文化構想学部シラバス2021
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また、取り上げる小説家以外に、フランス小説の流れについての知識があれば、取り上げる小説家の成し遂げた意味がよくわかると思われる。科目名フランス思想デリダゲシュレヒトIIIを読む担当者名藤本一勇仏文コース2単位秋学期月曜日3時限3年以上―合併科目―授業概要フランスの哲学者ジャック・デリダのゲシュレヒトIIIを読解しながら、彼の脱構築思想を分析する。テクストや言葉は多種多様な逃走線から織り上げられたものである。したがって、デリダのテクストを読むにも、そこにどのような歴史や政治的・経済的・文化的なコンテクストが絡まり合っているかを解きほぐしていかなければならない。本講義では、哲学史、政治史、経済史、科学技術史、芸術史、等々の多数の織り糸のなかにデリダの言葉(=事の端)を置き直し、その現代的な、さらには未来的な意義を探る。そうした思想的な解明作業から、デリダの思想がもつ普遍的な価値を浮かび上がせる。*本講義は対面方式でおこないます(Covid-19の状況によってはオンラインやオンデマンドに切り替えたり、併用することもあります)。授業の到達目標デリダ思想の全体像を理解し、それがどのような歴史的な背景と現代的な意義をもつかを理解する。成績評価方法登録者数によって変わる。40名以内ならレポート、それ以上なら理解度の確認の試験を行う(Covid-19の状況によっては、試験ができないので、レポート)。出席点は参考程度。詳しくは最初の授業のときに説明する。科目名フランス文学の現在フランス文学と映画担当者名梶田裕仏文コース2単位春学期月曜日5時限2年以上―合併科目―授業概要本講義では、映画との関係を通じて、20世紀以降のフランス文学について考えます。映画と文学の関係は、決して平和的なものではありませんでした。文学者はしばしば文学作品の映画化に敵意を示し、映画監督はそれを映画の文学への従属と捉えました。しかし、映画の黎明期において、文学者が映画に見出した可能性は、決して文学作品の映像化ということではありませんでした。前衛的な作家たちは、映画がもたらす新たな知覚の可能性に関心を寄せていました。そしてトーキーの登場以降、映画が次第にただ物語を視覚化するための装置となり果てると、彼らは映画に対する失望を表明しました。しかし映画の方でもまた、イタリアのネオリアリズモやフランスのヌーヴェルヴァーグによって、物語に対する従属から映画を解放することが試みられていくことになります。ここから、文学と映画の間に、文学作品の映画化という枠には収まらない関係を描くことができるようになります。フランスの映画批評家であるアンドレ・バザンは、映画と文学の間に、根深いところで共有された美学的条件や芸術と現実との関係についての共通した見解を早くから読み取っていました。哲学者のジャック・ランシエールもまた、映画は文学の後に来ると言うことによって、映画と文学が同じ芸術的体制に属していることを明らかにしています。この授業では、文学と映画の間にある。影響や翻案にとどまらない共鳴関係を明らかにし、この共鳴関係から、文学作品の映画化(文学という言語芸術の体制を代表するボヴァリー夫人の様々な映画化、ブレッソンによるベルナノスの作品の映画化、タル・ベーラによる倫敦から来た男の映画化)、作家と映画監督との共同作業(アラン・レネとデュラス、ロブ=グリエ)、作家による映画制作(デュラス)などについて考察したいと思います。授業の到達目標文学と映画が共に属している芸術の体制について理解を深め、文学と映画の関係を新たに捉え直すこと。成績評価方法試験0%レポート60%学期末にレポートを提出。分量は3000字以上。平常点40%出席とコメントシート等による授業に対するリアクション、課題への取り組み等を総合的に評価する。その他0%備考・関連URLフランス語の文献を配布することもあるかもしれないが、フランス語の知識がなくとも理解できるよう配慮する。科目名フランス表象文化論ポスター、絵本、ストーリー・マンガ――近代における語るイメージの行方担当者名鈴木雅雄仏文コース2単位秋学期木曜日4時限1年以上―合併科目―授業概要近現代の視覚文化において、映画に代表される動くイメージの重要性は疑う余地がないものに見えます。ですが一方でマンガや絵本、ポスターといった大衆的なイメージ・メディアは、静止イメージのなかに時間を取りこむ技術を発展させてきました。しかもそれは、イメージを動かすことのできないメディアが映画に近づくために仕方なく選び取った方法などではないかもしれません。見るものが自分のなかで、動かないイメージから運動を作り出すことの快楽それ自体が、この時期の視覚文化を決定していたと考えることも可能ではないでしょうか。この授業では、こうした近代的な静止イメージ・メディアが、いかにして観者に時間/意味/物語を作り出させようとしてきたか、フランスを中心とした欧米の事例を取り上げつつ(しかししばしば現代日本のマンガ表現なども参照しつつ)考えていこうと思います。この作業を通じて、一方に物語を語ることを拒否した現代芸術の視覚体験があり、他方には近現代におけるフィクションの担い手として特権的な重要性を持つ映画的イメージがある、という図式を相対化する努力をしていきましょう。マンガは映画に近づこうとしたのではなく、映画の方がマンガ的体験の影にすぎないとまでいえば、あまりに極端ではあるでしょうが、静止イメージを支点にすることで、近代におけるイメージの運命を考え直すことは可能であるかもしれません。講義―206―

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