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 大隈熊子は大隈重信の長女です。1863(文久3)年、佐賀に生まれますが、母美登とは大隈の維新政府出仕の頃に離別します。その後1871(明治4)年、祖母三井子と従者久松信親に伴われて上京し、以来祖母・父・義母綾子夫人と生活することとなります。

 1879(明治12)年に旧南部藩主の次男英麿(東京専門学校初代校長)と結婚し、その後英麿の第二高等中学校(現東北大学)教授赴任時には一時仙台で暮します。しかし東京高等商業学校(現一橋大学)教授転任に伴い上京し、夫妻共に早稲田の大隈邸に入ります。1902(明治35)年には、英麿が訳あって大隈家から離別することとなりますが、熊子は大隈家に留まります。

 熊子は実母と夫とに生別するという境遇をたどり、その生涯を大隈家の奥向き一切を仕切ることに費やしました。万事に行き届いた熊子の処置が交際の広い大隈家に何よりも必要とされました。

 熊子は、学問・識見・時事の考察等々、いずれもすぐれていたといわれ、人への応接は懇切丁寧、慈愛の心が厚かったそうです。このため、良家の子女は熊子の立居振舞いを模範としたといいます。大隈の旧藩以来の友人で歴史学者の久米邦武は、「日本の女性としてはあれ以上の人はあるまい」と評し、晩年の大隈の信頼を一身に受け、大隈家に朝に夕に出入りしていた第二代総長の塩沢昌貞も、「学問・識見・頭脳明晰といふような点においては老侯そっくりで、絶えず新聞や書籍を精読されて居るから時事問題等についても立派な堂々たる見識を持って居られた」と語っています。大隈のかつての盟友で酷評家と評された犬養毅でさえも、「熊子さんは男であろうものなら老侯よりは偉かったらう。政治家としても事業家としても大きなものになったらう。実に敬服すべき人だ」と賞賛してやみませんでした。大隈没後も、人々は「女性の老侯」に接し「高貴な清涼感」を味わう思いが続いたといいます。昭和8年(1933)、熊子は70歳で亡くなります。すぐさま編まれた「大隈熊子夫人現行録」には、その徳を慕う人々の心からの追悼追懐の情が溢れていました。

(『エピソード 大隈重信』より)

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