
最近「マスコミ」のなかからジャーナリズムの復興や復活や再生を求める意見が表立って出されている。それはジャーナリズムの衰退や危機が内部でも公認の事実となったということを物語っている。10年位前まではそのことを外部の人間が指摘しても、内部からは反発や無視が返ってきたものだ。「マスコミ」はいわゆる不祥事の連続で自信喪失に陥り、そして再生の道を探っているのだろうか。
しかし、不祥事なら今に始まったことではないし、またほかの業種や職種でもさまざまな形で続発している。「マスコミ」の現在とその世界にのみ特有の問題ではない。確かに不祥事は読者や視聴者の信頼を失い、それはボディーブローのように効いてくるが、ジャーナリズムの危機と復活というテーマは本質的にはもっとほかのところに背景と原因があると思う。復権のためにはどうしたらいいだろうか。
デジタル化とグローバル化の構造変動衰退と危機の背景および原因は、「マスコミ」なりジャーナリズムと認識されるものが従来置かれてきた構造的な条件が変わってきたということにあると思われる。つまり土俵が変化してきて、従来の取り口では勝てなくなってきたということだ。
その構造変動として挙げられるのがデジタル化とグローバル化である。メディアのデジタル化、コンピュータ化、映像化のなかで、大量情報伝達交換媒体は高度化した。つまりインターネットを含めてさまざまの形をしたチューブがたくさん登場してきた。それは過去の風景とはまったく違う。グローバル化は単にヒト、モノ、カネ、そして文化の流れが地球規模で動くことではなく、世界の中心がなくなるということだ。かつては何にせよ世界にいくつかの中心が存在していたが、いまやどこでもが中心であり、したがってどこにも中心がないという状況になった。価値観も脱中心化し、多様化した。このような技術革新と価値変動という2つの要因が既存の土俵を変えてしまったのである。
そのことにジャーナリズムが対応できなければ衰退の原因となるだろうが、しかし、もしこの構造変動をきちんと認識し、戦略的に構想し、新しい方法を生み出すならば、逆にジャーナリズムの自己革新のチャンスとなるかもしれない。
ジャーナリズムとマスメディアの分離日本には世界に通用しない変な言葉がある。「マスコミ」である。その日本語が定着し、多用されてきたということは、それに対応する独特の認識と実態があるということだ。「マスコミ」とはマス・コミュニケーションという英語の短縮形だと思われるかもしれないが、それで意味的には通じないから、「マスコミ」≠マス・コミュニケーションである。また、これも当たり前だが、概念的に別だから、ジャーナリズム≠マスメディア≠マス・コミュニケーションである。そこで、「マスコミ」の用例を見ると、「マスコミ」=ジャーナリズム+マスメディア+ジャーナリストとなっているといえる。つまり「マスコミ」はあとの3つの言葉のどれをも指示し、それらを区別していないのである。ということは、それらが渾然一体化した「体制」だと理解され、またそういう実態があるということだ。私はこの「マスコミ」体制が日本のジャーナリズムの不適応の原因だと考えている。マスメディア栄えて、ジャーナリズム枯れるとなってしまった。
二つの言葉を区別しよう。ジャーナリズムとは「イズム」であり、主義である。したがって、それは「ジャーナル主義」であって、あるひとつの社会意識の形態ないし精神活動の形態のことである。他方、マスメディアとはかつて一時期こう翻訳されたように大衆伝達媒体であり、機能的なシステムのことである。
日本の「マスコミ」はこのジャーナリズムとマスメディアの一致、言い換えればソフトとハードの一致を前提としてきた。実は、その一致モデルは従来の構造ではある程度機能しえても、先に述べた構造変動のなかではもはや機能しえないし、現に一致モデルは崩れてきている。固定した関係は分解を始めている。すなわちジャーナリズムとマスメディアの分離へと向かわざるをえない。そして、本来峻別して認識され、かつ分離して存在すべきものが実際にそのように切り離されること、それこそがジャーナリズム再生のための条件、あるいはひょっとするとジャーナリズム誕生の条件となるのである。
実践家と研究者の連携「山鳥の尾のしだり尾の」で長々となってしまったが、やっと表題にたどりついた。以上のような考えに立って、大学という制度のなかでジャーナリスト教育の一部を引き受けようという提案である。プロフェッショナル教育とはっきりと位置づけて、その条件を満たさなければならない。その条件とは教育目標(ミッション)と教育内容(カリキュラム)と教育方法(メソッド)を明確にすることで得られる。その際、最も重要な課題は実践家(実務家、つまり経験のあるジャーナリスト)と研究者(研究者として養成されてきた大学人)の連携であろう。
実践家はプロフェッショナルな経験と知識をもとに、それを対象化・普遍化・一般化する能力を持ち、それを次世代に伝承すべく、教育の方法を身につけた人間でなければならない。ジャーナリストなら誰でもなれるというものではない。研究者はアカデミックな知見と方法をもとに、それを研究者になろうとする人間ではなく、ジャーナリストになろうとする人間に役立つように、従来の教育内容と教育方法を改良・更新しなければならない。これまでと同じ授業では困る。
この連携によって、ジャーナリズム研究、マス・コミュニケーション研究、マスメディア研究の批判的社会科学を後ろ盾として、その認識と知識を取り込んだプロフェッショナル教育が可能となる。そして、構造変動のなかのジャーナリズムの再構築に貢献することができる。
国境、「社境」、「媒体境」を越えたジャーナリズム最後に、少し具体的なことを。どのようなジャーナリズムの姿が思い描かれるだろうか。これまでの日本のジャーナリズムはナショナルな国境のなかの生き物であり、会社に規定された種族であり、媒体の縦割りに閉じ込められた範囲で行動してきた。それらの境界を越えていくジャーナリストが少なくても新しいジャーナリズムの担い手となっていくだろう。
そのような認識は日本の外の世界では珍しくはない。アジア諸国でもジャーナリスト教育で動き出している。さまざまな葛藤と展開が見られる。日本だけが日本語に守られた「島」のなかに留まっているわけにはいかないだろう。
(2006年9月19日更新)