CIE NEWS LETTER
わたしの留学時代 Center For International Education, Waseda University
「思い出の岐阜留学」
  法学部助教授、国際教養学部講義科目担当 ゲイ・ローリー
18歳の夏。1978年岐阜にて



現在



  最初に日本の地を踏んだのは、1978年1月のことで、そのときは自分がこれから学ぼうとしている国とその国の人々のとりこになり、一生かかわり続けるとは夢にも思わない私でした。私が育ったオーストラリアでは、当時はまだヨーロッパ文化が中心で、私が通っていた女子校でも外国語科目はフランス語とドイツ語しか選択できませんでした。アジアの芸術、歴史、宗教などについてはどの科目でも一部分たりとも触れられたことはなかったのです。このような日本に関しては殆ど何もわからない状態でオーストラリアの真夏の日差しと暑さから一転、真冬の羽田空港に降り立ったときはショックを受けてしまいました。そして自分が一言の日本語も話せなかったことに愕然とします。これからどうしようかと不安になりました。
  心配には及びませんでした。スポンサーの岐阜ロータリークラブでは1年間私がお世話になる家庭を6家族手配しておいてくれ、どの家庭も私を特別なやさしさと寛容さをもって大切にしてくれ、今振り返って、一緒に生活をしながら17歳の無知な外人の女の子に合わせるということがいかに有難いことだったかと、感動を覚えます。ホストファミリーの方々はいろいろな社会階層に位置する人たちでした。歯科医とその奥様の家にはじまり、小さな会社のサラリーマンの家でご厄介になり、その次は家族の住まいが店の奥と二階にあるかばん屋さん。名古屋での夏は、とある資産家のお宅にお世話になりました。秋は岐阜に戻ってきて、パチプロと銘打つご主人とデパートに勤める奥さんの元で暮らしました。最後のホストファミリーは長良川の土手で旅館を営む3世代同居のご家族でした。その1年間、私はスペイン人と日本人の修道女が運営する聖マリア修道院の学校に通っておりました。
   ホストファミリーの親御さんたちは、鮮明で痛々しい戦争の思い出を抱えている方たちでした。「お父さん」たちは当時は戦地に行って戦うには幼すぎた人が殆どでしたが、中にお一方、オーストラリアの北部にスパイとして潜入された方がいらっしゃいました。また、カミカゼ特攻隊員だったお父さんもいましたし、学徒動員の経験をもつお父さんもいらっしゃいました。また、日本占領下の朝鮮で育った「お母さん」が一人、そして戦争末期に岐阜が空襲にあった最中を生き延びたお母さんもいらっしゃいました。今思えば、この時代の日本人は、かつての敵国からの留学生を自宅に泊めることで何らかの明るく恒久的な道を創り出し、悲惨な年月の間に破壊され失ったものを埋め合わせようとしていたのではないでしょうか。
   岐阜で過ごした1年の交換留学は私の人生の方向を変えてくれました。オーストラリアに戻ってから私は大学で日本語を専攻することを決意し、その後さらに研究をすすめるために日本に戻ってまいりました。今も日本文学を研究していることを幸せに思っております。
   岐阜での「最初の一年」に感謝をこめて。