1889(明治22)年の改正条約の実施によって、日本は幕末維新期に結んだ不平等条約から解放され、多年の宿願を達成することになりました。この条約改正に大隈は、一時期外相として深い関わりを持ちましたが、国粋主義者に見舞われた爆弾によって右脚を失った話は、あまりにも有名です。
1888(明治21)年2月1日に外務大臣に就任した大隈は、改正交渉を進めるにあたって、従来の国際会議方式をやめ、国別交渉方式でのぞむこととしました。この交渉方式の転換について大隈は後年、次のように語っています。
「寺島、井上の各時代に十数年の間改正談判を試みても、何分各国の聯合運動が固くて、其の効を奏することができぬ(中略)夫で是れは是非とも其の聯合運動を打破りて、国別談判としなければならんと思ふて我輩のときに是を企てた(中略)、我輩は先づ陸奥をして墨西其(メキシコ)と対等の条約を締結せしめた、それを見て他の各国が、所謂最恵国条疑で、同一の権利利権に均霑(きんてん)せうと云ふと、夫れは許さぬ、墨西其と同一の権利利権を与へざる国に、墨西其と同じ権利利権を与ふる道理は無いと云ふて撥ね付けた、此れがそもそも各国と対等条約を締結する基礎と為ったのである。」(「條約改正の話」──伯爵大隈重信君の談)
同年11月3日のメキシコとの修好通商条約の締結後、大隈の改正交渉は比較的順調に進み、翌1889(明治22)年には、米・独・露の各国と改正条約を結ぶに至りました。この間、大隈改正案の内容は秘密にされていましたが、その要旨がロンドンの『ザ・タイムズ』紙上に報道され、国内各紙に訳載されると、国民の間には激しい反対運動が起こりました。
反対の声は政府内部にも湧きあがり、政府は断行論と中止論とで二分されました。10月18日、混迷する事態を打開すべく御前会議が開かれましたが、その帰路、大隈が兇徒の投じた爆弾によって右脚を失うという事件が起こります。動揺した内閣は24日、病床にある大隈を除いて総辞職し、ついに大隈の条約改正交渉は失敗に終わったのです。
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条約改正日誌 明治21-22年 付・大隈外務大臣書簡案
加藤高明記 1冊 20×61cm
大隈外相が条約改正にあたった明治21年11月から翌年10月18日の遭難の日までの経過を記したもの。筆者加藤高明は、外相秘書官で大隈を扶け改正案の策定に力を尽した。加藤はのち外相(第2次大隈内閣)、首相となる。 |
(『エピソード 大隈重信』より)
遭難と外相辞任
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| 遭難時衣服・帽子 |
1889(明治22)年10月18日午後4時過ぎ、御前での閣議を終えた大隈は、馬車で霞ヶ関の官邸に向かいました。馬車が外務省の門前にさしかかった頃、フロックコートに身を包んだ30歳前後の男が近づいて来るや、突然馬車をめがけて爆弾を投げつけました。右脚に重傷を負った大隈は憤然、兇徒のほうを振り向いて「馬鹿者めが」と大喝一声して、膝の上に燃える断片を払いました。兇行におよんだ男は、爆弾が破裂したのを見届けると即座に短刀で咽喉をかき切り、その場に倒れました。
大隈は血に染まりながら外務省の玄関側の広い一室にかつぎ込まれました。大隈の遭難の報を聞いて直ちに駆けつけたベルツ博士の「日記」には、この時の大隈の傷の具合や手術の模様が生々しく記されています。
大隈氏は、自分がいつも氏夫妻を往診する時と同じ階下左側の部屋で、ソファの上に横たわっていた。意識は明瞭だ。仮繃帯を施した右脚の激しい痛みは、モルヒネで和らげてあった(中略)。右脚内部のくるぶしの上方にある傷は、その箇所で脛骨を完全に粉砕していた。その上方の第二の傷は、ひざ関節の内部下方にあって、該関節内への粉砕骨折を伴っていた。脛骨の中間部も同様に全部粉砕されていた。下腿を動かすと、骨が、まるで袋に入っているかのように、手の中でがたがた音を立てた。上腿切断手術よりほかに、施す手段がないことは明白だった。この手術を佐藤氏が行い、その際、橋本氏がある程度の指図をした。手術は順調にはかどった。治癒の見込みは十分ある。(『ベルツの日記』)
右脚切断という重傷を負ったにもかかわらず大隈は、なお条約改正への気力を失うことはありませんでした。しかし新たに誕生した三条臨時内閣の改正方針と相容れず、12月14日には辞表を提出せざるを得なくなります。
(『エピソード 大隈重信』より)
犯人来島恒喜と大隈
大隈の条約改正案に反対して爆弾を投じるや、即座に自らの咽喉をかき切って自害した男の氏名は、まもなく来島恒喜であることがわかりました。
恒喜は、1859(安政6)年、福岡城下薬院薬研町に、馬廻役として黒田侯に仕える父又左衛門と母仙子の二男として生まれました(『来島恒喜』)。恒喜は少年から青年時代にかけて、高場乱(おさむ)の主宰する高場塾に学びましたが、彼の「慷慨義を好み、忠勇君に尽くすの精神、私を忘れて公に奉じ、身を捨て、国に殉する」といった精神・思想の養成には、この高場塾の感化によるところが大きいといいます。1879(明治12)年、箱田六輔、平岡浩太郎、頭山満らが向陽社を設立すると、恒喜はその社員となって活動しました。1881(明治14)年に社名を玄洋社と改称するにおよび玄洋社社員となります。1886(明治19)年に小笠原諸島に渡った後、上京して井上馨の条約改正案に対する反対運動に加わりました。その後一時帰郷しましたが、1889(明治22)年に再び上京して、大隈を要撃することになります。
次に、恒喜の刎頚(ふんけい)の友で、要撃の現場に立ち合った月成光の実話を引くことにしましょう。
当日、来島は、爆弾を洋傘の中に裹(つつ)み、外務省前に向ったが、自分は、省外白堊の連壁の一隅で、其模様を見届けた。大隈の馬車が通過する、爆弾が破裂する、白煙濛濛(もうもう)、寸前暗黒の光景を現出した。来島は従容迫らずに、歩を移し、遥に宮城に向けて再拝するものゝ如く、忽(たちま)ち懐から短刀を把り出して、頸脈を截断(せつだん)したが、鮮血淋漓(りんり)として流れ出づる有様を目撃したときには、自分は、凄愴(せいそう)悲痛の感に打たれて、何とも言ふことが出来なかった。(『来島恒喜』)
それでは、被害者大隈は、来島をどのような人物と見ていたのでしょうか。来島の伝記編纂事業を監修した的野半介が、伝聞を記述したところによると、大隈は、来島をして「愛国の精神を以て行動したる志士なり」と称賛し、あるいはまた、来島の行為は「献身的行為にして身を殺して仁を成したるものなり」と言い、来島をもって「勇者」であると称えたといいます(同上書)。
(『エピソード 大隈重信』より)

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