● 宮城徳也先生のご寄稿

ラテン語・ラテン文学が好きです linguam et litteras latinas amo
 「博覧強記の哲人」などと書かれたこともあり、思わずひいてしまって、助手の皆さんのご努力で専修HPが立ち上がってからすでに半年が過ぎたというのに、私のエッセイ空欄のままで大変失礼いたしました。どういう文章になるか不安ですが、とりあえず書き出して見ます。

 「博覧強記」に関しては、学生時代に「錯乱狂気」と言われていました。これはもうシャレとして通用しないかも知れませんが、高校時代「俺は哲学者になる」と豪語して(「詩人になる」とほざいていた時もあります)、「哲人28号」と揶揄されていました。ですから、お世辞と言うよりは冷やかしに近いかも知れませんが、「博覧強記の哲人」などと言われるとまんざらでもありません。

 何を書こうか色々迷いましたが、とりあえず「ラテン語との出会い」について書こうと思います。多くの人と同じように、私が最初に覚えたラテン語は「我思う、故に我有り」だったような気がするのですが、それがフランス語(ジュ・パンス・ドンク・ジュ・スュィ)だったかラテン語(コーギトー・エルゴー・スム)だったか遠い記憶の彼方になってしまい、今は定かではありません。

 高校に入学したとき、柄にもなく合唱団に参加せざるを得ない状況に陥り、歌った曲が十六世紀スペインの作曲家トマス・ルイス・デ・ビクトリアの「アヴェ・マリア」でした。したがって、私が明確に記憶している限りで最初に出会ったラテン語は以下の歌詞でした。 
 Ave Maria, gratia plena, dominus tecum. Benedicta tu in mulieribus. Et benedictus fructus ventris tui Jesus Christus. Sancta Maria, mater Dei, ora pro nobis peccatoribus nunc et in hora mortis nostrae, Amen.
 記憶だけで書いているので、間違いがあるかも知れませんが、試訳すれば「恩寵に満ちた女性マリアよ、主があなたとともにおられます。あなたは女性の中でも祝福された方です。そしてあなたの胎内の祝福された果実がイエス・キリストです。聖なるマリアよ、神の母よ、私たち罪人(つみびと)のために祈って下さい。今この時も、そして私たちの死の時も。アーメン」となります。「アーメン」は「そのようでありますように」というヘブライ語のはずですので私の守備範囲ではありません。

 単純にラテン語はイタリア語の先祖と思っておられる方も多いでしょうし、事実その通りなのですが、両方学んだ人は両者のあまりにも違うリズム感のようなものを感じると思います。大学生になってヴィスコンティ監督の映画「山猫」を見たとき、公爵の家で「アヴェ・マリア」をお経のように唱えていたのが印象的です。

 これは良く知られた歌詞であり、パレストリーナやシューベルトなど多くの有名な作曲家の無数の「アヴェ・マリア」がありますので、とりたてて言うこともないのですが、その時合唱団をやめる勇気がなく、またしても歌う羽目になった二曲目も歌詞はラテン語でした。大バッハと言われるヨハン・ゼバスティアン生誕の丁度百年前に生まれた「ドイツ音楽の父」ハインリッヒ・シュッツの曲でした。シュッツはバッハと同じくプロテスタントの作曲家ですので、ドイツ語の歌詞が多いのですが、ラテン語の曲も多数作りました。歌詞はこうだったと思います。
Deus misereatur nostri et benedicat nobis. Illuminet vultum suum super nos et misereatur nostri.
 「エト・ベネディーカト・ノービース」というフレーズが、ゼフィレッリ監督の映画「ロミオとジュリエット」(ディカプリオ主演のものではない)のテーマ曲によく似ていたのが忘れられませんが、この歌詞の大体の意味を押さえることは初学者でも難しくはありません。

 辞書に載っている意味を並べただけでも、次の試訳くらいは簡単にできます。「神が私たちを憐れんで下さり、私たちを祝福して下さいますように。そのお顔を私たちの上に輝かし、私たちを憐れんで下さいますように」という意味だと思います。しかし、私が担当する「入門ラテン語」の熱心な受講生の皆さんでも、これを文法的に完璧に説明するのは相当の困難を伴うはずです。

 第一語のDeusは「神よ」という呼格ではなく、「神が」という主格です。第二語のmisereaturですが、まだ能動相の動詞活用しか学んでいない段階では、この活用語尾が受動相のものであることはわからないでしょう。また、受動相を学んだ後でも直説法しか学んでいない場合は、これが接続法・現在の活用形であることにも思いが至らないと思います。さらにこの動詞が、能動相が欠如していて、受動相で能動の意味を表す「形式受動相動詞」(能動相欠如動詞)misereorであることがわかるまでにもかなりの時間がかかるかも知れません(misereorには通常の能動相の形misereoも存在しますが、ここでは歌詞を尊重して「形式受動相動詞」として扱いました)。

 さらに「独立文における接続法・現在は話者の願望を表す」(ラテン語未習の人は英語のGod Save the Queen!saveにどうして-sが付かないかを思い出しましょう。Good-byeも元来は「神があなたとともありますように」God be with ye!という意味だったはずです)という文法事項や、さらにこの動詞が対格(一応英語の目的格のようなものと思って下さい)支配の他動詞ではなく、属格(英語の所有格のようなもの)もしくは与格(間接目的語になる)を支配する自動詞であることを理解できる人は、ラテン語学習が順調に進んでいると心密かに誇らしく思って下さい。

 その知識があると第三語のnostriは所有形容詞ではなく、「所有」の意味では使われない人称代名詞「私たち」の属格であることがわかります。ちなみに、宗教音楽で良く出てくるmiserere nobis「われらを憐れみ給え」(慣用的にミゼレーレと発音され間違いでは有りませんが、古典ではミセレーレです)というのは、動詞misereorの受動相・命令法(この場合意味は能動)と人称代名詞「私たち」の与格の組み合わせで、どちらも有名なフレーズでありながら、同じ動詞が一方は属格を支配し、一方は与格と組み合わされていることがわかります。

 後の語に関してはbenedicat(第3活用)もilluminet(第1活用)も接続法・現在であることさえ押さえれば、この歌詞全体が「祈願文」になっていることが分かり、解釈に大きな問題は残らないはずです。

 長々と無粋な文法の話をしましたが、私たちは高校時代までに、日本の古典や中国の古典(ただし「漢文」と言う名の日本語読み)を暗記しますが、必ずしも全てを理解してはいません。それでいながら、大人になって「ああ、そういう意味だったのか」と分かる場合もありますし、分からない場合でも何らかの形で自分の言語感覚に影響を与えているはずです。同じことが、私の場合偶然にも高校時代に意味が分からないまま覚えたラテン語に関して起こりました。今は縷々説明できる文法事項も高校生の私にはまったく未知の事柄だったわけですから。


 出身高校の大先輩にあたる石川啄木の短歌を子供の頃からいくつか暗唱していて、今でも好きな詩人の一人です。しかし私はあの有名な「やはらかに 柳青める北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」(三行分かち書きをしない上に、漢字やかなの使い方オリジナルと違うと思いますがご容赦を)の「岸辺目に見ゆ」が「岸辺が目に見えてくる」という意味であろうと思い始めたのは、大学院生になってからのことで、それまでは特に意味も考えませんでした。一応、文学の研究者を標榜しているからにはあまり自慢になることではありませんが、文学部での勉強には、必ずしもすぐに答えを出さなくても良い面があると言う日頃の私の考えを補強してくれると思い、申し上げました。

 ラテン語の学習にも通じる所があると思います。ここからは「入門ラテン語」の宣伝(「入門ギリシャ語」もよろしく)になってしまいますが、お許し下さい。ラテン語もギリシャ語も現在では特に生活の糧を得るために役立つものではありません(幸運なことにそれらの教師として給料をもらっている私ですら、それだけで雇われているわけではありません)。しかし、言い古されたことですが、ヨーロッパ精神の根幹にヘレニズムとヘブライズムが有るということが万古不易の真実である以上、ヘレニズムを産み出したギリシャ語やそれを育み後世に伝えたラテン語を学ぶことが、文学部の学生の皆さん、あるいは広く文化・教養に関心のある皆さんに、何の役にも立たないということはないはずです(と言いながら、「ホンマカイナ」と自分で思ってしまう)。ラテン語ができなくても死にはしません。出世にも響きません。だから気楽に勉強できるではありませんか。皆さん、ラテン語(とギリシャ語)を学びましょう。

 何か格調の低い陳腐な結びですね。失礼しました。ラテン文学の話?あ、し忘れちゃいましたね。いやでなければ、私の研究室を訪ねてください。二日でも、三日でもウェルギリウスやセネカの話をしましょう。最近はあのいかれた小説『サテュリコン』も熟読玩味したので、やわらかい話も可です。

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