WASEDA UNIVERSITY
創設者 大隈重信
創設者 大隈重信

HOME

大隈家の人々

 大隈の父保治は、有為の才を抱き、人を服せしめる徳があり、優れた軍学者、殊に荻野流の砲術家として名声が高かった人です。しかし、1850(嘉永3)年、八太郎(大隈重信の幼名)が12才の時、彼を頭に二男二女を遺して病没します。従って、父への記憶、父から受けた感化が明確で著大だとは言えませんが、大隈は早くより亡き父を敬慕すること厚く、自分も父の職を継ぎ、父の如くなることを理想としました。藩主鍋島直正が、彼の英敏の才に着目して、航海術を学ぶべきを勧めた時、これを辞して、兵法の修行を願います。

 敢えて藩主の命に背いても、父の業の砲術を継ごうとの希望に燃えたのですが、学問を修めるようになってこの夢を忘れ、遂に砲術とは似もつかぬ道を歩むようになったのは、大きな時勢の変化のしらしめたところです。

 父なき後の訓育は、専ら母三井子が一手に担いました。彼女は、温雅鷹揚、空竹を割ったようなさっぱりした性質ながら、慈愛心が深く、賢夫人というより、真に稀代の良母でした。一説によると、八太郎は幼時、病弱で、利発そうではでありませんでした。封建時代では、長男の賢愚英鈍は、家運に大きく関係するものと考えられていたので、母は熱心に神仏に祈念を凝らして、訓育に心気を砕きました。その甲斐あって、健康も少しずつよくなり、知力もしだいに進歩、遂に非凡の英才を発揮するに至りました。これも、ひとえに母の苦心によるところのものと伝えられています。

(『早稲田大学百年史 第一巻』より)

大隈家の団欒
大隈の生家
父信保と母三井子
育児観音と親孝行大隈
八太郎槙
綾子夫人
長女 大隈熊子


お問い合わせ | サイトマップ| 著作権について
Copyright(C) Waseda University.