。しかし第1部で論証した審議内容は、日本の急転直下的敗戦、間接統治といういわば政治システムの変数に直面しても、谷川さんのとくように、十二分に発揮されているように思われた。一九四〇年代後半になると戦後統制から平和に移行、映画企業の活動が活発になり、行政(軍、官)のウェイトは後退していき、製作と観客のパラダイムに収斂、シェア競争、グローバルな映画ウォーズという戦後から今日の時代に入ることになる。
 20世紀を回顧させる重量感たっぷりの大書である。今後も健筆を祈りたい。

『キネマ旬報』2002年10月下旬号より

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