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政治家大隈重信
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政治家大隈重信

初の政党内閣−大隈首相の誕生 BACKNEXT

 日清戦争後経営の完成をめざして出発した第三次伊藤内閣が、その資金獲得のために地租増徴案を提出して民党連合に反対され、窮余の一策として停会・解散に持ち込んだことが自由・進歩両党合同のきっかけをつくりました。1898(明治31)年6月22日、両党は合同して憲政党となり、「更始一新以て憲政の完成を期せん」と宣言し、政党内閣の実現、地方自治の確立、産業貿易の振興などを綱領にかかげて出発しました。ここにおいて、伊藤・山県ら藩閥側もついに内閣を投げ出し、大隈と板垣に内閣を任せざるを得ませんでした。

板隈閣成る
明治31(1898)7月「団団珍聞」第1170号
憲政党内閣の成立の諷刺絵。大法螺吹きの大隈と、カンシャク持ちの板垣とが熊と猿に擬せられている。「隈板」でなく「板隈」とあるのは如何なる訳か。

 ところで、首班指名がはっきりしたとき大隈は、伊藤の突然の辞職は意外だった、時勢が変わったからといって、われわれが政権を担当して、果たしてうまくいくかどうか心配だ、と言い、板垣は、余はとても其器にあらず、自由党をあげて大隈伯に委ねたい、と尻込みしたといいます。そればかりか、組閣の際、自由・進歩両派の間で猛烈な閣僚の分捕り合戦が起こり、陸海軍両大臣を除く8つの椅子を二等分し、総理・司法・農商務・文部を進歩党派に、内務・外務・大蔵・逓信を自由党派に与えて、6月30日に大隈総理、板垣内務を中心とする隈板内閣を発足させました。これで見ると、両派は十分な話し合いをしないまま、時の勢いで合同に踏みきり、組閣したという印象が強いといえます。

 さて、隈板内閣の課題は、行政改革の実施と産業振興をめざす積極財政政策、そして日清戦後の中国分割競争に対応するための新しいアジア外交の展開でした。8月10日の第6回総選挙で、憲政党は定員300名中260名を獲得し、態勢が整いました。

 しかしこの内閣は、藩閥官僚派の抵抗と党内の派閥抗争のために、何ら具体的な政策を展開することなく、僅か4ヶ月で崩壊しました。官僚派の抵抗は、山県有朋に通ずる陸相桂太郎が閣内で大隈に抵抗したばかりでなく、文相尾崎行雄の「共和演説」をデッチあげて内閣を揺さぶりました。また、星亨の外相就任問題、尾崎文相の後任問題をめぐって、当初からガタついていた自由・進歩両派の対立が爆発し、ついに憲政党は真っ二つに分裂、初の政党内閣は10月31日にもろくも空中分解してしまいました。

(『エピソード 大隈重信』より)

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