
早稲田から歩いて30〜40分、音羽通りが不忍通りとぶつかるところに大隈の墓所のある護国寺があります。仁王門をくぐり数十段の石段を上る頃には、通りを頻繁に行き交う車の音も消え、境内で遊ぶ子供たちの元気な声が聞こえてきます。石段を上りきり、不老門をくぐると本堂です。大隈の墓所は本堂の向かって右側、大きな石の鳥居の奥にあります。辺りには三条、山県らの墓所もありますが、大隈の墓所の広さは際立っています。
1922(大正11)年1月17日、日比谷公園で国民に最後の別れを告げた大隈の柩は、午後3時過ぎ、再び車に移され護国寺へと向かいました。自らを菅原道真の末裔と称した大隈にふさわしく、埋棺も神式で執り行われました。埋棺の後、遺族ほか参列者200余名が参拝し、最後に儀仗の騎兵が礼拝したときにはすでに午後9時40分だったといいます。この夜から早大生数名が交代で墓守をしました。
今日、大隈の墓の横には、向かって右側に母三井子、左側には翌1923(大正12)年に大隈の後を追うように没した綾子夫人の墓があります。まさに見上げるような大隈の墓標──方一尺五寸(約45センチメートル)、高さ二間半(約4.6メートル)といわれています──には、「従一位大勲位侯爵大隈重信之墓」と刻まれています。
大隈追悼の会は大阪、京都をはじめ国内外各地で開かれました。なかでも故郷佐賀にはその遺髪が移され、県民葬が盛大に執り行なわれました。現在、佐賀の龍泰寺にはその際の遺髪が安置されています。
(『エピソード 大隈重信』より)

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