(1997.10.10作成、1997.10.19改訂)
準備中
本書には多数の図版が掲載されていますが、それら全部をこのページにおいて載せることは困難ですので割愛致します。御了承ください。編集上、註についても取りあえず省略させていただきます。
まえがき(R. エンゲルバッハ)
図版目録
序(S. クラーク)
第1章 初期のエジプトの石造建築
第2章 石の切り出し:軟石
第3章 石の切り出し:硬石
第4章 運搬船
第5章 建築の前の準備
第6章 基礎
第7章 モルタル
第8章 石材の取り扱い
第9章 石材の仕上げと設置
第10章 ピラミッドの建設
第11章 床敷石と柱礎石
第12章 柱
第13章 アーキトレーヴ、屋根、排水設備
第14章 扉と窓
第15章 窓及び通風口
第16章 階段
第17章 アーチと重力軽減アーチ
第18章 石造建築の仕上げ、彫刻、彩色
第19章 煉瓦造
第20章 エジプトの数学
付録1 古代エジプトの道具
付録2 本書で触れたエジプトと下ヌビアにおける遺跡
付録3 年代記
付録4 引用文献目録
まえがき(R. エンゲルバッハ)
本書の目的は、古代エジプトにおける石造建造物の築造に付随する問題のいくつかを論じることにある。資料は故ソマーズ・クラーク氏によってこの30年間に作成された建築に関する覚え書き から部分的に抜き出され、またエジプト人に知られていた大掛かりな方法に関する私自身の覚え書きからも、幾分か抜粋されている。
古代エジプトにおける建造方法に言及している文献はかなり豊富であるように想像されるかも知れないが、しかしこの見方は事実から程遠い。建築の「様式」についての素晴らしい著作は存在するが、採石や石材の仕上げ、モルタルの用途、古代における基礎の質といったもの、さらに言うならば王が神殿を注文した時から、その表面が仕上げられ、彫刻が施され、彩色され、王がその神殿を神に捧げるまでといった、古代の建築家によって踏まれた工程のような面白くもないことを細かく述べている有用な書物はまだ著されていない。こうしたさまざまな工程が研究されるにつれ、エジプトの建造方法は古典時代や中世、近代の建築家のそれとはかなり異なることが明らかになってきている。
私たちはこの主題すべてを網羅するつもりはなく、以後の頁はむしろ非常に広範囲にわたる領域の単なる予備的な概説とみなすべきである。実際いくつかの章、石材の仕上げ方法や、古代における石造方法の著しい特徴をなす「斜め継ぎ」の説明をおこなっているようなところは、疑いもなく仮説にしか過ぎず、将来なされる研究によって正しく変更されるべきであろう。これはピラミッドの建造に関する問題についても同時にあてはまり、第5王朝より前のピラミッドに関しては実際、どれも周囲の堆土が完全に除去されていないため、残念なことに正確な資料が乏しい。
フリンダース・ペトリー卿は去る1883年に人類学協会でおこなった講演 において、他の諸問題とともに石材の仕上げと加工に関する古代の技術の著しい特性を多数挙げ、それらの多くが彼には未だ説明がつかない点を認めた。その時彼を困惑させた特徴のうち、現在までにおいて適切な説明がなされたものはおそらくひとつも-----少なくとも活字化されたものは-----ないと言うことができるであろう。その理由は簡単である。エジプトで調査をおこなう発掘権を持つ隊はほとんどの場合、資金を援助してくれる団体のために美術品を獲得する必要性を第一に念頭に置かなければならないのであり、この点でピラミッドや神殿の発掘は何ももたらさないために不評なのである。非常に重要な調査地であるサッカーラやダハシュールからはすでに多くの収穫が産み出されているが、その発掘のため、適格な学者たちにエジプト政府が資金援助をおこなえるようになったのはつい5年前のことである。
建造作業や工学技術、あるいはそれに類したテーマに関する知識を持ち、古代の建造技術を学ぼうと志す者は今まで、建造物の詳細部に関してだけでなく、エジプト人たちによって用いられた方法や道具について、また彼らの数学、天文学や他の諸科学の知識について、何がすでに明瞭に知られているのか、正確な資料を欠くという大きな障害を負ってきた。その結果として、石材が運搬され持ち上げられて建物が建てられるその方法に関し、多くの有能な建築家や技術者が論述をおこなってきたのであるが、衆目にまったく触れることのない夥しい著作の中からいちいち見つけ出すことなしに、すでに知られている事実がもし簡単に調べられるようになっていたならば、それらは決して書かれることがなかったであろう。以下の頁が役に立つよう私たちが望んでいるのは、まさにこの点に関してである。
私の友人であり同僚であった彼が、死の直前の数か月の間、卒中のためほとんど口がきけなくなり目も見えなくなって、彼や私の資料を最終的に校閲することを手伝ってもらえなくなったのが非常に残念である。実際、ほとんどすべて私の覚え書きをもとにしたいくつかの章を、その内容を彼にまったく検討してもらえなかったまま、印刷に回さなければならなかった 。
私の部局のセシル・ファース氏とA・ルーカス氏、またハーヴァード大学・ボストン博物館合同発掘隊隊長のG・ライスナー博士からは貴重な助言とご教示をいただき、心から感謝申し上げる。お教えいただいた点に触れた場合はその都度明記した。エジプト測量局のJ・ヒューイット氏には、私たちの多数の図面を出版のために整えていただいた。教授フリンダース・ペトリー卿には原稿の段階でほとんどの分量を読んでいただき、多数の非常に有益な御教唆をいただいた。最後に、考古庁長官M・ピエール・ラコー氏にはカイロ博物館やサッカーラの多くの遺物の写真を撮影し使用することを御許可いただいた。心より御礼申し上げたい。
R. エンゲルバッハ カイロ、1929年
序(S. クラーク)
幸いにも最近では、ある国の研究をおこなうに当たってそれが古代であれ近代であれ、その地理を書き記したり、王たちを列挙したり、内政を検討したり、またその国が隣国とどのように争いごとを繰り返したかを物語るよりも、もっと多くのことがなされねばならないという点が理解されてきた。私たちは例えば、その国の民たちが達していたかも知れない文明の度合いを推し量ることができるという、計り知れない重要性を忘れるべきではない。
ある人間たちの文明についての知識を得るための最も有効な手立てとは、その芸術や技術を探ることである。エジプトの芸術並びに多くの技術は、大勢の、あるいは少数の有能な学者たちにより幅広く研究されてきた。後者の中で最も顕著な事例、すなわち建造技術に関しては、しかしながらその価値に見合うような注目といったものがなされてきていない。これは欠くことのできない建築的・技術的知識を持ち、この研究に充分な時間を割くことができる者がほとんどいないことに起因しているように思われる。多領域にわたるエジプト学のどの領域においても資料は得ることができず、必要な資料-----あちこちに断片的にしかまとめられていないもの-----を集めることのできる数多くの遺構を、個人的に調べる以外に方法はないことが理由となっている。
古代エジプト建築の極めて因習化したもの-----単調と言えるほどに-----を全て説明する前に、いくつかの要素を考慮に入れておかなければならない。例えば、少なくとも後期までは、石切場はあらゆる人が利用できるような状態にはなかった。エジプトの世界では全体として、非常に限定されたしきたりを除き、石を用いて建造をおこなうことは許されなかったように思われる。採石や建材の取りまとめは国の手によってなされたようである。それ故に作業の方法が一度確立されるや否や、どの官僚制においても見られるような保守的な制度へとそれ自身が傾向を促進させ、固定化がなされたのは自然の成り行きであった-----それがあまりにも徹底的に固定化されたため、最も初期の時代からローマによって占領される時代までの約3500年にわたり、同じ方法によっておこなわれた同じ事象を、私たちはエジプトにおいて見ることができる。
建造方法の定型化を強く促したに違いない要因が別に存在する。例えば盛んに建築活動をおこなった他の文明国からの地理的な孤立であり、西欧の諸民族に大きな影響をもたらすような建築の健全な競争意識が奪われてしまった。さらに重要な要因は、建材の多様性を欠いた点であった。エジプトの国の北では石灰岩が産出され、また南では砂岩が産出されたが、双方とも酷似した方法で加工や利用がなされ、取り扱いのきわだった相違は必要とされなかった。花崗岩や珪岩もまた用いられたが、しかし採石や仕上げが難しかったため、その量は少ない。エジプト建築史において、シルシラの砂岩採石場が頻繁に利用されることとなり、加工の容易な石材を用いてかなり大きな空間を柱間に取ったり、そこに屋根を架けわたすことが可能となった時が、唯一の転機となったように思われる。
私たちがエジプトで建築の細部意匠や組積方法の特質に関して見てきたものは、どちらかと言えばわずかしかなく、入手の可能な建材が限られたことによって石工たちが強いられた、特定の場所での特徴として説明されるものもあるだろう。これは私たちの身近で見られる数限りない多様性-----遭遇する困難を克服する独創的で見事な方法の、ありとあらゆる種類を生み出してきた多様性-----と、どれほど異なっているのだろうか。イギリスをひとつの例としてとってみるならば、東の地方において石材は滅多にとれないが、燧石(すいせき)ならば豊富である。私たちの先祖たちはこれらの材料から豊かな発想をおこない、燧石の壁体と石材の仕上げとの独創的な取り合わせを急速に発展させ、イギリスの当地の建物に目立って個性的な性格を与えた。またサマセット州やその近隣の地方では良質の軟らかな石材に恵まれており、この材料と完璧に適合してはいるが、東の諸地方とは全く異なっている建築細部や組積の方法を見ることができる。これはヨークシャー州で発展したものとも異なっており、そこでは石材が豊富に産出されるが硬いために加工が困難である一方、出来上がったものは非常に壮大で威厳にあふれている。
もし狭い地域どうしを比較することをやめてイギリスとフランスの中世建築の発展を対照させた場合、かなり大きな良質の石材がイール=ド=フランスで多量にたやすく得られた事実により生じているに違いない差異を、数ある相違の中でも特に認めることができる。イギリスにおける中世の教会堂のうち大規模なもののほとんどについてもし組積方法を調べるならば、いかに小さい石材からあのような巨大な建造物が建設されているかを目のあたりにして驚かされる。規模の大きなフランスの教会堂の多くはこれとは異なり、平均的な石材の大きさは少なくともイギリスの教会堂で用いられているものの4倍もある。フランス人は結果として、私たちにとっては考えも及ばぬような驚嘆すべき大胆さで立案と施工をおこない、これらの建物の建造に何の障害もなく取りかかることができたのであった。
多くの国々における建築の発展に大きな役割を演じている最後の要因は、運搬路の存在とそれらの状況である。例えばイギリスでは、ノルマン人の英国征服の後にまもなく教会堂が建てられ始めた初期の頃、人々は大規模な建造物を建てることに意欲的であったのだが、彼らがそれらの建材を運ぶことができるような道が全くなかったために、結果的にはたいしたことはない大きさの石材だけしか用いることができなかった。時代が下るに従って水路が改良され、道-----粗末なものであるが-----もまた造成された。組積方法はこうして改良を促され、石材は遥か彼方から運ばれるようになることが知られる。その結果、建材をより自由に駆使する力を得た石工たちは冒険的な計画に取り組むことができるようになり、最初はとうてい手に負えなかったさまざまな困難が克服されていった。エジプトでは、このような進捗経過は全く見られない。ナイル河は第1王朝以前から良好な水路であったし、これは今でもそうである。
石の切り出し、石材の仕上げ、また壁体や塔門、ピラミッド、柱の組積方法など、古代エジプト人たちの建造技術に関して知れば知るほど、そこに示された特質にうかがわれる奇妙に矛盾し合うものに私たちは戸惑わされる。今までこの世に現れた中で、おそらく彼らは人間の労働力を最も巧みにまとめることのできた者たちであったと認めざるを得ない。また彼らが知っていた道具や彼らが自在に活用した運搬方法を考慮に含めるならば、少なくとも原則としては、仕事を成し遂げる彼らの方法は常に、この上なく能率的かつ経済的であったようにうかがわれる。水路による彼らの輸送力には驚くべきものがあった。神殿のために数千の石材が必要とされた場合であれ、1,000トンの重さを有する単一の石材を運ばなければならなかった場合であれ、船舶を建造する彼らの能力は、彼らに課された要求を完全に満たすことができた。彼らの組積方法のいくつかにおいて、継ぎ目をぴったりと合わせることは決してうまくいっていないのであるが、しかしそのひとつひとつの石材の重さは15トンにも及ぶと思われるものであり、彼らが知っていた機械的な道具というものが、単なるてこ、ころ、そして巨大に築き上げた盛り土の利用だけであることに気づく時、私たちは大きな敬意の念さえ抱いて彼らの建ち上げた壮大な建造物に見入るのである。ところが他方では、基本的に重要だと現在では考えられている問題、例えば「破れ目地」の必要性や良好な基礎の有用性などに関し、彼らが浅い見識しか持たなかったことにはしばしば同じように驚かされる。基礎に関して彼らが顧みなかった事実は、テーベに連なって建てられた第17王朝から第19王朝の葬祭殿において顕著に示されている。基礎を無視したためか、あるいはナイル河の河床が漸次上昇することを見過ごしたためか、葬祭殿が石工たちの粗雑な仕事に起因する崩壊に至るや否や、その時代に在位する王は前の時代の神殿から石材を持ち出した(そこに奉られている王に対して彼が特別な敬意を抱いてなければ)のであって、彼の建築家たちはまた、それまでの建築家たちのように組積方法や基礎、そして敷地の選定に関して全く同じ過失を犯し、数年のうちにも何が真新しい建物に避けられない宿命として及んでくるだろうかということを伝える、彼らの目の前に建つ先例をことごとく無視した 。エジプト人たちの「半ペニーの価のタールのために船を台無しにする(ささいな経費を惜しんでものごとを台無しにする)」傾向は、彼らの仕事におけるほとんど全ての段階に認められる 。彼らの壁体は通常、単なる2枚の組積造の被膜から構成されており、その間隙には荒く仕上げられた石材や、あるいは割った石塊さえもが充填されるのであるが、彼らはしばしば-----少なくとも新王国時代においては-----意味のない柱の半鼓筒を仕上げ面に用い、最良の場合でも決して堅固ではなかった壁体の構造形態の欠陥をかなりの程度、助長している 。半鼓筒がしばしば用いられたラメセウムの倒壊はほとんど全て、この種の誤った仕事によって引き起こされた。間違ったこの節約の仕方を当建築物の最終建造段階、すなわちアーキトレーヴや屋根版の据えつけの仕方において見ることができる。そこでは特に用心しなければならないどのようなひどい欠陥が起こったとしても、不思議ではなかったであろう。
エジプトの組積方法はクフ王の時代に最高度に達し、その後は建築の新たな形式が発展したものの、建造方法には進歩がまったくなかった。組積方法の質は大雑把に言って、低下していくばかりであった。
第15章 窓及び通風口
エジプトにおいて陽光を取り入れる窓は、クリアストーリーや腰壁が一般的になる新王国時代まで、建築で果たす役割は比較的小さかった。光が取り入れられるのは主として戸口からであった。
エジプトの建築でどの時代にも用いられた窓の最も基本的な形態は通常、屋根と壁との合わせ目のちょうど下面に、神殿内に向かって開けられた狭い隙間となっている。これらの隙間は非常に高位置にあるため見通すことはできず、また非常に狭いので屋根に立つ外の者が内部を覗くこともできない。最も初期に属する類例として、ギザにある第2ピラミッドの河岸神殿(「スフィンクス神殿」)で見られるものがある。壁と屋根版を貫く隙間窓の取る正確な方向は、便宜上によるものと思われる。いくつかは壁だけを切り欠き、また別のいくつかは屋根版だけを切り欠いているが、他のものは両方を掘り抜いている。これらは普通、神殿の側面に開けられているが、しばしば屋根の上に穿たれる(図195〜201)。アビュドスにあるセティ1世葬祭殿の7つ並んだ至聖所では、疑似アーチの曲面をなす場所に神殿の窓が取られている(図220)。光を導くこの形態の窓に、装飾が施されることは稀である。デンデラではしかし、多数の隙間窓の斜めになった窓敷居に、窓から入ってくる陽光をあらわす彫刻が彫られている。
陸屋根の石造屋根や、あるいはその断片が残存するほとんどの神殿において、いくらかの量の光を取り入れ、通風口としての役割も果たしたであろう小さな開口が屋根に穿たれているのを見ることができる(図175)。
大ピラミッドの奇妙な通風坑はあまりにも有名なので、細かい説明は要しない。それらが王の間、王妃の間として知られている部屋のためにあることに言及しておけば充分である。
短い距離を水平に進んだ後、それらは突然約30度の角度に上方へ向きを変え、およそ70ヤードほどピラミッドの外面に出るまで走っている。内部の断面形状は矩形であり、ひとつの石材に溝が切られ、もうひとつの石材が蓋をなしている。これらは水平位置に据え置かれた石材に穴を貫き通したものではなく、ピラミッド内部の大きな通廊における場合と同様に、溝を切り欠かれた石材は通風坑の向きと同じ角度に据えられている。無理矢理開けられた通路のためにこれらの通風坑が壊された場所では、その構造を容易に調べることができる。
クリアストーリーは新王国時代以前には見ることができない。残存するこの時期の壮大な遺例は、カルナック大神殿の列柱室のそれである(図203、204)。またテーベにあるセティ1世の葬祭殿やラムセウム、またカルナック大神殿にあるコンス神殿でも見られる。これらは後の時代、神殿の第1列柱室を構成する柱の間に、腰壁を入れる用法(図205)へとほとんど道を譲ってしまったように思われる。エドフ神殿やデンデラ神殿といったプトレマイオス期やローマ期の神殿では少なくとも、クリアストーリーはまったく用いられていない。残存する遺構から私たちが知り得る限り、クリアストーリーより時代が前に遡る腰壁はマディーナト・ハブーにある第18王朝の神殿のものであり、非常に低い腰壁を備えた好例をそこに見ることができる。
時代をかなり下らないと、神殿の外壁に窓が設けられる例は見られない。そのような窓の最も早い類例はカルナック大神殿にあるアコリス王の神殿であり、そこではひとつの石材から窓が格子の形に削り出されている。
装飾が施された窓は、非常に早い時期から知られていたようである。ジョセル王の石造建築では、祠堂群のひとつの側面がジェドの文字をあらわす聖刻文字の列で飾られている 。3つ、ないし4つの文字の間の隙間が実際に掘り抜かれており、文字を窓の竪格子に見立てているので、これらが窓を模したものであるという点については疑問の余地がない。格子窓を模したものが載せられた第11王朝に属するひとつの偽扉が知られており、そこでは聖刻文字と花柄の文様が窓の竪格子を形づくっている 。同様の窓は、ディール・アル=バフリーにある第11王朝のメケトラーの墓で発見された小建築と庭園の模型の扉 、また他にアビュドスのセティ1世葬祭殿の至聖所 においても再現されている。ラメセス3世の宮殿はマディーナト・ハブーにかつて建っていたものであるが、聖刻文字と同様に神々の姿やカルトゥーシュが竪格子の形として取り入れられた窓を備え付けていた(図206、207)。
これらの仕上げは比較的荒く、砂岩が用いられている。何年も前に発見されたのにも関わらず、それらに関する完全な報告がなされていないのは奇妙なことである。もうひとつ、デンデラで見つかったと言われている窓では、ハトホル神の顔を柱頭に持つ柱が竪格子を形づくっており、バッジ著「大英博物館のエジプト彫刻」図版49で挙げられている。石材の形は神殿の正面のような形態をしており、コーニスとアーキトレーヴに2つ、蛇の頭を持つ有翼日輪が飾られ、また上エジプトと下エジプトの冠を被った蛇がそれぞれ百合とパピルスの上に載って両側に控えている。以上記したような形の変わった窓が、エジプトの建物や家屋において一般的であったことはきわめてありそうであるが、しかし神殿では通常用いられなかったであろう。
ディール・アル=マディーナには装飾を持った非常に奇妙な窓があり(図208)、どう作られたかを考える上で興味あるいくつかの点を示している。この窓は、屋根に登る階段を明るく照らすためのものである。3つの竪格子を有し、外側からはそれらは平らで装飾されていない面を呈するが、内側から見ると半円形をしている。2つの竪格子はホルス神の顔をした柱頭で飾られており、中央の1つは葉状に彫刻されている。平面においてABCDEFで示される部分はひとつの石材であって、石材がその場所に据え置かれた後、窓が掘り抜かれたことは確かである。
第16章 階段
エジプトでは階段が最も初期の時代から知られていた。第1王朝に属するものとしては、アビュドスのデン王の墓の中へ降りていく非常に大きな煉瓦造の階段 や、また彼の後継者アジエブの墓内に続くもうひとつの階段 が発見されている。岩を掘り抜いた階段は同じくらい早い時期から知られており、アル=ラフンの初期王朝の墓内へ降っていく多数の類例 が見つかっている。
石材を積んで作られた、これまで知られているうちで最も早い階段は、サッカーラにあるジョセル王の「セド祭」、もしくは祝祭のための神殿の形式をとっていると信じられている、小さな祠堂のうちのひとつの屋根に登っていくものである(図210)。これは独立して建つものであって、他のどこにも見られない特殊性を示している。各々の踏み段は別々の石材に分かれており、下の石材に欠き込まれた僅かな凹みに噛み合わされている。「蹴上げ」、もしくは段の前面の角度は垂直ではなく、表面または「踏み面」とほとんど直角をなしている。踏み面は非常に勾配のきつい斜面となっており、後の時代のどの類例よりも羨道と似ている。ここではしかし後の時代の階段とは対照的に、各々の段は分けられて作られている。後の時代においては、石材がまず最初に据え置かれてその後に段が刻まれるというのがほとんどいつもの慣例である。エジプト建築において斜めに傾けられた踏み面は非常によく見られるものの、段は水平で蹴上げが垂直になっている例が古王国時代においても中王国時代においても知られている。
連続する各々の広間の高さがだんだん上がっていく際の、神殿の扉へと登っていく階段は、明らかに羨道が発展したものである。これらにおいては蹴上げはかなり低く、踏み面は斜面となっている。しばしばこれらの両側には上から下まで同じ傾きで簡素な縁がつけられており、他の場合には階段の両脇に、通常低く頂部が丸い手すり壁が形づくられるよう石材が残されている。階段と登り、及び階段が刻まれる石材の横目地との関連がまったく見られないため、石材が据え置かれた後に階段が刻まれたことは確かである(図209)。
ディール・アル=バフリーにある第18王朝の葬祭殿では、基壇や祭壇に登る階段がいくらか独特の特徴を示している。斜めにされた平らな道が最初に作られ、表面が仕上げられ、その後新しい一連の石材が、階段が刻まれたこの表面の上に置かれたらしく思われる。このような建造方法にどのような有利な点があるかは判然としない。おそらくは建築家の部分的な計画変更がなされたのであろう。
規模の大きな塔門のほとんどは内部に階段を備えており、一般的には一方の塔の端部にある小さな扉を通って扉のまぐさのある位置にまで登る。そこからは別の階段がそれぞれの塔の屋上へと導かれていた。ある塔門の建造の途中では、例えばカルナック大神殿の未完成の塔門(図87)のように、もう一方の塔門の端部から扉のまぐさの位置まで同じような斜路が続いていた。その塔門が完成した後には、この斜路は埋められた。エドフ神殿の塔門のような後代の塔門では、螺旋階段が両方の塔門内に閉ざされずに残されており、内部に作られた多数の部屋へ繋がっている(図131)。
塔門の内部に階段を作る方法にはふた通りがあり、通常-----いつもそうであるとは限らないが-----塔門がだいたいにおいてきちんと据え置かれた石材により密実な量塊に作られているか、あるいはそれが単なる石でできた「箱」で、内部には不定形な石材が積み上げられるかどうか(図130)に依拠する。前者の部類では階段全部が水平面に置かれる石材によって作られ、ひとつの石材には階段の段が数段刻まれるばかりでなく、通路の側面部分もまた作り出される(図211)。後者の方法では階段が刻まれる石材はひと続きの斜路として仕上げられ、この斜路の上に通路の壁となる石材が据え置かれる(図212)。前者の方法が塔門の組積における安定性に富む点は明白である。第19王朝や第20王朝においては、両方の階段の作り方が見られるが、プトレマイオス期やローマ期の塔門では石材はほとんどいつも水平面に据えられている。塔門内部のほとんどすべての階段では通路両壁の上端が階段の勾配に合わせて仕上げられ、屋根版は簡単にただ一方から他方へと渡されるだけで外側は荒いまま残されている(図213)。据えられた場所から屋根が滑り落ちることを防ぐような注意は、一切払われなかった。大ピラミッドの大回廊ではしかし、屋根版それぞれの下端が両側壁の上端に欠き込まれた凹みに噛み合わされている(図228)。
テーベの王墓では、下降通廊が勾配を持つ時、中央部分に平らな斜面を残して階段が刻まれる。おそらくこれは、墓の中に石棺が導き入れられる際に階段が損傷することを防ぐためであった。大ピラミッドの王の間に向かって昇る大回廊においては、階段が中央部分にあり、壁面のすぐ脇にふたつの斜面がその両側に残されている。これらの斜面に対しても、またその長さにわたって間隔を置きながら穿たれている深い凹みに対しても、満足のいく説明は未だ見つけ出されてはいない。
大まかには段が別々の石材から構成されているような階段を、エジプト人たちが決して作らなかったとは考えてはならない。アブシールにある第5王朝の葬祭殿 では、倉庫のいくつかにおいて階段が見つかった。壁面に沿って組み上げられ、屋根あるいは上階へと昇っているこれらの階段は、比較的小さな石材で作られている。階段が作られるべき壁面上に描かれた、階段の勾配を示す補助線が今なおうかがうことができる例 がひとつあった。
(p. 180、l. 24)各々の段が壁の中に噛み込まれて持ち出しとなっているような近代的な階段の形態は、エジプトにおける石造物の中では知られていない。木の角材を用いたものはしかし、家屋における階段でよく見受けられる 。
著者紹介
ソマーズ・クラーク(1841-1926)はイギリスの建築家・考古学者であり、1841年7月22日ブライトンに生まれた。父は事務弁護士。1864年、主に教会の修復に携わっていたギルバート・スコット卿の事務所に入所。1897年に聖パウロ教会堂の調査長、また1900年にはチチェスター教会堂の聖堂主任司祭と修道院修士会の担当建築家に任命されるなど、英国の歴史的建造物の修復保存に大きな役割を果たした。1922年に退職。一方、1892年にS. S. タイラーと知り合い、彼とともにエジプトを訪れる。二人はその後アル・ カブで調査をおこない、アメンヘテプ3世の遺構についての報告書を出版。1897年、キベルがおこなった同地での発掘現場に参加。その後もキベルとグリーンとともにヒエラコンポリスの調査をおこなった。1909-10年、ヌビアとスーダンの調査に加わり、そこで得られた知見やエジプトでの経験をもとに、修道院建築や教会建築に関して著述した代表的な著作「ナイル溪谷におけるキリスト教遺跡」を出版(1922年)。晩年はヘリオポリスとアル・ カブの近くのメハミードに家を造って暮らした。1926年8月31日、メハミードにて死去、享年85歳。主な著書・報告書としては、Report on certain excavations made at El Kab, I. Excavations 1901; ナヴィーユによるXIth Dynasty Temple at Deir el Bahari, Part 2 (1910) における、建築に関する報告: Christian Antiquities in the Nile Valley (1912): Les Temples Immerg市 de la Nubie, tome 4 (1920、共著): Ancient Egyptian Masonry: the Building Craft (1930、共著)など。24冊にのぼる彼の建築に関するノートは現在、大英博物館に保管されている。
レジナルド・エンゲルバッハ(1888-1946)はイギリス人のエジプト学者・技師。1888年7月9日、イギリスのデヴォン州で生まれた。フランスのアルザスから17世紀にイギリスへ移住してきた家系である。父親は医師で、南アフリカ戦争の際に志願兵となり、後に戦死。1905-8年、エンゲルバッハはロンドン工科大学で土木工学を学ぶが、6ケ月間病床に伏す。1909-10年、病の回復期に義理の父がエジプト旅行に連れ出し、この旅が彼をエジプト学に向かわせる契機となった。古代エジプト語・コプト語の他に、エジプト滞在中、口語アラビア語の知識も得る。その後ロンドン大学の学生であった友人が彼をF. ペトリーに紹介。ペトリーは直ちに彼の才能を見抜き、すぐさま自分の助手として採用した。1911年以降、ヘリオポリスなどペトリーによる発掘調査に参加、エジプト学者としての地歩を固める。1914年に従軍、フランスで戦うが、戦争神経症のため本国へ送還される。国内における対空防衛の任務などを経て、アレンビー卿の依託を受け、パレスチナとシリアの古代遺跡調査をフランスと共同でおこなう。彼は常に最も危険で人が行きたがらない地区へ赴いた。後年、彼をエジプト考古庁の職に推薦したのは、この時のフランス人の同僚である。第二次世界大戦後の1919年、ラフン及びグラーブでペトリ−と再び調査をおこなう。1920年、上エジプト遺跡部門の主任監督官としてルクソールに赴任。職務の他に自分の仕事としてテーベのネクロポリス全域に散在する住宅地図も作成した。1925年、カイロ博物館に副館長として転任。1931年、同館長。1941年に退職したが、その後も補佐役を務めた。博物館在任中はツタンカーメンの墓から発見された遺物の展示空間を設けたり、収蔵品の体系的な分類と目録の作成といった改革をおこなった。イタリア・スウェーデン・フランスなどから数々の賞を受けている。1946年2月26日死去、享年57歳。カイロ博物館の入館者のためのエジプト考古学入門書を執筆中であった。主な著書としては、Riqqeh and Memphis VI (1915、共著): The Aswan Obelisk,with some remarks on Ancient Engineering (1922): Harageh (1923、共著): A Supplement to the Topographical Catalogue of the Private Tombs of Thebes, nos.253-334. With some notes on the Necropolis from 1913 to 1924 (1924): Gurob (1930、共著): Index of Ancient Egyptian and Sudanese Sites from which the Cairo Museum contains Antiquities (1931): Ancient Egyptian Masonry (1935、共著): Introduction to Egyptian Archaeology.With special reference to the Egyptian Museum, Cairo (1946)など。上記の他、Annales du Service des Antiquit市 de l'トypte (Le Caire)などの考古学雑誌に多数、寄稿をおこなっている。