Waseda Weekly早稲田ウィークリー

「カツ丼 早稲田発祥説」を探る -キング・オブ・ワセメシはなぜ生まれたのか-

大隈重信ゆかりの「三朝庵」

「早稲田はカツ丼発祥の地」という説は、多くの学生・校友の皆さんが聞いたことがあると思います。「尾張屋」「金城庵本館」「ごんべえ」「長岡屋総本店」など、早稲田大学周辺にはカツ丼を提供する飲食店は数多くあり、昼時には行列ができている店もあります。カロリーもボリュームもたっぷりで学生の胃袋を満たすカツ丼は、いわゆる「ワセメシ」の王者といっても過言ではないでしょう。全国的には和風だしで煮た卵とじカツ丼が主流ですが、福井県などではトンカツにソースをかけたものが「ソースカツ丼」として名物料理になっており、カツ丼といえば「ソースカツ丼」のことを指す地域もあります。ところが「卵とじ」でも「ソース」でも、そのルーツを調べていくと、どれも「早稲田」にたどり着くのです。『早稲田ウィークリー』編集室が探っていったところ、次々と明らかになるカツ丼を巡るエピソード。それはまるで「進取の精神」「久遠の理想」「東西古今の文化のうしほ」など、早稲田大学校歌にある数々の早稲田精神をカツ丼が具現化するかのような展開となりました。今回のSpecial Issueでは、「カツ丼」の早稲田発祥説を探求するルポを2週にわたってお届けします。

三朝庵に残る、大正期の店舗の写真。中央が2代目・鷹久氏

卵とじカツ丼発祥の店といわれるのが、早稲田キャンパス付近の馬場下町交差点にある江戸時代から続くと言われる老舗そば屋「三朝庵」です。早稲田実業学校卒の2代目店主・加藤鷹久(かとう・たかひさ)氏の著書『大隈重信候と学園内商店主の在り方』によると、現在の小石川後楽園の近くでそば屋「三河屋」を営んでいた初代店主・加藤朝治郎(かとう・あさじろう)氏が、1906(明治39)年9月、前身の「平野庵」からそば打ち道具などを買い取って地主・家主だった早稲田大学創設者・大隈重信(1838~1922年)と賃貸借契約を結び、朝治郎氏が「三河屋の朝(ちょう)さん」と呼ばれていたことから店名を三朝庵に改めました。

その後、大隈家から土地を譲り受けて現在に至ります。店ののれんには「早稲田最老舗」と書かれ、「元近衛騎兵連隊御用」「元大隈家御用」という看板も掲げられています。「三朝庵カツ丼発祥説」はテレビや雑誌などを通じて広く伝わっており、同店ではかつおだしで煮て、卵でとじるカツ丼が提供され、昼時は老若男女問わず多くの客でにぎわっています。

現在のおかみ・峯子さん。三朝庵に嫁いで約60年、現在も番台に座って客の注文をとって食券を配布している

朝治郎氏から数えると4代目となるおかみの加藤峯子(かとう・みねこ)さんは「うちのカツ丼は、余ったトンカツがもったいなかったから生まれた苦肉の策ですよ」と説明します。

鷹久氏から伝わる話では、大正初期は高級な洋食屋でしか食べられなかったトンカツでしたが、肉屋がコロッケなどの揚げ物と一緒に売り出すようになったため、1918(大正7)年、特別なお客さんの宴会があったときに小石川後楽園時代の知り合いの肉屋からトンカツを仕入れて出すようになりました。ところが、宴会によっては欠席があったりキャンセルがあったりして、高価なトンカツが余ってしまいました。朝治郎氏は「冷めたトンカツは客に出せない。なんとかならないか」と考えていると、常連の学生から「卵丼みたいにしたら」との提案があり、そばつゆで煮て卵でとじて作ってみたところ、次第に評判になっていったそうです。

三朝庵の外観。「元大隈家御用」と書かれた看板がある

三朝庵の店内。100年以上前の「大隈家御用」の看板も保管されている

ところで三朝庵は看板にある通り、大隈重信とさまざまな縁があります。『早稲田大学百年史』第一巻(早稲田大学出版部)には、「大隈家御用達」の看板にまつわるエピソードが書かれています。

「大隈は政界多忙の身でありながら、努めて学生の訪問を受けて、必ず蕎麦をふるまった。穴八幡下の三朝庵(前身は平野庵)が、明治三十九年に『大隈家御用達』の看板を受けたのもこの蕎麦が取り持つ縁で、老先輩達の多くがこの味を今もなお覚えているという。大隈が偉大な教育者であったことを裏付ける佳話である」

1927(昭和2)年10月20日、創立45年大隈記念講堂開館記念式典のときの馬場下町交差点で、左の建物が三朝庵と思われる

同じ方向を見た現在の馬場下町交差点。峯子さんによると、三朝庵のもともとの立地は同交差点の中央部に近く、穴八幡宮の麓にあったという

また、『大隈重信叢書Ⅰ― 大隈重信は語る』(早稲田大学出版部)では、1912(明治45・大正元)年、大隈自身が第2代内閣総理大臣の黒田清隆(1840~1900年)との交流について語っている中で、三朝庵が登場します。

「わが輩が脚に負傷したとき(※1)などは、度々見舞いに来てくれた。その度に鶏卵を袂の中に入れて持って来て、慰めてくれたものである。わが輩も黒田には随分傷められたが、実に親切な無邪気な男と思っている。確かその時分の事かと思うが、ある時黒田が飛白(かすり)の浴衣(ゆかた)か何か着て、わが輩のところに訪ねてきたが、その途中馬場八幡の下をわが輩のところに曲る角に、平野庵(三朝庵)という蕎麦屋がある―今もあるが、その平野庵に立ち寄って、腰掛けで蕎麦を喰った後で、小さく半紙の中に金を包んで、勘定はここに置くといってぷいと立ち去ったそうだ。後で平野庵の婆さんが開けてみたら、十円札(※2)が一枚あったので、正直な婆さんだからびっくりして、これは間違いだろう、書生さんのようだったが後で困るだろうといって、表に出てみたが影も形も見えない。人に聞くと何でも大隈さんの門の内に入ったとのことで、婆さんはわが輩の所にやって来て、今こういう書生さんは参りませんか、しかじかの次第です、と話したので、取次が黒田に聞いてみると、黒田は無造作に、そうか、その婆さんにこの次も又寄ってやるぞといえ、とのことで、取次が、今のは黒田伯だよ、この次も寄ってやるというから、貰ったらよかろう、というと、婆さんは、あの書生さんが黒田の御前ですか、と二度びっくり、恐縮して帰ったそうである。なかなか面白い男である」

※1)黒田内閣で外務大臣を務めていた大隈は1889年10月、爆弾による襲撃を受けた。
※2)当時のそば1杯の値段は1銭ほどなので、10円というと通常料金の1000倍。

さて、実際に三朝庵のカツ丼を食べてみます。熱々の白飯の上に十分に肉厚なトンカツが乗っかり、卵でしっかりとじられているおなじみのカツ丼。だしが利いた甘すぎない定番の味で、期待通りの安心感があります。

「こだわりカツ丼でわありません」と書かれた店内の張り紙

店内の壁には、「当店のカツ丼はこだわりカツ丼でわありません。普通のそば屋のカツ丼です」との張り紙があります。口コミや情報誌で“元祖”を聞きつけて期待して訪れる客があまりに多いことから、掲げているとのこと。しかし、こだわっていなくても、十分においしいカツ丼。平野庵の時代から、正直さも代々受け継いでいるようです。

早稲田大学高等学院の生徒が元祖だった?

もう一つのカツ丼発祥説が『早稲田大学八十年史』を執筆した、早稲田大学の非常勤講師で職員でもあった故・中西敬二郎(なかにし・けいにろう)氏が、高等学院の生徒だったときに考案したという説です。『早稲田大学史紀要 VOLⅡ NO1』(1967年)にある「かつ丼誕生記」には、穴八幡宮付近にあった「カフェーハウス」という店で、常連となっていた中西氏がカツ丼を開発したというエピソードが書かれています。

1921(大正10)年2月のこと。当時、早稲田大学周辺の飲食店は10店に満たなく、「高田牧舎」「三朝庵」「大野屋」か、ミルクホール(軽食店)が昼食をとる店だったそうです。カフェーハウスは、当時、早稲田通りを横切るように流れていたカニ川(蟹川とも金川とも伝えられます)にかかる橋のたもとにあり、下宿住まいだった高等学院1年生である18歳の中西氏は毎日利用していました。

馬場下町交差点付近にある細い路地がカニ川の跡で、橋が架かっていたという。「カフェーハウス」があったのはどの辺りだろうか?

カレーとカツ飯を交互に食べていた中西氏はさすがに飽きがきて、同じ料理の形を変えようと思い立ちました。店のキッチンに入った中西氏は、皿に乗っていたカツ飯を丼に変えて、カツを切ってその上に載せ、ウスターソースと小麦粉をフライパンで煮合わせ、とろみがついたソースを丼にかけて、エンドウをふりかけて食べてみました。乙な味がしたという中西氏はカフェーハウスの店主を説き伏せて、自ら「カツ丼」と名付けて特売品にさせたのです。カツ丼は友人たちの評判もよく、中西氏は「カツ丼誕生」と書いたチラシを店に張り出したところ、学生たちは大喜びして、注文が殺到したそうです。

それから60年を経た1981(昭和56)年4月27日付けの朝日新聞「東京食図鑑」というコラムに、「カツ丼を誕生させたのは早稲田大学の予科生だったというのがもっぱらの話。この学生の名前がわかったらいまなら大隈さんと同じくらいの銅像が建つかも知れない」と書いてあるのを中西氏は発見しました。そして、「実はその学生が私です」というはがきを同社に送ったところ、“中西流カツ丼”は同年6月3日付けの朝日新聞で、「われこそはカツどんの祖」との見出しが付けられ、写真と共に大きく取り上げられました。中西流をカツ丼の発祥とする説は、こうして定説として広まっていったようです。

1981(昭和56)年6月3日付けの朝日新聞紙面(承諾書番号A17-0006)。大隈銅像前で撮影した中西さんの写真も掲載されている

また、料理研究家・小菅桂子氏の『にっぽん洋食物語』(1983年、新潮社)で、中西氏はインタビューに応じて「ただカツライスを丼に入れただけのことなんですが感覚がちがって目新しく見えたんでしょう。あっという間に早稲田界隈の飲食店に広まり、四月には銀座、日本橋でもカツ丼のメニューを見かけるようになりましたが、もっとおどろいたのは、夏休みに大阪へ帰ったら道頓堀の飲食店にもあった、さすが食い倒れの大阪だと思いましたね」とも語っています。

中西氏の説は1921年なので、1918年の言い伝えがある三朝庵説のほうが古いということになりますが、中西説はその起源が1967年の文献に残されており、資料上で確認できるカツ丼起源説としては最も古いものといえるかもしれません。ところがこの二つのカツ丼よりもさらに古く、1913年にカツ丼を提供していたという店が新宿区早稲田鶴巻町にあったのです。

福井・ヨーロッパ軒のソースカツ丼

1982(昭和57)年の『早稲田学報』2月・3月合併号では、朝日新聞に掲載された中西氏の記事を読んだ中部工業大学名誉教授の故・竹内芳太郎(たけうち・よしたろう)氏(1923年理工学部卒)が、「カツドンと早稲田の学生」と題して思い出を語り、別の説を唱えています。1917(大正6)年、早稲田大学高等予科(早稲田大学高等学院の前身)に入学した竹内氏は「その頃、正門前の鶴巻町を少し入った右側に、余りパットしない食堂があった。その店でよくカツドンを食べた」というのです。

竹内氏は「店には箱形の火鉢があり、その上にオシメを乾燥する金網型のものがかぶせてあり、その段に、何枚ものカツがのせてあった。さめないためである。それをご飯の上にのせ、ソースか汁かをかけてたべた。無論カツドンといっていた。しかし今日のように、卵はかけてなかった」とその店について語っています。また、竹内氏の自叙伝『年輪の記』(1978年、相模書房)にもその店は「割合うまかったので、少し時間をおくれて行くと、腰掛ける場所を探すのに苦労するぐらい繁盛していた」とあります。さらに、穴八幡宮近くにあった「高田舎」(※「高田牧舎」とは関連がないようです)という店で卵をかけたカツ丼を食べたという記述もあります。

1913(大正2)年10月、創立30年祝賀アーチのかかった早稲田鶴巻町

往年のにぎわいから様変わりした、現在の早稲田鶴巻町の様子

年代や店の場所から推測するとこのソースカツ丼の店が、現在は福井県福井市に本店を構える「ヨーロッパ軒」の可能性があります。ヨーロッパ軒はドイツでの6年間の料理修行から帰ってきた同県出身の高畠増太郎氏が、1913(大正2)年11月28日、現在の新宿区早稲田鶴巻町にある早稲田大学120号館(早稲田実業学校中等部・高等部跡地)付近で創業しました。同年に開催された料理発表会で「ソースカツ丼」を披露したそうです。ソースカツ丼は今や福井の名物として、県民に親しまれています。

ヨーロッパ軒があったという「正門前の鶴巻町を少し入った右側」の現在

ヨーロッパ軒のソースカツ丼は、まず薄くスライスしたロース肉とモモ肉を、砂のように細かなパン粉でまぶしてラードなどでからりと揚げます。そして、高畠氏がドイツで出会ったウスターソースをベースに白飯に合うようにした特製ソースにつけて、ご飯の上に載せたものです。

福井県福井市に本店を構えるヨーロッパ軒3代目の高畠範行さんに話を聞きました。ソースカツ丼は大正初期の日本人が初めて出会った味。「“進取の精神”にかけて、早稲田に店を構えたのかもしれませんね」と笑う範行さんは、福井の名物料理として食文化を担う存在になったソースカツ丼の味を守り続けています。のれん分けを含めるとヨーロッパ軒は現在、県内で19店舗に広がりました。

「ヨーロッパ軒がカツ丼の元祖ではないか」という話は創業者からは伝わっておらず、雑誌などの取材を通じて知ったそうです。「店は繁盛したそうなのですが大学は休みが長いため、休み中は神奈川県葉山町でも店を開いていたそうです。ヨーロッパ軒は1917(大正6)年3月には横須賀市に移転したと祖父から聞いています。どうして、ルーツに関する諸説が生まれていったのかは分かりません」と、範行さんは語ります。

大正時代初期の古地図。牛込区早稲田鶴巻町8番地がヨーロッパ軒の当時の住所

三朝庵説は1918年、中西氏説は1921年。ヨーロッパ軒は1913年の創業当時からカツ丼を売り出していたことから歴史は最も古く、同店が本当の元祖といえそうです。ただし、これは決して元祖を名乗り出た中西氏の名誉を傷付けるようなことではなく、中西氏説があったからこそ新説が登場し、歴史に埋もれる事無く、さまざまな経過を経てヨーロッパ軒説が世に知られるようになったといえるのではないでしょうか。

その“元祖”であるヨーロッパ軒のソースカツ丼を食べてみました。油臭くないカツのサクッとした歯触り。ほぼ創業当時のレシピで受け継がれているソースの酸味と甘みが醸し出すまろやかな味が、白飯と絶妙に調和します。ソースだけをかけても、ご飯をかき込めるほどです。かつて早稲田で初めて誕生したという元祖カツ丼が、100年以上経た現在でも味わえるということに、深い感慨を覚えました。

これら3説が広く一般に伝わっているカツ丼発祥説になるのですが、卵とじであれ、ソースであれ、なぜ早稲田という地でカツ丼は交錯するのでしょうか。その答えはまだ分わかりませんが、カツレツをかつおだしで煮る和洋折衷のアイデア、一人の学生によって食文化の一つが創造されていく力強さ、明治・大正時代におけるドイツ仕込みという先進的な国際性…。どの説もグローバルユニバーシティ「早稲田大学」を象徴するようなエピソードにあふれ、カツ丼を頰ばると、「東西古今の文化のうしほ」という歌詞が聞こえてくるかのようです。

しかし、今回の早稲田とカツ丼を巡る探求はここで終わりません。早稲田大学がグローバルユニバーシティを目指しているのと同調するかのように、早稲田生まれのカツ丼は今、さらなる広がりを見せているのです。次号のカツ丼探求では、カツ丼・トンカツの世界展開を見据える「株式会社松屋フーズ」の瓦葺利夫会長(1966年商学部卒)の胸中に迫り、早稲田大学第2代学長・天野為之の出身地である佐賀県唐津市で起きているカツ丼ブームを追い、そして“元祖”の新展開を明らかにします。

※「『カツ丼 早稲田発祥説』を探る-キング・オブ・ワセメシはなぜ生まれたのか-」は2014年発行の早稲田大学校友広報紙「西北の風」に掲載した記事を再取材の上、大幅に加筆し、再編集しました。

大隈銅像と大隈記念講堂
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