
我々は、永年にわたり 『高分子錯体の電子過程制御』と『分子集合科学』に焦点を絞った研究を進めてきました。その膨大な基礎知見の蓄積が、本プロジェクト『臨床応用可能な人工赤血球の創製に関する研究』の根幹となっています。
高分子が構成する疎水性雰囲気を巧みに調節すると、錯体部の電子移動が抑制できることを1983年に見出し、世界で初めて生理条件下(生理塩水中、37°C、pH 7.3)における可逆的な酸素錯体(リピドヘム)の生成に成功しました。この錯体を高濃度に含む水溶液は、空気から酸素のみを選択的に濃縮できるので、この発見は直ちに『血液よりも多くの酸素を溶解できる水溶液の誕生』につながりました。つまり、ヒト血液中のヘモグロビン濃度は15g/dL(ヘム換算で9.3mM)ですから、酸素溶解量は約27mL/dL(37°C)になりますが、10mMのリピドヘム水溶液はこれを上回る約29mL/dLの酸素を溶解することができるのです。我々はこれを『酸素輸液』 と名づけました。
これを契機として、酸素輸液の研究展開を推進し、現在までに3種類の酸素輸液(ヘモグロビン小胞体、リピドヘム小胞体、アルブミン-ヘム)を具体化、これらが生体内で酸素輸送のできる赤血球代替物として有効に機能することを実証してきました。
高純度ヘモグロビンをリン脂質の二分子薄膜で包み込んだヘモグロビン小胞体は、主に米国で展開されている修飾ヘモグロビンとは異なり、いわゆる細胞型構造が特徴です。赤血球に類似した機能を発現できるばかりでなく、酸素親和性、溶液物性は添加物の共存により容易に調整することが可能です。他方、合成ヘムをヒト血清アルブミンに包接させたアルブミン-ヘムは、工場で大量生産のできる完全合成系酸素輸液で、その酸素運搬能は天然のヘモグロビンに匹敵します。これらの量産化は困難とされていましたが、化学工学的なプロセス開発に目途をつけ、300L規模の基本設計も既に完成しています。
以上のような背景のもと、本プロジェクトは、感染源を完全に遮断した工程で産生できる血液型のない安全で無害な酸素輸液を対象に、医療利用における基礎科学と適応条件の確立を目的としています。
酸素輸液の適応は非常に広範囲にわたります。まず、緊急医療に必要不可欠となる輸血代替としての酸素輸液(赤血球代替物)は、次世代医療の最も重要な課題に位置づけられています。災害時に際し、長期備蓄に耐える安全で血液型のない酸素輸液が何時でも何処でも迅速に供給できるようになれば、危機管理対策の大きな進展になります。また、酸素運搬体としての酸素輸液は赤血球よりも小粒径であることから、体組織や臓器の酸素化に有効です。そこで、術前血液希釈液/体外循環や移植を含めた臓器保存灌流液/梗塞部位への酸素供給液/癌治療薬/組織再生のための人工臓器細胞培養液などとしても利用できるので、その適応範囲はますます拡張することでしょう。
つまり、酸素輸液の完成は、わが国血液事業の進歩と革新に貢献するばかりでなく、輸血・献血システムの整備が遅れている地域への国際貢献としてもきわめて重要な意義を持つのです。
1997年から厚生科学研究費補助金(高度先端医療研究事業)として「人工血液」の研究が推進されるようになり、現在に至っています。また、わが国では薬害問題や阪神淡路大震災の経験から、血液製剤の安定供給を目指す方針が掲げられ、2002年 改正薬事法:衆議院厚生労働委員会決議 (医薬品・医療機器の安全対策推進に関する件)には、「五. 人工血液についてはその有効性及び安全性が確保されたものの製品化が促進されるよう、研究開発の促進をはかること。」が記載され、国策として推進されるようになりました。
実は既に1980年代、日本赤十字社が「期限切れ赤血球の有効利用」の観点から人工赤血球(修飾Hbなど)の開発を開始した経緯があります。現在では供給体制の整備(集約化)で、統計上は期限切れが減少しており(平18年: 44,900本)、人工赤血球の原料が減少していると言えます。しかし、期限切れは潜在的にもっとあると言われており、医療機関で発生する期限切れ赤血球すべてを、一カ所に効率よく回収するシステムの構築が必要と考えます。また、NAT検査済み期限切れ赤血球を用い、徹底したウィルス不活化/除去工程を採用していますが、「特定生物製剤」としての人工赤血球は輸血より安全なのか、未知の感染源の可能性は無いのか、遡及調査の必要性などを検討する必要もあります。他方、組換えヘモグロビンを使用すれば、原料の問題は克服できます。事実、米国では、Somatogen社-Baxter社が、組換えヘモグロビン(変異型)を開発しました。遺伝子組換えヘモグロビン小胞体の調製は技術的には可能です。しかしそれでも「生物製剤」に分類されると考えられ、厳重な管理が必要です。また、人工赤血球は現行の献血輸血システムを「補完」するものであり、「期限切れ赤血球の有効利用」は重要な課題として残ります。
このように、人工赤血球の開発は通常の創薬事業にはないいくつかの課題を含んでおり、一企業が単独で達成できる事ではありません。厚生労働省、日本赤十字社、その他関連機関と綿密に協議し、また協力を得ながら、人類の健康福祉の増進の役割を担う、意義のある本研究を進めていきたいと考えています。