早稲田大学東洋哲学会 大会

 

 

〈日 時〉 二〇〇五年六月十一日(土曜日)

〈会 場〉 早稲田大学文学部 三十三号館二階 第一会議室

 

〈研究発表および講演要旨〉

 

【研究発表】

 

 

王夫之の大学解釈

松野 敏之

明末清初の王夫之(一六一九―一六九二)が説いた大学については、致知と正心の観点から論じられることが多い。それは、朱子学が格物を重視したことに対する致知、陽明学が誠意を重視したことに対する正心の強調であると言われるのだが、致知と正心の重視だけを王夫之の大学解釈とはできない。本発表では、王夫之が八条目の違いを説く一方で、どのような観点から大学を統一的に解釈したかについて検討したい。

 

 

「思孟学派」の再検討――《五行》と『孟子』の性説・修養論の比較――

渋谷 由紀

  馬王堆帛書《五行篇》の修養論は郭店楚簡《五行》の段階的修養論を受け継ぎ発展させているが、その性説は身体的・感覚的な欲望を「性」に含める点において『孟子』とは異なっている。出土文字資料である馬王堆帛書《五行篇》・郭店楚簡《五行》と『孟子』とは、共に「思孟学派」の文献である、とする説が現在ほぼ定説となっているが、本発表ではこの三つの文献を比較検討することで、「思孟学派」説の再検討を試みたい。

 

 

宝地房証真の断惑論

松本 知己

 平安末から鎌倉初期の天台学僧である宝地房証真は、「三大部私記」をはじめ多数の著述を行い、「中古の哲匠」と称されてきた。従来、証真の学風は文献主義、教相主義との評価がなされているが、その教学体系の詳細については究明すべき点が多い。本発表では、その一環として、主に『法華玄義私記』に展開される断惑論を検討し、天台教学の基礎をなす三惑及びその断証に関する証真の理解がいかなるものであったか考察すると共に、後世への影響についても論ずることとしたい。

 

 

『識身足論』における三世実有の一理由の考察

――なぜ、「観察されるものは、存在しなければならない」か――

飛田 康裕

 説一切有部は、「過去と未来と現在の有為法は、個別のあり方をするものとして、存在する(三世実有)」と一貫して主張する。しかし、その理由として挙げられるものは、論書により様々である。今回は『識身足論』(紀元前二世紀頃?)にあらわれる最古の三世実有論の七種の理由のうち、「観察されるから、存在する」というものに注目し、その分析を通して、彼らが如何なる意図のもとにこの理由を掲げたのかについて考察してみたい。

 

 

『声聞地』の成立とその背景――帰属をめぐって

デレアヌ フロリン

 この発表において、『瑜伽師地論』中の第十三地『声聞地』の成立とその思想背景を考察したい。まず、『声聞地』の構造と成立層を分析し、『瑜伽師地論』全体の編纂と年代の関連を述べたい。『声聞地』の思想と従来の部派の教理との関係を断定する事は、必ずしも簡単ではないが、教理背景が確認できる箇所では、経量部に近似しているものや独自の見解等が認められる。

 

 

【講 演】

 

訳経史と禅宗――月をさす指の喩え――

岡部 和雄

 仏教文献の豊富・厖大な点では中国に匹敵するところは少ないであろう。かれらは兵火の難から仏典を守るために長大な歳月をかけて一切経を石に刻んだこともある。他方、禅宗は「不立文字」「教外別伝」を標榜し、文字と文献への拘泥を打破せんとして教宗(経宗)を攻撃したが、やがて禅的表現をもてあそんで厖大な禅文献(燈史・語録)を生みだすにいたった。今回は、禅宗がつくった偽経類を例としながら、中国訳経史のいくつかの問題を考察してみたい。