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特集

宝塚女優と結婚した早大教授 逍遙のおい 坪内士行の青春 【10月21日 創立記念特集】

2016年度 創立記念特集

華やかな衣装を身にまとった女優陣が男役・娘役を演じ、絢爛(けんらん)豪華な舞台上で披露されるミュージカルや歌と踊りのショーで知られる「宝塚歌劇」。多くのファンに親しまれ、今やその人気は全国にとどろく宝塚歌劇団は1914年、兵庫県宝塚市の温泉街にあった屋内プールを改装した舞台で産声を上げました。100年以上に渡る歴史は、同市の宝塚大劇場内にある展示施設「宝塚歌劇の殿堂」で伝えられています。

「宝塚歌劇の殿堂」に飾られた坪内士行(右)と妻・操

宝塚大劇場で行われたレビュー『ロマンス!! Romance』。演出は岡田敬二さん(1963年 一文学部卒)が手掛けた

時代を彩ってきたスターの写真がずらりと並ぶその中で、異色といえる男女2人で写っている肖像写真があります。東京専門学校(※早稲田大学の前身)文学科の創設者・坪内逍遙の元養子で早稲田大学教授であった演出家・坪内士行(1887年-1986年)とその妻、宝塚歌劇団第1期生の女優・雲井浪子(1901年-2003年、本名・坪内操)です。唯一、夫婦で殿堂入りしました。

逍遙のおいとして生まれ、養子となって逍遙の後継者と期待されたものの、この結婚が原因で養子縁組を解消された士行。10月21日(金)に迎える創立記念日特集となる今回は、先人の功績に思いをはせ、98歳という長寿を全うし、破天荒かつ数奇な運命をたどった士行の青年時代を追います。

悲恋

殿堂内の士行を紹介しているブース。左下の写真はハムレットを演じた士行。台本なども展示されている

7歳の時に養子として逍遙に引き取られ、琴や三味線、日本舞踊、狂言など芸道の英才教育を受けた士行は、1909年に早稲田大学文学部英文科を首席で卒業しました。首席で卒業したのには理由があり、士行がその生涯を克明に記した一代記『越しかた九十年』(青蛙房、1977年)によれば、当時、不治の病と思われていた肺結核を患った女性との結婚の承諾を逍遙夫妻から得るためでした。生活を共にしていた若い書生を3人も肺結核で失っている逍遙夫妻。「肺病と聞いただけで身震いしたに相違ない」と思った士行ですが、「生まれて初めて得た恋を成就させんため」に「十分真剣な恋であり、しかも決して一時的な気まぐれでないことを証拠立てるためにも、全力を挙げて学業に励んだ結果を見て貰い、その努力と真実性によって父母の心を動かそうと思った次第である」と書いています。

「ノー」と言われることを覚悟していたものの、逍遙夫妻の回答は「イエス」。ただし、結婚は急がず、まず3年間、米国のハーバード大学に留学するという条件付きでした。大学を卒業した年の秋、士行はハーバード大学に留学し、演劇の泰斗、ジョージ・P. ベーカー教授に師事しました。ところが婚約者の病状が気になって学業がおぼつかない士行は、送ってもらった留学費や皿洗いで得た賃金を、療養費として日本に送金する毎日を送ります。そのかいもなく約1年後、婚約者の死の知らせを受け取った士行は、「その後の半年間の私の行動は、記憶もほとんど無い」というほど酒に溺れ、日本との連絡を一切断ち切ってしまいます。プールバーの客引きやホテルのエレベーターボーイなどの職を転々としますが、1911年秋、自らの行動を深く悔いて心機一転、英国へ渡りました。

辛苦

1913年にロンドンで上演された『タイフーン』で日本人留学生役を演じる士行(左)(『越しかた九十年』より)

英国での士行は、世界的な名優だったヘンリー・アーヴィングの次男で、俳優兼演出家のローレンス・アーヴィングと知り合います。そして、彼が座長を務める劇団に雇われ、端役でいくつかの劇に出演しながら英国の主要都市を旅興行で回りました。1913年春にロンドンで上演されて大ヒットした、日本人のスパイを描いた演劇『タイフーン』には重要な役柄で出演しました。当時の国王・王妃も観劇したそうです。この興業中、士行は劇場近くの青果店で働いていた米国人の女性と恋に落ちます。士行にとっては「戯れの恋と呼ばれても一言もない」恋だったのですが、女性は後に士行を日本まで追いかけてきて事実上の“妻”となり、逍遙から養子の籍を抜かれる遠因となりました。

1914年、第1次世界大戦が始まって生活に困った士行は、当時の早稲田大学総長・高田早苗に電報で金を無心しました。すぐに50ポンドを振り込んでもらった士行は、その半分を女性に与えます。戦争になった以上、英国では生活できないため、それぞれ日本と米国に帰国し、再び会える機会を待つという約束を交わし旅費として渡したのでした。1915年6月に帰国し逍遙の家に戻ると、「あなたの恋する妻より」と書かれた手紙が、すでに届いていました。かねてから養女くにと士行を結婚させようとしていた逍遙から、結婚の意思を問われた士行は、「英国で知り合った女を妻にしなければならない」と言って縁談を辞退。逍遙家から退去させられました。

帰国後、逍遙と高田早苗総長の厚意で早稲田大学文学部講師となった士行は、原稿料や演出料をかき集めて渡航費を工面して、1916年1月、“妻”を米国から日本へ呼びよせます。しかし、逍遙夫妻は決して“妻”とは会おうとせず、“妻”は失意のうちに生活が荒れはじめ、すったもんだの揚げ句、士行の他に恋人を作り、来日から3年後、新しい恋人と共に米国に帰国して行きました。「士行の苦労は、自分勝手な苦労だ」。士行の長女で女優・坪内ミキ子さん(1963年、第一文学部卒)によると、逍遙の妻・せんは、このように話していたそうです。

運命

『唖女房』に出演した雲井浪子(右)

“欧米帰りの逍遙の養子”として期待され、講師の他、翻訳や演出などで忙しい日々を送った士行は1918年2月、脚本・演出・主演の全てを手掛けて東京の旧帝国劇場で『ハムレット』を上演しました。西洋流の演出が好評を博して初日から満員となり、3階席のほとんどは早稲田の学生で埋め尽くされていたそうです。この成功によって士行を軸に新劇団の旗揚げが計画されたものの、士行が重い病に倒れて頓挫します。

しかし、仕事でも私事でも苦しむ中で、生涯にわたって世話になる宝塚歌劇団の創設者で阪急東宝グループの創業者・小林一三との出会いがありました。小林は士行を宝塚歌劇団(当時は宝塚少女歌劇養成会)の顧問として迎えるために、東京を訪れたのです。小林は逍遙にも丁寧な手紙を送って承諾を得ようとしました。1918年9月、31歳の士行は逍遙から認められて宝塚歌劇団の顧問となり、関西で16年間を過ごすことになります。さらに翌年の1919年に創立された宝塚音楽歌劇学校の嘱託となって、演出家としての第1作『唖(おし)女房』を発表しました。『唖女房』の主役はスターの雲井浪子で、この年の7月、2人は結婚しました。この結婚は当時の新聞でも大きく報じられました。

殿堂内の雲井浪子のブース

小林が士行を迎えた目的の一つは、宝塚歌劇団の少女たちの相手となる男性俳優の養成でした。ところが、士行は「男子禁制の小天地」で「汚らわしい男などと同じ舞台に立つことなどは、少女ら自身もであるが、それよりもむしろ少女らの親たちが断じて許さぬ物凄い雰囲気があった」と、極めて困難な状況だったことを回想しています。さらに結婚についても「歌劇のトップ・スターを引き抜き、手植えの花にしてしもう不届きな振舞」と批判されてしまったのです。1919年の年末、男性俳優を養成する「専科」は早くも解散となりました。

さらにこの結婚が原因で同年、士行は逍遙夫妻から養子の縁を切られてしまいます。離籍を伝える逍遙夫妻の使者となった士行の幼なじみは「くにさんと結婚されず、前には外国人夫人と、今度は又、見も知らぬ歌劇女優と結婚されるとなると、最も不安を感じられるのは老婦人(※せん)で、あなたがた夫婦に老後を託すよりは、とのお気持ちが強いらしい」と自分の推測を伝えています。養子縁組解消を回避するために、小林のさまざまな尽力がありましたが、かないませんでした。

恩義

「宝塚歌劇の殿堂」。スターの衣装や資料、写真などが展示されている

ところで、養子ではなくなった士行ですが、その後の逍遙夫妻との関係は決して悪いものではありませんでした。1927年、関西の宝塚中劇場で士行が『ハムレット』を主演した時は、逍遙夫妻は近くのホテルに宿泊し、誰にも知らせずに観劇したそうです。それを知った士行がホテルに駆け付けて礼を言うと、逍遙は「迷惑をかけまいと内緒で来たのだが。初めて見たが、思ったよりよかったよ」と答え、士行は「涙をおさえることができなかった」と語っています。

また1929年、早稲田大学演劇博物館の主催で、大隈記念講堂にて士行が上演した『ハムレット』や逍遙の戯曲『役の行者』は3日間とも大盛況となりました。公演が終わった翌日、逍遙は士行らスタッフ全員を大隈会館に招いて慰労会を開催し、全員に即席で書いた短冊を1枚1枚与えたそうです。

せんもまた、1940年に妻・操が39歳でミキ子さんを生んだ時、住んでいた静岡県熱海市から上京して士行夫妻のアパートを訪れ、「おお、いい子だ。お前によく似ている」と喜び、「私もここに来て住もうかね」と冗談を言うほど変わったそうです。

家族写真。左から士行、ミキ子さんと初孫、操(『越しかた九十年』より)

1919~1927年まで欧米文学劇や舞踏劇など約40作品を宝塚歌劇に提供した士行は、黎明期の宝塚歌劇を支えた演出家として2014年4月に開館した「宝塚歌劇の殿堂」に、1期生の「雲井浪子」と共に迎え入れられました。殿堂では「欧米で得た学識とミュージカルに対する理解は並ぶものがなく、宝塚の評判を高める原動力となった」とたたえられています。

『越しかた九十年』を、士行は「主として逍遙への詫び心を中心に進めていく」として書きました。「生まれて最初の30年は逍遙の養子として、次の30年は全く小林一三翁の庇護の下に働いたと言っていい」と2人への感謝を述べる士行。宝塚歌劇の仕事が終わった後も小林による士行への厚意は続き、東宝劇団の運営を任されたほか、東宝芸能事業株式会社の社長や会長などを歴任しました。その後は1942年に早稲田大学文学部講師、1952年に教授(第一文学部)となり、東洋大学や実践女子大学、神奈川歯科大学などでも教壇に立ちました。98歳で生涯を終え、士行本人の希望で遺体は献体されました。晩年に家族で住んでいた新宿区のアパートの書斎には、坪内逍遙と小林一三の写真が並んで飾られていました。

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