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2010年度 秋季企画展「早稲田四尊生誕150周年記念 高田早苗展」

秋季企画展 早稲田四尊生誕150周年記念 高田早苗展

期間:2010年10月15日(金)‐11月27日(土)

会場:大隈記念タワー 10階 125記念室

初代学長・高田早苗の知られざる多面的・先駆的活動

真辺 将之/早稲田大学大学史資料センター助手

左より高田早苗・天野為之・坪内逍遥

左より高田早苗・天野為之・坪内逍遥

早稲田大学の創設者は大隈重信である。しかし、実際に東京専門学校創立から、早稲田大学へと発展していくにあたって、長らくその運営の実務を担い続けたのは、高田早苗・市島謙吉・坪内逍遥・天野為之のいわゆる「早稲田四尊」と呼ばれる人々であった。彼らはいずれも東京大学の同級生であり、2010年は、彼らの生誕から数えて150年の記念すべき年に当たる。大学史資料センターでは、このうち彼らの中のリーダー格であった高田早苗にスポットを当て、秋季企画展「高田早苗展」を開催する。

早稲田大学発展の最大功労者

古稀記念会にて (左より市島謙吉・高田早苗・坪内逍遥・浮田和民)

古稀記念会にて
(左より市島謙吉・高田早苗・坪内逍遥・浮田和民)

早稲田に籍を置く者ならば誰でも、高田早苗の名前ぐらいは知っているであろう。そして高田が早稲田大学の草創期においてその発展の礎を築いた人物であることも、さほど詳しくはなくとも知っているのではないだろうか。高田は東京専門学校の創設時から講師として教鞭を執るとともに学校運営の中核を担い、1902年に早稲田大学と改称した際に初代学長に就任した。1905年に文部大臣就任のために学長を辞し、その後「早稲田騒動」により学苑を一旦は離れるが、1918年に早稲田大学が大学令に基づく正式な大学に昇格し、1922年に大隈重信が没すると、高田は学苑を代表する総長として大学運営に復帰し、昭和初期まで学苑の発展に身を挺した。

しかしこの高田が、早稲田大学の育成だけでなく、近代日本の諸分野にわたって先駆的活動を行っていたことは、社会一般はいうまでもなく、早稲田に籍を置くものの中でもほとんど知られていないのではないだろうか。

先駆的学問の導入に力を尽くす

東京大学在学中の高田早苗(前列右)

東京大学在学中の高田早苗(前列右)

こうした活動のなかでまず第一に挙げられるのは、学者・研究者としての業績である。高田早苗は東京大学で英米流の政治学をはじめとする最新の学問を学び、以後、政治学はもちろん、貨幣論・租税論等の経済学関係のものや、美辞学(修辞学)など、広い範囲の書物を刊行し、英米系の最新の学問を紹介している。高田の学問の特色はその先駆性にあり、当時の日本人がまだ着目していないような新しい学問を日本に紹介しつづけた。例えば、高田はアメリカの政治学者ウィルソンの“The State”をいち早く翻訳して『政治汎論』として紹介しているが、当時ウィルソンはまだ30代の駆け出しの研究者であり、日本でその名を知るものはほとんどいなかった。しかしこのウィルソンはその後政治学の世界でめきめきと頭角をあらわし、のちに第28代アメリカ合衆国大統領に就任、国際連盟の設置を提唱して世界にその名を知られることになる。

西洋の修辞学を先駆的に紹介した『美辞学』

西洋の修辞学を先駆的に紹介した『美辞学』

ウィルソン著・高田早苗訳『政治汎論』

ウィルソン著・高田早苗訳『政治汎論』

政治家としての活動

文部大臣時代の高田早苗夫妻 (大正天皇即位大礼時)

文部大臣時代の高田早苗夫妻
(大正天皇即位大礼時)

高田は政治を学問的に探求するだけでなく、自ら政治の世界に飛び込んだ。1890年の第1回衆議院議員総選挙に埼玉県第2区(川越近辺)から立候補し当選、以後合計6回の選挙に当選し、議会の回次にして14回の議会を衆議院議員として活動した。高田は一貫して大隈系の政党(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党)に所属し、その美貌と大隈のブレーンとしての位置から「改進党の張子房」と呼ばれた。早稲田大学の経営に専念するため1904年以降は立候補せず、政界を引退したが、1914年に第2次大隈重信内閣が誕生し、翌年内閣改造が行なわれると、文部大臣に就任、再び政界で活動することとなる。

「社会に先立つ一歩なるべし、二歩なるべからず」−ジャーナリストとして

読売新聞連載「国会問答」

読売新聞連載「国会問答」

また高田はジャーナリストとしても活動した。1886年1月に読売新聞の社説執筆者として招聘され、「松屋主人」の筆名で論説を寄せるようになる。ついで1887年10月1日、同紙の主筆に就任。高田は紙面改革を断行し、著名な文学者たちを招聘し、読売は「文学新聞」としてその名を知られるようになる。またその一方で政治関連の記事の充実にも力を入れた。高田のジャーナリストとしてのモットーは、「社会に先立つ一歩なるべし、二歩なるべからず」というもので、「国会問答」「通俗大日本帝国憲法註釈」など、新たにつくられた政治制度をわかりやすく解説する連載記事を掲載して、民衆の政治的成長を促した。こうした紙面改革の効果あって、読売新聞の売上は飛躍的に伸びたといわれる。

「批評の元祖」—文学・芸術面での活動

読売新聞の文学新聞としての名を高めただけでなく、高田は自ら文芸批評をものした。高田は、親友坪内逍遥の記した『当世書生気質』の批評や、当時のベストセラー『佳人之奇遇』の批評を『中央学術雑誌』に発表するなど、近代的文芸批評の手法を先駆的に自ら実演してみせ、当時の人々から「批評の元祖」と呼ばれた。また演劇の世界においても、その近代化を目指して演劇改良運動に従事するなど、斯界の発展に貢献した。親友・坪内逍遥による東京専門学校文学科の創設にあたってはそれを全面的に支援し、多数の文学者を講師として招いた。

企業経営家としての側面も

日清印刷株式会社 創立関連史料

日清印刷株式会社
創立関連史料

高田には起業家としての一面もあった。最も代表的なものは東京専門学校出版部(現在の早稲田大学出版部)の経営で、出版部が経営危機に陥ったとき高田は出版部を学校から分離し、そのリスクを一身に背負って経営を立て直した。また、早稲田大学関係者によって創立された日清印刷株式会社(現・大日本印刷)や、日清生命保険株式会社(現・T&Dフィナンシャル生命)の産婆役を果たした。ほかにも、起業を志す校友を渋沢栄一らの実業家に紹介するなど、陰から校友たちの起業活動を支えた。

高田早苗を見つめなおすきっかけに

今回の「高田早苗展」では、早稲田大学の育成者としての活動はもちろんのこと、以上述べてきたようなこれまであまり知られていない高田の多彩で先駆的な活動にもスポットを当てている。また高田早苗の御子孫の方からも史料を借用し、プライベートな側面にも光を当てた。少しでも多くの方が「高田早苗展」をご覧になり、高田に関心を持っていただければ幸いである。なお、高田早苗には回顧録『半峰昔ばなし』が存在し、近代日本の多方面にわたって貴重な証言を残しており、また大学史資料センターでも、高田早苗の多方面にわたる活動を学問的に検討した『高田早苗の総合的研究』を刊行している。展示をご覧になって高田に興味を抱いた方は、ぜひこれらの書物を手にとって読んでいただき、早稲田が誇る偉人の一人である高田を見つめなおすきっかけにしていただければ幸いである。

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