大久保山の地形 写真は前山から見た本庄市街の風景。上越新幹線本庄早稲田駅ができたため、こののどかな風景も急速に変わりつつある。冬の晴れた日にのぞむ、男体山‐赤城山‐浅間山の一連の山塊や本庄市の夜景は美しい。
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小山川こやまがわ、おやまがわ 早稲田本庄キャンパス南の小山川
 キャンパス南側を流れる。秩父郡皆野町を水源とし、妻沼町で利根川に合流する全長36kmの河川。JR高崎線を横切ったすぐ下流で志戸川と合流する。本来はこの合流点より下流の呼称である。合流点より上流は身馴(みなれ)川と呼ばれる。ただし、大正年間の河川改修後、管理上は上流を含めて小山川と呼ぶようになった。
 児玉町を扇頂とする扇状地を形成し、キャンパス付近を含め乏水性の地形を作っている。冬には児玉町高柳付近から、早稲田キャンパス付近まで水が伏流し、涸れ川(かれがわ)となる。改修前は蛇行河川であった。当時の河道跡が、老人ホームより南に100mほど行ったあたりに残っている。
身馴川の河道跡

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浅見山、浅見丘陵(あざみやま・あざみきゅうりょう 関越自動車道本庄児玉インター付近からの浅見山
 児玉町から北東に伸びる児玉丘陵の東半分をこう呼んでいる。西隣、児玉ゴルフクラブがある生野(なまの)丘陵が西半分をなしている。最高地点は105m。最高地点を中心として東西南北に四分した地域に、それぞれの呼称がある。東側地域が大久保山、西側地域は浅見山か東山と呼ばれる。南側は琴平山または中山、北側すなわち通学路が田圃から新幹線上に上ってくるあたりは前山と呼ばれている。地名は武蔵七党のひとつ、児玉等阿佐見氏の在所に由来する。山つつじが多いことから、地元の人たちはツツジ山の愛称で呼ぶこともある。丘陵周辺の平地には条里制の遺構が多く残っていたが、近年の耕地整理で確認が難しくなっている。
前山を通る通学路

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大久保山浅見山 本庄学院周辺の地名
 本庄高等学院の住所は本庄市大字西富田字大久保山です。この地名表記から早稲田大学本庄キャンパスがある丘陵全体の呼び名が大久保山であるように誤解されることがあります。 前回の浅見丘陵の説明で触れましたように、丘陵全体の名前は浅見丘陵、最高点の山は浅見山です。
 本庄キャンパスは本庄市、美里町にまたがっています。面積が70数ヘクタールもありますから長辺は1.5km近くもあります。大部分は本庄市に属し、大字では四方田、東富田、西富田、北堀、栗崎にまたがっています。南の一部分は美里町大字下児玉に属します。
  小字は下の図のようになっています。大久保山という地名が大字西富田の一部分をなす小字名であることがわかります。最近、新幹線の駅名が本庄早稲田に決まったという新聞の記事に、丘陵が大久保山として親しまれているというのがありました。それは間違いです。
 浅見丘陵のうち、本庄高等学院の校舎が建っている尾根筋は大久保山と呼ばれ(前回の浅見丘陵の説明参照)、もとのグラウンドも字大久保山に含まれています。したがって、本庄高等学院生にとっては大久保山という地名に親しみがあります。
  整理すると、丘陵全体の名前が浅見丘陵、校舎と元のグランドを含む一帯の小字名が大久保山、地名ではなく大久保という山は校舎がある付近の高まりを指しています。
  ちなみに、セミナーハウスの住所は本庄市大字栗崎字東谷、グラウンドと共通教室は大字栗崎字西谷、新幹線駅ができる付近は大字北堀字山ノ根と前山に属しています。

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山の信仰 移築された諏訪神社(美里町小茂田)
 浅見丘陵のような里山は、古くは生産の豊かさを祈る信仰の対象となっていました。神様が山にいて(山神さま)、集落や耕地を見守ってくれると考えたようです。米作をおこなう地域では、苗代(なわしろ−稲の苗を育てる場所)を作る頃に、山の神が山から田圃に降りてくると信じていました。このため、苗代をつくるときには、田圃に幣束(へいそく)を立てたり、神のよりしろとして竹をたてたりしました。 また、江戸時代後半に養蚕が盛んになった関東地方では、養蚕の先進地域であった信州(現長野県)の諏訪大社を諏訪神社やおすわ様として分祀、養蚕神として信仰し、豊蚕を祈願していました。埼玉県北部や西部は日本を代表する養蚕地域に成長していきましたので諏訪神社信仰も盛んとなりました。
 明治20年代初期に、日本ではじめて作られた地形図があります。当時は軍が地図を作っていたのですが、作成部局の名前をとって参謀本部図と呼んでいます。この地図で当時の浅見丘陵をみると、現在のキャンパス内に三つの神社が確認されます。 南の小山川に向かう斜面に二つ、元のグラウンドの北の尾根上に一つ神社があることがわかります。南の二つのうち、西にあったのが「山神様」、東にあるのが「諏訪神社」で大正時代から昭和初期に近くの大きな神社に合祀されました。諏訪神社の建物は美里町小茂田の個人宅に残されています。北側にあったのは金佐奈(かなさな)神社で、文字は異なりますが武蔵二の宮である金鑚神社(かなさなじんじゃ)を分祀したものと思われます。これも上と同じ頃に近くの産泰神社に合祀されました。

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溜池 新幹線駅からドミトリー方向を見たときの溜池 ドミトリー裏から新幹線方向に見た溜池
 新幹線本庄早稲田駅前に小さな池がある。下り線ホームに立つと、足元から水面がひろがっているように感じられる。今年は駅開業直後に池に沿った桜並木が満開となり、駅からも花見を楽しむことができた。池は地元の水田灌漑用につくられた溜池であったが、現在は調整池としての機能が大きい。キャンパス内の雨水と、インキュベーションセンター西の湧水を水源としている。
 本庄市の市街地と南部地域は本庄台地上にあり、古くから水の不足する地域であった。隣接する児玉町や美里町も乏水性の地形上にある。本庄・児玉周辺では溜池がたくさん見られる。丘陵地の谷口を堰き止めた小規模のものが多い。ほとんどが灌漑用水確保のために造成されたものである。美里町西部にある摩訶(まか)池のように、平安時代初期に作られたとの伝承が残っているものもある。キャンパス内にある溜池の造成年代は不明だが、明治中期の地形図にはすでに載っている。もともとの大きさは現在の半分ほどであったが、早稲田大学キャンパスとなってから、拡張された。この地域の水不足解消のため、江戸時代には神流川から取水する九郷用水も作られた。それでも年によっては深刻な水不足が生じた。水争いの記録をたくさん見ることができる。
 昭和55年、神流川の下久保ダムからの配水が許可され、ようやく安定した灌漑用水が確保された。現在では、キャンパスの北に広がる水田地帯は下久保ダムからの水を地下パイプラインで導水し灌漑している。

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男掘川(おとこぼりがわ)
男堀川にかかる水門
 本庄早稲田駅前広場を西から東に流れているのが男堀川である。本庄児玉インターの西で女堀川から分水、本庄総合公園の東・JR高崎線の手前で小山川に合流する。長さ5kmほどの用排水路である。駅前広場の一部は親水公園ふうになっている。駅に近いところでも釣りを楽しむ人の姿がみられる。駅工事以前には蛍をみることもできた。
 神川、児玉町、本庄市の一部を灌漑する九郷用水は、児玉町の東部で女堀川に流入する。その女堀川から分水し、浅見丘陵の北側の水田に用水を供給したのが男堀川である。新幹線駅の北側に広がる水田が九郷用水の水利権の及ぶ最も東の地域にあたる。
 駅の下を通って、キャンパス内にある溜池からの流れが男堀川に合流する。溜池からの水はキャンパス東の栗崎地区や北堀地区の水田灌漑に使われていた。現在では神流川の下久保ダムからの水が、地下パイプラインによって供給されるようになったので、男堀川は排水路としての機能が主要となっている。
 男堀川に架かる通学路の橋のすぐ下手に水門がある。キャンパス内の溜池からの水が、灌漑用水として多く使われていた頃に配水調節のために作られたものである。水門の脇には水の取り入れ口も認められる。
水門側から新幹線駅を臨む

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西谷
 浅見丘陵を南の上空から見ると、尾根がローマ字のEのような形をしている。詳しくいうと、尾根筋は曲線状で北、西、南の尾根は楕円の左半分の形、真ん中の尾根は北と南の尾根の1.5倍ほどの長さがある。西に向かって目いっぱいに弦を絞った弓矢の形にみえる。
 西谷は、E字形の真ん中と下の横線の間にある谷で、本庄市大字栗崎の小字名でもある。野球グランドの東、公道をへだてたあたりの耕地は小字名が「谷」で、ここも地形からとったと思われる地名となっている。共通教室棟とグランドの大部分が西谷にある。西谷は西が高く、東に向かって開けている。インキュベイションセンターなどがある谷に比べ、下流への傾斜、谷壁側の傾斜とも緩やかでのびのびした感じがする。部室の裏手には、季節的なものではあるが湧き水が認められる。
 キャンパスがある浅見丘陵や、周辺の生野(なまの)丘陵、松久丘陵は残丘と呼ばれる地形である。秩父山系が侵食を受け、平坦になっていく過程で取り残された高まりである。侵食した水系は、秩父山系から利根川に向かって流れたものと考えられる。三つの丘陵とも谷は東北東から北東方向に開けており、侵食を行ったのが現在の河川で言えば、神流川や小山川であると推計できる。

 ただし、さらに年代を遡った場合、荒川水系が侵食を行った可能性を捨てきれないとする研究も進んでいる。
図書館裏から望む西谷(2004年)

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前山まえやま) 前山の丘陵、春には近隣の幼小学校の遠足などでにぎわう(2003年撮影)
 草の野原が広がるゆるやかな稜線。JR高崎線本庄駅からの通学路が丘陵の登りにかかるあたりの前山の風景である。キャンパスがある浅見丘陵はいろいろな名前で呼ばれてきた。その名前は丘陵の一部を指すものもあれば、小字名として使用されているものもある。「前山」は浅見丘陵を自分たちの「村の前にある山」としてとらえたものと思われる。「郡村誌」によれば丘陵を前山の名で呼んでいるのは北堀と四方田地区の人々である。小字名の前山は二つあり、1つが本庄市大字四方田字前山、もう1つが本庄市大字北堀字前山である。四方田字前山はキャンパスの西北の丘陵部分の一部、北堀字前山が新幹線駅駐車場から通学路の東に広がる草に覆われた丘陵部分である。写真は新幹線駅東の前山を通学路から見たもの。
 「郡村誌」児玉郡北堀村(現在の本庄市北堀)の項に「前山、高凡26丈周囲本村限12町40間、村の乾の方にあり嶺上より二分し、南は栗崎村に属し、東北は本村に属す。孤立樹木鬱蒼登路なし」とある。
 かやぶき屋根の家が多くあり、農家が牛馬を飼っていた時代には屋根材のカヤや飼料の干草を得るために地域の共有地として「茅場」や「秣(まぐさ)場」を持つことがあった。茅場慣行とか秣場慣行という地域共同体運用の一側面である。草原状の前山の現況から、そういった慣行の場所かと思ったが「郡村誌」で見る限りではそういった利用はなかったようである。
 現在は本庄市の公園として草花が植えられ、市民の憩いの場となっている。年によって植えられる花を変えているようで、今年の秋咲きの花の開花が楽しみである。前山から見る赤城山をバックにした本庄市の眺めは雄大である。

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湧水わきみず、ゆうすい)
 雑木林は天然のダムである。面積が70ha余、周辺の水田との比高が50mほどの浅見丘陵も、多くの水を蓄える能力を持っている。腐葉土層や地中にしみ込んだ水は湧水となって流れ出す。今年は9月以降多くの雨が降った。このためか、普段の年はしみだす程度でしかない場所でも、流れを作るような湧水がみられたりしている。キャンパス内でほぼ一年を通して湧水があるのは、インキュベイションセンターがある谷の上部である。この湧水地点は危険防止用のフェンスで囲ってあり、その周りが篠藪になっていて湧水を観察することができない。部室北の湧水は、まとまって部室裏の側溝では流れとなっている。源をたどってみると、緩やかな草地のいたるところからしみ出していることがわかる。自修室の南にあたる谷筋にも、路上からしみ出すような湧水が見られることがある。水量は極めてすくなく、雨期を除けば流れとなることはない。
 新幹線駅南口から西へ300mほどのところに登山口がある。今年は登り口から50mくらい上がった地点で湧水がみられた。道の中央から湧き出している。堰き止めるとみるみる溜ってゆくので、水量は毎分4,5リットルあるとおもわれる。水は澄んでおり、道はきれいな小川と化している。写真はこの小川の湧水点を写したものである。(2004.10.16)ここは湧水がまったく見られない年もあり、今年のように湧水量が多いのはまれにみる現象かもしれない。
手前の水溜りのあたりから湧き出て流れる水、撮影2004年10月

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日蔭(ひかげ)、木蔭・木障(こさ)
 新幹線本庄早稲田駅西南の丘陵近くは山陰の地形である。冬には一日中陽が当たらないような場所もある。夏でも日照時間が短くなっている場所である。日照不足のため、周辺に比べて地温が低くなっている。地温が低い様子は降雪時や、夏のイネの生育期などに視覚的にとらえることができる。雪が降り始めると、このあたりから白くなり始める。一度積もった雪は凍結し、日当たりのよいところではとうに雪が消えてしまっても、ここだけは白いままということがよくある。
 日照に関連した地名に日向(ひなた)、日陰(ひかげ)がある。住まいや耕地の立地に深くかかわることなので、地名にも反映されているのであろう。日陰が地名になっている土地は、山陰の北向き斜面であり住まいや耕地には不向きである。住まいや耕地は反対側の南向き斜面にある。このため、東西に走る谷では日向、日陰の地名が並んでみられることもある。
 日陰になる場所の呼び名に「こさ」がある。漢字では「木陰」、「木障」の字を当てている。「こさ」は住居や樹木などの陰で日照不足となり、作物の成長に影響が出る耕地をいう。埼玉県北部では、防風のための屋敷森や防風垣(風除けの背の高い垣根)を持つ家が多かった。このため宅地北側に接する耕地の多くは「こさ」であった。水田では日照が不足すると稲が実を結ばないことがある。収穫期になっても茎や葉のほうは青々としたままである。地元では「あおさが立つ」と呼んでいるようである。山陰の水田でもこういった現象をみることがある。
本庄早稲田駅西南山沿いの道路周辺は殆ど日が当たらない、冬の朝は凍結に注意!

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鷺山(さぎやま)
 児玉丘陵のほぼ中央、早稲田大学本庄キャンパスの西隣に位置する小高い丘である。児玉丘陵は旧児玉町(2006年1月より本庄市)東部から、本庄市南部に広がる丘陵である。児玉丘陵は三つの丘陵から成っている。中心になるのは東西二つの丘陵である。西半分は生野(なまの)丘陵、東半分が浅見丘陵と呼ばれる部分で、100ヘクタールほどの面積を有する。生野丘陵はゴルフ場、浅見丘陵は早稲田大学本庄キャンパスとなっている。両丘陵は独立しており、間の平地には水田が広がっている。この水田の中にある小さな丘陵が鷺山である。面積は3,4ヘクタールほどしかないようにみえる。明治時代に郷土誌を著した河田羆は鷺山について「高さ44尺、共和村下浅見の南にあり、水田間に孤立し、鷺鳥多く集まるを以て此の名あり」と記している。高さ44尺(およそ13m)は周りの水田からの高さを表したものである。
 西北の最も高い部分は古墳となっていて、鷺山古墳と名づけられている。児玉町指定史跡(2006年1月の児玉町、本庄市合併後は本庄市指定史跡)である。全長60mの前方後方墳で、前部は一辺が30mの方形、後部が撥(ばち)形の方形となっている。底部穿孔の壷方土器等などが出土しており、4c後半の築造と推定される。県内最古の古墳と考えることができると解説用の柱に記されている。頂上部は篠が繁茂しており、裾野の部分は畑や宅地の一部となっているが、近寄って観察することは可能である。
外見からいまだ古墳の名残を感じさせる鷺山

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キャンパス周辺の田んぼののどかな風景も新幹線駅前開発に伴い、なくなりつつある。
 早稲田大学本庄キャンパスがある浅見丘陵は田んぼに囲まれている。丘陵から続く緩やかな傾斜地に少し畑があり、その先は田んぼとなっている。新幹線本庄早稲田駅の西や、キャンパスの南の小山川付近では丘陵のあしもとまで田んぼとなっている。丘陵に接する田んぼの中には、一年中水がたまった部分も見られる。それ以外はイネの収穫後には畑のように乾燥した土地となり、冬作物として小麦が栽培されている。
 年式の古い地形図では、一年中水がたまっている田んぼと乾燥する田んぼは別記号で表記されていた。地形図の地図記号は改定を繰り返し、現在田んぼの表記は一つに統一されている。また、土地利用の項目名は「田」となった。(したがって以下の文中では田と表記する)
 過去に使われた田の表記の種類をすべてあげると、「陸田」、「乾田」、「田」、「水田」、「湿田」、「深田」、「沼田」の7つである。田の種類を3つにわけて表記した時代は明治から昭和中期にまで及んだ。7つも用語があるのは、途中に別の表現に変更されたからである。「陸田」、「乾田」は季節によって、田あるいは畑として使用する土地。「水田」、「田」、「湿田」は四季を通じて水のある田。「深田」、「沼田」は泥が深く、ひざまでぬかるむ田と定義されている。
 昭和35年に加除された図より、3つに分ける方法は廃止となり「田」に統一された。したがって現在の地形図では湿地性の田なのか、乾燥性の土地なのかの区別はつかない。現地を観察するとキャンパス周辺の田の大部分は乾燥性の土地である。冬小麦が栽培されている田は畑と同じように見える。冬作が難しい湿った田では、地中に素焼きの土管を埋設した暗渠(あんきょ)を設け排水した。キャンパスより南の美里町の水田地帯では、広い範囲で暗渠排水をおこない、冬小麦の栽培をおこなっている。

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中山(なかやま
美里側から中山をのぞむ、円墳の宝庫である
 グラウンドの南に連なる丘陵を中山、または琴平山という。東は野球グラウンドセンター後方から西は関越自動車道の西側にまで及ぶ。丘陵を三つに分けて、東から順に東山、中山、西山と呼ぶこともある。この場合の中山は、サッカーグラウンドから南の中山集落に通じる道の付近をさしている。国土地理院の地形図には中山の名前は記入されていない。地元で使われていた名称と思われる。中山の地名を記録している文書で信用がおけそうなのが、明治中期に河田羆が著した「武蔵通誌・山岳編」である。河田の記述は、以後に発行される「郡村誌」などの郷土誌に引用されている。埼玉県、東京都、神奈川県の一都二県の主だった山について記述している。小さな丘陵にはほとんど触れていない。そんな中で、浅見丘陵についてだけは字数をさいており、キャンパス内の地名を知ることのできる貴重な資料である。
 中山について「高さ60尺、東児玉村下児玉北にあり、南面は懸崖にして諏訪神社あり」と記している。高さ60尺(およそ18m)は周りの水田よりの高さを示している。諏訪神社のあった位置は、明治20年発行の陸地測量部地形図で確認できる。野球グランドの南、小山川に面する丘陵の南向き斜面の中腹である。諏訪神社の祠は、明治時代に小山川の対岸にある美里町小茂田の個人屋敷内に移転され、現在も保存されている。崖は丘陵が小山川に最も近づくあたりにあり、横幅40〜50m、高さは7〜8m、ほぼ垂直である。
 中山の尾根筋には80を越える古墳が確認されている。サッカーグラウンドから南に抜ける道の峠には、庚申塔や山岳信仰講中の石碑などが残されている。

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井戸坂(いどざか)

 井戸坂はサッカーグラウンドから、丘陵南の中山集落へ向かって登る坂である。グラウンドの南に沿って東西に伸びる丘陵は、琴平山または中山と呼ばれる。琴平山の尾根には東西にはしる道路があり、それに直交する形でサッカーグラウンドと中山集落をむすぶ南北方向の道がある。直交するところは中山峠と呼ばれている。坂は自動車道として使われるようになって位置が変わったという。明治時代の地図をみると、中山集落から琴平山の尾根の頂上(中山峠)までは今の位置と同じである。峠からは尾根道を数十メートル西に進み、そこからゆるいカーブを描きながら北に下っていた。
現在グラウンドになっているあたりは、松林が広がるゆるやかな谷であった。谷は西谷(にしやつ)と呼ばれ、西谷は栗崎村(現本庄市栗崎)の小字名ともなっていた。西谷を東西に貫く道があり、丘陵の東と西の集落を結んでいた。現在の部室前を通り、野球場とテニスコートの間をぬける散策道はおおよそこの古い道の経路をたどっている。
 峠から下った井戸坂は、現在のサッカーグラウンドの北付近で古い東西に走る道にぶつかっていた。したがって長さおよそ150メートル弱の坂であったようである。現在の井戸坂は、峠からまっすぐに北へすすむ形に付け替えられ、もとの道よりも少し東に位置している。坂は、峠からサッカーグラウンド手前のT字路までの道となってしまった。その北は、グラウンド南の公道とサッカーグラウンドの敷地となり、当時の面影はない。
 かつてT字路の西、北向き斜面の下部あたりに井戸があって、通行するひとに水を供していたという。いまも水のしみだすことがあり、それほど深く掘らなくても水が得られそうな場所である。井戸坂の名は、この井戸に由来するといわれている。
学院サッカーグラウンド方向から見上げた井戸坂

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切通(きりどうし、きりとうし)

 切通とは山を切り取る工法によって作られた通路をいう。トンネルの屋根の部分を切り取ってしまったような形状になる。早稲田大学本庄キャンパス西南の関越自動車道、キャンパスの東北の新幹線、どちらも通過点は丘陵を切り取った切通となっている。
 ドミトリーから南に下る道はかなりの傾斜である。野球グラウンド西北の十字路に至る道は古くからの道を拡幅したものである。この道は明治時代の地図でみると、丘陵を貫く主道の一部であったことがわかる。ドミトリー付近は傾斜がきつくなっている。明治時代になると大八車に加えてリヤカーが普及する。大八車やリヤカー利用者にとってここの傾斜はかなりきついものであったと思われるが、切通などの道路改善は行われなかった。丘陵内を縦横にはしる小道の中にはさらに傾斜のあるものもある。そこにも切通はみられない。
 高度経済成長期以降に高速自動車道と新幹線がキャンパスをよぎって建設された。新しい交通手段では安全性や、時間的経済性が重んじられる。傾斜は極力小さく押さえられることが多い。キャンパス付近の関越自動車道の道路面や、新幹線軌道面はほぼフラットである。もともと、新幹線切通あたりの地形は現在の通学路跨線橋より高い丘陵面であった。新幹線駅ホームからは切り下げた様子を確認することができる。
 関越自動車道切通は、丘陵最高部である浅見山から西山に向かって伸びる尾根部分であった。切り取られた付近には、現在二つの橋が高速道路上に架けられている。南側の橋は高速道路を挟んで広がるキャンパスをつなぐものである。丘陵を切り取った後の法面(のりめん)は樹木で覆われ自然の山の斜面のようにみえる。このため、高速道路の西側のキャンパス(西山)は独立丘陵のようにみえる。丘陵から少し離れて高速道路が丘陵を貫く付近をみると切通であることがよくわかる。
切り通し、関越道とその側道をのぞむ

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中山峠

 サッカーグラウンドから丘陵南の中山集落へ至る山越え道の頂上が中山峠である。頂上は琴平山の尾根筋に位置している。琴平山はグラウンドの南にある丘陵で、東西に長く伸びている。尾根に沿って細い林道が通じ、道は行政界となっている。現在は本庄市と美里町の境であり、古くは栗崎村(現本庄市栗崎)と下児玉村(現美里町下児玉)の境であった。
 明治時代の地形図(参謀本部図)から判断すると、中山峠は丘陵の周りにある集落と中山集落を結ぶ最短の経路であったと思われる。浅見丘陵のまわりには北に久下塚村(現本庄市久下塚)、東に栗崎村、西に下浅見村(現本庄市児玉町下浅見)、南に下児玉村(現美里町下児玉)の四か村があった。中山集落は下児玉村に属する。
 栗崎村と下浅見村を結ぶ道と、それから分岐して久下塚村へ至る二本の道が丘陵内ではもっとも広い道であった。参謀本部図では村道(大正時代からの規定では幅2m以上)となっている。栗崎村と下浅見村を結ぶ経路は、現在の老人ホーム前のケヤキ並木道の南を西に進み、サッカー場の西に抜けていた。途中は野球グラウンドの北側から部室前をとおり、サッカーグラウンドの北をとおる現在の遊歩道あたりのコースである。分岐する道は、現在の野球場バックネット裏に近い十字路あたりで東西に走る村道からわかれていた。現在のドミトリー前バス停へ登る道がそれである。バス停からはドミトリーの建物付近を通過し、現在の通学路をたどり途中からゆるく溜池の西に下っていた。したがって、現在の道はドミトリー付近で峠のようなルートとなっているが、もとの道は尾根道というべきものであった。
 中山峠への道は東西を結ぶ村道から、現在のサッカー場の西のはずれあたりで分岐していた。
 道は徒小径と分類される幅1m以下のものであった。学院生が「けものみち」と呼んでいる道のような徒歩用の小道である。車社会となるまでは、農村部における人や物資の移動はこういった道路をつかっておこなわれていた。二つの村道を除けば、丘陵内の道の大部分は徒小径であった。
中山峠を美里方向からのぞむ

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野球グラウンド東を流れる美児沢用水(みこざわようすい)
美児沢用水(みこざわようすい
 野球グラウンド東の水田地帯を流れる用水路で、前田堀とも呼ばれる。美児沢用水は矢堀の末端部である。矢堀はキャンパスの西方約4.5kmの本庄市児玉町上真下(旧児玉町上真下)で九郷用水から分水している。キャンパスの最も西に位置する西山あたりでは丘陵に接して流れる。ここからは、西山、中山、東山の南側に沿って東流する。東山の東のはずれで、かなりの水量が小山川に落とされる。残りの水は堤防の下を暗渠で通過して野球グランド東の水田地域を潤している。
 小山川に水を落とす堰までを矢堀、堰より下流を美児沢用水と呼んでいる。美児沢用水は栗崎集落の東の水田をも灌漑し、現在の本庄市総合グラウンド付近で女堀に合流していた。現在では県道本庄―寄居線の手前で小山川に落ちている。新幹線工事などにより分断されたようである。
 美児沢用水が灌漑する野球グラウンド東の水田地帯は、区画整理がなされなかったため等高線に沿った複雑な区割りとなっている。流路も自然のままといったもので、緩やかに蛇行している。道はリヤカーが辛うじて通れる巾のものが一本通じている他は、耕地を区画する細い畦道だけである。直線の区割りは皆無である。
 美児沢用水周辺は、耕作者以外ほとんど人が入らないため自然がよく残っている。用水路ではドジョウ、メダカ、タニシなどが多くみられる。秋にはアキアカネやイナゴが群れる。野草が豊かに生育し、野ウサギやタヌキの姿を見ることもある。数年前にはイノシシに畑作物が荒らされたこともあった。唱歌の「ふるさと」や「春の小川」に歌われたような風景がみられる場所である。
 用水の堤はきわめて低く、ちょっとの増水で氾濫する。田植え直後には用水堀と水田が区別できない状況になることもしばしばである。美児沢用水には、グラウンド下を暗渠で流れてきた谷堀用水(やぼりようすい)が合流する。谷堀はたくさんの鉄分を含んでいる。川底に沈殿した鉄分がさびて、美児沢用水が赤茶けた色に染まることもある。

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灌漑用水として今も役割を果たす矢堀
矢堀(やぼり)
 矢堀は九郷用水の支線用水路で、児玉町(現在本庄市に合併)から浅見丘陵の南側を灌漑している。九郷用水は乏水性の地形である本庄台地を灌漑するために作られた用水である。その成立は中世までさかのぼれると伝えられている。
 早稲田大学本庄キャンパスがある浅見丘陵は本庄台地の上にある残丘である。周辺は小山川が作った扇状地となっている。地名の浅見は、「浅い水」に由来するとの説がある。丘陵内にはいくつかの湧水が確認でき、地下水位が浅いことがわかる。これに対し、丘陵の周辺の台地上は地下水位が深く水を得にくい地形が広がっている。上流にダムができる以前は、小山川は冬季に水が伏流する涸れ川であった。
 本庄台地上は、主要水源の小山川の水量が不安定であったため、稲作期間の水の確保に悩まされた地域であった。九郷用水によって水不足は緩和されたが、水供給量は広範な耕地に対し十分とは言えなかった。灌漑用水をめぐる水争いが頻繁に起こったという。第二次世界大戦後も、しばらくは水不足は改善されなかった。
 昭和55年に神流川に下久保ダムが完成、九郷用水への灌漑用水の安定供給が確保された。さらに近年、導水管による耕地への直接送水施設が整いようやく灌漑用水問題は解決した。
 矢堀は旧児玉町上真下で九郷用水から分水し、ほぼ真東に向かって流れる。児玉ゴルフ場がある生野丘陵の北側一帯の水田地域を灌漑している。そこから少し南に迂回し、その後浅見丘陵南側の水田を灌漑しながら東流する。キャンパスの南では三面コンクリートの人工的な水路となっている。浅見丘陵の東のはずれ付近に設けられた堰から大部分の水は小山川に落ちる。残りの水は堤防の下をくぐって美児沢用水となり、キャンパス南東の水田を灌漑している。
 コンクリートでかこわれた下流でも川岸の自然は豊かである。キャンパスの最西端に位置する西山付近では矢堀は丘陵に接して流れている。この付近ではセンニンソウ、黄花アヤメ、ヒガンバナ、ガマなどが自生している。さらに下流ではオドリコソウやセリの大きな群落も見られる。農作業用の車以外は通らないのでゆっくりと自然観察ができる場所である。

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食堂裏の中通り
中通り(なかどおり)
 浅見丘陵を東西に貫く道が二つあった。現在の諸施設を目印に位置を示すと次のようである。ひとつはドミトリー南から学院校舎付近を通り、食堂の裏に抜けていた「中通り」である。もうひとつがグラウンド北の遊歩道となっている「中道」である。どちらの道も校舎などの諸施設が建設される際に一部付け替え等がおこなわれた。それでも現在の道路の位置は、おおむね昔の「中通り」、「中道」と一致している。変わったのは道幅で、かなりの部分は自動車が通れるほどに広げられた。
 主要道路だったのは「中道」であり、「中通り」は山仕事などに使われる作業道であったようである。明治20年代の迅速図では、「中通り」の道幅は1.0〜1.6mの「騎小径」という範疇に含まれている。牛や馬に荷駄を乗せて通れるくらいの道であった。
 「中通り」は南北巾約1kmの浅見丘陵の中央付近を東西に貫いている。「中通り」の名は丘陵の中央を通る道からついたと思われる。浅見山大久保山の尾根筋を伝う尾根道で、途中から何本か周辺の集落に向かう道が分岐していた。いくつもの分岐した道路があるのは丘陵の機能と関係していたからと推測している。
 浅見丘陵は、もともと村人が共同利用できる「入会地」として利用されていたのではないだろうか。そのように推測するのは、周辺の集落の所有地が細かく分布するからである。大字四方田の場合は、5つの小字の所有地が丘陵内にある。また、大字西富田のように丘陵に接していない集落が丘陵内に飛び地を所有する例もある。このような形態は、周辺の集落が芝や薪炭などの燃料、屋根葺き用の萱、家畜飼料用の得る場所として共同利用したことに起因すると考えられる。埼玉県北部は平地の耕地化が進み、南部に比べて平地林がすくない。このため上に書いたような生活に必要なものを得るための「萱場」や「秣場(まぐさば)」確保が難しかった。丘陵ではそれらが確保できる。共存共栄のため、浅見丘陵の利用権を近くの集落だけが独占せず、周辺の集落にも分散したとおもわれる。
 「中通り」から分岐する沢山の道は、権利を持つ各集落から自分たちの入会地へ通ずる道であったと推測している。「中通り」はそれらが集まってくる、山仕事のための幹線としての機能を有する道だったのではないだろうか。

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現在のテニスコート脇を通る中道
中道(なかみち)
 浅見丘陵を東西に貫く二本の道の内、「中通り」は山仕事のための主要道であったと思われる。これに対し「中道」は丘陵の東西の集落を結ぶ生活道路であった。明治20年頃に発行された最初の地形図である迅速図は、往時の道路を確認できる資料である。迅速図によれば「中道」は、丘陵の東に位置する栗崎集落と、丘陵の西に位置する下浅見集落を最短距離で結ぶ道路であった。丘陵を迂回する道は、かなり遠回りになるので両集落間の行き来は主にこの道を利用したと思われる。道幅は丘陵内を通過する道の中では最も広く、地形図記号では「村道」という範疇に含まれる。「村道」はおよそ2〜3m巾の道であった。
 「中道」は丘陵を通過するわりには行程がほとんど平坦な道である。位置は現在のグラウンド付近、部室前を東西に通りぬける遊歩道のあたりであった。野球グラウンドより東は、理工学部研究棟の前の舗装道路からやや下った畑の中を通り、老人ホーム手前あたりから現在の県道寄居線に通じる道のルートとなっていた。サッカー場の西からは、現在の舗装道路の位置をたどり、丘陵を西に抜けていた。遊歩道付近では、現在より少し大きく蛇行する道であった。
 現在グラウンドがある場所は西谷(にしやつ)と呼ばれる谷である。松林や潅木林(人の背丈より低い木の林)であった西谷は、昭和21年から開拓され、集落も形成された。中国からの引揚者や都内から疎開した人、地元農家の後継ぎ以外の人などが開拓にあたった。開拓農家は8軒、屋敷は北側の山裾、現在のテニスコートあたりや部室北側に設けられた。開拓された農地は整然とした長方形で、「中道」も直線の道となった。中道は耕地を貫く道となり、農作業に行くにも、近隣の集落を訪れるにも使われる生活道路となる。
 それから十数年を経て浅見丘陵は早稲田大学の校地となった。開拓農家は昭和37年から39年にかけて西谷から移転した。西谷の耕地と宅地跡は、大学のグラウンドとして整備された。この整備の際に「中道」は現在の形の遊歩道となる。直線となっていた道は小さくカーブする現在の形状になり、両側にはモミジやケヤキが植えられた。

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美里方向から西山を望む
西山
 児玉郡美里村大字下児玉字西山、これが以前の住所表示である。西山は小字名であるとともに山の名前でもあった。西山は早稲田大学本庄キャンパスの最も西の位置にある。グラウンドの南にある帯状の丘陵は地名上、三つに分けられている。野球グラウンド南の東山、サッカーグラウンド南の中山、そこから更に西へたどると西山となる。西山の最高点は標高89.9m、丘陵全体が緩やかな地形で、みかけから最高点を確認するのは難しい。
 キャンパスは西山まで、そこから西方はゆるく下って平地になりその先に鷺山という小丘陵がある。北は雷神坂を経て、キャンパス内の最高地点浅見山に連なる。
 西山の中央を南北に関越自動車道が走っている。関越自動車道は切り通しとなって通過するため西山は東西に二分された。関越自動車道の西側は独立丘陵のような形となっている。この西側の部分周辺は近年宅地化が進み、西北ではキャンパスぎりぎりのところにまで住宅が建てられた。南側はゆるく傾斜しており、数筆の区画整理されていない耕地がみられる。昔ながらの山沿いの田畑の姿が残されている。
 畑から狭い巾の雑木林を北に進むと個人所有の梅林がある。梅林へは雑木林の中の入り口の定かでない細い道を分け入る。多くの人は梅林の存在に気がついていない。梅は実を採るために栽培されているもので、木はかなりの古木である。花を咲かせる3月ころには雑木林を背景にして桃源郷といった風情となる。梅林の周辺には茶の木や桑の木がかなり見られる。キャンパスとなる以前に茶畑や桑畑であったか、土止めのために植えられていたものと思われる。
 関越自動車道の東側の部分には以前「山の神」が祀られていた。現在その裾野のあたりはブルーベリー畑となっている。このあたりは山に抱かれたような南向きの耕地となっていて野菜だけでなく、何種類かの果物が栽培されている。
 西山は校舎から離れているため、学院生もめったに訪れない。そこがキャンパスの一部であることを知らない人もいるほどである。サッカーグラウンド南の中山峠から尾根伝いに西に向かう道をたどればいつの間にか西山に入っていることになる。関越自動車道の上には、二つに分けられてしまったに西山を結ぶ歩行専用の橋が架かっている。橋を渡りきって左に折れれば梅林の横を通り、南の畑に下る。右に折れた道をたどり、雑木林を抜ければキャンパスの最西端に至る。ただし、最西端に抜ける付近は、繁茂する雑木や柴のため真冬以外通過不能である。真冬でも足ごしらえをしっかりしていったほうがよい。ちょっとした冒険気分を味わえる丘陵と道である。

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大久保山 

 本庄市史は大久保山という地名について「大久保山は浅見山丘陵にある西富田村の飛び地で富田村が東・西に分かれた時、富田村分の浅見山山地を分けた」と記している。富田村が東西に分かれたのは天正年間(16世紀末)と推測されている。それ以降、大久保山は西富田村の小字名となった。西富田村は明治22年に北泉村大字西富田、昭和29年に本庄市大字西富田となり、現在に至っている。最近までの大久保山の地名表記は、本庄市大字西富田字大久保山となっていた。
 字大久保山の範囲は、北がインキュベイションセンター北の尾根、西が高等学院食堂、体育館の西あたり、南はC棟南の舗装道路、東は新幹線駅からドミトリーにいたる道である。地形的には、本庄高等学院校舎が建っている山(尾根)の部分と、インキュベイションセンターなどがある谷の部分からなる。このうち、地形としての山(尾根)の部分を西富田の人たちは大久保山と呼んでいると郡村誌は述べている。
 大久保山の尾根中央部分を削り、そこ学院が建設された。大久保山を概観すると、芸術棟の東に小さなピークがあり、現在の事務所前の駐車スペースあたりがコル(鞍部・・・尾根の低い部分)となりそこから食堂西にむかってゆるやかにのぼっている。
 大久保山(尾根)の北側には新幹線駅付近から南西方向にむかって谷が切れ込んでいる。谷の中にリサーチパークオンキャンパスの諸施設がある。谷は南側の大久保山、西の浅見山、北の前山に囲まれた窪地ともいえる形状をなしている。窪地は浅見丘陵の中で最も高低差のある谷である。おおくぼ山という地名はこの大きな窪地をもった山からきているのではないかと推測している。谷の中間あたりに浅見丘陵最大の湧水地があり、谷の新幹線に近いところ(谷の最も低い部分)には溜池が設けられている。
大学院研究室棟から望んだ大久保山

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六道辻 

 六道辻は現在のドミトリー前バス停と共通棟体育館の間あたりにあった六叉路の名前である。早稲田大学キャンパスとなってからは道路がつけかえられた。自動車道などとして整備されたため、名前がつけられた時代とは道路の位置がかわっている。現在、六本の道は一箇所では交わっていない。
六道辻で交わったのは以下の六本の道であった。六道辻を基点にして、西に向かうのは現在の高等学院校舎に登る道である。この道は六道辻からかなりの傾斜の坂道であった。現在は山を切り取った切り通しの緩やかな登り道となっている。元の道は3年生用駐輪場の上、北側斜面の中腹あたりにあった。南西に向かう道は自転車置き場と倉庫の横を通って部室方向に下る。もとの道はほぼ直線に近い形で現在の部室付近に通じていた。現在はS字状の道となっている。南東に下る道は共通教室棟体育館前を通り、図書館の南に通じる。現状はもとの道より大きくカーブしている。東に向かう道はもとの道に近い位置にある。現在は拡幅され、ドミトリー前から県道本庄―寄居線に通じる通学路となっている。北への道は溜池へ下るもので、いまの道路よりも少し東よりにあったようである。北東へ行く道は、ドミトリーの建物付近から松林の中を通り、宥勝寺(ゆうしょうじ)へ抜けていた。現在は途中までが廃道となっている。
 六道、六道辻という地名は全国に存在する。その多くは仏教の六道に通じるとして地名としたようである。仏教の六道は、人間が生死を繰り返していく六つの世界(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)を表しているという。現世で徳を積まないと、来世では餓鬼道や畜生道に落ちるという六道輪廻の考え方である。六道辻という地名は、こういった考えを喚起させる意味もあったと思われる。
 同時に地名の六道、六道辻は仏教の六地蔵と同じ意味をもつ場合もある。衆生を苦悩から救済するのが六つのお地蔵さんで、六地蔵とよばれている。お寺の地蔵堂や六地蔵と同じご利益があると親しまれた地名であった例も聞く。
 2005年度、芸術鑑賞教室で野村万作、萬斎父子が演じられた狂言の題が六地蔵であった。六地蔵をつくってもらおうとした田舎者がだまされそうになる話である。京にまで出て六地蔵を作ろうとする信仰心の厚さが、執拗に六体のお地蔵さんの確認を繰り返す田舎ものの行動に反映されていたと思う。地蔵祭りは今でも京都では大切な行事の一つである。
ドミトリー方向から見た六道辻

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谷地田(やつだ、やちだ)

 野球場東に広がる水田は「やつだ」とか「やちだ」と呼ばれている。このあたりは本庄市栗崎に属し、小字名では「谷」、読み方は「やつ」であった。「やつ」、「やち」とよばれる地名は全国に多くある。漢字では「谷地」、「谷」、「野地」、「谷津」等をあてている。「日本国語大辞典」(小学館)は「やつ」、「やち」の意味として「谷あいの土地」、「湿地帯」、「低湿地」などをあげ、アイヌ語の湿地を意味するヤチが語源であるとしている。
野球場東の水田も上に記した地形的特徴を持った場所である。グラウンドがある西谷(にしやつ)からつづく谷であり、湿地を形成している。グラウンドに近いあたりでは染み出すような湧水がいたるところでみられる。この湧水は赤茶けた色をしている。水や土が赤茶けた色をしている場所では、地表部分にアルミ分や鉄分が存在することが多い。この付近では特に鉄分が多いようである。
 水田地域の東半分は、もともと小山川の流路であったところである。河川改修によって現在は堤防の外側になっているが、標高は現在の流路水面と同じくらいしかない。旧河道の中央付近に残っている用水路周辺は湿地帯を形成している。この用水路と湿地帯は、景観と動植物の存在で貴重なものである。耕地整理がおこなわれなかったため、昔ながらの曲線主体の土地割がのこっている。日本では明治後半から大正時代にかけて、国の指導によって耕地整理(区画整理)事業が推進された。結果的に平地では直線状の耕地境界が一般的となり景色が温かみを失った。最近になって、耕地の価値を生産の場としてだけではなく、景観や洪水防止能力(天然のダム)などの面からも評価するようになった。
 曲線主体の畦道は温かみのある風景をつくる。野球グラウンド沿いの道から見下ろす水田は日本の原風景といってもいい眺めである。中に入れば、日本の原風景を体験できる。用水路にはメダカが群れて泳ぎ、ドジョウやタニシも多い。水面にはミズスマシが浮かび、オニヤンマが卵を産みつけている。秋には赤とんぼが群舞し、イナゴが群れ飛んでいる。時に野うさぎの姿を見ることもある。
 「やつ」は川の氾濫を利用した原始的な水田があった場であり、タニシや小魚を捕まえる漁労生活が可能な場所でもあった。おそらく古代人もこのあたりで生活したのではと考えたくなる。一度訪れることをお勧めする。ここでは古代人が味わったようなゆっくりした時間が流れている。
野球場東脇に広がるやつだ

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雷神坂

 サッカーグラウンドから舗装道路を西に進むと、高速道路手前50mくらいのところから分岐し右手(北方)へ登る坂道がある。この坂を地元の人は雷神坂と呼んでいる。坂をしばらく登ると平らな尾根道となり、道はインキュベイションセンター北へ通じている。
 名前の由来はさだかでない。地元の人の話をもとに仮説をたててみた。坂を登り始めてすぐの左手(西側)に電波塔が立っている。むかし、この付近に神社(祠)があったという。この神社が雷電神社で、そこに至る坂なので雷神坂の名がついたのではと推測した。
 関東地方北西部は雷の多い地域である。落雷による被害がかなりあったと聞いている。避難場所や避雷針が設けられた現在でも被害はある。農業地域では人々は、終日田畑に出て働いていたから落雷の危険にさらされることが多かった。落雷による家屋の焼失もあった。避雷針のなかった時代には、被害に合わないよう神に頼ったようである。
 避雷信仰の対象とされたのが雷電神社で、利根川流域に多く存在する。とりわけ群馬県前橋市から群馬県最東端の板倉町にいたる利根川周辺に集中する。雷電神社の多い地域と雷害の多い地域は分布が似ている。
 近年の気象学的研究で、関東北西部の雷の発生地域と雷雲の進行方向が明らかになってきた。川の上流の山岳地域で発雷し、流路に沿って下流方向に進むケースが多い。本庄市付近を襲う主な雷雲は4つである。西南方向からは神流川(かんながわ)、西からは烏川(からすがわ)、北西からは利根川、北東からは渡良瀬川に沿って進んでくる。これらの河川が平地にはいって流れるあたりに雷電神社が多く分布している。本庄市付近は雷電神社分布の西部地域にあたる。
 本庄市近くで神流川、烏川、利根川が合流するから、このあたりは雷銀座と呼ばれるほど襲雷の頻度が高い。中でも神流川ルートの雷は「御荷鉾の山賊雨」として恐れられている。御荷鉾(みかぼ)は群馬県藤岡市南西にある山の名前で、この付近で発雷することが多く雷は神流川にそって平地に進出する。御荷鉾山から利根川合流点までの距離は20kmほど、雷が山から平地に急襲するように感じられた。地元の人々は、山賊のように襲うからとか、麦の束を三束(さんぞく)たばねる間に襲ってくるからと説明してくれた。初夏の農作業は麦刈り用や桑きり用の鎌、桑摘みのための爪(指に装着する刃物)など金属を身近におく作業である。襲雷は命にかかわる問題であった。せっかく乾燥した小麦を濡らせば品質が落ち、収入の減少につながった。
 こういった背景があって、少し南にあった五穀豊穣をねがう山の神とあわせ、同じ丘陵内に雷神を祀り雷電神社としたのではないかと推測した。

インキュベーションセンター裏へ抜ける雷神坂

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