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働くことの両義性
- 佐藤 真理人 -

 哲学的議論の常套手段の一つであるが、「働くこと」の意味を直観的に把握するために、語の意味の考察から始めることにしよう。

 「働」は人が動くと読める。「働」に含まれる「動」は動かすとも解しうるが、動かすことも人が動くことに起因する。また「動」は動かされるとも考えられるが、これも結果的に人が動くことに帰着する。とにかく働くとは人が何らかの行動をなすことである。だが、いかなる行動が「働く」ことなのか?

 ここで西洋語の例として英語に目を転ずると、「働くこと」に対応する通常の語として work と labor(labour)がすぐに浮かんでくる。

 まずラテン語系の labor を見ると、これには古代の奴隷制を連想させる苦役のイメージが色濃く付きまとっている。要するに、堪え忍ぶ苦しい仕事の意味合いが強い。労使関係、労働運動、革命運動等の文脈における「労働」は基本的に labor である。ちなみにドイツ語の Arbeit の語源的意味も 辛苦、困苦であり、フランス語の travail にいたっては責苦、拷問という恐ろしい意味が語源にある。この系列では、働くことは「苦」なのである。ここで証明することはできないが、苦役としての奴隷的労働から解放されている状態が、「自由」のもともとの意味だったのではないかと私は思っている。

 一方、ゲルマン語系の work の方にはあまりマイナス・イメージはない。同語源のドイツ語 wirken にも見られるように、その意味するところは何らかの自主的・能動的な活動をなすということである。その活動の結果としての作品が名詞としての work(Werk)である。日本で「職安」という暗いイメージを払拭するために「ハローワーク」を使ったり、過酷な雰囲気の「労働者」の代わりに「働く人たち」などと言ったりするのは、work のこの積極的な意味を意識してのことであろう。こちらの意味の「働く」は必ずしも「自由」と矛盾しない。この方向で考えると、働くことは自由な活動の性格をもつことになり、さらにはある種の芸術家に見られるように「遊び」の様相すら呈することにもなる。それどころか、オランダの歴史家ホイジンガ(『ホモ・ルーデンス』)やフランスの社会学者カイヨワ(『遊びと人間』)が見事に描き出したように、人間の文化現象全般を遊戯として見ることも可能である。念のために言うと、本来の遊びは「まじめ」なものである。

 このように見ると、「働く」という日本語には苦役(labor)と活動(work)という対極的な二つの意味が含意されていて、表面上その違いが現われず、その時々の文脈で判断されるのである。このことが働くことの理解の不一致や混乱の一因をなしている。ある少人数の授業のある文脈の中で私が「日本人にとっては働くことが即ち人生だね」と言ったら、一人の女子学生が「あたし嫌だわ、そんなの」と口走った。彼女にとっては「働くこと」は苦役を意味するのである。しかし自分の仕事を成し遂げた喜びを語る会社員や職人にとっては単純に「働く=苦」ではないはずである。彼らにとって自分の仕事には自己実現と言ってよい積極的な要素があるように思われる。

 しかも、働くことは単独の個人の営みではない。働くことにおいてわれわれは嫌でも直接間接に人間関係の只中に置かれる。働くことは社会的行動である。この点から働くことの一つの定義を与えることができよう。つまり働くとは、物であれ情報であれサービスであれ、有益な何かを他者に提供することによって報酬を得ることである。泥棒が働くことでないのは、奪うだけで他者に何も与えないからである。ギャンブルは何かを他者に与えるであろうか。人に害をもたらさないとしても、与えるものがないとすれば、ギャンブルも働くことの範疇に属さないであろう。働くとは他者との関係の中で自己の存在を保ち自己を確立することである。

 ところで厄介なのは、苦役と自由な活動という両極が実際は明確に区別しがたく入り混じっているということである。たとえば私の大学教授という職業は、多くの人から、好きでやっている気楽で呑気な仕事だと思われている。しかしそれは大間違いで、授業(これも決して楽ではない)以外に様々の会議や煩雑な職務、雑多な学生への対応、学会活動、論文執筆の義務、等々で忙殺され、本当に自分の好きなことをやっている時間は全体の一割か二割程度というのが実感である。たしかに好きで始めたことであり、楽しみもある。だがその楽しみは苦しみの中にあるのであって、苦しみと楽しみは渾然と一体をなしている。他のもろもろの職業についても同じことが言えるであろう。それが働くということである。そうだとすれば、それはまさに生きることと同じではないか。「働くことが人生である」はある意味で真実である。働くことが具体的人間の存在である。働くことの外に真の人生、楽しい人生を求めても無駄であろう。たしかに苦しみはない方がよい。だが個々の苦しみはなくせても苦しみそのものを消滅させることはできない。それが人生である。大事なことは、働くことにも人生にも苦しみだけではなく楽しみもあるということである。

 こう言う人もあろう。「金を稼ぐことが働くことだ」と。働いて金を稼ぎ、稼いだ金で楽しむ、それが人生だ、というのは一応もっともだと思われる。しかしこの主張は、金稼ぎとしての労働とその結果としての快楽とを二分する限りにおいて、先に述べた「働く=苦」の考え方に基づいている。できるだけ少ない労働でできるだけ多くの金を得ようという発想も同様である。ここでは、もっぱら金のみを行動原理とする人は、働くことの積極的な半面に無知であることによって人生の貴重な可能性を失う恐れがある、と言うにとどめておこう。

 それにしても、現実の労働環境は過酷であり、生活はきびしい。哲学者の寝言など聞いていられないという反論も出てきそうである。そういう実情は私も十分に承知しているつもりである。だが現状の過酷さによって働くことの本質を見失ってはなるまい。働くことは本来、自分の生を実現するための全人的活動であるはずである。それを妨げ抑圧する組織や社会の力があるならば、働く者は闘わねばならない。たとえば「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という憲法の条文(第14条)があるから人間が平等であるのではない。平等を求める人々の長い闘いの歴史の結果としてその憲法条文が成立したのである。働く者の不合理・理不尽な現実も、人々の批判精神に基づく粘り強い闘いによって克服してゆくほかはない。そしてその闘いも一つの働くことにほかならず、優れた意味での working であると言える。

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