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年間活動報告 アーカイブ構築研究(映像)

研究概要 活動報告 2002 2003 2004 2005 2006 2007
D・W・グリフィスがバイオグラフ社において映画監督としてのキャリアを始動させた一九〇八年という年は、アメリカ映画のみならず、世界映画史の展開の上から見ても、時代を画する重要な年であると言える。この年を境に映画史は「初期」から「移行期」への推移を経験する。それは、一九〇五年の秋頃から合衆国で本格的に始まる、いわゆる「ニッケル・オデオン・ブーム」がもたらした作品需要の急激な増加に応えるための、映画製作機構の「近代化」への歩みの始まりをも意味している。だが、この「ブーム」は皮肉にも、黎明期のアメリカ映画をエディスン社とともに牽引してきたバイオグラフ社を危機的な状況に陥れていた。作品需要の急増は新たな製作会社の独立を促し、ヴァイタグラフ社やルービン社などは、その業績を着実に拡大させていった。だがバイオグラフ社が直面させられたのは、経験豊かなスタッフの流出とその独立という厄災のみであった。加えて、それまで同社の製作現場を支えていた一人であるウォレス・マッカチオンの高齢による引退や製作サイドへの投資不足などが事態に追い討ちをかけ、この後、数年の間の同社の作品製作は質的な停滞期を迎える。だが一方で、こうした人事上のごたごたが、演劇人を中心に新たな才能を発掘する引き金にもなった。やがてバイオグラフ社はグリフィスという大きな才能を獲得し、映画表現は新たな段階へと進む契機を手に入れる。

グリフィスの登場は物語映画の語法の展開に決定的な影響を及ぼしたが、それは同時に観客や興行者の側からの要請を満たすものでもあった。単なる見せ物映画には飽き足らなくなっていた観客は、映画の中でより複雑な物語が語られることを望んでいたし、劇場側も人気の高いフィクショナルな作品を上映したがった。当時の観客の多数を占めていた労働者や子供にも容易に理解できるような、物語叙述のスタンダードな形式を速やかに確立することは、製作者達に求められていた共通の課題であった。 グリフィスの語法のもっとも根幹をなしているものは、一つのショットとそれの提示する意味との間の対応関係の明確さであると言える。そこではショットの一義性を保つため、画面からは多義的な要素が周到に排除される。そして、意味が明確に固定されたショットは別のショットと組み合わされる(モンタージュされる)ことで、さらに新たな意味を生み出していく。こうして導き出された「編集」という作業の孕む可能性に、しばらくの間グリフィスは関心を注ぎ続けた。

それは、たとえば彼の監督第一作『ドリーの冒険』にもすでに現れている。この作品の中間部における川面を流れる樽をとらえたショット連鎖で、グリフィスは後続ショットの片隅に常に前のショットの背景の特徴的な一部を配することによって空間的な連続性を保つ工夫を施している。また同時に、地形に対する観客の記憶を利用し、作品冒頭と結尾に同一の風景を配することで、少女の帰還という地理上/物語上の帰結を観客に納得させる手際の良さをも彼は示している。おそらくグリフィスの当初の興味は、主に隣接ショットの空間的整合性に向けられていたのだろう。そのおよそ四ヶ月後に撮影された『幾歳月の後』では、無人島に流された夫とその身を案じる妻という、空間的に隔てられた二者の、不可視の対象に想いを馳せる心理表現がパラレル・モンタージュによって示され、編集による表現の可能性がさらに広げられていくことになる。

長年対立関係にあったエディスン社とAM&B(バイオグラフ社中心)は、この年の十二月にMPPC(モーション・ピクチャー・パテント・カンパニー)を成立させ、トラストを形成することで主導権争いをひとまず沈静化した。そして翌一九〇九年には、映画の規則的なリリースによって、増加する映画の需要に応える努力がようやくなされるようになる。この年はまた、トラストに対抗する映画会社が登場する年でもあった。四月にはIMPが登場し、以後タンハウザー社やニューヨーク映画社など、ぞくぞくと新会社が設立された。MPPCと独立系映画会社の競争は、自社作品の個性を観客にアピールするための機会を提供し、独立系映画会社の活躍は後のハリウッドの土台を形成することとなる。

安価で気軽に見られる娯楽を提供する場として歓迎されていた映画館は、当時、宗教団体や民生委員、あるいは比較的裕福な地位にいる人々からは、若者を悪の道へと引き込む場として警戒されていた。そこで映画産業界は、映画のイメージを向上させるために自己検閲を実施する。その結果、犯罪映画においては、道徳的改心のドラマが残虐行為の描写にとって代わり、以前には少なからず見られたエロティックな主題は公の場からは消滅する。こうした映画産業界の社会への配慮は、当時、社会問題となっていた労働者の飲酒という主題に脚光を浴びせる結果となり、『飲んだくれの改心』のような「飲酒映画」が盛んに製作された。映画会社は、飲酒がもたらす悲劇を提示することで映画の教育的効果をアピールし、イメージの向上を図った。

文学作品や演劇の脚色、重要な歴史的出来事などもまた、以前にも増して主題として積極的に採用されるようになった。その結果、映画作品はより長く複雑な語りが必要となった。当時の映画作品は一巻ものが主流であったが、たとえばMPPCのメンバーでもあるヴァイタグラフ社の場合、積極的に複数巻の映画作品を製作していた。グリフィスも複数巻の映画製作への意欲がなかったわけではないが、バイオグラフ社は一巻ものに固執し、一九〇九年に一巻以上の映画作品がつくられることはなかった。 この年、バイオグラフ社でグリフィスは、総計一三八本もの大量の作品を製作しており、喜劇、救出劇、コスチューム劇などの伝統的なジャンルに加えて、道徳的主題や社会問題をも扱うなど、様々なジャンルに取り組んでいる。そして、それらには、引き続き編集への強い関心が認められる。特に有名な例としては、『淋しい別荘』の救出場面で使われたクロスカッティングや『小麦の買占め』におけるパラレル・モンタージュが挙げられる。だが、編集への関心は決してこの時期に一般的なものではなかった。フランスではルイ・フイヤードが演出を重視した絵画的傾向の強い作品をつくり、ヴァイタグラフ社は演劇性の強い作品を得意としていた。凝った編集技法とショット数の多さは、バイオグラフ社製作品を特徴付けるトレードマークとして機能していた。
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