- 佐藤真理人 -
Bene vixit, qui latuit(よく生きたのは、隠れた者である―意訳: 賢者はひっそりと生きる).このラテン語の格言を私は座右の銘としている。実際の私は公の場で失言、暴言、勇み足をくりかえしている愚者であるが、それだけにいっそう、この格言は私にとって自らを戒めるための大切な言葉なのである。そういう私が、隠れるどころか、研究所を設立して世に一言申し立てるような動きに出ることになったのは、われながら奇妙というほかはない。若手研究者や支援者の熱意に押されたということが一因ではあるが、私の内面に何らかの動因があることも確かである。それは、哲学は世の中のもろもろの動向に対して何か聴くに値する発言をなしうるものなのか、という思いである。
おそらく哲学に対する一般のイメージは、大学という特殊な世界で難解な言葉を振り回して浮き世離れした観念的思想を展開するものだということであろう。たしかに、私たちが授業で話したり論文で書いたりしている形而上学や存在論、認識論や倫理学のことを考えると、そういう目で見られるのも無理はないという気がしてくる。しかし実は、哲学が現実離れした夢想であるというのは全くの誤解である。哲学は人間の具体的な営みに根本のところで深く関わっているのである。その根本のところを曖昧にしたまま常識論で物事を片付けようとするから、哲学が非現実的な空論のように見えてくるのである。哲学の側からはむしろこう言わなければならない――世の言論はあまりに形而下的であって、形而上学が欠けている、と。新聞や雑誌の評論、テレビの討論番組などを読んだり聴いたりしていても、専門家諸氏の豊富な知識や情報に感心する一方で、その依って立つ根本の立場が案外素朴で単純であることに驚かされることも多々ある。多くの議論は真理を明らかにするためにではなく、自らの素朴な信念を正当化するためになされているように思われる。私たちの勝負所はそこにある。問われることなく自明のこととして前提されている信念や思い込みを問いなおすとき、哲学が始まっているのである。
哲学についての誤解や偏見に対し、哲学研究者の側に責任がないわけではない。というのは、哲学研究者が実世界の諸事に積極的に関わりたがらない傾向を有することは否定できないからである。私たち研究員はそういう反省から出発して、独自の研究活動の場をもとうと思い立ったわけである。私たちが拠り所としているのは、組織も権力ももたない哲学的思索の伝統だけである。その中に身を置き、それを背景として、人を刺激する何事かを発言できるかどうか、それは私たちの意志と努力に懸かっている。その意味で、私たちの企ては一つの冒険である。
今は哲学受難の時代である。世の中では相変わらず、否ますます、哲学への期待が強くもたれているように思われるにもかかわらず、なぜか大学という場では哲学が片隅に追いやられる一方である。その原因・理由はいろいろと考えられるが、ここではその議論は控えよう。私たちは大学という組織とは別のところでものを考えたい。本来、哲学は大学という枠を越えるものである。「大学の哲学」に伴う諸制約から自由な立場で問題となる事柄を論じたい。それは知的レベルを下げるというようなことではなく、率直にかつ真摯に事象そのものに向かうということである。
カントの時代、「哲学部」は「上級三学部(神学部、法学部、医学部)」に対する「下級学部」であった。それは今流に言えば「教養学部」のようなものであった。カントはその位置づけに不満をもっていたが、考え様によっては哲学の自然な在り方を暗示しているようにも思えてくる。つまり、哲学は他の諸学の前提となる学、基本の学の立場に立つと同時に、初学者の知的陶冶の役割を果たすという形で、大学の枠を越えて広く世間に開かれている学問であるということである。事実、カントの「人間学」の講義には学生以外に多くの一般の受講者がいた。当研究所が今後存在し続けることができるとすれば、積極的な意味で、そのような開かれた場に立つ研究活動を目指したいと思う。皆様の叱咤激励を切にお願いする次第である。 |