G.ヘーニー新王国時代の建築(試訳)

(1997.10.10作成、1997.10.20改訂)


 「新王国時代の建築」
 新王国時代の建築を扱う分野から見た際、今後の研究を進めるに当たってもっとも切望されている特別なものとは一体何であろうか。その答えを明るみにする試みを、私は以下に記してみたい。ここ数年のうちに調査がおこなわれるに違いない特別な建築遺構や発掘地の中で、優先すべきものを示した一覧を、ほとんどの読者は当然のこととして期待しているであろう。しかしながら私の考えを言わせてもらうならば、もっとも切望されているのはエジプト学が建築遺構を扱う時のその固有の学究的姿勢を再検討することであり、また目下のところ調査地で用いられている方法を変えていくことである。
 だが性急にその答えを出す前にまず、私たちが新王国時代の建築についてどれほど知っているかをざっと見渡しておく必要がある。もちろん、ディール・アル=バハリ、ルクソール神殿、マディーナト・ハブ、ラメセウム、カルナック神殿の大規模な複合建築など、有名な遺構はすぐさま思い出される。テーべ地域以外ではアブ・シンベルや第一瀑布を越えたところの他の神殿が、ヌビアでの調査がおこなわれた時に多くの注目を集めた。当然、アビュドスも忘れるべきではないであろう。
 さて、最初のこの一覧においては、上エジプトのさまざまな地方からはわずかな数の建築しか挙げられていないし、またナイル河下流の三角地帯からはまったく遺構が挙げられていない。このことから、私たちの知識には大きな欠落があることに直ちに気づかされる。三角地帯では、散乱するわずかな数の石材しか見つかっていないことが知られているのみであって、そのほとんどがどこか遠くから運ばれてきて、後代の建物において転用されたものである。碑文が記されているために、多数の論文がこの石材を取り上げてきた。だがこれらはもっと詳細に研究されて然るべきであると私は考える。他の資料からはまったくうかがい知ることができないような、建築に関する手がかりをそれらは示してくれるからである。カイロより南の地域と比べればいくらか事情が良いとはいえ、上エジプトにおける多くの遺跡に関しても同様のことが言えよう。ミット・ラヒーナにはプタハ神殿の西広間やメルエンプタハの宮殿、ラメセス2世の小神殿、そして最近発見されたハトホル神殿などがある。スペオス・アルテミドスの岩窟やゲベル・シルシレ、神殿をはじめとするアル=カブの遺跡、レデシェの小神殿、その他数多くのこうした遺跡は、部分的にしか残存していないのだが、もっと研究がなされて然るべきである。
 おそらく誰もが気づいていることとは思うのだが、テーべやヌビアでの観察の結果だけから、新王国時代の建築に関して一般化をおこなうことは非常に危険であり、また間違いを犯しやすい。冒頭に挙げた質間に対する答えは、だから次のように言うことができよう。各地方における、ばらばらにこわされている遺跡に対して、もっと注意を向けるべきである、と。
 再び最初に掲げた主要な遺跡の一覧に立ち戻り、私たちが本当のところ、どれだけそれらについて知っているかを考えてみる。重要な遺構に関してはすべて、ほぼ正確な平面図が作成されており、この図に基づいてわれわれの研究は進められている。しかし壁体がどれだけ残存しているかを詳しく知るために立面図を参照しなければならなくなった時や、あるいは建物のさまざまな部分の相対的な高さを調べるために断面図を見なければならなくなった時、この種の図面が揃っているのはごく限られた数の、非常に有名な遺構の場合だけであることがすぐさま了解される。石材の組積方法について、屋根石の置き方について、また出入口や窓の細かな部分について、さらに詳しいことを確かめたいと思っても、今まで出版された文献からそうした記述を実際には拾い集めることができない。ところがいま挙げた分からない点とは、建築を専攻する学生ならまず第一に尋ねるような、もっとも基本的な事項なのである。
 古代の建築家たちがどのような方法で建物群を配置していったのか、あるいはなぜある部分においては最初の部屋の並べ方を変更しているのか、仮にこうしたことを疑問に思うとするならぱ、その先は困惑するばかりであろう。事実、詳しく調査をおこなう機会を得て私が観察したすべての建築遺構のうちで、その建造過程において変更がおこなわれた痕跡が見受けられなかったものはひとつもなかった。なぜこのような変更がなされたのか、それを知ることは非常に困難である。私たちは未だ、古代エジプトにおける建造者たちの意図というものを理解できていないからである。
 近い将来、ここで述べてきたような状況が変わっていくであろうという希望を与えてくれる調査研究が、ドキュメント・センターやカルナックのフランス・エジプト合同センター、その他少数の研究所などによって進められてきている。しかし、他の研究所も加わってこれからおこなわれるべきことはまだ山のように残されている。厳密なエジプト建築史の考証に取りかかるよりも前に、少なくとも主要な建築遺構すべてに関してだけでも、信頼できる基本的な記録資料が確定されなければならない。
 以上によって、最初の質問に対する答えについては、ほとんど言い尽くされたといってもよいであろう。けれども今しがた述べてきた事実をよく理解してくれたひとは、別の新たな疑問を抱くかもしれない。浮彫や絵画や文字などの研究に比べ、エジプトの建築についての研究がないがしろにされてきたのは、どのような理由によるものなのだろうか。なぜそれが前の世代において指摘され、正されなかったのだろうか。おそらく私自身が携わっている仕事が災いして、私がこれから記したいと思うその答えは偏ったものとなるであろう。にも関わらず、幾人かのエジプト学者たちには、私の見方が完全に間違っているわけではないということを納得してもらえるようにも思う。
 古代エジプトに最初に強い関心を示したのは旅行者であって、彼らは物珍しさに誘われてこの国へやってきた。鋭い観察眼を備えていた者が多く、彼らが見た奇妙なものについて文章を書き、またかなりうまく描いた絵をそれに添えることもしばしばあった。その後には、もっとうまく文を書いたり、描画してみたいと思う者たちが続々と出現した。ナポレオンによる調査はもっぱら軍事的な意味をもつものであったのだが、エジプトに関する大部の報告書を上梓するために経験豊富な科学者が雇われて同行し、古代の遺跡と並んでその当時の様子も同時に記録された。前世紀初頭においてエジプトを歩き回った多数の旅行者の中には画家たちも交じっており、さまざまな視点から眺めた建築遺構の素晴らしい描写をおこなった(註1)
 だが1822年のシャンポリオンによる象形文字の解読を契機として、新しい動向が広がっていった。主たる興味の対象は建築遺跡そのものから、その壁面に記された碑文や画像へ転じられた。シャンポリオンの調査記録では、建築遺構に関しては簡単なスケッチと印象の走り書き以上のものを見ることができない。至極当然のことではあるのだが、彼の興味は碑文にあったのであって、驚くべきことにそれらの碑文に関しては彼はすでに正確な解読をおこなっている。レプシウスによる調査は、建築遺構そのものに対しても碑文と同等の関心を寄せた19世紀における最後の企てとなった。
 シャンポリオン以降、古代エジプトの研究は、象形文字の意味を探ることや、この奇妙な文字の連なりによって構成される文法上の規則を確定することに頭をいっぱいにした「文字に通じた人々」、すなわち、机の前に座る言語学者たちの手にだんだんと引き渡されていくようになっていった。教鞭を執る傍ら、彼らば博物館の館長などの職に就き、本来は遺跡と強い連関性を有しているはずの遺物を単独で存在するものと見なして、館内に収蔵されているその貴重な品を研究することに明け暮れた。
 私は彼らの挙げた業績を過小評価するつもりは少しもない。エジプト学が科学の一分野として成立するために必要な強固な基盤を、彼らは初めて築いたのである。言うまでもなく、彼らは発掘調査の主導者としても活動をおこなった。あるいは少なくとも、調査の指針は与えた。しかしその結果、文献学上の研究のためにさらに多くの碑文、収集のためにさらに多くの遺物が求められた。建築遺構は特に不運な立場に置かれていた。それらがただあまりにも大き過ぎたために、持ち帰ることができなかったからである。図面は、そして後には写真さえも、遺構に代わってその全体像を伝えるものとしてはいささか貧弱であることが判明した。それゆえ今日の美術史や絵本では、建築そのものについては簡単に触れるだけで終わったり、大雑把に述べられるだけなのであって、次いですぐさまそこに付加された装飾や彫塑術、浮彫、絵画などに関する事細かな記述に移るのである。
 特殊ないくつかの事例を除外するならば、発掘調査における新しい動きは19世紀が終わろうとする頃にようやくうかがわれるようになる。ペトリー、ボルヒャルト、ライズナー、そしてカーターといった人々がその先駆者となった。ライズナーを除き、今挙げたすべての者たちはエジプト学と出会う前には、いくらか異なった仕事に携わっていた。それらが後にどのように役立つことになるのか、それを個別に論じることはここでは控える。彼らの発掘方法については、いろいろな意味で現在でもなお模範的なものと考えられてはいる。しかし彼らのおこなった発掘調査にあっても、いかに「旧態依然のエジプト学」に囚われていたかは、彼らの出した本によって一目瞭然である。資金的援助の見返りに発見された遺物を要求する出資者がおり、彼らのおこなった観察結果はすでに確立されていたエジプト学における考え方の網の目の中に、強引にでもぴったりと納まるように説明されなければならなかった。こうしたことにも関わらず、上記の人々のなした発掘調査、またここには取り上げることをしなかった数多くの人々の調査は、古代エジプトに関する一般的知識をかなりの程度にまで推し広めたのである。エジプトにおける発掘に彼らが導入した新しい考えや方法は、これを適用しようとする若い世代に影響を及ぼした。が、本当には理解されないまま調査がおこなわれることもないではなかった。実際の発掘調査に備え、彼らが大学で励んだはずの修練は結局、実を結ばなかったのだが、これは今日でも役に立っていない。なぜなら大学でなされているエジプト学の講義においては、碑文や遺物に重きを置く傾向を未だなくしていないからである。
 だが他にも、石の上に文字として刻まれているわけではなく、また博物館の展示品には不向きではあるが、貴重な示唆を与えてくれるものが存在する。崩れ落ちた泥煉瓦や石材片、ごみや風で運ばれてできた砂の堆積層、あるいは前の発掘者たちが残していった排土の山の中にさえも豊かな情報は眠っているのであって、読み取る術を心得た者を待ち受けているのである。私は発掘に際して注意深く観察を進め、すべての状況証拠を取り集める。粉砕された石像片の出土位置や再利用であることが判明した断片の場所などから、結論を導くことができるかもしれない。建築本体から外された石材にたとえ文字が記されていなくとも、工具の残した痕跡からはどのような技術で、あるいはいつ頃に仕上げられたのかを看てとることができよう。これらの細部における独特なかたちは、もともとそれらが建築のどの部位に属していたかを判断する際に有効となるであろう。もし建物がほとんど完全に失われている場合であっても、いくつかの隅部では廃棄物の層がなお残存しているかもしれない。そしてその中に含まれている土器片より、いつ頃からその部屋が徐々に使われなくなって後代の占拠者と思われる人間たちが再び住みつくようになったのか、最終的な倒壊はいつ頃で、誰の手によったものなのかを推測することができよう。このような目立たない痕跡からは、文字によって記された資料と同じほど過去におこなわれた物事についてたくさんの、そして明瞭な示唆が与えられる。しかしながらそのためには、それらについて注意を向けるべきであることを知っており、正しく解釈することができるまでに経験を積んだ研究者が必要となる。さもなければ多くの貴重な情報は失われ、誤った記録だけが残り、さらに悪いことには、エジプト建築史の展開を追う試みにおいてそれが間違って用いられることとなろう。
 ここではエジプト学には情けをかけることにして、ナイル渓谷とは全然関係のない一例を挙げてみたい。中東のある場所で発掘調査をした考古学者が、献酒のための容器を両方の端部に備えている巨大な周壁の一部を、掘ったトレンチのひとつで発見したと報告をおこなった。メソポタミアの建築を知っている者であればそこに掲載されていた写真を一目見て、この考古学者は大きな建物の敷居を掘り当てたのであり、実際には、重要な神殿遺構のうち最後に残った入口部分の敷居の両側に、扉の軸受穴が備えられている光景なのだとすぐさま了解したであろう。
 ちょうど文献学者がその始めには文章の読み方と訳し方を教わるように、発堀現場に来た学生は彼らが観察をおこなった結果をどう解釈するかを教わらなくてはならない。彼らは見ることさえ教わらなくてはならないのである。これらは些細な例に過ぎない。
 かつては石造の記念建築だけが研究の対象に値すると信じられていた。発掘中に見つかった煉瓦造のものは、それゆえ例外なく取り退けられた。現在私たちが、広々ときれいに清掃されたただ中にぽつんと塔門が建つさまや、周りを取り巻いていたはずの、欠かすことのできない煉瓦造による諸室が失われている小神殿などを目にするのはこの理由による。これらの遺構を理解しようとしても、その当初の姿を推定することはほとんどできない。
 煉瓦や石材はすでに遠い昔から、他所に別の建物を建てる際、その建築材として用いるために持ち去られた。新王国時代の建築のうち、最も残存状況の良好な例においてさえも、重要な部分が失われている。本来はどのような外観を持っていたのか、どのように機能していたのかを思い描くには想像力を必要とする。復原図としてそれらを示そうとした努力はほとんどおこなわれなかったが、しかしこの作業によってのみ、遺構の現状からうかがわれる様相と復原図であらわされるもとの姿とが、どれほどかけ離れているかをしばしばはっきりと視覚化してくれるのである。
 現在の進入路を歩いて近づきながら、カルナック神殿のトトメス3世による祝祭殿を眺める時、この建物の外観は角柱の列で構成され、その間には出入口があり、その上には出入口と対応した数の窓が取られているといった印象が与えられるが、これは大きな誤りである。建造された時にはこの建物は高い壁体によって完全に囲まれていたのであって、広い列柱広間はただ、中からしか見ることはできなかった。この建築家は明らかに、角柱による周柱式列柱によって広大な中庭を囲み、またテントの支柱のかたちをした円柱によって支えられた屋根でここを覆うことを思いついたのである。その発想は、露天において仮設される日よけに由来するものであった。
 カルナック神殿のプタハ小神殿の前には2本の柱を備えたポーティコが付されており、これが小さな中庭に面している。ポーティコのコ一ニスは同じ高さで中庭の側面の壁体の上へ続いているが、北側の壁体の場合では高く作られており、またコーニス上には空隙が作られている部分がある。近寄って見ることができるならば、この空隙の両側には窓格子を嵌め込むための溝が切られていることが分かるであろう。さてこの壁の窓は、中庭にかつて屋根がかかっていたと仮定した時にのみ理にかなう。後代におこなわれたこの改変について、神殿の碑文は何も述べてはいない。しかし壁面に記された後代の手による碑文が特殊な配列を見せているという事実から、それが証明されるのである。
 何人かの文献学者は未だに、建物のどこに文字が刻まれているのかに注意を払わぬまま象形文字の文章を本から写し取っており、実際の建造物において該当する部分にはどれだけ字間や行間が空いているのかということも考慮せず、文章の欠けた部分に当てはまる言葉をあれこれと探している。
 古代エジプト語の辞書においては、建築用語が誤訳されているものもいくつか見られる。これは古代の建造者の考え方や、彼らがどのようにそれらを表現したかに充分な注意を払わないで、古代の文章から現代における用語の訳を推論したからである。もし「基礎から屋根まで30キュービット」の高さの建物、という意味で「基礎から上まで30キュービット」の高さの建物、とエジプトの石工が言いあらわしている場合、そこには実際上の違いがまったくないようにも思われるが、しかし「エジプト語辞典」に見られるように、ここから古代エジプト語では「上」をあらわす言葉に「屋根」という意味も含まれていると結論することは間違いである(註2)
 エジプト学者は建築に関わる疑問にはほとんど注意を払わないので、新王国時代の文書で最も頻出度の高い、宗教建築を指し示すふたつの単語、「神殿」(字義通りでは「神の家(註3)」)と「千年の館」を、古代エジプト人は果たしてどのように使い分けようとしたのかということを考えもせずに、現代語に訳しているとしても驚くには当たらない。ふたつの種類の神殿は、エジプトの宗教を研究する際に考慮に入れておかなければならないような宗教上の異なった機能を有していたと考えるのが妥当であろう。そう見なした方が、これらの建築をさらに深く理解する上でも役立つと思われる。
 もし私たちが古代エジプト建築に関する本を開いた時、「建築」という言葉には著者によって異なった含意が与えられていることにすぐに気がつく。ある程度共通した見解にまで辿り着くことができれば便利であろうが、私には満足な定義ができないことを告白しなければならない。それでもさまざまに言われているその意味をざっと跳めわたし、用語の間に意味の境界線を引いていくつかの誤った用法から免れることは少なくとも、たぶん私たちにもできるであろう。
 建築に際しては確かに建築のための技術が駆使される。これはほとんどすべて石工の持つ技能に負うものであり、技術に関する彼の知識は私たちの研究に欠かすことはできない。だがこの主題を扱った文献には、正確には「古代エジプトにおける組積法」(註4)という名が与えられるべきである。それらは建築を教えてはくれない。建築は通常、他の職業や技術と比べて何か崇高なものであると考えられている。建築は諸芸術と同じほどの位置に置かれており、また美術はしばしば、裕福な階級だけが手にすることのできる一種の賛沢品とも理解されている。もし古代エジプト美術に関する文献(註5)に目を戻すのであれば、このような見方は正鵠を射抜いていると言わざるを得ない。それらは王宮や神殿、ピラミッドやマスタバ、王の墓や貴族の墓などの一部分を示した写真を掲載してはいるが、もっと貧しい階級の住居については何も語らないのである。社会階級や富と建築をほとんど自動的に結びつけることは、さらに他にも悪影響をもたらしていると私は考えている。
 この種の文献を点検すると、それらは記念建築について概要以上のことを伝えていないという点も明らかになる。実際に扱われているのは単にそれらの装飾のみである。装飾は建物の外面に施された何か別のものなのであって、建築の実質を示している訳ではない。多くの人々が美術をもっぱら絵画や彫刻と緒びつけているために、彼らは建築をそこに含めて良いものかどうか迷っている。「古代エジプトの美術と建築」(註6)といったような題は、そのような区別を表現しようとしたのであろう。どのような倍であれ、建物ははっきりした目的のもとに建設される。そのためにおそらく建築は、応用芸術や主流でない美術と姻戚関係を持ち、ちょうど図体だけは大きい姉妹といったものに当たると見なされているように思う。
 人間には住まいが必要である。原始人でさえ、身を守ってくれるものを捜し求めた。自然が彼に対して洞穴を用意してくれなかったところでは、彼は自分の手で人工的に住まいを作らなければならなかった。だが人間は、そうした行動をおこなう際には決してひとりではなかったのであり、私たちはここで人間が小屋を作ることと鳥が巣を作ることとの間の明瞭な違いを区別するために、動物の本能的な行動にも目を向ける必要があろう。人間の建築行為と動物の巣作りとの間には、もちろん明らかに異なった違いが存在する。人間による建築という行為は、半ば気違いじみた展開を遂げたのであって、人間は自分自身のためや彼の食料のため、あるいは家畜のための住まいだけではなく、エジプトでは特にそうであるのだが、おそらく本当のところは造らなくても実際には差し支えないはずの死人のための住まいや神々のための住まいをも建造した。これらを何故建てるのかということを、私たちは精神病医によく聞いた方がいいのかも知れない。
 他の視点から眺めてみよう。建物を建てる一方で、人間は彼を取り巻く周囲の環境を秩序立てようと試みる。彼は必要な事象を見きわめ、彼の多様な活動、あるいは彼の蓄えや家畜に対し、各々の価値に応じて見合った素材や外見的な表現を与えながら、はっきりと空間を区別し、割り当てなければならない。同様に、だがさらに高度な次元でおこなわれるのであるが、共同社会は王宮やピラミッド、あるいは神殿を建てることによって、非実体的な概念をこれら建物の内に視覚化し、その優位性を表現するのである。
 私はこうした主張をおこなうためにはさらに詳しく述べるべきであることを充分に承知している。けれどもここでは手短かにある種の定義を簡単に紹介するにとどめよう。人間の組織的な努力によって得られるものが「文明」であり、この組織を決定づける決まりごとは「文化」と呼ばれる。「建築」は、人間を取り巻くこれら有形無形のあらゆる決定的な決まりごとを指し示すものである。従来の方法を墨守する美術史家から見れば、この定義は建築、絵画、彫刻までをも包含するものであるように思えるであろう。私もこうした考えを格別強調したいわけではない。
 しかしこのような観点からは、1938年に出版されたもうひとつの本、E. ボールドウィン・スミスによる「文化の表現としてのエジプト建築」(註7)-----私の考えでは、今なおエジプト建築に関する最良の入門書であると思われる-----を理解することが、よりたやすくなるだろう。平明でわかりやすい文章によって、作者はエジプトにおける建築の成立と展開を導く原測を、読者に伝えることに成功している。
 ほぼスミスと同じ頃、ヘルベルト・リッケはよく似た考え方を経て彼自身の研究を独自に開始した(註8)。彼がおこなった推論が、スミスのものと非常に似通っている点は驚くべきことである。けれどもふたりの著者の間には、基本的な相違が存在する。異質の文化を扱うということをスミスばただ漠然としか意識しなかったのに対し、リッケはエジプト建築の形熊、記号、象徴などが私たちの属する文明で見られるものとまったく異なっているという事実や、あるいはそれ故に私たちの住む西側の世界において受け入れられていたり、広まっていたりしているしきたりに基づき、解釈したり判断したりすることができないであろうという点を理解し、また考慮に入れていた。彼によれば、エジプト美術の記念建造物が当時生活していた人間に伝えなければならなかったものとは、異質で遠い過去のものとなったある種の言語によって表現されていたのであり、それを別の言葉に言い換えるよりも、むしろ解き明かすことが必要なのである。
 このことは、建築史あるいはこれを含めたエジプト美術史において、個々の形態の意味や、また相互に深く関連しあう正用法と統合法を確定するための膨大な作業が、今なお目の前に立ちはだかっているという状況を示している。従来の方法に忠実な美術史家はこの点を必ず否定するであろうが、エジプトの彫像によって表現されている人間はいくらか硬直しており、また魅了されるというわけでもないのであるけれども、しかしそれにも関わらずそこには親しみ深いものがある。墳墓に描写されている彼らの活動や職業は変わった方法であらわされているが、規代における子供向けの本と同じくらい私たちには分かりやすい。建築に関してだけ、ある違和感が感じられるのであり、美術史家ができるだけここに触れることを避けようとしてきた理由は、あるいはそこに求めることができるのかもしれない。
 エジプト建築の形態を解き明かそうとする通常の試みは、成功せずに終わっている。いくつかの後の建築においては、ギリシアとエジプトの形態が奇妙に混交されているのだが、私たちにとって「ロゼッタ・ストーン」となることは叶わなかった。柱のさまざまなオーダーの用例に関して統計をとることもまた、間題を明らかにするには程遠いであろう。注意深く観察することが、私たちには要請されている。
 幸いなことに、スミスとリッケはこの問題と向き合うばかりでばなく、それを解明する最初の手がかりをも私たちに与えてくれた。彼らはジョセル王の遺構における初期の石造建築が、葦や木や泥で作られたそれ以前の聖所を「真似」したり「模倣」したり、あるいはこれを「改作」したりしたのではなく、実際にはそのような建物を彫った模型なのであって、さらに長い年月にわたって残るように石から刻み出されたのだという点を明らかにした。しばしば見過ごされるのであるが、建造の準備のためにおこなわれた特殊な技術によってこの理論は証明される。本当はひとつの石材が望まれたのだが、その大きさでは取扱いに苦慮したであろうから、彫刻のなされる量塊は石材を組み上げて作らねばならなかった。質の劣った石材が中心部において用いられたのは、次のことと関連するであろう、外面近くの石材だけは特に良質のものが選ぱれ、すべての継ぎ目はぴったりと合わさるように入念に仕上げられなければならなかったのである。しかしながら全部の量塊が積み上られるまで外側の仕上げは荒いまま残されたのであり、その後再ぴ全体の仕上げがなされた。こうして建築の形態は、ちょうど彫像が単体の石材から刻み出されるように、積み上げられた石塊から彫り抜かれた。
 後期王朝時代において建築は大きく変わったにも関わらず、このような初期の建物でうがわれる、ふたつの特徴だけは、決して変えられることがなかった。建物の荒い石塊を積み上げ終わってから外側を仕上げ、また同時に彫刻するといった今述べてきた施工順序と、エジプトの神殿の外観を必ず「太古の時代における神の家」(註9)に似せようとしたことの2点に関しては、変わることがなかったのである。
 時代の推移に従ったエジプト建築の展開を見る際には、他の視点から考察することが必要である。彫刻と建築との明らかな相違はすぐさま理解されよう。彫刻では外側だけを持つ量塊が造形されるが、建築では必要な諸室が得られるように中空のある量塊が造られる。もっとわかりやすく説明するため、外側からは塊に見えるが内側はものが入れられるように中空となっている容器になぞらえることもできるであろう。内部の中空と外側の量塊性とが相補的な関係を有しているのは、物質的な外殻によってのみ両者が成立し、また分け隔てられているためであり、この外殻の材料や作られ方によって容器のかたちそのものが大きな影響を被る。さらに内側と外側の面は、両方の側にとって重要な意味を有する開口部(建物における戸口や窓)でつながっている。もしこれらの構造をはっきり理解しようと努めるならば、こうした相互の関係に注意深く視線を注がなくてはならない。
 だがこの譬えによって、容器と建築との間の基本的な相違を忘れるべきではない。壷は外側からしか見ることはできないが、建物は大きいので壁や他の建築部位といったものもまた内側から見ることができる。建築家によって内観あるいは外観が特に留意されたのかどうかを知ることは、建築を評価する際には大きな意味を持つであろう。
 上述の譬えから私たちが得るものは他にもまだある。例えば容器の中身をどうにかして明記することが求められるかもしれない。中身を記した表示を貼りつけることで済ますこともできるが、ある場合には容器の特殊な形態を選んでこれをおこなうこともできる(註10)。ミルク入れ、コーヒー・ポット、ティー・ポットは、液体を入れるものという点では皆同じであるけれども、しかし私たちの文明においては動かし難い慣習があるので、飲みものを取り違えてしまうということがない。これらのポットのかたちにどれだけ多様性が与えられようとも、ミルク、コーヒー、紅茶のための異なった容器のかたちは常に峻別することができる。外側のかたちから中身を言い当てることは、建築の分野においても可能である。でたらめな19世紀や20世紀が到来する以前には、ギリシアの神殿と銀行、ゴシックの教会と展示場とが混同されることなどあり得なかった。さまざまな文明において、建築の形態に付与された意味をはっきり伝えるためにどのような慣習が用いられたのかを明らかにすることは、建築史家がなすべき仕事のうちのひとつである。
 今まで述べてきた考察をエジプト建築に当てはめた時、ふたつの教訓を得ることができる。
 私たちは浮彫りされた図や文字を、ある種の華麗な装飾のように建物やその各々の部分に見境なく刻まれたものとみなすべきではなく、むしろ建物の中身やその部屋の具体的な用途を告げている表示のようなものとして考えるべきである。こうした立湯からおこなわれた少数の洞察力に富む既往の研究は、この見方が正しいことを立証している(註11)
 建築の形態はまた、建物やその各部が持つ特殊な意味とも関連していた。古代エジプト文化固有の特殊な慣習に基づいたそれらについての解釈は、私たち自身の世界における美の体験から推論をおこなうことはできないのである。
 今まで述べてきたことは、私たちがエジプト美術をただ常識的に眺め続けたり、また私たちの近代文明から生まれた基準や方法に従って研究したり判断をおこない続ける限り、単なる美学的な疑問に対する解答や、あるいはエジプト美術がもたらしてくれる他の充足感だけしか、その努力の見返りとして得ることができないであろうという点を明らかに示してくれるはずである。私たちの本当の課題とは、これとは違った筋道から提起されなければならない。エジプト美術がその作り手たちに伝えたものとは何だったのか? この答えを見出すことは確かに難しい。新しい観点を探すことを試みる必要があり、また新しい研究方法が展開されなければならない。私たちには私たち自身の限界を越えていくことが、強く要求されているのである。

註1:資料保管所や榑物館の図書室に収められ、B. Porter and R. L. B. Moss: Topographical Bibliography of Ancient Egyptian Hieroglyphic Texts, Reliefs and Paintings (Oxford 1927-52, second ed. 1960)の著作で参照がなされている貴重なそれらの大部分は未公刊のままである。これらは研究者が直ちに閲覧できるようにすべきである。失われ易い多くの示唆がそこに含まれているのだから。
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註2:A. Erman and H. Grapow: eds.: Woerterbuch der aegyptischen Sprache (Leipzig and Berlin 1926-63) V, pp. 265, 14; cf. V, pp. 271, 18.
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註3:W. Vycichlは私に、この言葉の後期におけるコプト語での用例では、二番目の構成要素nt_rは通常の名詞ではなく、女性形の動名詞であることを教えてくれた。私にはこのニュアンスをうまく英語で伝えることができない。
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註4:Somers Clarke and R.Engelbach: Ancient Egyptian Masonry (London 1930). Flinders Petrie: Egyptian Architecture (London 1938)もまた、もっぱら建築技術について扱っている。
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註5:古代エジプト美術を扱う数多くの文献は、それぞれ適切な観察に基づいて記してるのだが、ここではHeinrich SchaeferによるVon aegyptischer Kunst, 4th rev. ed. (Wiesbaden)だけを特に挙げておきたい。すでに時代遅れとなってしまった記述も散見されるが、にも関わらず今日においても、エジプトの芸術家たちのおこなった表現方法を体系的に把握しようとした唯一の著作となっている。
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註6:W. Stevenson Smith: Art and Architecture of Ancient Egypt (Harmondsworth 1958)は終始、文章で記述する方法によって建築を取り扱っている。同様のことは、全3巻から構成されているAlexander BadawyによるA History of Egyptian Architecture (Cairo 1954; Berkeley and Los Angeles 1966 and 1968)にも言えよう。後者はほんど徹底的に記念建築物を拾い上げ、時代の推移によって変化する建築形態について指摘をおこなっている。ただし著者は、そのような変化がなぜ起こったのかについて説明しようとはしていない。私見では、それに答えることが美術史の本当の役割であるように思えるのだが。
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註7:E. Baldwin Smith: Egyptian Architecture as Cultural Expression (New York and London 1938).
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註8:Herbert Ricke: Bemerkungen zur Baukunst des Alten Reiches I. Beitraege zur aegyptischen Bauforschung und Altertumskunde 4 (Zurich 1944).
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註9:註3を参照。
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註10:以下の例は、私の以前の師である建築家・美術史家Peter Meyerがチューリッヒでおこなった未公刊の講義に負っている。
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註11:Dieter Arno1d: Wandrelief und Raumfunktion in aegyptischen Tempeln des Neuen Reiches. Muenchener Aegyptologisches Studien 2 (Berlin 1962); Erich Winter: Untersuchungen zu den aegyptischen Tempelreliefs der griechisch-roemischen Zeit. Oesterreichische Akademie der Wissenschaften, Phil.-hist. Kl. Denkschriften 98 (Vienna 1968).
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 筆者紹介
 G. Haenyはスイスのエジプト建築調査・考古学研究所の所長を務め、エレファンティネの発掘調査に携わったことで知られている。Beitraege zur Aegyptischen Bauforschung und Altertumskundeのシリーズではアメンヘテプ3世葬祭殿の発掘調査報告書も執筆した。考古学と建築の両方の教育を受けた人物である。

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