情報化推進レター

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教員コラム

坂倉正純先生を偲んで

理工学術院 教授
深澤 良彰

2010年6月24日午前4:10早稲田大学メディアネットワークセンター准教授の坂倉正純先生がお亡くなりになりました。享年は65歳でした。

ずっと救命センターに入られており、ご親族以外は面談ができない状態が続いていました。ご逝去の2日前には快復の兆しがみえ、救命センターから一般病棟に移れるのではないかという状態でしたが、急変されたそうです。

数年前から、お身体のあちこちに水が溜まるなど、種々の症状が出て、入・退院を繰り返していらっしゃいました。お一人での生活をされていらっしゃいましたので、具合が悪くなると、ご自分で救急車を呼ばれ、数日後に大学に連絡があるということも何回かありました。ただ、坂倉先生のご性格からご自分の病状の多くを語ろうとはされませんでした。しかし、1年ほど前の入院から、回復することはできませんでした。

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【故 坂倉正純 准教授】

坂倉先生は、1945年5月19日、茨城県常陸太田市に誕生され、茨城県立水戸高校から、早稲田大学理工学部電気工学科へ入学され、その後、修士課程、博士課程と進まれました。1974年4月には、早稲田大学電子計算室(メディアネットワークセンターの前身)常勤嘱託、1975年5月には、東京教育大学理学部応用数理学教室助手(校名等変更により、1977年4月からは筑波大学数学系助手)を務められ、1978年に、電子計算室専任講師として本学に戻られ、その後、1981年には助教授(2007年からは准教授と名称変更)になられました。

坂倉先生のご研究の内容は、論理回路の合成等のハードウェア寄りのものから、ソフトウェア工学に関する各種の研究まで幅広いことが特質です。

坂倉先生がメディアネットワークセンターに勤務されてから、コンピュータのハードウェア、ソフトウェアの技術はさまざまに変化してきました。その中で、坂倉先生は柔軟に適応されてきました。

私が坂倉先生から最初に教えていただいたのは、IBMシステム360系のアセンブリ言語プログラミングの極意でした。1976年、77年の頃でした。アセンブリ言語のプログラムが機械語でどのようになっており、それがどのように実行されるかというコンピュータの計算機構の基礎にたっての教え方であり、コンピュータの本質をよく理解することができました。

この頃はまだ汎用大型計算機を使った研究が主であり、そのために大学で徹夜をすることもよくありました。坂倉先生は、それにお付き合いくださり、夜食を作ってくださったりしました。カレーを作っていただき、とても美味しかったのですが、翌朝フロア中にカレーの香りが残ったりしたこともありました。また、ご自宅にお招きいただき、カキの土手鍋を御馳走になった時のことも印象深く残っています。

一方、最近は、文系の学生にとっては、結果がすぐに見え、分かりやすいプログラミング言語を使うことが一番であるというお考えで、メディアネットワークセンターでは、Visual Basicを使って、プログラミングを教えていらっしゃいました。

とても寡黙な坂倉先生でしたが、あの茨城弁がもう聞けないと思うと大きな寂しさを感じます。今後は、天国のシステム化にご尽力いただければと思います。

ご冥福をお祈りいたします。

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