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| 若き日の大隈重信 |
早稲田大学の創設者・大隈重信は、1838(天保9)年2月16日、佐賀藩士大隈信保と三井子の長男(幼名:八太郎(はちたろう))として生まれました。藩校弘道館に学びますが、佐賀藩独特の葉隠思想に反発、蘭学寮に入り蘭学を修めます。また、長崎に出て米国宣教師のフルベッキに新約聖書と米国独立宣言を教わり、大きな影響を受けます。明治維新に際して、副島種臣とともに脱藩し上京、大政奉還運動に加わりましたが、送還され、謹慎処分を受けました。
維新後、新政府に登用されると、キリスト教徒処分問題に関する英国公使パークスとの交渉で対等に渉りあうなど手腕を発揮、その才を評価されて、外国官副知事に昇進しました。以後、新政府の気鋭の少壮官僚として大蔵大輔、参議、大蔵卿などの要職に就いています。この間、鉄道・電信建設、貨幣制度改革(円貨導入)、予算会計制度確立、工部省設置、太陽暦導入などの文明開化政策を次々に推進しました。
西郷隆盛らの征韓論が起こると内治優先の立場から反対し、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通らが亡くなった後には、参議筆頭として事実上政府のトップに立ちます。しかし、早期の憲法制定、議会開設という意見は薩長藩閥に受け入れられず、折からの北海道官有物払下げに反対したことなどにより、1881年に政府から排斥されます(明治十四年の政変)。
翌1882(明治15)年、小野梓らの協力を得て立憲改進党を結成するとともに、東京専門学校(後の早稲田大学)を創設します。これは日本の近代化を推進するためには、政党政治の実現と人材の育成が不可欠との認識によるもので、その理想の実現に着手したのです。
その後、当時最大の外交問題であった不平等条約改正に大隈の力が必要とされ、黒田内閣に外相として迎えられ改正交渉に取り組みますが、反対派の暴漢により負傷、辞職を余儀なくされ、その努力は実りませんでした。しかし持ち前の不撓不屈の負けじ魂により、1898(明治31)年板垣退助と憲政党を結党、わが国初の政党内閣を誕生させました(隈板内閣=第一次大隈内閣)。また、1914(大正3)年には、シーメンス事件で倒れた山本内閣の後、第二次大隈内閣を成立させました。
一方、1913(大正2)年の早稲田大学創立30周年式典に際しては、創立以来語られ受け継がれてきた「学問の独立」、「学問の活用」、「模範国民の造就」の三大教旨を含む建学の理念を内外に発表します。この理念は、早稲田大学の精神として今日まで脈々と受け継がれています。
また、大日本文明協会会長などを務めるなど、文明運動にも力を尽くし、さらに『大隈伯昔日譚』、『開国五十年史』、『国民読本』などおびただしい著作を残しています。
1922(大正11)年1月10日、大隈は83歳で永眠、東京都文京区音羽の護国寺に葬られました。民衆政治家としての大隈の人気は高く、日比谷公園の特設斎場で行われた「国民葬」には20万人を超える会葬者がありました。
大隈は、終始「政治こそ我が生命」と唱え、志を高くもった「政治家(ステーツマン)」として活躍するとともに、早稲田大学の創設や明治・大正期を通じて多くの文化活動を推進した近代日本の「教育者」としても果たした役割は大きいものと言えます。

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